鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

米子城登城・前編~ガイドブックの石垣

2020-07-12 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 後 三 時 五 十 七 分

鳥 取 県 米 子 市

J R 米 子 駅





米子駅を出て、時刻はそろそろ夕刻。
この日最後のお城訪問は、米子城【国指定史跡】です。

米子駅からのアクセスは、米子駅を背にして駅前通りをそのまま進み、国道9号線の十字路で左折。
距離は約1km、徒歩約15分ほどなので、今回はそのまま歩いていきます。



米子城に行く前に、9号線を城とは反対側に曲がり・・・

 

米子市立山陰歴史館に寄り道します。
いかにも文化財っぽいレトロな建物だな~と感じましたが、実際に米子市役所旧館【米子市指定文化財】という名称で文化財に指定されています。
昭和5年(1930年)建築、設計は早稲田大学大隈記念講堂【国指定重要文化財】を手がけた佐藤功一によります。

時刻は午後4時を回る中・・・



169番、米子城!・・・のスタンプを早々にもらいました。
それにしてもこの絵柄・・・いったいどこの石垣なんだよ?!
鳥取城に続き、画角探しに苦労しそうですね。
鳥取城のスタンプの画角は、結局見つけることができませんでしたけどね。

そしてこの米子城でも、



御城印! 国指定史跡・米子城!
こちらは300円で販売しておりました。
押印されている家紋は上から順に、吉川氏「丸に三つ引」中村氏「立ち沢瀉(おもだか)加藤氏「蛇の目」です。


応仁の乱の時期、山名宗之によって飯山(いいのやま)に砦が築かれました。
これが米子城のはじまりといわれています。

時は過ぎて天正19年(1591年)豊臣秀吉によって天下統一がなされ、西伯耆(鳥取県西部)、東出雲(島根県東部)などの領主となった吉川広家は、戦向きの山城・月山富田城【国指定史跡】(島根県安来市)から交通の要衝・米子への移転を図り、中海のほとり、飯山の隣りの湊山に築城を始めました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、広家は岩国(山口県)に移封となり、代わって中村一忠が駿府から18万石で伯耆に入り、慶長7年ごろに米子城が完成しました。

慶長14年(1609年)中村一忠が急死すると、翌年美濃黒野(岐阜市)より加藤貞泰が6万石で米子に入ります。
元和3年(1617年)貞泰が伊予国(愛媛県)大洲に移り、鳥取に池田光政が入ると、米子城は一国一城令の例外として認められ、その一族・池田由之の預り城となります。
寛永9年(1632年)池田光政と光仲が領地替えとなると、米子城は光仲の家老・荒尾成利の預り城となりました。
以後明治維新まで、鳥取池田家家老の荒尾氏の預り城となりました。



山陰歴史館では、吉川広家の父・吉川元春のものと伝わる兜が展示されているらしいのですが・・・
当時はそんなことは知らず、また夕刻とあって登城への影響を考え、スタンプと御城印をもらった後は早々に引き上げました。



そして国道9号線を反対方向へと歩き、



午後4時27分、米子城址・湊山公園の入口に到着しました。



【米子城までの行程記録】



JR米子駅 15時57分発
鳥取県道28号米子停車場線・国道9号線経由
米子市立山陰歴史館 16時08分着

米子市立山陰歴史館 16時18分発
国道9号線経由
米子城 16時27分着

*移動距離 1.7km
*所要時間 30分(移動時間 20分  歴史館滞在時間 10分)




午 後 四 時 廿 七 分

米 子 城 三 の 丸




むむっ、なんともお邪魔な車だなぁ。
よりによって入口のど真ん中に停めおって・・・。

米子城址・湊山公園の入口にあたる三の丸
ここから枡形虎口を経て、二の丸へと入ります。



なかなか広い空間の枡形。
この空間は城兵の集合場所でもあったようです。
狭い空間に攻め入る軍勢を閉じ込め四方八方から射撃するという、よくある枡形虎口とは違う感じがしますね。



