鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

鳥取城・第2章~日の本にかくれなき名山

2020-07-10 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 前 十 時 五 十 八 分

鳥 取 城 跡 ・ 山 上 へ の 岐 路





山登りに向かおうか・・・・・・。



その前に、



天球丸に立ち寄りました。
鳥取藩初代藩主・池田長吉の姉・天球院が晩年に居住していた場所だったために「天球丸」の名がついています。

天球院は、若桜鬼ヶ城の城主で若桜藩主だった山崎家盛の正室でした。
慶長19年(1614年)家盛が亡くなり、その後を継いだ家治が側室の子であったからなのか、天球院は若桜鬼ヶ城から鳥取城に移り住み、余生を過ごしたそうです。



標高51メートルの天球丸からの眺め。
かつての三ノ丸には、現在は鳥取西高校鳥取市立武道館があります。
そしてその先には、鳥取県庁本庁舎も建っています。
鳥取城の目の前に、鳥取市の中心街が広がっているんですね。

天球丸の足元には・・・





天球丸のシンボル、そして鳥取城のシンボルともいえる巻石垣【復元】があります。
文化4年(1807年)ごろ、天球丸の石垣に孕みと呼ばれる出っ張りが現れ、崩落の危機が生じました。
このとき河川の堤防や港の突堤に関わる職人が集い、角のない丸いかたちの石垣を造成して崩落を防いだのだそうです。

敵兵が上り攻めてくるのを防ぐためにある石垣ですが、これは明らかにその目的に反している構造です。
巻石垣が造られた時代がいかに戦乱から程遠かったか、想像に難くありません。



先ほどの分岐路に戻り、



山上ノ丸へ、いざ参らん!



注意! クマ出没?!
ええっ、こんなところにクマが出るの?!



ここって、鳥取県庁の裏山ですよ・・・?



先に歩いているおじさんもいるし、大丈夫でしょう。
おじさんの後をつけていけば比較的安全に進めます、多分。



石垣で構成されている、なんらかの曲輪。
それよりもまずは、山登りを優先。
先にいるおじさんに遅れないように、山道を進んでいきます。




午 前 十 一 時 七 分

久 松 山 を 登 る




初っ端から岩肌を上ります。
いかにも山登り!といったところです。



なかなかに険しい道。



まずは一合目。
鳥取城の山道は、一合目から九合目まで順番に立札が据えてあります。



二合目。
前を往くおじさんがなかなか健脚です。
ついて行くのがやっと。



三合目。
左側は崖、落ちたら死んじゃいます。



四合目あたり。
手すりが厳重に据えてあるようですが、かえって怖いです。



五合目。
中坂稲荷が祀られています。



登り始めてから約8分、早くも絶景が見られます。
鳥取の街もなかなか大きいなぁ。


登山もようやく後半戦。



六合目。



七合目・・・。



八合目・・・・・・。
石段が粗っぽく、登るのに苦労します。
こんな山城、槍もって鎧着て登りたくはありませんねぇ。

「日の本にかくれなき名山」
防御性の高い鳥取城はこのように賞され、また織田信長も「名城」と評していました。



八合目を過ぎると分岐路が現れます。
右が近道だけど危険、左は遠回りだけど危険はないというようです。
結論を言ってしまうと、私にとってはどっちも急で、狭くて、足場がおぼつかなくて危険だと感じました。



九合目、あと少しだ・・・。



11時26分、登山開始から約20分。



山上ノ丸の石垣が見えてきた!



