鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

安土城・第2章~天主

2015-07-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 2 時 3 0 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 黒 金 門 址





大きな石で組まれた石垣の虎口、黒金門址

往時は、金箔が施された瓦が使われるなど絢爛豪華な造りで、天下人の住まうところにふさわしいものだったといいます。
本能寺の変後に起きた大火で、黒金門も焼失してしまいました。
しかし門の礎となっていた石垣はその後も残り、400年以上たった今もなお、豪壮な構えをなしています。



黒金門より先は、信長が居住し、政務を執っていた中枢部分となります。


順路を外れた脇道の先には、織田家四代の墓塔がありました。



しかしこのとおりの水ひたし、墓塔に近づくことはままなりません。
傍らに「誰々の墓」という看板はあったのですが、よく見えない。

織田家4代というと、有名どころで信秀、信長、信忠、秀信(三坊師)あたりかな?
信長のお父さんの名前は信秀ですよぉ~、決して恒彦ではありませんよぉ~。
まぁ、試験に出ないから覚えなくてもいいですけどね。

あとから調べてみたら、どうもこの4つの墓は信長の次男・「茶筅丸」信雄からの4代らしいです。

茶筅丸くんはとにかくいいエピソードがない。
信長に無断で伊賀を攻めて敗北、「お前を勘当してやる」と信長パパを激怒させます。
本能寺の変後のゴタゴタでは、なにをとち狂ったか安土城を焼いてしまったとも。(現在は、土民の略奪にあって炎上したとの説が有力)
豊臣秀吉徳川家康の直接対決である小牧長久手の戦いでは、家康とタッグを組むも、秀吉に懐柔されて単独講和。
そして領国の尾張からの領地転換を提示されてダダをこね、秀吉が激怒、領地没収される、など。
茶筅丸くんの最大の功績といえば・・・信長の直系の血縁を現在に伝えていることでしょうか?



さて、順路に戻ります。



400年の時を経て、今もなおそびえ立つ石垣。



順路を進み、石碑が立つところで、二の丸と本丸との分岐。



岐路を左に曲がり、まずは二の丸へ。
水たまりが行く手を阻みますが、水のないところをなんとか選んで通過。



二の丸には織田信長公廟が建立されています。



本能寺に斃れた覇者は、天主の脇にある二の丸にて祀られています。



織田信長公廟のそばに設置されている100名城スタンプ。
ボックスのあちらこちらで試し押しをされていて、なんとも残念な心持ちになります・・・。
たしかにシャチハタ形式のスタンプは、きれいに押すのが難しいのではありますがねぇ。



スタンプ自体は、2011年に収得済みではありますが、51番、安土城!


そして水たまりを越えて、道を戻ります。




二の丸の次は、本丸です。
(三の丸は順路を外れたところにあったので、行きそびれてしまいました)

本丸には御所の清涼殿を真似たという御殿がありました。
現在はただの広場になっています。この日は行く手を阻む水障害になってました。

その先の石段・・・



ここを上っていくと・・・



安土城のてっぺん、天主台址です。


普通、「てんしゅ」は「天守」と書きます。
しかしこの安土城だけは「天主」と書くのが正しいとされます。

安土城の「天主」が、その後の城郭建築の花形ともいうべき「天守閣」のさきがけとなりました。
しかし「天主」と「天守」とは決定的な違いがあります。

「天守」は「守」の字が表すように、防御施設のひとつでした。
城郭を防衛し、武器を収納するやぐら。そのやぐらに、権威の象徴という意味合いを込めたのが「天守閣」です。

それに対し「天主」は、防御施設の意味合いが(ないとはいえないにしても)薄いのです。
天主には武器を収納したのではなく、信長その人が住んでいたのです。

信長は、日本で最初に高層建築に居住した人物ともいえます。


天主台に立つと、雨は相変わらずでしたが、それ以上に強い風が吹き抜けていました。
大垣で買ったかわいい傘が、たった1日で壊れてしまうのではないか、と思うくらいの風。



信長その人が住んでいた場所から、信長その人が祀られている廟を見下ろします。







琵琶湖はもやがかかってあまりよくは見えなかったものの、そこそこ長い石段を上ってきた者にとっては、疲れをいやす景色でした。
それにしても、風に耐えながら傘を差し、デジカメをいじる。なかなか難儀です。



天主台から本丸、黒金門址へと下っていきました。





安土城・第1章~大手道

2015-07-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 1 時 2 6 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

