松山城を登城して1時間経過。
たかだか1時間のことなのに、3話も使ってしまうほどに奥の深い松山城です。
今回で松山城は最終話です。約束しましょう!!
さて本丸に入った足軽(妄想中)の私は推定35機ほど討ち取られ、ようやく最奥の場所に着きます。
う~ん、敗因は・・・
カマこうげき!!を捨てて竹槍を取っちゃったり、大根を食べて異常にスピードが上がっちゃったりしたから・・・
そんなわけはなく、天守群の守りが厳重すぎて四方八方から狙撃を受ける格好になっているためです。
天守【国指定重要文化財】の足元にある入口・穀倉【国指定重要文化財】から、内部に入ります。
靴を脱いで入ると、さっそく100名城スタンプが置いてあります。
81番、伊予松山城!
絵柄はもちろん天守群ですね。
ちなみに「伊予」と(この期に及んで)つけましたが、100名城にはもうひとつ備中松山城が岡山県にあるのです。
そしてこちらも現存12天守のひとつを擁する名城です。
天守から、まずは内門【復元】に入ります。
内門から天守広場を望みます。
ここから
反対側の窓からは仕切門内塀【国指定重要文化財】と、その先には松山の街が見えます。
こちら側は天守の裏手にあたります。
天守群の内部は資料館になっています。
松山城に限らずたいていの城はそうですが・・・ここで目を惹く1領の具足が。
よく展示されている名の知らぬ誰それの具足と思っていたら・・・
ただあくまで「加藤嘉明着用と伝えられる」とあるので、いわばホンモノかどうかはわかりません。
ただこのクソ意地悪い天守を考案した本人の具足と思うと、わくわくするものがあります。
内門から北隅櫓【復元】へ。
左から
松山城の搦め手を守る防衛ラインが一望できます。
つまりは、乾門を突破した足軽をここから狙撃するわけです。
今度は反対側の窓。
天守広場と、左から天守の一部、筋鉄門【復元】、小天守【復元】です。
続いて南隅櫓【復元】に移動。
南隅櫓からは本丸の様子がまるわかりです。
つまりは本丸に立った時点でここから狙われてしまうわけです!!
手前の平屋の建物が券売所です。
その先の二階建てのやぐらが馬具櫓【復元】。おそらく馬具を格納していたのでしょうか。
さらに先の左右のやぐらが、それぞれ太鼓櫓【復元】(右)、太鼓門北続櫓【復元】(左奥)です。
太鼓門北続櫓の手前には、伝承多い井戸がたたずんでいます。
南西方向を見やると、この日は入れなかった二之丸(二之丸史跡庭園)、その向こうに自転車を停めた三之丸。
三之丸のさらに先には、松山市街が広がっています。
ぼんやりして見えにくいですが、中央に見える円は「くるりん」という観覧車で、そこに伊予鉄道松山市駅があります。
小天守に入りました。
小天守からの眺望その壱。
右下の一ノ門【国指定重要文化財】から入って、中央の三ノ門南櫓の裏にある二ノ門【国指定重要文化財】を通り、左の三ノ門【国指定重要文化財】をくぐって、左下に続く仕切門【国指定重要文化財】から天守広場に行けます。
しかしその通路のほとんどが小天守からの射程圏内。
しかも狭い通路とあって、通過には相当の犠牲を払う必要がありそうです。
小天守からの天守広場。
北隅櫓&玄関から内門が続きます。
小天守の窓からの天守。
次はいよいよ天守に登ります。
天守に登る階段。
現存天守らしく傾斜は45度を超える急なものとなっています。
女性の方はスカートを防衛する策を講じなければなりませんなぁ(*^_^*)
天守内にある石落とし。
「石落とし」という名称ですが、実際にはここから石を落とすのではなく、鉄砲を突きだして狙撃をしていたようです。
天守の最上層に着きました。
天守から東を望みます。
次に行く湯築城と道後公園はあのあたりかな?
天守の北側。
松山の街は大きいですなぁ。
天守の南側は本丸の様子がよくわかります。
本丸にいるだけで天守からの射程圏内というわけです。
天守からの眺望を愉しみ、天守群から戻ります。
帰りは仕切門【国指定重要文化財】から出ました。
・・・記述がずいぶんあっさりですが、出ました。
天守群入口に、城主のこの御方がいらっしゃいました。
松山城公式マスコットキャラクター「よしあきくん」です。
松山城を築城した加藤嘉明(かとう よしあきら)は、豊臣秀吉の子飼いの部下のひとり。
柴田勝家と秀吉との間で起きた賤ヶ岳の戦いで活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられるほどの武功を挙げました。
その後は四国征伐や朝鮮出兵で活躍。
伊予正木(現在の松山周辺)6万石の大名となりました。
そのころ宇和島には藤堂高虎が7万石の大名として統治していました。
嘉明と高虎は領地が隣接していたためいさかいを繰り返し、また熾烈な戦功争いを繰り広げます。
秀吉死後は、徳川家康に与し、関ヶ原の戦いでは西軍の首魁石田三成本隊と交戦し、戦功を上げました。
戦後は20万石に加増。
高虎も今治などの領地を与えられ、同じく20万石の大名となります。
嘉明は家康の許可を得て居城を移転し、「松山」と改称しました。
松山城がひとまず完成した直後の寛永4年(1627年)、蒲生氏の減封にともない、所領が伊予松山から陸奥会津若松に移ることとなりました。
石高は倍増の43万石。
この移封には、長年のライバルであった藤堂高虎が将軍徳川家光に薦めたことにより実現しました。
長年いがみ合っていた嘉明と高虎は、この件により和解し、以後は親しく接したといいます。
寛永8年(1631年)江戸在住のおりに死去。享年69。
藤堂高虎は戦国時代で一二を争う築城の名手とされますが、いやいや加藤嘉明も負けてはいません!!
それはこの松山城を歩けばすぐにわかるでしょう。
帰りはルートを変えて、搦め手にあたる乾門から退出しました。