山の上に構える石垣・・・ついに到達したのです!
・・・ん、落石注意



なんだか今にも崩れてきそうな石垣・・・。
ここはさっさと通過して、



ついに鳥取城本丸に到達したのでした。





鳥取城・第1章~姫路の弟城

2020-07-10 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 前 十 時 四 分

鳥 取 城 跡 ・ 仁 風 閣 バ ス 停





時刻は午前10時を回り、鳥取城【国指定史跡】へ。
鳥取城は、標高263メートルの久松山(きゅうしょうざん)の地形を活かして築城されました。
鳥取城の攻略は、言い換えれば久松山の攻略ともいえます。

久松山のふもとには、鳥取城の山下(さんげ)の丸と呼ばれる曲輪群が残っています。
天下泰平の江戸時代に入り拡張された曲輪群であり、現在は久松公園として市民の憩いの場となっています。


久松公園・鳥取城山下の丸に入る前に・・・



吉川経家像を拝見。


吉川経家は、毛利元就輝元に仕えた武将です。
石見国(島根県西部)に所領をもつ石見吉川氏の当主として石見国の経営に務める一方、山陰地方の総大将であった吉川元春(元就の二男)を補佐する立場にありました。

天正8年(1580年)天下布武をめざす織田信長の先鋒として、羽柴秀吉が山陰地方に攻め込んできました。
このとき城主の山名豊国は3ヶ月の籠城戦の末に降伏し、鳥取城はいったん織田方の城となりますが、すぐさま毛利軍が奪還しました。
毛利軍は城将を派遣していますが鳥取は安定化せず、山名の旧臣たちは毛利一族に連なる有力な武将の派遣を望みました。
吉川元春はこれに応え、経家を城将に任命しました。
天正9年(1581年)3月、経家は部下400名を率いて鳥取城に入城しました。
このとき経家は自分の首を納める首桶をも持参しており、相当の覚悟をもって赴いていたことが窺えます。

羽柴秀吉が2万の大軍を率い、再び鳥取城に攻め込んできました。
このとき城主の座を下ろされていた元大名の山名豊国は、あっさりと秀吉に降伏しようとしましたが、家臣の中村春続森下道誉らの反対にあい、彼らに追放されてしまいます。
秀吉軍は付近の農村を襲撃して鳥取城内に追い払うと、徹底した兵糧攻めを行いました。
城内には兵糧1ヶ月分ほどの蓄えしかなく、さらに食い扶持を増やされてしまったので、城内はまたたく間に飢餓に陥ってしまいます。
後世鳥取の渇殺(かつえごろ)と呼ばれる惨状に、城将の吉川経家らは開城を決断し秀吉に使者を立てます。

秀吉は「鳥取の戦の責めは、山名旧臣の中村・森下らにあるので、経家殿は切腹せずともよい」と回答しました。
経家は毛利家の有力武将なので、その身柄を確保することは対毛利への有力な交渉カードを得ることにもなりますが、経家は、
「戦の責めは城将の自分にあるから、自分の切腹をもって城兵の命を助けてもらいたい」と答えたといいます。
秀吉は信長に伺いを立て、信長がこれを認め、

武士(もののふ)の 取り伝えたる 梓弓
かえるやもとの (すみか)なるらん


10月25日早朝、「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切腹になるかもしれんなぁ」と大声で言ってから切腹しました。
享年35歳。

経家の首は秀吉の下に届けられました。
秀吉は首実検で「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたといいます。
経家の首はさらに安土城の信長の下に送られ、信長によって丁重に葬られたそうです。




極めて困難な任務にまい進し、己の命を鳥取に燃焼させた経家。
銅像の顔を見ると、そのような生き様がよく顕れているかのようです・・・が、どこかで見たことがあるような?
日曜日の夕方、テレビでよく見ていた顔に、なんとなく似ているような?

