日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

キリストを探し求めて

2024-12-15 12:29:23 | メッセージ
礼拝宣教   マタイ2章1—8節 アドベントⅢ 

羊飼いたちは、帰ってきました。博士たちは、帰ってきました。
彼らが帰って来たのは、どんな「ところ」だろう?
羊飼いたちがいた「ところ」博士たちが帰った「ところ」、
聖書の言葉はどちらも同じ。それらは、どんな「ところ」だったのか、
どちらもそこには、夜の風景がありました。
夜・・・、あなたの夜は、どんな夜ですか?そして、あなたの今は、夜ですか?
羊飼いたちが、主の栄光に照らされ、博士たちが、星を見た、それは夜のこと。
羊飼いたちは帰ります、その「ところ」、そこで、今日という日々が始ります。
私たちも、いつもの「ところ」に帰ります。そこはまた、夜が訪れます。
でもそれは、昨日とは違う夜なのです。光の訪れを待ち望む夜、そして、
ここに、その光!(一枚の届いたクリスマスカードより)

「お帰りなさい。」アドヴェント最終週となりました。いよいよ来週は主のご降誕をお祝いするクリスマス礼拝を迎えます。ご家族、また友人知人にもこの良き知らせを伝え、分かち合えると幸です。共に祈り備えてまいりましょう。

本日は、東方の占星術の学者たちの記事より、み言葉を聞いていきます。
彼らはユダヤのエルサレムに全世界の王なる主を探し求めて旅し、遂に神の御子キリストのもとに導かれていくのです。学者たちはベツレヘムでお生まれになったユダヤの王のしるしと思われる不思議な星を見て、ヘロデ王のもとを訪ねます。
この東方の学者は「マギ」とも言われていました。口語訳や新改訳では「博士」と訳されておりますが。それは当時のペルシャで広く知られた天文研究者や自然科学者を指していたようです。彼らは東方から来たとありますが、それはバビロンやペルシャという国の方角です。その地はかつてユダヤの人々が長い間捕囚の寄留民として暮らし、多くの人がそこに移住しました。そう考えますと彼らのルーツはユダヤ人や混血の人かもしれません。あるいは彼らの先祖を通して預言者エレミヤが語った王なるメシアの預言を知るようになった可能性も十分あります。その彼らが特別に輝く星を見つけ、「これは伝え聞いてきた王なるメシア、救い主がお生れになったしるしに違いない。」と確信し、贈り物まで用意して遠く危険な道のりをやって来るのです。いや、すごい信仰だなと思いますが。彼らは夜空の満天の星を見上げる時、天と星をお創りなった主なる神の存在を思い、畏れ敬う確かな信仰が与えられていたのではないかと想像いたします。その神の御子がついに地上に王として来られる。彼らは胸をときめかせながら、遙々エルサレムのヘロデ王の宮廷を訪れるのです。そうして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。
主イエスは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。まさに、この東方の学者たちは、神の救いの御子を礼拝したいという一途な心でエルサレムのヘロデ王の王宮を訪ねるのです。
今日もそれぞれに、主を礼拝するために対面・オンライン如何を問わずお一人おひとりが誰に強いられたわけでもなく、自ら進んでこの礼拝に集っておられます。遠方で1時間いやそれ以上の時間をかけて来られている方、歩くのが大変であるにも拘わらず来られている方、遠回りをして乗り合わせて送迎してくださる方もいらっしゃいます。先週は心臓のカテーテルの手術後間もない方が本当に喜びと感謝いっぱいの思いをもって礼拝に集われていましたね。素晴らしい笑顔でした。