ご立派な石垣です。
この先を歩いている紳士とお話しさせていただき、虎口の前に停めている車についてともに愚痴っていました。



見事な打込接ぎの石垣をしばし眺め、二の丸へ。



紳士とは別れ、二の丸散策。



目の前に現れる門は、城門ではありません。



城下にあった旧小原家長屋門【米子市指定文化財】を移築したものです。
小原氏は米子城主・荒尾氏の家臣で、大名の池田家からすれば陪臣(家臣の家臣)です。
禄高は120石ということで、陪臣の中では上級の武士だったと思われます。


長屋門のそばにひろがるテニスコートは、御殿跡です。



通路の傍らには、御殿御用井戸が残っています。




山上の曲輪へと続く道。
米子城は、山麓と山頂に建物を構える平山城です。
また上り坂か・・・でも鳥取城に比べたら、はるかにラクですね。



ちょっと脚に来てるなぁ・・・観音寺、竹田、鳥取と、3日連続の山登りのツケが、ここに出始めているようです。
通路から見下ろすと、御殿跡にあたるテニスコート、その向こうはかつての三の丸である野球場が見えます。



本丸に入る前に、







内膳丸に立ち寄ります。

本丸のある湊山に峰伝いで隣接する丸山に築かれた曲輪で、米子城の出丸のひとつでもあります。
関ヶ原後の城主・中村一忠の家老である横田内膳正(ないぜんのかみ)村詮(むらあき)が普請を担当したことから、その名がついています。
土地が埋め立てられる前の中海に面しており、海側からの外敵に備える役割をもっていました。



内膳丸から見た、本丸側。





近年発見されたという登り石垣



内膳丸から高さ約3メートルの石垣が、本丸まで約40メートルほど続いていたそうです。
内膳丸と登り石垣によって、中海からの外敵を防ぐ仕組みになっていたようですね。





内膳丸を離れ、いよいよ本丸へ。



本丸の入口にあった番所の跡地。
パンフレットによると、ここから公園入口の枡形虎口まで竪堀が伸びているというのですが・・・スルーしてしまいました。
というのも、



この見事な石垣を目の前にしたため、竪堀の存在を忘れてしまったのです。



この石垣こそ、「続日本100名城 公式ガイドブック」の表紙を飾る石垣。
番所跡からの画角だったんですね。


それにしても、これだけ多くの石垣の群れ・・・。



スタンプの画角になっているのは、どの石垣なのか・・・捜索に手間取りそうです。
鳥取城の画をスルーしてしまったので、米子城の画はなんとしても突き止めたい。
そう思って、腰を据えて本丸を散策していきます。





山陰本線を往く・第3章~鳥取県横断

2020-07-12 | 鉄道の旅


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 後 一 時 四 十 七 分

J R 鳥 取 駅



 

鳥取城【国指定史跡】の登城に2時間以上かけ、その後のランチでカフェをハシゴしてしまった私。
次の目的地に向かうべくJR鳥取駅に着いたのは、午後2時前になっていました。


次に向かうお城は、若桜(わかさ)鬼ヶ城【国指定史跡】。
当初の計画では、

JR西日本 鳥取駅 12時21分発
[B]因美線 普通 若桜鉄道若桜線直通 若桜行き
若桜鉄道 若桜駅 13時08分着

ということで、山城の若桜鬼ヶ城を上り下りするに十分な時間がとれているはずでした。
しかし時刻は午後2時前、当然12時21分発の列車に乗ることはできません。
この時間から若桜へ向かうには、

JR西日本 鳥取駅 14時22分発
[B]因美線 普通 若桜鉄道若桜線直通 若桜行き
若桜鉄道 若桜駅 15時09分着

となってしまいます。
もうすぐ夕刻という時間帯での山登りスタートは危険ではないか・・・・・・というわけで、

若桜鬼ヶ城の登城、断念・・・。


思えば前夜のゲストハウスで手持ちの時刻表の確認を怠り砂丘から戻るバスに乗ることができなかったのがすべてです。
わが100名城の城攻め旅は、鳥取県の山の中に大きな大きな積み残しができてしまったんですね。