経家の子孫に、吉河寛海という人物がいます。
「笑点」の司会者、昇太師匠の前の歌丸師匠の前の司会者、五代目 三遊亭圓楽師匠です。
現在の六代目・「黒円楽」ではなく、その先代・「馬圓楽」
経家は肖像画が残っていないため、銅像が造られる際に子孫である圓楽師匠のお顔が参考にされたのだそうです。


悲劇の名将に思いをはせつつ、鳥取城に入っていきます。



復元されつつある大手登城路
水濠を渡る擬宝珠(ぎぼし)、その先は中ノ御門と続くのですが、この日は工事のため通行できず。



水濠に沿って、石垣が続いています。



対岸に建つ仁風閣【国指定重要文化財】。
明治39年(1906年)旧鳥取藩主・池田侯の別邸として、鳥取城三ノ丸に建築されました。



北ノ御門跡が、久松公園の正面口となっています。



橋のたもとにひっそりと立っている石柱・・・



「史跡 鳥取城跡 (つけたり) 太閤ヶ(なる)」の石碑です。
もうちょっと目立つところに立てればよかったのでは・・・?





鳥取城を散策する前に、まず仁風閣に立ち寄ります。





陽光にきらめく白亜の仁風閣。
それよりも・・・



仁風閣から見上げる、この石垣の美しさよ!
建物よりも石垣に魅入ってしまうあたり、私も城びととしてだいぶ成長したようですなぁ。


さてさて仁風閣にやってきたのは、鳥取城のパンフレットを入手するため、そして・・・



63番、鳥取城!
100名城スタンプを無事にゲットできたのですが・・・これはどこの画でしょうか?!
石垣が連なって、上り階段・・・まぁ、そのうち通りかかることもあるでしょう。
さらに・・・



御城印、国指定史跡・鳥取城!
2つの家紋は鳥取池田氏のもので、「丸に揚羽蝶」「角輪紋」
揮毫はなかなかに個性的で、鳥取の書家である柴山抱海氏によるものだそうです。
御城印は、1枚300円で販売されています。


この日は仁風閣にて祝言が行われていました。
中には入れなかったので、このまま仁風閣を後にしました。




午 前 十 時 三 十 八 分

鳥 取 城 攻 城 開 始




西坂下御門【復元】から、鳥取城の城攻めを開始。
慶応3年(1867年)に造られた門でしたが、昭和50年(1975年)の大嵐で損壊し、その後現在の門が復元されています。



西坂下御門から続く石段を上っていきます。



二ノ丸を取り囲んでいる石垣・・・



・・・と共に、石段を上がっていきます。







二ノ丸を取り囲んでいる石垣はなおも続きますが、石段は一旦終わって右膳(うぜん)ノ丸と呼ばれる曲輪へ。
手持ちのパンフによると、標高は26メートルとのこと。
パンフレットに標高が明記されているのもなかなか珍しいものなのですが、鳥取城は山城でもあるので、この後標高の値が一気に跳ね上がります。

右膳ノ丸の一画にある、数基のお墓・・・?



澤市場屋(さわいちばや)の古墓だそうです。
澤市場屋は鳥取城下に住まう町人で、鎌倉時代ごろから続いている家柄だったそうです。
澤市場屋の墓は鳥取城内に唯一存在していた町人の墓だったそうですが、古くから鳥取の地に根差す名家に、藩主の池田家が敬意を表して城内に墓を整備することを許可したともいいます。



右膳ノ丸から続く坂道を上っていけば、標高37メートルの二ノ丸にたどり着きます。



二ノ丸は、久松山のふもとの曲輪群である山下(さんげ)の丸の中核をなす曲輪で、江戸時代初期の鳥取藩主・池田光政のころに造成されました。
光政は江戸時代初期の名君としても知られていますが、その祖父は「姫路宰相」池田輝政
輝政の姫路城大改修に携わった職人たちが、この鳥取城の大改修にも携わっていた・・・すなわち鳥取は「姫路の弟城」と、パンフレットには紹介されています。

台形状の石垣は三階櫓台で、明治12年(1879年)に撤去されるまで三階櫓が建っていました。
天守は山頂に建てられていましたが、元禄5年(1692年)に天守が焼失した後は鳥取城の権威の象徴となっていました。


