弘道館前で三の丸歴史ロードを曲がり、水戸城跡通りに入ります。
すぐ先に橋がかかっています。

この橋は大手橋で、三の丸と二の丸をつないでいます。

大手橋の下は深い空堀でしたが、現在はその堀を利用して県道が通っています。
大手橋の先には、かつて大手門がありました。

二階造りの大手門は、徳川氏の前の領主であった佐竹
楼上には太鼓や鐘が据えられ、時などを知らせたといいます。
水戸における戊辰戦役である弘道館戦争では、この大手門で銃撃戦があったそうです。
明治元年(1868年)に取り壊されました。

現在の大手門跡です。
スクールゾーンの交通標識が立っていますが、これが水戸城の恐ろしさを教える標識だとはこのとき気づいていません。


大手門跡に立っているのは徳川
徳川頼房は徳川家康の十一男で、水戸徳川家の初代にあたり、光圀の父です。


大手門跡の両側には、当時の土塁が残っています。
大手門跡から進んでいくと、水戸市立第二中学校です。

校門の傍らに立つのは、「大日本史編纂之地」の碑です。

かつてここには彰考館(水戸彰考館)があり、徳川光圀以来の水戸藩の一大事業である大日本史の編纂が行われていました。
大日本史の編纂事業は光圀の代では終わらず、その完成はなんと明治36年(1906年)までかかりました。

水戸城跡には至るところにこのような案内があります。
水戸彰考館跡の案内の向こうにあるのは、水戸城跡二の丸展示館です。

大日本史のレプリカがあったり、

水戸城の縄張りがわかりやすく説明されています。
この図は左側が二の丸、空堀に隔てられた右側が本丸ですね。
この二の丸展示館、じつは水戸二中の施設のひとつです。
展示館の壁1枚隔てた向こうは二中の弓道場で、この日も弓道部の練習が行われていました。
展示館のそばにも1体の銅像があります。


国民的時代劇『水戸黄門』の「格さん」のモデルとされる
安積澹泊は、大日本史の編纂にあたっていた水戸藩士で、「助さん」のモデルである
水戸城跡通りを歩いていきますと、あたりから女子の黄色い声が聞こえてきます。
二中の女子ソフトテニス部でしょうか、なんだかわけのわからない、ある種の呪文とでもいいましょうか、へんてこりんな掛け声が絶え間なく飛び交います。
そのとなりのテニスコートは水戸三高(茨城県立水戸第三高校)のソフトテニス部が練習していて、やはり女声の呪文が飛び交っています。
奥の方では男子が練習していましたが、こちらはだまって球を弾き返します。
なんなんでしょ、あれは????
30男がひとりで学校地帯を徘徊していたら、いつ変質者に間違えられるかと思うとヒヤヒヤものです。
こっちはただただ城めぐりをしているだけなのに・・・・・・。
これが、水戸城の恐ろしさ。
水戸城を訪れるのは、学徒が学校にいない日曜日が無難でしょう。
さてさて、水戸城跡通りの右側に水戸三高が現れたあたりに建っていたのが、三階櫓です。

二の丸に三階建ての物見を建てたのが始まりで、明和元年(1764年)の火災で全焼した後に、天守の役割をもつ櫓が建てられました。
(江戸城の天守が再建されなかったので、それに遠慮して「天守」ではなく「三階櫓」と呼ばれたといいます)
多くの城が取り壊された明治時代を乗り切ったのですが、残念ながら昭和20年の戦災で焼失してしまいました。

通りの左側には水戸城跡の大シイ2株【水戸市指定天然記念物】が生い茂っています。
戦国時代から自生していると伝えられ、樹齢は400年を超えるとされています。
このシイはスダシイという種類で、茨城県のあたりが日本列島の北限なのだそうです。

この大シイのところから「二中見晴らし台」というところに行けます。
思いっきり水戸二中の敷地内で、近くで野球部の男子が練習していました。
天覧記念碑もあり、観光客も自由に出入りできます。

見晴らし台からは、水戸城の守りの要であっただろう那珂川が悠然と流れていました。
今回のルートはこうなっています。
大して移動してませんが、水戸城の散策は続きます。