若桜鬼ヶ城に行かないことで生じる、空白の時間。
これを埋め合わせるために、私は西へと向かいます。



「秋の乗り放題きっぷ」最終日。
本来は必要ないのですが記念ということで、鳥取駅の改札のおねいさんから検印をいただきました。
そういえば鳥取駅って、今もなお自動改札が導入されていないんですね。



利用するのは因美線ではなく、山陰本線
東西に長い鳥取県・・・といっても静岡だったり島根ほどではないのですが・・・をそのまま横断していきます。
今回乗車するのは、14時02分発 快速「とっとりライナー」 米子行きです。



こちらの車両・キハ121系気動車に乗って、鳥取県の西端・米子まで一気に向かいます。
銀色中心の車体は新しい感じがしますが、意外にも「電車」じゃないんですね、パンタグラフがついてないですし。
よくよく見れば、鳥取駅には構内に架線がないようなので、鳥取駅には「電車」が来ないんですね。



酸いも甘いも味わった鳥取を後にします。



午 後 二 時 二 分

鳥 取 駅 を 発 つ


列車に乗っかってしまったので、できることといったら車窓を眺めること、そして「城攻め」することぐらい。



そういえば鳥取駅発車前に、妙見山城を攻略してました。



鳥取駅のお隣・湖山駅では、布勢天神山城【鳥取県指定史跡】と新山城を攻略。
布勢天神山城は、因幡国(鳥取県東部)の戦国大名・山名氏の本拠である城でしたが、のちに本拠を鳥取城に移したため廃城になっています。



湖山駅から2駅の末恒(すえつね)では、防己尾(つづらお)を攻略。
防己尾城の城主として羽柴秀吉と戦った吉岡定勝さんを登用しました。


末恒駅からさらに5駅の松崎駅
「まんざき」と読む成田市内の駅とは違い、こちらは普通に「まつざき」と読みます。

 

ここでは羽衣石(うえし)【鳥取県指定史跡】を攻略。
南条宗勝・元続・元忠の南条三代を登用できました。

南条宗勝は、尼子経久・晴久による伯耆侵攻によって羽衣石城を奪われてしまいますが、約20年後に毛利元就の支援を得て奪回、さらに東伯耆(鳥取県中部)に勢力を伸ばしました。
その子・元続は、毛利家と手を切って織田信長・羽柴秀吉に鞍替えし、鳥取城の戦いでは羽衣石城を堅守して毛利軍の兵糧輸送をシャットアウト、これが「鳥取の渇殺し」の一因になりました。
南条家は時流を的確に読んで所領を守ってきましたが、孫の元忠は関ヶ原の戦いで西軍についたため所領を失い、大坂の陣で豊臣方に参加したものの、徳川方に寝返りを図って失敗し、切腹させられてしまいました。


松崎駅を出ると、



稲わらの山が整然と並んでいます。その奥の方・・・



中華皇帝の庭園を主題とする燕趙園というテーマパークの建物です。
燕趙園の中国庭園は日本最大で、また道の駅も併設されているのだそうです。



14時53分、倉吉駅へ。
東伯耆(鳥取県中部)最大の街・倉吉にある唯一の駅なのですが・・・この旅での特記事項はナシ。
そういえば鳥取県って、東の鳥取、中部の倉吉、西の米子に境港と、市は4つしかないんですね。


倉吉から2駅、



コナン駅こと、由良駅
「名探偵コナン」の作者・青山剛昌氏の出身地にちなんだ愛称で、駅周辺にはコナンの銅像などのオブジェが立ち並んでいるのだそうです。



「コナン」よりも私の興味を惹く、由良駅の次の駅・・・



次は浦安
あれれ、前の駅は南行徳じゃなかったよな・・・いや、快速だから西船橋・・・でもない。
葛西でもなく、東陽町でもない・・・。

間違いなく、山陰本線由良駅の次の駅は、浦安駅です。

開業は明治36年(1903年)で、当時は八橋(やばせ)でした。
その後東八橋駅に、そして昭和24年(1949年)当時の浦安町にちなんで浦安駅に改称されました。
昭和29年(1954年)合併により浦安町はなくなってしまうのですが、駅名は現在まで残っています。