もう15年も前になりますが、ある方が大阪教会のブログに寄せて下さった文章が目に留まりました。
「先日、教会のクリスマス・ツリーの飾り付けをしていたとき10月11日に入信したばかりの9歳のT君も一緒に手伝ってくれた。そのうちに彼は大きな星を見つけて『これどこにつけるの?』と聞いてきたので、その星の由来を説明した。東方の博士たちを導いた星のことを!すると、彼は『僕が飾りたい!その木のてっぺんに飾りたい!』小さい彼にはとても無理な話であった。人の助けが必要であることは勿論である。『ぼくが』という強い意志が彼を動かした。彼を抱っこしても届かない。ツリーは階段近くにあったので、階段の間から手を伸ばす方法を彼は思いついた。その木の先端に手が届く方向へ下にいる者が曲げてやると、苦心の末ついに届いた。見事にその星は定位置に収まったのである。T君の顔は『やった!』という満足感でみなぎっていた。多くの方々の祈りに導かれ、でっかい星を『ぼく』」飾りたいのだと小躍りしたことが遂に実現につながった。背丈が問題ではなかったのだ。T君の意欲が周辺にいる人たちを巻き込んだ。その星が他の飾りに先駆けてあるべき位置に就いたとき、彼のよろこびようは尋常ではなかった。彼は信徒になってはじめてのクリスマスを迎える準備に大役を果たしたのです。じっとしてはおれなかったあの異国の博士たちは遠く山河をこえてエルサレムにやってきた。途上けわしい道もあったであろうが東方でその方の星を見た彼らを導かないはずはないと固く信じてひたすら進んできたと思う。博士たちの努力や熱心が、救い主を見つけたのではない。救い主の誕生と、そのしるしが彼らを動かしたのだ。信仰者があらゆる努力をして救い主を造り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです!」(Y)
ほのぼのとしたエピソードでありますが。その彼も救いの主、キリストを迎え入れてから青年になり今年で16回目のクリスマスを迎えます。
そうですね。この方のおっしゃる通り、東方の博士たちの努力や熱心が救い主を見つけたのではなく、救い主の誕生と、そのしるしか博士たちを動かしたのですね。信仰者があらゆる努力をして救い主を作り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです。この素晴らしい恵みに与るばかりの私たちであります。

さて、東方の学者たちの「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た」という言葉を聞いた、3節「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった事、祝われるような出来事ではなかった事を物語っています。 
そこには神の民としての畏れや渇きはありません。権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するという知らせは、自分の地位や権力を揺るがしかねない都合の悪いものであったのです。エルサレムの住民もまた、自分たちの生活が守られるならよいが、それを揺るがすようなことは不安の材料にほかならなかったのです。
自分のライフスタイルや生活を守ろうとする中で、真正面からみ言葉を聞けない時、祈れない時があるかもしれません。先週の礼拝では、ヨセフが主の天使から「婚約者マリアの胎の子は聖霊によって宿った。」とのお告げを受ける箇所を読みましたが。
事の次第を聞かされたヨセフに驚きと「恐れ」が生じ、彼は非常に戸惑いました。けれどもヨセフはヘロデ王やエルサレムの人々のようにただ「不安を抱く」のではなく、主のみ言葉に目を覚まされ、主に聞き従う歩みへと方向転換されていくのですね。また、ルカの福音書を読みますと、時を同じくして登場する羊飼いたちは、ヘロデ王のように地位や権力もなく、又エルサレムの住民のように安定した暮らしもありませんでした。彼らは自分を守るものを一切所有していない人たちであったのです。一日一日羊を飼う者として生きていた素朴な人たちであり、自然の中で神に祈らずにはいられない人たちでした。にぎやかな街の華やかさから置き去りにされ、町の人たちから疎外されていたその羊飼いたちに、真っ先にあの天使のみ告げ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びの知らせが届けられたのです。主は、どんな人が最もこの良き知らせを聞いて喜ぶかを知っておられたのです。彼ら羊飼いたちは大変恐れおののくのですが。その恐れは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」とは全く違ったものでした。彼らは「自分たちのもとに救い主がお生れくださったという知らせが届くとは、一体どういうことか」という驚きとともに、神さまは私たちを忘れることなく覚えていてくださる」という、偉大な神の愛に心震えたのです。この羊飼いのように素朴で柔らかな心で福音、良き知らせを受け取れる、そんな歩みを続けていきたいものです。

さて、本日の箇所でもう一つ注目したいのは、救い主の誕生をはじめに知り、拝むために探していたのが、ユダヤの人々でなく、ユダヤ以外の異邦の地に住む人々であった、ということです。
それは神の祝福から隔てられていた人びとです。
このマタイの福音書は神の民であるユダヤ人に向けて書かれているのですが。救い主がお生まれになって最初の知らせが届いて、それを大いに喜んで受け取っていったが、何と異邦人たちであったことを記しているのです。キリストによる神の救いはエルサレムから始められ、全世界にもたらされることはイザヤ、エレミヤ、ミカといった預言者たちが語って来た、神のご計画でありました。
世界の王、メシアの誕生について語り継がれた預言は東方の学者たちから始まって今日の私たちキリスト教会にもたらされているのです。
今日の礼拝招詞として申命記4章のみ言葉が読まれました。「しかし、あなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたの神に出会うであろう。」と記されています。
神が主体としてお働きくださるその救いの出来事を一途に求めて、あのキリストを探し当てた東の国の学者たちのように、それは私たちにも語りかけられている生きたみ言葉なのであります。

