鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

彦根で一泊

2015-07-11 | 鉄道の旅


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 4 時 3 7 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

J R 安 土 駅



念願の安土城の登城を果たし、とりあえず観音寺城にも足を運ぶことができました。



JR安土駅に戻ると、時刻は午後4時半です。
夕暮れ近くになったので城めぐりは中断し、旅立ち前に予約したビジネスホテルへと向かいます。



安土駅の南東、観音寺城がある繖山(きぬがさやま)を眺めながら、

「観音寺城に行くときに、また伺います――」

レンタサイクルのご主人夫妻との言葉を反芻しつつ、



JR安土駅の駅スタンプを押して、電車を待ちます。
(次の駅スタンプのインクが濃すぎて、滲んじゃってます)


【今回の乗車記録】

JR安土駅・1番線 16時55分発
琵琶湖線(東海道線) 普通 米原行き 6両
彦根駅・3番線 17時13分着
【移動距離】18.9km  【運賃】18きっぷ使用(不使用の場合は320円)




本日の宿泊地・彦根に到着。



JR彦根駅北口から出ます。
国宝5天守のひとつ・彦根城は、北口から歩いて20分ほどだったかと。
彦根城は、今回は登城しません。



北口ロータリーに立つ井伊直政の銅像です。



足もとにはちょこんと彦根城天守と(たぶん)彦根城天秤櫓の模型がありました。



時刻は午後5時を回ったばかりでしたが、早々に夕食をいただこうと考え、駅前をぶらり。
近くに「ひこね丼」なる名物ののぼりを掲げた店があったので、こちらに入店しました。

「八千代」駅前店。
そういえば私の住む街の隣は八千代市でしたねぇ~なんて思いながら、メニューを眺めます。

そして、「ひこね丼」ではなく、それよりボリュームのありそうな「牛丼重」なる、概念が混乱しているようなメニューを注文。
牛丼を重箱に詰めてみましたっていうものでしょう。

さらに、一刻も早く胃に食物を入れたい私は、



小鮎の佃煮(550円)と、赤コンニャクの刺身(450円)を注文。
赤コンニャクの味は、普通のコンニャクと一緒なのですが、食感がコンニャクよりも少しだけザラついているようでした。
しかし、コンニャクと酢味噌の組合せはなかなかうまい。

続いて牛丼重・味噌汁付き(1,350円)がやってきました。



牛丼重・・・うまい!
朱色の糸みたいなのは赤コンニャクです。
先に赤コンニャクの刺身をいただいてなければ、「何、この気持ち悪い糸みたいなヤツ?」とよけて食べたことでしょうね。
私は食に関してはかなり守旧的なので。



夕食をすませ、駅から歩いて10分ほど、本日のお宿へ。

チリン チリン チリン

耳慣れない鈴の音が聞こえてきます。なんなのでしょうか?


本日宿泊するビジネスホテルへ到着。



彦根で一泊! チリン チリン



!!!!





観音寺城登城?

2015-07-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 3 時 3 3 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 址 を 出 る



2011年には雪で中に入れなかった安土城を、見事にリベンジ登城した私。



時刻は午後3時半を回っていました。
安土城をじっくり2時間も回るという、予定時刻をはるかにオーバーしていました。



次の城は、同じ近江八幡市内(旧安土町内)にある観音寺城です。

安土城からは4km近く離れているので、

 

レンタサイクル「信長号」を借りたのですが・・・
事前に調べたところによると、観音寺城は安土城よりもかなり広大で、しかも山も高いというのです。

「信長号」を借りたレンタサイクルの優しき媼によると、観音寺城の登城にはとても時間がないだろうということでした。


幸いにして安土城登城の時に降っていた雨は上がっています。
「信長号」にまたがり、とりあえず観音寺城を目指します。



観音寺城は、雲がかかる繖山(きぬがさやま)の上。

ちなみにふもとの建物は、



左から滋賀県考古博物館



中央は文芸の郷セミナリヨ
セミナリヨは、安土城下に実際にあった宣教師の学校で、そこからネーミングをとったのでしょう。
セミナリヨの裏手には「信長の館」があり、安土城天主の上層部分の復元模型があります。



