松山城からの退路を誤り、思わぬ時間を食ってしまいました。
とりあえずレンタサイクル「174号」のもとにたどりつきました。
さて松山市内にはもうひとつ日本100名城が存在します。
それは
現在はすでに建物はなく、道後公園となっています。
「道後公園」ということは、あの有名な?道後温泉も近くにあるということです。
ともかく「174号」を駆って、湯築城へ急ぎます。
この日の予定もあいまって、松山に滞在できる時間は限られています。
13時34分発の伊予西条行きの電車に間に合うようにするためにも、残り時間は約1時間。
伊予鉄道の路面電車とともに、松山市内を急いで走り抜けます。
松山城三之丸内にある愛媛県庁舎・本館です。
昭和4年に落成し、今もなお現役の庁舎です。
現役の都道府県庁舎では3番目に古いもので、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」ではヒロインが入院している病院のシーンでロケ地として使われたそうです。
愛媛県庁舎からほどなく近くにある大街道商店街のアーケード。
ここいらでランチやおみやを・・・なんて余裕はありません。
いよてつの路面電車とともに、道後方面をめざしひた走ります。
いよてつの道後公園電停の向かいに、
道後公園・湯築城址があります。
湯築城は、1335年ごろに伊予の守護大名河野
戦国時代の1535年ごろ、河野弾正少弼
「
弾正少弼通直の孫は伊予守通直と同じ名を名乗っています。
弾正少弼通直の代には、近隣の村上水軍と縁戚関係を結びますが、のちに離反されてしまいます。
また家中では後継争いなどが勃発し、勢力が弱まってしまいます。
伊予守通直の代になると、周囲が騒がしくなります。
隣国の土佐からは四国統一をもくろむ
このときは瀬戸内海の向こうの毛利氏からの援軍を得て、なんとか自立を保ちました。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国攻めが始まると、毛利一族の小早川隆景の軍勢の前に降伏を余儀なくされます。
ここに大名としての河野家は滅亡しました。
河野氏のあとは、小早川隆景が城主となりますが、隆景はその後筑後国へ移ります。
その後は福島正則が城主となりましたが、天正15年(1587年)居城を国分山へ移したため廃城となりました。
というわけで、松山城に比べると経歴もパッとしない湯築城。
城主の河野氏は、「信長の野望」シリーズでも、瀬戸内海を越えてきた毛利家に攻められて滅亡したり(史実通り?)、土佐の長宗我部元親に滅ぼされたり、まれに豊後水道を越えてきた大友宗麟に攻められたりと、やられ役になってしまいがち。
しかしながら・・・
河野氏の隆盛は、まず源平合戦の時代にさかのぼります。
河野
しかし通信は、源氏将軍滅亡後の承久の乱では朝廷方(後鳥羽上皇方)についてしまい没落の憂き目を見ます。
通信のひ孫である
南北朝時代、室町時代を通じ、足利将軍家や、大内氏、大友氏、毛利氏などの有力大名と同盟して伊予国の支配を守ってきましたが、やがて勢力は衰えていきました。
なお、鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、通信の孫にあたります。
うんうん、河野氏はなかなか頑張ったんだねぇ~。
「信長の野望」ではあっさり滅亡しちゃうけど(^_^;)
それでは湯築城登城開始。
まずは道後公園入口から連なる土塁。
おそらくは水濠の盛り土から成るのでしょうか。
西側から登城しましたが、本来こちら側は搦め手(裏手)にあたります。
そして弾正少弼通直のころに設けられた湯付堀とよばれる水濠。
近くには資料館や復元武家屋敷があるのですが・・・時間がない。
というわけで、観音寺城登城のときも使った手段で・・・
80番、湯築城!!
12時43分、滞在時間わずか7分にして、私は湯築城を後にしました。
少しだけ時間がありそうだったので、道後公園の中を歩いてみました。
内側の水濠に沿って歩くと、日本庭園のような趣きを感じました。
12時55分、湯築城を退去。