9時前に水戸駅に到着。
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黄門様ほどの健脚を持っていない私としては、歩く元気があるうちに、まずは城めぐりをしておきたいところ。
水戸駅の北口から徒歩10分程度で、水戸城の城跡にたどりつきます。
水戸城のあったところは、現在「三の丸」という地名になっています。
水戸駅から国道50号・黄門さん通りを歩くと、右手側に大きなイチョウの木があります。
ここを曲がると銀杏坂を上り、三の丸歴史ロードに入ります。
私はなぜか銀杏坂に入らず、国道118号へと遠回りをしてしまいました。
三の丸歴史ロードのあたりは、旧水戸城の三の丸にあたります。まぁ、そのまんまかな。
三の丸には、水戸藩の藩校であった弘道館が建ち、現在も残っています。
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水戸城の跡地は、現在はおもに学校などの教育機関が建っています。
三の丸に建つのは水戸市立三の丸小学校。
校門は
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校内外を分けるのは、フェンスではなく白塗りの城壁です。
三の丸小学校の次に現れるのは、弘道館【国指定特別史跡】です。
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弘道館の正門【国指定重要文化財】は、水戸を襲った弘道館戦争や第二次大戦などの戦災を免れ、建造当時のものが残っています。
なお、100名城スタンプは弘道館の料金所でもらうことができます。
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前回の登城は2012年の2月か・・・・・・2年ぶりの水戸城。
弘道館の前の交差点からは、水戸城跡通りが分かれています。
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その交差点の近くに、弘道館を建てた徳川斉昭公(烈公)の像が立っていました。
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像自体の大きさはだいたい50センチ強といった、人形のようなものです。
徳川斉昭は、水戸藩の第9代藩主で江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父です。
藩政では藩校・弘道館を設立し、家柄にとらわれず広く人材を登用することに努めました。
こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島
また偕楽園を造園し、民衆に開放しています。
しかし、弘化元年(1844年)に改革の行き過ぎをとがめられ、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられてしまいました。
その後守旧派の巻き返しがありましたが、斉昭を支持する藩士の復権運動などもあって、弘化3年(1846年)に謹慎を解かれました。
嘉永6年(1853年)6月のペリーの浦賀来航に際して、老中・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わり、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張しました。
安政2年(1855年)に軍制改革参与に任じられますが、安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーン失いました。
斉昭は開国論に対して反対する姿勢を貫き、開国を推進する井伊直弼と対立します。
さらに第13代将軍・徳川家定の将軍後継では、徳川
しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年(1858年)に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印してしまい、さらに将軍職も慶福(家茂)を第14代将軍としてしまいます。
このため、安政5年(1858年)6月に将軍後継問題及び条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除されてしまいました。
安政6年(1859年)には、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒、水戸での永蟄居を命じられることになり、政治の世界から退くこととなりました(安政の大獄)。
万延元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けないまま心筋梗塞により水戸で急逝しました。享年61(満60歳没)。
斉昭像の先には・・・
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彼を支えたブレーンが輩出した弘道館が建っています。
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