ちなみに千葉県の浦安駅は、昭和44年(1969年)営団地下鉄(東京メトロ)東西線の全線開通に伴って開業しました。
千葉県の浦安は以後ベッドタウンとして急速に発展し、昭和58年(1983年)にはあの 夢の国 が開園し、浦安といえば千葉県というイメージが定着してしまいました。
鳥取県の浦安駅は、「『じゃない方』の、浦安。」という自虐ポスターまで作成しているようですが、本家の浦安駅はあくまで鳥取県側です。



15時08分、浦安駅に到着。
ここから 夢の国 へは約750km、寝ずに歩いても7日かかります。

 

夢の国から離れた浦安の地でも、「城攻め」
八橋(やばせ)【琴浦町指定史跡】、槻下豪族館【琴浦町指定史跡】と船上山城【国指定史跡】を攻略。
八橋城主となった杉原盛重を家臣に加えることができました。

船上山城は、鎌倉幕府討幕に失敗して流されていた後醍醐天皇が幽閉先の隠岐から脱出した際に、伯耆の豪族・名和長年に迎えられて一時滞在した所で、「船上山行宮(あんぐう)ともいいます。
ここで鎌倉幕府軍を迎え撃った長年は、奮戦の末に幕府軍を撃退。
これより討幕の機運が一気に高まっていきました。





右の車窓から見える日本海
かすかに見えるのは、後醍醐天皇が幽閉されていた隠岐島
あんなところから脱出して討幕運動を繰り広げるのですから、後世の評価はさておき、後醍醐天皇のバイタリティは並外れたものだったんでしょうね。




午 後 三 時 四 十 七 分

米 子 駅 に 到 着




乗車時間1時間45分を経て、山陰本線では鳥取県最西端の米子駅に到着しました。
隣駅のやすぎ(安来)駅は、島根県となります。


このまま安来、松江方面へは向かわず、この米子駅で下車します。



「海、山、旅のドラマは米子駅から」
米子駅さんがこうおっしゃっております。




訪問を断念した若桜鬼ヶ城に代わる新たな目的地に向けて、旅のドラマを米子駅から紡いでいきましょう。



【今回の鉄道乗車記録】

JR西日本 鳥取駅 4番線 14時02分発
[A]山陰本線 快速 とっとりライナー 米子行き 2両ワンマン
米子駅 2番線 15時47分着

*所要時間 1時間45分
*移動距離 92.7km
*運賃   秋の乗り放題パス使用(使用しない場合、1,690円)



【今回の「城攻め」成果】

[A]山陰本線
13時58分 鳥取駅  妙見山城を攻略。
(14時02分 鳥取駅発車)
14時05分 湖山駅(鳥取から1駅)  布勢天神山城【鳥取県指定史跡】と新山城を攻略。
14時12分 末恒駅(鳥取から3駅)  防己尾(つづらお)を攻略、吉岡定勝を登用。
14時16分 末恒駅・宝木駅間     大崎城富吉城を攻略。
14時26分 浜村駅(鳥取から5駅)  会下(えげ)を攻略。
14時42分 泊駅 (鳥取から7駅)  河口城【湯梨浜町指定史跡】を攻略。
14時46分 松崎駅(鳥取から8駅)  羽衣石(うえし)【鳥取県指定史跡】を攻略。
                  南条宗勝南条元続南条元忠を登用。
(14時53分 倉吉駅到着)
14時58分 下北条駅(倉吉から1駅) 堤城を攻略。
15時08分 「じゃない方の」浦安駅(倉吉から3駅)
                  八橋(やばせ)【琴浦町指定史跡】、槻下豪族館【琴浦町指定史跡】と船上山城【国指定史跡】を攻略。
                  杉原盛重を登用。
15時29分 御来屋(みくりや)駅(倉吉から8駅) 富長城【大山町指定史跡】を攻略。
15時36分 淀江駅(倉吉から11駅)  淀江城尾高城【米子市指定史跡】を攻略。
(15時47分 米子駅到着)