三階櫓の跡地に進む前に、山側の方に目をやると・・・





ひっそりと登り石垣がたたずんでいます。
嘉永2年(1849年)に造られたこの石垣は、幕末に造られた登り石垣としてはわが国唯一のものだそうです。


登り石垣の先には・・・



石切場跡の露出した岩盤。
元和5年(1619年)から始まった二ノ丸大改修では、この石切場から石材を調達したのだそうです。


三階櫓の傍らまで来ました。



このあたりには裏御門という門が構えられていました。
ここから下っていくと、仁風閣に至ります。



三階櫓の石垣は、荒々しい野面積み



隅の部分は、端正な算木積みで構成されています。
そして中上にある穴の開いている石は、左近(さご)の手水鉢といわれています。
別の用途の石製品を石垣に用いた転用石のひとつですね。
池田光政の前の城主であった池田長幸の侍女であったお左近が、自らの手水鉢を差し出して石垣に埋め込んだところ、難工事であった三階櫓の石垣が無事に完成したという言い伝えがあります。



凛としてそびえる二ノ丸の石垣。
当時の人々にとっては大変な難工事だったのでしょう。



ここから見下ろす仁風閣
そういえば祝言は終わったのかな?




二ノ丸に戻りました。



二ノ丸の南東に構え、三ノ丸ににらみを利かせていた菱櫓の跡地。



その近くに構えられていた表御門
今回の登城では進まなかった大手登城路から来た場合は、ここから二ノ丸に入ってくることになります。



二ノ丸のさらに上層へ進みます。



そのためには、城内に鎮座するお稲荷さんを経由することになります。
こちらで登城の無事を祈願して、先へ。



上層の曲輪の様子。
しっかりと石垣で造成されています。
これから山登りに挑む人もチラホラいらっしゃいますね。





山登りに向かおうか・・・・・・。





ループ麒麟獅子

2020-07-10 | バスの旅


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 前 八 時 廿 三 分

鳥 取 砂 丘 出 入 口







鳥取砂丘で悠久の時を過ごした私は、この日最初の山城・鳥取城【国指定史跡】へと向かいます。
その前に、砂丘のすぐ近くにあるドライブイン・砂丘会館に立ち寄り、軽く食べ歩きできるものを探します。



梨味カルピス、うまい!
ホントは梨のソフトクリームが食べたかったのですが、まだ準備中でした。



練り物、うまい!
タコの練り物ホタテの練り物はどちらも300円。
練り物ふたつを糧として、鳥取城の山登りに挑むこととなります。



砂場にあるすなばさんも、まだ開店前。
ここで朝食をとりたかったなぁ。





砂丘東口バス停に戻りました。
そういえば砂丘に来たときには時刻表を確認しなかったのですが、バスの発車時刻はすでに頭に叩き込んであります。
わかってはいますが、いちおう確認しておきましょう。

8時台 52●   ●印は土・日・祝日運休


土日は運休だと?! そして10月20日は・・・日曜日
砂丘東口バス停の時刻表をさらに確認すると・・・8時52分の次の9時27分のバスも土日運休
今度やってくるバスは9時56分、つまりは1時間待ちとなってしまいます。

ここでの1時間のロスは大問題です。
この日の予定・・・鳥取城若桜(わかさ)鬼ヶ城の登城に重大な影響を与えます。
鳥取城はともかく、若桜鬼ヶ城の登城ができなくなってしまうことも・・・。

ほかに手立てはないものか・・・・・・?





