鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

学校だらけの水戸城二の丸

2014-03-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 1 1 分

水 戸 市 三 の 丸

弘 道 館 前



弘道館前で三の丸歴史ロードを曲がり、水戸城跡通りに入ります。
すぐ先に橋がかかっています。



この橋は大手橋で、三の丸と二の丸をつないでいます。



大手橋の下は深い空堀でしたが、現在はその堀を利用して県道が通っています。


大手橋の先には、かつて大手門がありました。

 (案内板の古写真より)

二階造りの大手門は、徳川氏の前の領主であった佐竹義宣(よしのぶ)が慶長元年(1601年)に建てたもので、徳川氏の代になってもそのまま用いられました。
楼上には太鼓や鐘が据えられ、時などを知らせたといいます。
水戸における戊辰戦役である弘道館戦争では、この大手門で銃撃戦があったそうです。
明治元年(1868年)に取り壊されました。



現在の大手門跡です。
スクールゾーンの交通標識が立っていますが、これが水戸城の恐ろしさを教える標識だとはこのとき気づいていません。

 

大手門跡に立っているのは徳川頼房(よりふさ)公像です。
徳川頼房徳川家康の十一男で、水戸徳川家の初代にあたり、光圀の父です。





大手門跡の両側には、当時の土塁が残っています。


大手門跡から進んでいくと、水戸市立第二中学校です。



校門の傍らに立つのは、「大日本史編纂之地」の碑です。



かつてここには彰考館(水戸彰考館)があり、徳川光圀以来の水戸藩の一大事業である大日本史の編纂が行われていました。
大日本史の編纂事業は光圀の代では終わらず、その完成はなんと明治36年(1906年)までかかりました。



水戸城跡には至るところにこのような案内があります。
水戸彰考館跡の案内の向こうにあるのは、水戸城跡二の丸展示館です。



大日本史のレプリカがあったり、



水戸城の縄張りがわかりやすく説明されています。
この図は左側が二の丸、空堀に隔てられた右側が本丸ですね。

この二の丸展示館、じつは水戸二中の施設のひとつです。
展示館の壁1枚隔てた向こうは二中の弓道場で、この日も弓道部の練習が行われていました。

展示館のそばにも1体の銅像があります。

 

国民的時代劇『水戸黄門』の「格さん」のモデルとされる安積澹泊(あさかたんぱく)です。
安積澹泊は、大日本史の編纂にあたっていた水戸藩士で、「助さん」のモデルである佐々宗淳(さっさむねきよ)とともに彰考館の総裁を務めていました。


水戸城跡通りを歩いていきますと、あたりから女子の黄色い声が聞こえてきます。
二中の女子ソフトテニス部でしょうか、なんだかわけのわからない、ある種の呪文とでもいいましょうか、へんてこりんな掛け声が絶え間なく飛び交います。
そのとなりのテニスコートは水戸三高(茨城県立水戸第三高校)のソフトテニス部が練習していて、やはり女声の呪文が飛び交っています。
奥の方では男子が練習していましたが、こちらはだまって球を弾き返します。
なんなんでしょ、あれは????

30男がひとりで学校地帯を徘徊していたら、いつ変質者に間違えられるかと思うとヒヤヒヤものです。
こっちはただただ城めぐりをしているだけなのに・・・・・・。

これが、水戸城の恐ろしさ
水戸城を訪れるのは、学徒が学校にいない日曜日が無難でしょう。


さてさて、水戸城跡通りの右側に水戸三高が現れたあたりに建っていたのが、三階櫓です。

 (案内板の古写真より)

二の丸に三階建ての物見を建てたのが始まりで、明和元年(1764年)の火災で全焼した後に、天守の役割をもつ櫓が建てられました。
(江戸城の天守が再建されなかったので、それに遠慮して「天守」ではなく「三階櫓」と呼ばれたといいます)
多くの城が取り壊された明治時代を乗り切ったのですが、残念ながら昭和20年の戦災で焼失してしまいました。



通りの左側には水戸城跡の大シイ2株【水戸市指定天然記念物】が生い茂っています。
戦国時代から自生していると伝えられ、樹齢は400年を超えるとされています。
このシイはスダシイという種類で、茨城県のあたりが日本列島の北限なのだそうです。



この大シイのところから「二中見晴らし台」というところに行けます。
思いっきり水戸二中の敷地内で、近くで野球部の男子が練習していました。
天覧記念碑もあり、観光客も自由に出入りできます。