すなばVSスタバ

2020-07-12 | グルメ


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 後 十 二 時 三 十 二 分

鳥 取 城 址 ・ 久 松 公 園



鳥取城【国指定史跡】の登城を終え、最寄りの仁風閣・県立博物館バス停に戻りました。



鳥取駅に戻るバスは、100円バス「くる()
鳥取の市街地を循環するバスで、運賃はどこまで行っても100円です。
「くる梨」のコースは3つありますが、今回乗車するのは緑コース
朝8時から、20分間隔で運行されているようです。
なお「くる梨」では、鳥取砂丘へ行くことはできません。

仁風閣・県立博物館バス停からは、12時33分発のバスがあるようです。



「くる梨」さんがやってきました。
これに乗り込んで、鳥取駅へ。


「くる梨」に乗り込んだ時点の時刻は、12時35分
この日はさらに若桜(わかさ)鬼ヶ城【国指定史跡】の登城を予定しています。
若桜鬼ヶ城も鳥取城と同じく山城なので、鳥取駅を発つ前になんらかの食事は摂っておきたいところです。




鳥取駅前の繁華街にあるバス停・鳥取市移住・交流ガーデン前で下車しました。



降りたバス停から振り返ると、



鳥取城・久松山が、城下町の向こうにそびえ立っています。
江戸時代初期までは山上に天守閣が建っていましたが、城下からとてもよく見えたことでしょうね。

この通りは、駅前通り
JR鳥取駅から鳥取県庁まで続く道です。
ここを、鳥取駅の方に向かって右側の歩道を歩いていきます。

歩いて3分ほどで、



この日のランチをいただく「すなば珈琲」新鳥取駅前店に到着しました。



【今回のバス乗車記録】

<->日ノ丸自動車 ⑪仁風閣・県立博物館 12時33分発
鳥取市100円循環バス「くる梨」 緑コース
⑳鳥取市移住・交流情報ガーデン前 12時41分着

*所要時間 8分
*運賃   100円




午 後 十 二 時 五 十 分

す な ば 珈 琲 新 鳥 取 駅 前 店




すなば珈琲は地階にあるようですね・・・おおぅ、なかなかの混みっぷり。



来店して5分、席に案内されました。
お冷のグラスもなかなか凝っていますね。

そしてここは・・・タブレット端末でオーダーをするようですなぁ。
まずはのどの渇きを潤す水出しアイスコーヒー(税込495円)をオーダー。
そしてランチということで、もさ海老のホットサンド(税込770円)もオーダーしました。


オーダーから5分後、



水出しコーヒー! うまい!!
これまで水出しコーヒーなるものを飲んだことがなかったのですが、なんとも喉ごしの良いコーヒーです。
変な苦味のない、すっきりと飲み干してしまいそうなコーヒーです。

コーヒーに後れること約8分・・・



もさ海老のサンド、うまい!
・・・ところで「もさ海老」って?!


もさ海老は、「猛者海老」とも書きます。
もさっとした名前ではなくなかなかに勇ましい名前ですが、本名はクロザコエビ(黒雑魚海老)とちょっと残念。
頭が角ばっていて足が太いことから、鳥取県地方では猛者海老というのだそうです。
もさ海老は水深200メートルよりも深い海底に棲んでいるため、水揚げされると鮮度が落ちやすく、そのため水揚げされる地元でしか流通されないのだそうです。
味は甘海老よりも甘く、ミソもまた美味なのだそうです。



なんとなくで選んだオーダーでしたが、土地土地のものをいただくという今回の旅のテーマにぴったりなものだったようですね。



それにつけても、水出しコーヒーがあまりにうまかったので、サンドイッチが来る前にほぼ飲み干してしまっていました。


午後1時16分、お食事代1,265円を支払って、すなば珈琲を後にしました。



JR鳥取駅へと歩きます。



何のオブジェだろう?
なんとなく気にはなりましたが、近くに寄ることもなくそのまま駅舎に入っていきました。

このオブジェ、じつはただの銅像なのではなく、「夢時計21」という時計なのだそうです。
画像はちょうど時計の見えない方向から撮ったものなのですが、残りの3面にはそれぞれ日本時間、ロンドン時間(グリニッジ時間)、ニューヨーク時間(アメリカ東部時間)の時計がついているそうです。
そして台座のステンドグラスには、鳥取の鳥取しゃんしゃん祭りで用いられるしゃんしゃん傘が描かれているのだそうです。

