会津若松城の本丸南東にたたずむ茶室・麟閣。
ときは豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたころ。
会津若松城の城主は名将・蒲生氏郷。
中央政界では、氏郷の茶の師匠で、秀吉の茶の師匠でもあった千利休が健在であった。
しかし利休と秀吉は、茶の精神性をめぐって、あるいは政治のあり方をめぐって対立を深めていく。
ついに秀吉は、利休に切腹を命ずる。
切腹後、利休の首は京の市中にさらされ、犯罪人の扱いを受けてしまう。
利休は、子に長男・道安と次男(養子)少庵がいた。
道安は細川忠興が、少庵は蒲生氏郷が、それぞれ蟄居を引き受ける形で匿ったという。
麟閣は、蒲生氏郷のもとで匿われた少庵が、氏郷に感謝するために造らせた茶室であるという。
道安は、堺千家の祖となったが、現在は途絶えてしまった。
少庵も、利休の茶の道を受け継ぎ、武者小路千家・表千家・裏千家の三千家の祖となる。
千家は、少庵の孫の代で三千家に分かれることとなり、それぞれが現在に継承されている。
麟閣の敷地内に入ると、まず現れる寄付【移築復元】という建物。
茶会に先だって、客が待ち合わせをしたり、身支度を整えたりする、準備用の建物である。
寄付よりも簡易なつくりの建物は、腰掛待合【移築復元】という。
茶会の客が、亭主の迎えを待ったり、茶会の模様がえのときに客が待つ場所であった。
茶室の手前にある水場は、
茶室に入る前に、俗世の穢れを洗い流し、清らかな心で茶に臨むものとされた。
茶室では一切の華美が許されないのに対し、書院ではある程度の華美は許されていた。
蒲鶴亭に上がろうとするとアラームが鳴るらしい!!
蒲鶴亭の裏手に回ったところが、茶室・麟閣の
茶室の柱には、少庵が自ら削った跡が残っているという。
ああ、茶がうまい~
会津若松城を出る前に、もう一度天守を仰ぎ見る。
そして東側から出た。
本丸と二の丸を隔てる石垣と水濠はなかなか見事。
二の丸から三の丸を分ける空堀もすばらしい。
このまま歩いて、次の目的地へと向かった。
日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第32話へ続く。