最後に、ヘロデ王はメシアが生まれる場所についてユダヤの祭司長や律法学者たちに調べさせると、「ベツレヘムです」と答えます。
まあこれは、当時のユダヤでは一般的な理解でした。しかし、肝心なその「時」については何も知らなかったのです。救い主、キリストと出会う上で決定的なことはこの「時」ギリシャ語で「カイロス」ということであります。ギリシャ語にはもう一つ「クロノス」という時を指す言葉があります。こちらは日常的な時間のことです。一方、「カイロス」とは神の時を指しているのです。それは神の宣教の時、神の伝道の時、神の救いの時、神の恵みの時ということです。それは時間的な基軸ではなく、主なる神さまの支配、神の国が歴史の只中に差し込んでくる時であります。
そのカイロス、神の時はいつなのか、それがわからなければ、そのすばらしさを体験することはできません。また、それがどれほど価値あることか知らなければ自分の事とはならないのです。ヘロデ王やエルサレムの住民はせっかく救い主が来られたのに、その時をわきまえ知ることができなかったのです。それは今を生きる私たちにとっても重要な教訓ではないでしょうか。
神の呼びかけ、神のご計画と導き、救いと祝福の出来事が今起こっていることに気づけるか。神の時のしるしを見分け、探し求めながら生きているかどうかにかかっています。
主イエスは、「いつも目を覚まして祈っていなさい」と言われました。神の救い、キリストを探し求めているなら、あの異邦人の学者たちのように、その時、その価値を知らせてくださる神のしるし、聖霊のお働きに導かれ、探し当てることができるでしょう。神はすでに用意して下さっています。

祈りましょう。
愛と恵みの神さま、全世界の人々のためにあなたが救い主イエス・キリストを贈ってくださったクリスマスを前に、今日は東方の星の学者たちの行動から、み言葉を聞きました。私たちは今日こうしてあなたに礼拝を捧げることができます幸いを感謝します。闇のような中にあっても、あなたの救いの星は変わることなく世界中を照らし続けています。神さまその救いの星は私たちがどこにいようとも、どのような折も、曇りであっても、雨が降っても、変わることなく輝き、照らし続けてくださっていることをみ言葉から今日知ることができました。今、クリスマスシーズンの華やぎの中で戦争、気候の変動に伴う食糧問題、疫病や様々な災害があります。あなたは、世界のこの状況を誰よりも知っておられるお方です。主よ、私たちが時を見分け、キリストを見出し、主のみ言葉に聞き従って、あなたの慈愛に生きることができるように導き、助けてください。また、世界にもたらして下さるこの驚くべき救いの喜びと希望を一人でも多くの方に知っていただけますよう、先に福音に与り、生かされている私たちを用いてください。
救いの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
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共に生きる道

2024-12-10 10:57:46 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ1章18節-25節  

本日も救いの主、復活の主に導かれてアドベントⅡの礼拝を共に捧げております。
アドベントは日本語で待降節です。待ち望んだ救いの主が、遂にお生まれになるという天使の喜びの知らせに始まり、降誕・クリスマスに備えて祈りつつ、歩む時であります。
全世界に与えられた救いの福音は、先ほど読まれましたように聖霊により身ごもったマリアを、ヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れるのであります。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。神がお与えくださる救いの主、イエス・キリストを迎え入れる。ここにすばらしい喜びと平安・平和のクリスマスがあるのです。