そのようなことはつゆ知らず、鳥取駅の北口に入り、そして南口に出ました。


鳥取駅南口を出て右側を見ると・・・



「スターバックスコーヒー」シャミネ鳥取店です。




午 後 一 時 廿 六 分

ス タ バ ・ シ ャ ミ ネ 鳥 取 店


すなばに行ったのなら、やはりスタバにも行かなければなりません。


「鳥取県は、スタバはなくても日本一のスナバ(砂場)はある」
平成24年(2012年)に平井信治鳥取県知事は、テレビ番組でこう言ったそうです。
当時、鳥取県にはスターバックスコーヒー(スタバ)の店舗はありませんでした。
また翌年に島根県にスタバの店舗ができると、鳥取県はスタバがない唯一の県になってしまったのです。
「スタバはなくてもスナバはある」・・・この言葉をもとに、飲食店チェーンを展開する地元企業・ぎんりんグループにより、平成26年(2014年)4月にすなば珈琲がオープンしました。

その翌年5月、ついにスタバが鳥取にやってきます。
本邦1287番目の店舗が、鳥取県初のスタバ・シャミネ鳥取店だったのです。



入店すると、ランチタイムを過ぎた頃なので人出は少ないかな~なんてとんでもない。
たしかに「すなば」ほどではありませんでしたが、こちらも空席わずかという盛況ぶりです。

ここではアイスコーヒー・ショートサイズ(税込319円)をオーダー。
そしてBLT & エッグサンド(税込616円)を手に取って、お会計へ。
「すなば」は後払いなのに対し、スタバは先払いで、935円を支払いました。




スターバックス鳥取開店おめでとう。
私はシアトルに行ったことはないので・・・柏で飲む、いつもの味。
僕にとって新鮮味がないことが、成功の証だと思う。


・・・という意識高めな文言が瞬時に浮かんだわけではありませんが、まぁ、よく飲む味です。
もちろん、おいしゅうございますよ。
ですがサンドイッチはいつもは食べないので・・・BLTエッグサンド、うまい!
卵の黄身が滴れてきて、手が汚れてしまいましたけど。



こうして私はひとり、スタバVSすなばの食べ比べ、飲み比べをして、悦に浸っていたのでした。





鳥取城・最終章~渇殺しの攻城戦

2020-07-12 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 前 十 一 時 廿 七 分

鳥 取 城 跡 本 丸



鳥取城【国指定史跡】の登城を開始してから1時間20分経過。



二ノ丸脇から続く中坂を進んで20分弱、久松山(きゅうしょうざん)に構える石垣が目に入り、



ようやく本丸に到達しました。
標高は260メートル。
天球丸が51メートルなので、200メートル以上の山登りを敢行してきたことになります。
いや~、きつかった・・・羽柴秀吉が兵糧攻めを選択した理由もよくわかります。



中坂を見下ろすかのようにそびえ立つ石垣。
「落石注意」という看板があったのでそそくさと通り過ぎましたが、このあたりには月見櫓が建っていました。



本丸にある大きな井戸・車井戸
鳥取城の籠城戦で大きな役割を果たした・・・と思っていましたが、この井戸が完成したのは関ヶ原の戦後に城主となった池田長吉の時代になってからだそうです。



さて、鳥取城の本丸に着きましたので・・・「城攻め」



日本100名城・第63番、鳥取城攻略!



