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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

クリスマスプレゼント

2024-12-22 16:52:05 | メッセージ
宣教    マタイ2章 9-12節   

メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。全世界に与えられた希望の光、救い主イエス・キリストのご降誕を、こうして皆さまと迎えることができましたことを神に感謝します。
今年は大変暑い夏が続き、秋がとても短くて今日は例年通り寒い冬の日となっていますが。私にとって今年ほど早く感じた1年はありません。みなさんは如何でしたでしょう。どのような時にも主が共におられた恵みを感謝しながら、クリスマスの礼拝を捧げてまいりたいと思います。

マタイ福音書が先程読まれましたが。ユダヤの地から遠く離れていた東方の学者たちは、「ユダヤの新しい王」の誕生を告げる星のしるしを見て、遙々ユダヤのエルサレムの宮殿にやって来ました。しかし王に尋ねてもそこにはいません。それがベツレヘムであることを聞いた彼らはそこへ向かうと、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まる」のを見て、喜びにあふれます。そうして救い主としてお生れになられた幼子キリストを礼拝することになるのです。
何ともドラマチックで美しい情景が思い浮かびますが。私などは「星」と聞きますと、昭和世代なので「見上げてごらん、空の星よ」の歌詞を思い出しますが。特に冬の夜空を見上げますと星がとってもきれいに輝いて見えます。この星の数々の星は天地万物の創造主の御業であります。どんなに力をもつ地上の王や指導者でもその星1つも支配することは不可能です。この天も地もお創りになり、すべてを統治されている主なる神のもの、この星を通して示されたキリスト誕生のエピソードは決して偶然なのでなく、その神のご計画なのです。

さて、このマタイの福音書では、お生まれになったばかりのキリストと最初にお会いできたのは、東方の学者たちであったと伝えています。ヘロデ王やユダヤの住民ではなく、ユダヤから遠く国境を越えた東の国の人たち、それはユダヤ人たちにとって外国人、異邦人でした。彼らはユダヤの人たちからすれば神の救いから隔てられた人たちであったのです。けれども、その彼ら異邦人たちが救い主、キリスト誕生の証人となるのですね。神のご計画は人の目には不思議ですが、あとになってみればそれがどんなにすばらしいかがわかります。彼ら異邦人が神の救いの招きに与ったことは、この私たちにとっても確かな導きと救いに与っていることを確信させてくれるからです。

さてここに、彼らが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。」とありますが。それは宮殿のような立派な建物でなく、庶民の家でした。そこには王座などありません。その幼子に権力をもつ王としての風貌もありません。ところがです。彼らがそこに入ると、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。
普通に考えてみて、このような民家の幼子にこんな高価な宝物を贈ったりするでしょうか。
どうして彼らはそんなことができたのでしょか。「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」とへブル人への手紙にありますが。その幼子がユダヤの王となることを信じる信仰が、彼らに喜びを与え、礼拝とプレゼントをささげさせたのです。
そこに彼らの内に飢え渇きといえるほど切なる求があったからです。地位も財産も知識を持っていた彼らは自分の力では得ることのできない真理、そして真の平安と救いを探し求めていたのです。その彼らの求めに、神は応え招き導かれるのです。神の導きを知る彼らだからこそ、その幼子の内に神の希望、世の光を見出し、ひれ伏して、自分たちの最上の宝を献げることができたのです。
詩編8編には「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。人間は何ものでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
都会の、夜も明るい中に住んでいると、空を見上げてもなかなか星を見つけることができませんが。時に天の川が見えるような満天の星を思い出し、人はだれもみな銀河のこの小さな青く美しい1つの星の住人だということを思うことがあるのではないでしょうか。そのすべての創り主なる神をほめたたえる。この身分も立場も、国も肌の色も違うような人たちが幼子キリストを真ん中においている光景は、何ともほのぼのと心温まるものでしょう。