J R 安 土 駅



城攻め旅では2度目の安土駅下車。
目的はもちろん、安土城の登城。
そして、安土城から4kmほど離れたところの観音寺城も行ってしまおうというのです。



はじめて安土に下り立ったのは、4年前の2011年1月。



朝7時ごろ電車を下りた私を待っていたのは、雪国かと見紛うほどの大雪

 

ハタから見る分には絵になりますが、これから登城しようという身にとっては、これほど迷惑なものはありません。
早朝に到着したので、開城時刻の9時になるまで休憩所で待機していました。

9時を回り、大手道の入口に行ってみると・・・



まったく開く気配がない。
電話で問い合わせると、「雪崩の危険もあるので、本日は閉鎖する」との無情の返答を浴びせられたのでした。




さて、安土駅から安土城まではだいたい2kmの道のりがあります。
また、観音寺城までの道のりはさらに長いので、ここはためらわずレンタサイクルの力を借ります。



駅を出てからいちばん右手にある「安土観光レンタサイクルふかお」。

じつはここのレンタサイクル屋さんには「借り」があるのです。
4年前の早朝、安土駅前に下り立った私は、想像だにしていなかった銀世界にたじろいでしまいました。
そして雪はしんしんと降っていて、当時傘のなかった私は、開店準備をしていた「ふかお」さんに駆け込み、ビニール傘を借りたのでした。

というわけで、隣にもレンタサイクル屋はあったのですが、私にとっては「ふかお」さん以外のレンタサイクルを利用することは考えていなかったのです。

4年ぶりに「ふかお」さんへ。あのときの翁と媼は健在でした。

ここで自転車を借りますが、料金は1時間200円、3時間500円、1日1000円の3つのコースがあります。
安土城だけなら3時間で500円のコースを選ぶのですが、今回は観音寺城も行くつもりなので、1日1000円のコースを選びます。

「4年前、お世話になったんですよ」と話しましたが、さすがに覚えてはいなかったようです。
けれども翁と媼の世話好きは健在で、雨具が折り畳み傘しか持ち合わせていない私に、雨カッパを貸してくださいました。
安土城へ行くと話したら、観光マップを用意してくれて、行程を丁寧に説明してくれました。
さらに観音寺城へ行くと話したら、「それは無理なんじゃないの?」と言いつつも、やはりマップをくれました。
自転車に乗せる手荷物を雨から守るために、近江八幡市指定のごみ袋もくださいました。

 

信長号、出陣!




午 後 1 時 4 2 分

安 土 城 に 到 着


信長号とともに出陣してから10分。
媼から教わったとおりのルートをたどって、安土城に到着しました。



安土城の濠の役割をしていたであろう小川、それにかかる百々どどを渡ると、



「安土城址」の石碑と、上へと伸びる石段。
こちらは百々橋口で、安土城の裏口のひとつです。
ここの石段は踏み場が狭いため、通行が禁止されています。


百々橋口から道なりに進んでいくと、



立ち並ぶ石塁と、その切れ目には虎口があり、



木造の建物が見えてきます。
あれこそ、4年前に安土城の開城を待って約2時間いた休憩所
休憩所の前に、駐輪スペースがあります。


ここで雨カッパを脱いで、



例の「一番可愛くない傘」を広げる時がきました。
とてもコンパクトな折り畳み傘だったので「小さいなぁ~」、そして「やっぱり可愛いなぁ~」。
30過ぎの男にはあまり似つかわしくないものだったのでした。

とはいってもここまで来た以上、そして雨が強く降っている以上は、この可愛い傘に頼らざるを得ません。

しかし・・・安土城に来るときはいつも天気にヤラれているなぁ。




午 後 1 時 5 7 分

登 城 開 始


4年前は固く閉ざされていた門扉も、この日は確実に開いています!



登城の前に、ここで入城料500円を支払います。
ここでは無料で荷物を預けることができるほか、總見寺のご朱印もいただけます。



安土城は山城なので、杖が用意されています。
が、ここは自分の健脚を信じて、杖なしで上っていきます。



安土城、最初は長い石段がまっすぐ伸びる大手道です。



この大手道こそ、安土城が他の城とは別格であるゆえんです。
城の通路は、敵に攻め込まれたときを想定して、何度も曲げて造られるのが普通です。
しかし安土城の大手道は、山の中腹までまっすぐ伸びているのです。
このことからも、安土城が戦のための城ではなく、むしろ政庁の機能を重視した城と考えられています。