2011年、雪のため安土城に上れなかった私は、「信長の館」でスタンプを確保しました。



いちばん右の安土マリエートは、あんな見てくれですが、総合体育館です。




中腹に見える寺院。

たしか観音寺城には、観音正寺という寺院があったはず・・・
ということは、今からあそこに行かなければならないのか!? とても時間がない・・・。

などと当時は考えていましたが、この寺院はおなじ繖山にある桑實寺で、観音正寺とはまた別の寺院です。



レンタサイクルの媼からもらった地図をもとに、近道作戦をとったりしましたが、知らない集落に迷い込んでしまいました。



ようやく正規の道へと出てみると、もう午後4時前。

 

観音寺城入口と思われるゲートを通過していきます。
・・・このゲート、封鎖されているんじゃねぇのか?



そして、観音正寺参道の近くにあるこの建物は、石寺楽市なるおみやげ処のようです。



・・・そう、登城よりもまずは確実にスタンプ確保の途をとりました。
この登城記おなじみの姑息な作戦

しかし扉が閉まっている・・・まさか、姑息な作戦がかえって仇となったのか?



「石寺楽市開店のお知らせ」

何だよ~まぎらわしい貼り紙で人を脅かしおって・・・。



入口の傍らには、山登り用の杖が貸し出されています。
さて、中に入りますが・・・中には全く商売をする気のない翁と媼がひとりずつ。
売り物を見ても・・・はっきり言ってここで買う価値のあるものはなさそうですねぇ。

さっさとスタンプをもらって立ち去りましょ。



52番! 観音寺城!
シャチハタ式のスタンプは押すのが難しいのぅ。



100名城スタンプは確保したので、観音寺城をちょっとだけでも・・・と思ったのですが、先ほどのとおり、おそらく中には入れないだろうと考えていました。
そこで、石寺楽市から近い名勝へと「信長号」を走らせます。

味のある集落のなか小道を進んでいくと、



教林坊というお寺があるそうです。
江戸時代初期の作庭家・小堀遠州の手による庭園があると聞いては、庭園好きの私が黙ってられません。

そして午後4時10分ごろ、教林坊に着きました。



「9時30分~16時30分まで」・・・ギリギリ間に合ったようです。
「拝観日 11月1日~12月15日は毎日拝観可能、それ以外は土、日、祝日、1月1日~3日のみ拝観可


・・・私は黙って、安土駅へと「信長号」を走らせることにしました。



その途中、観音寺城の入口を見分するために、くだんの門扉へと近づきました。



その看板。



「石寺集落では全区域にわたり、農作物を食害する『猪の被害を防ぐために』防護柵を設置することにしました」
つまりは封鎖されているわけではなく、通行する車や歩行者は、ここを開け閉めしなければならないというものでした。



観音寺城からだいたい15分、距離にして約5kmほど、安土駅前に戻りました。

ここで「信長号」とはお別れです。
レンタサイクルふかおのお爺さんとお婆さんとお話して、自転車とレインコートを返却。

「観音寺城に行くときに、また伺います――」

そう言って、心温かき老夫妻と別れました。



駅北口のロータリーに立つ信長像を背にして、



安土駅へと入っていきました。





安土城・終章~見寺

2015-07-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 2 時 5 5 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 天 主 台 址





天主址から下りました。



岐路のある伝織田信忠邸址まで戻りました。
そこから今度は大手道とは反対方向の道を下っていきます。



ほどなく広い曲輪に出ます。
ご覧のとおり三重塔が建っている空間、ここがかつて見寺があったところでした。


見寺は、安土城の城内に創建された寺院です。
安土の城下町から安土城に登城するときは、百々橋口から上り、見寺を必ず通るというルートとなっていました。
本能寺の変直後の大火では、天主などは焼失しましたが、見寺は災厄を免れました。
しかし江戸時代に炎上、ほとんどの伽藍を焼失してしまいました。
その後、寺の中枢は大手道脇に移され、現在に至ります。