見晴らし台からは、水戸城の守りの要であっただろう那珂川が悠然と流れていました。


今回のルートはこうなっています。




大して移動してませんが、水戸城の散策は続きます。




再登城・水戸城三の丸

2014-03-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 8 時 5 3 分

J R 水 戸 駅 北 口



9時前に水戸駅に到着。



黄門様ほどの健脚を持っていない私としては、歩く元気があるうちに、まずは城めぐりをしておきたいところ。

水戸駅の北口から徒歩10分程度で、水戸城の城跡にたどりつきます。
水戸城のあったところは、現在「三の丸」という地名になっています。

水戸駅から国道50号・黄門さん通りを歩くと、右手側に大きなイチョウの木があります。
ここを曲がると銀杏坂を上り、三の丸歴史ロードに入ります。




私はなぜか銀杏坂に入らず、国道118号へと遠回りをしてしまいました。


三の丸歴史ロードのあたりは、旧水戸城の三の丸にあたります。まぁ、そのまんまかな。
三の丸には、水戸藩の藩校であった弘道館が建ち、現在も残っています。



水戸城の跡地は、現在はおもに学校などの教育機関が建っています。
三の丸に建つのは水戸市立三の丸小学校
校門は冠木(かぶき)門があしらわれています。



校内外を分けるのは、フェンスではなく白塗りの城壁です。


三の丸小学校の次に現れるのは、弘道館【国指定特別史跡】です。



弘道館の正門【国指定重要文化財】は、水戸を襲った弘道館戦争や第二次大戦などの戦災を免れ、建造当時のものが残っています。

なお、100名城スタンプは弘道館の料金所でもらうことができます。



前回の登城は2012年の2月か・・・・・・2年ぶりの水戸城。


弘道館の前の交差点からは、水戸城跡通りが分かれています。



その交差点の近くに、弘道館を建てた徳川斉昭公(烈公)の像が立っていました。

 

像自体の大きさはだいたい50センチ強といった、人形のようなものです。


徳川斉昭は、水戸藩の第9代藩主で江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父です。

藩政では藩校・弘道館を設立し、家柄にとらわれず広く人材を登用することに努めました。
こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀(たてわき)、会沢正志斎、武田耕雲斎などの藩士が集まり、藩政改革を推進していきました。
また偕楽園を造園し、民衆に開放しています。

しかし、弘化元年(1844年)に改革の行き過ぎをとがめられ、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられてしまいました。
その後守旧派の巻き返しがありましたが、斉昭を支持する藩士の復権運動などもあって、弘化3年(1846年)に謹慎を解かれました。

嘉永6年(1853年)6月のペリーの浦賀来航に際して、老中・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わり、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張しました。
安政2年(1855年)に軍制改革参与に任じられますが、安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーン失いました。

斉昭は開国論に対して反対する姿勢を貫き、開国を推進する井伊直弼と対立します。
さらに第13代将軍・徳川家定の将軍後継では、徳川慶福(よしとみ)を推す井伊直弼に対して、息子である一橋慶喜を推して、直弼と争います。
しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年(1858年)に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印してしまい、さらに将軍職も慶福(家茂)を第14代将軍としてしまいます。

このため、安政5年(1858年)6月に将軍後継問題及び条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除されてしまいました。
安政6年(1859年)には、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒、水戸での永蟄居を命じられることになり、政治の世界から退くこととなりました(安政の大獄)。

万延元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けないまま心筋梗塞により水戸で急逝しました。享年61(満60歳没)。



斉昭像の先には・・・



彼を支えたブレーンが輩出した弘道館が建っています。




今回の目的地は水戸です

2014-03-31 | 鉄道の旅

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 7 時 2 5 分

千 葉 県 我 孫 子 市

J R 我 孫 子 駅 1 ・ 2 番 線 ホ ー ム









我孫子駅で重たい朝ごはんをいただいた私は、ふたたび常磐線に乗って北へと向かいます。



今回の目的地は、水戸です。

水戸といえば、日本三名園のひとつ・偕楽園
2月の中旬に何度か来園していますが、梅の開花が1割も咲いていないという閑散とした梅園を何度も見ています。しかも曇りとか雪とかの悪天候・・・・・・。
しかしこの日は気温が20度を超え、空は快晴。
梅の開花状況はもう散っているかもしれませんが、少なくとも消費税率以上の開花はあるでしょう。

ということで、茨城県の県庁所在地である水戸をパワープレイしていきましょう(#^.^#)


茨城県といえば、都道府県の魅力度ランキングで最下位常連。
毎年最下位になるもんだから、茨城県の関係者もついに「なめんなよ♥茨城」などと言う始末です。

「なめんなよ」なんて品のないことを言わずとも、茨城、水戸は魅力的な観光地だと思います。
ただ水戸を観光するには、普通以上の予習が欠かせないでしょう。

というわけで今回の旅は、品格をもって「あなどるなかれ♥水戸」と言っておきましょう。



JR我孫子駅 1番線 7時27分発
常磐線 快速 勝田行き
水戸駅 4番線 8時45分着
移動距離 84km 運賃 1,450円



春眠、暁を覚えず・・・・・・。
車内のボックスシートに座った私は、水戸まで惰眠をむさぼっていました。


水戸駅に到着。



水戸駅の案内標は、「仙台」「Sendai」の表記が隠されていました。
でも福島県内の常磐線はいつか復旧をするのでしょう。



改札を出て、水戸駅の北口へ。



水戸黄門・助さん格さん像から、水戸漫遊は始まります。



◆参考文献
『茨城県』「なめんなよ♥茨城」  http://www.pref.ibaraki.jp/namennayo