石垣、通路、石塁と、圧巻ともいうべき石造りの遺構。
これらの遺構は復元されたものではあるのですが、土塁や空堀などの土造りの城が主流であった戦国時代に、これだけ多くの石でできた城はまさに先鋭的なものでした。


大手道の中腹。
左に伝羽柴秀吉邸址、右に伝前田利家邸址が並んでいます。
意外にも、重臣の羽柴秀吉の屋敷が城の入口近くにあります。
その盟友ともいうべき前田利家の屋敷が向かいにあるのも面白いです。
「お~い、又左衛門、一杯やろうじゃないか、おお、松どのもご一緒に」なんて会話が繰り広げられたのでしょうか。
でも実際は、秀吉は当時すでに長浜城の城主であり、しかも中国攻めで姫路城に出張ったままだったはずです。
利家も柴田勝家の寄騎として、北陸に出張っていたはずです。
彼らが安土に滞在した時間はそうそうなかったかもしれません。

 

まずは伝前田利家邸址。あくまで「伝」なので確定しているわけではないのです。

 



次は伝羽柴秀吉邸址。
さすがは織田きっての重臣、個人の屋敷なのに複数の曲輪で成り立っているようです。



羽柴秀吉邸の復元図です。
ここだけで一合戦できそうな感じもします。



少し上って右側には、現在の見寺の仮本堂があります。この日は立ち入ることができませんでした。
またこのあたりは、伝徳川家康邸址ともなっています。
徳川といえば、当時はいちおう織田家から独立した大名家のはずですが、こういったところに屋敷が宛がわれている以上、織田徳川は従属関係となっていたと見ることができます。

本能寺の変が起きる15日前、徳川家康は安土城で織田信長の接待を受けています。
このときの接待役の責任者は明智光秀。
接待の中途で光秀は役目を解任され、中国攻めの羽柴秀吉の助勢を命ぜられます。
あとで信長も出立することとなりますが・・・あとは周知のとおり。

こういった歴史の転換点であった場所に立っていると想像するだけで、なんとなく心奮い立つものがあります。



大手道を上って振り返ると、あっという間に絶景。



大手道がまっすぐ続いていることもおわかりいただけるでしょう。

後半は七曲り坂といって、多少の入り組みはあるものの、あっち行ったりこっち行ったりというようなきつい曲がりはありません。



石造りの城なので、莫大な量の石が必要となります。
そのため、灯篭や石仏なども転用されました。



大手道を過ぎ、石段上りがひと段落。
このあたりは信長のそば近くに仕えた家臣と、織田一族の屋敷がありました。



まずは伝武井夕庵邸址
武井夕庵ははじめ美濃国の斎藤氏に仕えていましたが、斎藤氏が信長によって滅ぶとそのまま信長に仕え、右筆(身近に仕える秘書)を務めました。
年齢は信長よりも20以上も上で、後世の説話ではよく信長に諫言をすることが多く(あくまで後世の説話なので信憑性は疑問ですが)、信長の信頼は厚かったようです。



広い平坦な地には、伝織田信忠邸址
今となっては多くの木々が立つところも、往時は豪奢な屋敷が建っていたのでしょう。
織田信忠は信長の長男で、幼名は「奇妙な顔をしているなぁ~」ってことで奇妙丸。
現代のDQNキラキラネームに通じる信長のネーミングセンスの最初の犠牲者ともいえます。
(二男の信雄は「髪型が茶せんに似ている」から茶筅丸、三男の信孝は「三月七日生まれ」だから三七丸)



伝織田信忠邸址の前で、道は二手に分かれます。
ひとつは見寺へと下る道、いまひとつは天主址へと上る道です。



雨は相変わらずですが、あたりを覆っているもやが夢幻の雰囲気を醸し出しているような気がします。



道の傍らには、伝織田信澄邸址伝森蘭丸邸址の石碑がひっそりとたたずんでいます。

織田信澄は、信長の弟・信行信勝とも)の子です。
本能寺の変が起こった当時は、3月7日生まれの織田信孝率いる四国征伐軍に属していましたが、信澄は明智光秀の娘婿であったために内通を疑われて謀殺されてしまいました。

森蘭丸は諱を茂利といい、信長の側近として活躍しましたが、本能寺の変で信長とともに討死しました。

それにしても、嫡男の信忠を差し置いて、側近の森蘭丸が信長の居住地の近くに屋敷を構えているのも、信長の実用性重視の考え方が顕れているように感じます。




ひときわ大きな石で組まれた石垣の虎口は、黒金門址です。

これより、安土城の中枢に入っていきます。