国指定史跡・太閤ヶ(なる)攻略!
もうひとつ、鳥取城の出城であった丸山城も攻略できました。



武将は吉川経家中村春続を発見し、登用。
二人とも第二次鳥取城攻防戦の関係者ですね・・・中村さんの相方・森下道誉はいないようですが。


鳥取城の築城は16世紀中ごろの天文年間、因幡守護・山名誠通(のぶみち)によるものと考えられてきましたが、近年では誠通に対立する但馬守護・山名祐豊によるものと考えられています。
山名同士の対立は中国地方の二大勢力・大内義隆尼子晴久の対立が根本にあるとされていて、誠通は隣国の尼子と同盟を、祐豊は大内と同盟を組んでいました。
天文17年(1548年)祐豊軍が因幡を奇襲し、誠通が討ち死にすると、祐豊は弟・豊定とその子豊数を因幡に送り込みました。
永禄5年(1562年)山名家の重臣であり因幡の有力な国人であった武田高信が鳥取城を奪取し、山名家に反旗を翻します。
高信は、中国の覇者・毛利輝元の保護を受けて勢力を拡大していきますが、天正元年(1573年)豊数の弟・豊国と手を組んだ山中幸盛(鹿之介)率いる尼子再興軍によって鳥取城を落とされ、没落してしまいます。
山名豊国は、自らの居城を布施天神山城から鳥取城に移しました。



室町時代は「六分の一殿」といわれるほどに繁栄していた山名ファミリーも、戦国時代になるとこのゴタゴタっぷり。
鳥取城の歴史紹介が、山名のゴタゴタのせいで長文になってしまいますねぇ。
いや、それは私に文章をまとめる能力がないから?!
それはそうと、もう少しだけ山名さんのゴタゴタっぷりを記述しなければなりません。


山名豊国と尼子再興軍の本拠となった鳥取城に、毛利軍の山陰方面の総司令官・吉川元春が攻め込んできました。
これに豊国は抗しきれず降伏しますが、尼子再興軍が再び鳥取城を奪取します。
しかし山名家が中国の覇者・毛利家に対抗できる力はなく、天正3年(1575年)山名豊国は毛利家に従属。
あくまで毛利家と敵対する尼子再興軍は、鳥取を去り織田信長を頼ることになります。

その織田信長が東から勃興してくると、毛利軍はこれに敵対することになります。
天正8年(1580年)羽柴秀吉が軍勢を率いてくると、山名豊国はあっさりとこれに降伏します。
これに対し毛利軍は再び鳥取に来たため、山名さんはこれまたあっさりと降伏。
毛利家から城主が派遣されることとなり、山名さんは城主の座を下ろされてしまいます。
天正9年(1581年)再び羽柴秀吉が鳥取に攻め込んできました。
前の城主の山名さんはここでまたしても秀吉に降伏しようとしますが、家臣の中村春続森下道誉らによって追放されてしまいます。
中村・森下らは有力武将をあらたに城主に派遣するよう毛利家に依頼し、これに応えた吉川元春は、一族の吉川経家を鳥取城の城主としました。





「日の本にかくれなき名山」からの景色は、その名に恥じませんね。
鳥取市は人口が20万に満たない都市ですが、ここから眼下に広がる市街地を見てみると、鳥取の街も大きいなぁ~と感じてしまいます。



こちらは南東方向。
あの山の向こうに、次の目的地・若桜鬼ヶ城があるのですが・・・さすがにここからは見えませんね。




本丸の西の端にある天守台
元禄5年(1692年)落雷によって焼失するまで、ここには天守が建っていました。
宮部継潤によって建てられた天守は3階建てでしたが、池田長吉によって2階建てに建て替えられたのだそうです。
江戸時代の絵図には茶色の屋根で描かれていることから、(こけら)葺きか板葺きだったと考えられています。

天守台からの眺め・・・



朝まで立っていた鳥取砂丘
砂地の周りを、緑の森が完全に包囲しているかのよう。



鳥取を潤す千代川の河口。
河口西岸には鳥取港も見えますね。



西側の眺め。
千代川の両岸に市街地が広がっています。
向こうに見える湖は湖山池で、日本最大の「池」だそうです。


山上ノ丸の東側にも足を運びます。



こちらは山上ノ丸二ノ丸
眺めのよい本丸とは違って木々が雑然と生い茂り、人の出入りもほとんどなさそうです。



さらに下の曲輪に続いていく道ですが・・・ここだけ見たらなるほど、クマさんも出そうな雰囲気。
ここから先は立ち入らずに、本丸に戻ります。



本丸から東を眺めると、羽柴秀吉が本陣を構えたという太閤ヶ平が見えます。


天正9年(1581年)の鳥取城攻防戦
羽柴秀吉率いる2万の軍勢に対し、鳥取城は吉川経家率いる2千。
「日の本にかくれなき名山」に築かれた名城を、羽柴軍は力攻めできないでいました。

