現存12天守のひとつ、丸岡城【国指定史跡】に着きました。
金沢を発ったときには白かった空が、丸岡城に着いたころには澄みきった蒼天になっていました!
入城料は300円。
そしてここでも、受付で手荷物を預かるサービスをしていました。とても有難かったです!!

北陸の大雪に耐えてきた天守は、華美な意匠もほどほどで、まさに武骨という言葉がふさわしい。
丸岡城は、1576年に柴田勝家の甥・勝豊により築城されました。
築城以来、丸岡城はめまぐるしく主を変えていきます。
まず本能寺の変の後、清州会議(信長の家臣による領地配分)により、柴田勝豊は長浜城(近江国)に移ることとなり、丸岡城は勝家が城代を置くことになります。
しかし、柴田勝家と羽柴秀吉は鋭く対立、勝豊が移った先の長浜城は対立の最前線となります。
このとき勝豊はあっさり秀吉に降伏。勝家も賤ヶ岳の決戦に敗れ、北ノ庄城(現在の福井市)で自害。
越前国は丹羽長秀の所領となり、丸岡城には青山宗勝を城主として配置しました。
丹羽長秀死後、丹羽家は所領を大幅に削られ、青山はそのまま大名として独立します。
しかし関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易となります。
代わって越前国を治めたのは、徳川家康の次男・結城秀康でした。
丸岡城は、その家老であった本多成重が城主となります。
秀康を祖とする結城松平家は、1624年に秀康の子・忠直の不行跡で改易となってしまいます。
本多家は大名として独立し、丸岡藩が成立しました。
1695年、本多家はお家騒動により改易。
その後は有馬家(キリシタン大名の有馬晴信を祖とする)が藩主となり、明治維新まで続きました。
明治維新後は、天守を残してすべて取り壊されました。
天守のみは、旧丸岡町が買い取ったため保存されます。
その天守も、1948年の福井地震で倒壊してしまいました。
再建にあたっては、もともとの部材を組みなおして修復されました。
現存最古の天守とされる丸岡城天守【国指定重要文化財】。
外観だけでなく中もあっさりしたものでした。
天守の中はたいてい資料館のように刀剣や文書などが展示されていますが、ここ丸岡城ではそのような類のものはありません。
1層目にほかの100名城の写真があったほかは、展示物はまったくありません。


上層階への階段?
あまりにも急なため、ロープが備え付けられています。

瓦は石でできています。
積雪で割れないようにするためといいます。

屋根から下がっているのは、
火災の防止を祈念して懸けられる魚型の飾りをいいます。
丸岡城の天守で装飾らしいものはこの懸魚くらいなのですが、染色していないため華美さがおさえられているようです。

北陸の風雨に400年耐えた天守は、松本や姫路と比べると大きくはありませんが、戦国の城としての風格を感じます。
天守から出ました。

天守入口の近くにあるお静慰霊碑。
丸岡城の普請が難航したため、人柱を立てることになりました。
このときお静という女性が、自分の息子をさむらいにするということを条件に、人柱になることを志願しました。
丸岡城は建ちましたが、その後柴田勝豊は長浜へ移ってしまったため、お静との約束は守られませんでした。
お静はこれを恨み、濠の藻を刈るころになると春雨を降らせ、城を水ひたしにしたといいます。

天守から少し下ったところにある井戸。
柴田勝豊が丸岡城を築いたころには、まだまだ越前国は平定されておらず、一向宗の勢力が跋扈していました。
あるとき柴田軍は、一向宗の門徒らに丸岡城を囲まれてしまいました。
このとき井戸から大蛇が現れ、霞を吐いて丸岡城を護ったといいます。
この逸話から、丸岡城は「霞ヶ城」とも呼ばれます。

天守のそばにぽつんと立っているのは、「一筆啓上の碑」。
お仙泣かすな 馬肥やせ
「日本一短い手紙」ともいわれますが、これは本多作左衛門重次が長篠の戦いの時に妻に出したものであるといいます。
本多重次は、徳川家康の最古参の家臣。
家康が岡崎城主のときは、「岡崎三奉行」のひとりとして「鬼作左」と称されました。
とても剛毅な性格で、誤りがあれば、相手が家康であっても直言したといいます。
豊臣秀吉が天下統一を進めているころ、秀吉は家康を臣下に加えようとして、大政所(秀吉の母)を人質に送り込んできました。
これにはさすがの家康も折れて、秀吉のもとに出向くこととなりました。
重次はこのとき留守を任されましたが、大政所のいる屋敷の周りにまきを並べ、「家康の身に何かあったら母を殺す!!」という姿勢を表したそうです。
大政所に話を聞いた秀吉も、これにはさすがに不快感を示し、これがもとで重次は蟄居の身となりました。
謹慎先は取手(茨城県)に変わり、そこで病死しました。
「お仙」とは仙千代、のちの本多成重です。
さて、この日はもう1ヶ所行かねばならないところがありました。
次行くところがなんとも交通の便が悪いところなので、丸岡城を早々に切り上げなければなりませんでした。
駆け足でみやげ物(絵ハガキ)を買い、資料館には一応寄りましたがチラ見程度で出ます。
受付で手荷物を回収し、

36番、丸岡城!
武骨なる名城・丸岡城を後にしました。