鳥取砂丘に向かう途中にあった砂の美術館
そういえば美術館前にバス停があったような・・・・・・



バス停を発見しました。
問題なのは、バスの発車時刻なのですが・・・砂丘線 鳥取駅行きのバスは9時41分発
ここでも約50分の待ち時間が生じてしまいます。
しかし・・・



もうひとつの時刻表、循環バス「ループ麒麟獅子」号のものです。
こちらの時刻は8時54分発のものがあります。
そして、土日祝日運行と明記されています!
これに乗れば、なんとか予定を崩さずに済みそうです。



日ノ丸自動車さん運行の「ループ麒麟獅子」号が、定刻どおりにやってきました。




午 前 八 時 五 十 四 分

ル ー プ 麒 麟 獅 子 号 に 乗 車




これから向かうのは鳥取城
すなわち鳥取城跡(仁風閣)で下車することになります。
気になるのは運行ルート。
砂の美術館から鳥取城跡へは、いったん鳥取駅に戻ってから行くという、ループを3分の2周する行程になっています。
果たして所要時間がどのくらいになるのか・・・。




麒麟獅子号は鳥取県の東部を潤す千代川を渡って、



9時10分ごろに鳥取港を通過。


9時25分ごろ、湖山池付近を通過。
湖山池は、「池」がつく湖沼では日本最大の面積を誇るのだそうです。




麒麟獅子号はふたたび千代川を渡ります。
向こうの山に構える鳥取城・・・なかなか着かないなぁ。


9時40分、鳥取駅に到着しました。
ここまでの所要時間は46分、砂の美術館でバスを待ち続けた場合の待ち時間とほぼ同じくらい。

このときの麒麟獅子号の乗客は、私を含めて2人。
私と同じく砂の美術館前で乗り、私と同じく土日運休のトラップにかかったこの方とは、鳥取駅でお別れ。
私は引き続き麒麟獅子号に乗り続けます。



運転手氏、逃亡?!
バスプールの片隅に麒麟獅子号を停め、運転手氏が私を残して下りてしまいました。


それにしても鳥取駅到着時点で、すでに35分押しです。
急きょ乗ることにはなったものの、麒麟獅子号はずいぶん時間がかかるなぁ・・・そう思って時刻表を調べたところ、


(「とっとりし観光案内」のサイトより引用)

私が乗車したバスは麒麟獅子1便
そして鳥取駅から発車する次のバスが、麒麟獅子3便
このバスは鳥取駅で15分停車した後で、麒麟獅子3便として駅を出発するようです。
15分停車は運転手氏の小休止の時間、といったところでしょう。


(同じく、「とっとりし観光案内」のサイトより引用)

赤い楕円の鳥取砂丘から黄色い楕円の鳥取城までは大した距離ではないのですが、麒麟獅子号は残念ながら反時計回りの一方通行
鳥取港や湖山池の方に大きく迂回して、青い楕円の鳥取駅に戻ったのち、鳥取城へと向かいます。
そのため行程は、砂丘からストレートに城へ向かうルートと比べると約4倍に。
さらに鳥取駅の15分停車もあって、時間はさらに押していきます。


鳥取駅到着から約10分後、同じ運転手氏が戻ってきました。
私はなんとか鳥取城に行くことができそうです。




午 前 十 時 四 分

鳥 取 城 跡 ・ 仁 風 閣 バ ス 停


麒麟獅子号は定刻どおり、鳥取城跡(仁風閣)バス停に到着しました。
まったく滞りなく到着したはずなのに、予定時刻の1時間押しです。
運賃は300円、予定よりも80円ほど安くなったのですが、ロスした1時間とはどうもつり合いがとれていません。




登城時間を1時間短縮・・・なんてできそうもない鳥取城。
見どころが多く、そして待ち受ける山登り

ここに至っては後の予定のことは考えず、眼前にそびえる鳥取城をじっくり見ていこう・・・そう心を切り替えて歩き出しました。




【今回のバス乗車記録】

<->日ノ丸自動車 [8]砂の美術館バス停 8時54分発
ループ麒麟獅子 第1便
[1]鳥取駅前バスターミナル 9時40分着 9時55分発
ループ麒麟獅子 第3便
[3]鳥取城跡(仁風閣)バス停 10時04分着

*所要時間 1時間10分(移動時間 55分 停車時間 15分)
*運賃   300円