秀吉の軍師・黒田孝高(よしたか)(官兵衛)は、鳥取城の攻略にあたって兵糧攻めを献策します。
鳥取で売られている食糧を高値で買い取る。
鳥取城をとりまく陸路や海路すべてを封鎖。
鳥取の領民に兵を向けて城内へ追いやり、早期に穀を潰させる。
これに対し毛利家の吉川元春は兵糧を運び入れようと軍勢を動かしますが、伯耆国(鳥取県西部)の南条元続が織田方に鞍替えしてしまったために、兵糧を鳥取に持ち込めずにいました。

兵糧攻めを始めて1ヶ月ほどで、城内は飢餓に陥りました。
あたりに生えている木や草、普段は食用としないカエルやネズミなどの動物すらも食べ尽くしてしまい、餓死者が続出。
食糧を求めて城外へ出た者は、羽柴軍の銃撃にあってことごとく討ち果たされます。
すると城兵はその死体に群がり、人肉を食べていく・・・・・・。
城主の吉川経家も4ヶ月ほどの籠城に耐えてきましたが、凄惨な場面に心を痛め開城を決心したといいます。
経家と旧山名家臣の中村春続・森下道誉は、城兵の助命と引き換えに切腹。
後世「鳥取の(かつえ)殺し」といわれる凄惨な攻城戦はこうして終わりました。







下山する前に、もう一度石垣を仰ぎ見ます。
これらの石垣は「鳥取の渇殺し」後に構えられたものです。


羽柴秀吉は、攻め取った鳥取城を宮部継潤に与えました。
継潤は鳥取城を改修し、石垣が多く用いられる近世城郭へと変貌していきます。
継潤死後、子の長房が後を継ぎますが、関ヶ原の戦いにて時流を読み誤り西軍方へ寝返ってしまったため、東軍の攻撃を受けてしまいました。
長房は所領を没収されてしまい、池田輝政の弟・長吉が6万石で鳥取に入りました。

江戸時代の鳥取は、もっぱら池田氏の所領となります。
元和3年(1617年)長吉の子・長幸備中松山へと移封され、代わって光政(輝政の長男・利隆の嫡男)が姫路から32万石で入りました。
光政は鳥取城の規模拡大に乗り出し、山麓の曲輪をあらたに建造していきました。
寛永9年(1632年)光政は、池田光仲(輝政の三男・忠雄の嫡男)が治める岡山との国替えを命じられます。
以降、鳥取城は、池田光仲を藩祖とする鳥取池田氏12代の居城となりました。



下山へ。





山登りのときには目に入らなかったのですが、坂道からは石垣の跡のようなものをところどころに見ることができました。
そうしているうちに時刻は正午を回り、



山下(さんげ)ノ丸に戻ってきました。
登る前に「なんだろう?」と思っていた石垣は、武運の神・八幡神をお祀りする八幡宮のものだったようです。




午 後 十 二 時 十 四 分

鳥 取 城 山 下 ノ 丸




本丸二ノ丸天球丸との分岐路に戻ってきました。



二ノ丸に下り、さらに画像中央の石垣のある辺り・・・



表御門跡へ。



左手に天球丸の石垣、



右手に二ノ丸の石垣を見ながら、さらに下っていきます。



二ノ丸の菱櫓跡の石垣が見える所まで来たところ。



振り返ると、前には天球丸、左に二ノ丸
天球丸の上には、久松山
ここで少し寄り道して、右の脇道へ。





天球丸の巻石垣を下から見られるスポットへ。



起伏に富んだ石垣に、巻石垣。
鳥取城もまた、来てよかったと思えるお城でした。

気がつけば、鳥取城には2時間以上も滞在していました。
それくらい見どころが多く、試練もそれなりにある名城です。





二ノ丸の石垣に別れを告げ、



太鼓御門の石垣を通ります。
この通路が大手登城路となっているのですが、この日は水濠付近で工事中だったため、



仁風閣【国指定重要文化財】の下を通って、鳥取城を後にしました。