自分の事どもに追われ、思い煩いに心がふさがれていた王やユダヤの住民たちは、せっかく与えられた神の恵みの時がわからなかった。それどころか邪魔だとするのです。神に背を向け身勝手な生き方は全く的外れなものでした。それを聖書は原語でハマルティア、罪だと言うのです。
ヘロデ王は自分の王位を守りたいがために、幼子キリストを殺そうとするのです。恐ろしいことです。でも、他人事(ひとごと)ではありません。私たちも的を外さないように神の愛に生きる、この東方の学者たちのように生涯求道の心で神を慕い求めていく者でありたいですね。
福音書の中でイエスさまは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない。」とおっしゃっていますが。この東方の学者たちはまさにそのような人たちでありました。天体学を通して真理を探し求めていた学者たちでしたが、その答えは知識や学問にではなく、まさに幼子キリストという天のしるしを通して、神の救いという真理を見出したのです。私共もそうした真理への渇きと幼子のような柔らかい感性をもち続けたいものです。

 本日はクリスマスプレゼントというタイトルをつけました。
東方の学者たちは、新しい王に献げるものとして最もふさわしく、最上と思えるものを幼子キリストに献げました。黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。又、それは権威の象徴ともされます。乳香は、貴重な樹脂であり、礼拝の時にささげる香としてもちいられていたものです。没薬は、最高な香料の一種であり、又高価な薬でした。彼らがそれほどの貴重な宝を献げることができたのは、神の大いなる救いの恵みに対して、どんな宝にも代え難い価値を見出し、喜びに満ちあふれていたからです。それは確かに美しい話です。
しかし、みなさん。最初に最善のプレゼントを差し出されたのは、実は外でもない神なのです。ご自身計り難い痛みをもって御子イエス・キリストを世に、私たちにお与えくださったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とヨハネ福音書3章16節にあるとおりです。
神はご自身の愛の顕れである救いの業、それは十字架の死と復活によって、愛と救い喜びを、新しい命をお与えくださったのです。この神の御子イエス・キリストによって、神の愛が私たちのもとに臨んだのです。これほどまでの愛のプレゼント。ここにクリスマスの本来の意味、本質があるのです。

終りに、幼子のイエスさまを拝した東方の学者たちは、「ヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった。」とあります。
 当初来た道は、自分の国の使節団として政治がらみの使節団としてユダヤの王子の誕生を祝うためのものでありました。しかし本当に探し求めていたお方と出会った彼らは、ヘロデの王宮にもう向かわず、天と地を統治される生ける神に従う道を通って、自分たちの生活の場所へと帰っていくのです。それは彼らのこれからの人生が、世の習わしに頼み従う道ではなく、生ける神を主として拝み、その御言葉に聞き従っていく道であることを示しているのです。その人生の道を彼らは選び取っていったのです。
私たちの前にも2つの道があります。今日はどこの道を行くか。主の導きがありますように。

もう1つ、「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味ですが。ミサには「派遣」という意味があります。キリストは御父より派遣され、世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださいました。そして、この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者も、それぞれ主から派遣され用いられるのです。
 今年は私たちの教会の礼拝や祈祷会に、延べ13カ国の方々が集われ共に主を礼拝することができました。そうした中で様々な国々の若者たちによる、「はこぶねかふぇ」クラスができました。聖書の伝承によれば、ノアの箱舟に乗り込んだノアの子どもたちから様々な人種・民族が生まれたということですが。このネーミングを決めるとき、そこに集まっていた若者たちが国の違い、言語の違い、文化の違い、いろんな人が集えるようになればいいなあという思いから、「はこぶねかふぇ」に決めたのです。国も言語も文化も、様々な違いを越えたキリストにあるこのつながりを感謝します。
クリスマスのこの時、キリストを通してもたらされた救いの喜びを共に賛美しつつ、全世界に与えられた福音の喜び、良き訪れがさらに分かち合われていくために派遣されてまいりましょう。
MerryChristmas!
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