鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

一面の雪原!一乗谷・其之弐

2012-10-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 後 2 時 2 5 分

福 井 市 一 乗 谷

タ ク シ ー の 車 内 に て



吹雪の中で出会ったタクシーで、一条滝から戻る。



上の地図の南側から、復原町並へ戻った。


タクシーの料金メーターは4,000円くらいだったか?
支払ってから降りようとしたら、運転手氏は復原町並の出口で待つという。

雪に次ぐ雪にやられていた私は、断固拒絶する気力もなく、なし崩し的に運転手氏の言われるがままに。


復原町並は、入場料210円。
そして、入城券売り場で100名城スタンプがもらえる。



37番、一乗谷城!・・・には行ってないんだけどね、山の中だし。


朝倉氏は、朝倉孝景(英林)の代に一乗谷に本拠を構えたとされる。

英林は、応仁の乱に参戦して西軍から東軍に寝返り、その過程で越前守護・斯波氏や守護代・甲斐氏と争い、越前国に覇を唱えた。
越前平定戦は英林の子・氏景、孫・貞景の代まで続いた。

貞景の代で越前は平定され、加賀の一向一揆とも和睦し、越前国内は貞景の子・孝景の代まで戦乱とは無縁であった。
そのため公家などの文化人が、戦乱を避けて越前に移り、一乗谷には今日にも劣らない華やかさを誇ったという。

しかし朝倉義景の代になると、一向一揆衆が再び蜂起。
織田信長との戦いにも消耗し、1573年の刀根坂の戦いで朝倉軍は壊滅。
義景は一門の裏切りにあい自害、一乗谷の城下は織田軍の焼き討ちにあい灰燼に帰する。





一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査に基づき、原寸大に復元されたという街並み。



こんな悪天候の日にもかかわらず、観光客のために雪かきがなされていた。





こちらは戦国時代の武家屋敷。





中では将棋を指してたり、食事の支度をしていたり。



一乗谷は、某・つながらない携帯一家の故郷でもあるらしい。


復原街並みを出ると、くだんのタクシーが私を待ち構えていた。

・・・料金メーターが順調に増加しているようだ。



次は、一乗谷朝倉氏庭園【特別名勝】で下車。タクシーはメーターを止めず待機

一乗谷のシンボル・唐門



唐門は、豊臣秀吉が朝倉義景の菩提寺を建てた際に造られた。
現存の唐門は、江戸時代に再築されたもの。



唐門の裏には豊臣家の家紋「五七の桐」が掲げられている。

唐門をくぐった先が、義景館跡



建物の礎石などは、すべて雪の中に埋もれてしまっていた。



朝倉義景墓は、白一色の空間とは別の空間をなしていた。合掌。



小高い所に上がってから、義景館跡を見下ろす。

このあたりに位置するのが、湯殿跡庭園









雪が深すぎて、庭園を味わう余裕がない・・・

そして、一時は弱まっていた雪がまた吹雪いてきて、
またまた雷鳴が轟く

私は固まってしまった。

5分ほどフリーズしていたが、とりあえず動かなきゃということで雪中を歩き回り、別の庭園にたどり着いた。



諏訪館跡庭園は、朝倉義景の側室・小少将の館にあった庭園。







朝倉義景は小少将を溺愛し、毎日毎夜・・・と記録に残っているそうな。



一乗谷城!? 行けねぇよ、あんな雪山!