ということで、当時の建物はほとんど残っておらず、



本堂は礎石のみが残ります。



創建当時のまま残っている建物のひとつ、三重塔【国指定重要文化財】。
三重塔が建っている辺りは崖が迫っていて、なかなかいいアングルがなかったです。



見寺からの眺め。
湖は琵琶湖、ではなく西の湖で、琵琶湖中最大の内湖だそうです。
そして、洪水で孤立してしまったかのような湖面ギリギリの集落がなんとも不思議で、なぜかシムシティを連想してしまいました。




眺望を堪能し、下へ。
このときには雨が上がっていましたが、石段は濡れていて、しかも急なので、大変滑りやすくなっていました。
私はここで転びました。
雨の山城を行く際には十分注意していただきたいものです(^_^;)

階段の下には・・・



二王門【国指定重要文化財】が建っています。
こちらも安土城が築城された当時のものが現存しています。
左右に立つのは金剛力士像【国指定重要文化財】です。

 



二王門の表側に出ました。



二王門の先は、安土の城下へと続いていた百々橋(どどばし)ですが、石段が急峻でしかも踏みしろが小さいので、現在は通行できません。
なので、このまま曲輪ぞいの道を歩いていきます。



伝羽柴秀吉邸址の横に出ました。



大手道を下って入口へと戻ると・・・

 

杖を立ててあったカゴの裏には、安土城の事蹟が記載されていました。

天正4年(1576年)正月、織田信長、安土山に築城を命じる。
天正5年(1577年)6月、13か条のおきてを定め、城下町を楽市楽座、諸役を免除して商業活動の自由を認める。
天正6年(1578年)正月、諸将を城中に招き、城内の見物を許す。
同年8月、近江や京都から相撲取を集め興行する。
天正7年(1579年)5月11日、吉日につき、正式に安土城「天主」に移る。
天正8年(1580年)、宣教師に安土城下での教会建設の敷地を与える。
同年5月5日、5月17日、6月24日、国中の相撲取を召し集め、興行、終日見物する。


・・・と、信長公は相当の相撲好きのご様子。

天正9年(1581年)安土城の北、松原町に馬場を築かせ、1月15日左義長(三毬杖)(どんど焼き)を盛大に行う。
同年7月15日、天主および見寺に提灯を吊るし、江中に舟を浮かべ巡察師バリニャーニをもてなす。
同年9月8日、安土城築城に関与した職人頭に小袖を与える。
同年10月20日、セミヨナリを南北二道にするため町屋敷を築く。


・・・と、天正9年は安土城が規模の大きなエンタメの場になっています。
職人頭に小袖、というエピソードが、苛烈な魔王の面が表に立つ信長公の、民政を極めて重視したという戦国時代ではまれなる善政を敷いていた面を表しています。
そして事蹟表は激動の天正10年(1582年)へ。

天正10年元旦、諸将を礼金100文にて見寺と本丸御殿の見学を許す。

・・・さすがは覇王、臣下から抜け目なく上納金を取り立てます。

5月19日、見寺にて能興行をもよおす。
5月20日、徳川家康一行を城中の江雲寺御殿で接待。


・・・このとき家康を接待したのが明智光秀です。
俗説では、このときの接待に不手際があり、信長が光秀を厳しく叱責。
これと同時に、中国攻めを担当していた羽柴秀吉より援軍の要請を受け、光秀に秀吉支援を命じるわけですが・・・

5月29日、信長上洛し、本能寺へ入る。

そして・・・

6月2日、明智光秀、本能寺を襲撃、織田信長自刃。
6月5日、光秀、安土入城。


ですが・・・

6月13日、秀吉、山崎で合戦して、光秀を破る。
6月15日、安土城天主炎上、焼失する。


この炎上は、明智光秀の娘婿・明智秀満が山崎の敗戦後に退却の際に放火した説、織田信長の次男・織田信雄がとち狂って放火した説と、秀満の退却後に主がいなくなった安土城を土民が略奪した時に炎上した説があり、近年は略奪説が有力となっているようです。



受付で預けた荷物を回収し、



見寺のご朱印を拝領し、

 



信長号で安土城を後にしました。