今日は、マタイ1章18節~25節より御言葉に聞いていきます。
この主イエスの誕生の予告についてのお話はルカ福音書ではマリアへの受胎告知として記されております。マタイとルカに共通していること、又異なる点を読み取っていくことは意義あることです。マタイの福音書に特徴的なのは、22節において「主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と記されている点です。それはこれまで旧約聖書のエレミヤ書を読んできましたように、ユダの民は捕囚からの帰還と神殿再建を果たしユダヤ人の信仰復興がなされていきますが。その後も、周辺の大国による侵攻、さらに最も厳しい迫害と苦難の時代が訪れるのです。それは旧約聖書外典のマカベヤ記等からも読み取ることができます。その厳しい状況下、かつて預言者たちが語った、「救い主(メシア)の到来の予告」が人々の生きる望みでありました。
マタイによる福音書には歴史の主が、ユダヤの民の苦難を共に担い、導かれたという視点があります。ルカによる福音書ではマリアが、マタイ福音書ではヨセフが「聖霊」のお働きによって導かれ、やがて同じ聖霊によって主の福音が全世界に拡がってゆくのです。この偉大な神のご計画を覚えながら、今日の御言葉に聞いてゆきたいと思います。

さて、ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていたようです。この当時のユダヤ社会では、たいてい女性は12、13歳で婚約をしていたそうですが。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったといわれています。
又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経てから、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったようです。このヨセフとマリアの二人はその婚約期間中であったのです。
ところが、ヨセフは婚約者のマリアが一緒に暮らす前に妊娠したことを知ります。
自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなに失望させ苦悩させたことであったでしょう。
又、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いたかも知れぬ女性を迎え入れることなど出来ないと考えたことでしょう。更には、このことが公になれば、彼女はさらしものとなり、裁かれ、最期は石打の刑で母子ともにその命が絶たれる悲劇となりかねない。そんな心配までヨセフの頭をかけめぐっていたのではないでしょうか。それはもう混乱と恐れが入り混じった感情であったのではないかと想像します。
裏切られたことへの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとする思い。そして、自分の良心として何とかマリアと生まれてくる子を守りたいという板挟みの中で悩み考え抜いた末に、彼は良心に正しくあろうと、マリアと密かに縁を切る決心をするのです。

さて、ヨセフがそのように考えていると、主の天使が夢に現れてこう告げます。
聖書の中には「夢」についての記述が多くあります。旧約聖書ではヤコブが夢で天の梯を上り下りする天使を見て力づけられます。ヤコブのその11番目の息子ヨセフも夢を見て、その夢を説いて神さまのご計画が明らかにされ、実現していきますが。このヨセフも夢の中に天使が現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げられるのです。
神の御心は実に明快です。主の使いがヨセフに告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。」ということです。箴言19章21節口語訳では「人の心には多くの計らいがある。しかし、主の御旨のみが実現する。」とあります。
ヨセフは律法に基づいて正しさに生きるか。あるいはマリアと子を助けるべきか。迷います。しかしどれを選んだとしても人の計らいは不完全なのであります。心配や後悔がつきまといます。人間ヨセフの正しさの限界がありました。そういう中でヨセフは主の御声に聴き従いました。そこに迷いはありませんでした。私たちは何を規範に歩むべき道を決めるでしょう。主なる神さまは常に生ける御言葉をもって、私たちを導こうとされています。私たちに平安と希望、生きる力と確かさを与えてくれるのです。

さて、ここで注目したいのは、主の使いがヨセフに、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った。」と伝えたことです。ルカ福音書のマリアへの受胎告知の折りは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1章35節)と天使ガブリエルが伝えています。
このように、マリア、そしてヨセフの身に起こっている出来事は、すべて神のご計画とその御旨に基づき、聖霊によって起されたことなのです。
それは二人にとって、それぞれ自分の思い描いていた歩みとは異なるものであったのです。いろいろな困難や葛藤が起こってくる。しかし、聖書は聖霊に導かれて歩み出すとき、「神の義(ただ)しさ」が明らかになり、確かな人生が切り拓かれ生きて行くことができるのです。
私たちも、聖霊が私たち自身の願望とは異なるかたちで導かれることがあるかも知れません。時にそれは困難な道、茨の道かも知れません。けれどもそれが神の備えてくださる道であるなら、聖霊は常に導かれ、その確かさにある歩みをなすことができるのです。それが「インマヌエル」、神が共におられるという体験です。

ヨセフに話を戻しますが。
誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。どんなに彼は孤独だったでしょう。けれども、そのような孤独なヨセフに主は天の使いを遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、自分の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中でなされた出来事なのです。
ヨセフは、自分には神さまが共におられる。これから自分たちが負うことになっていく道には神さまが共におられる。そうした信仰の確信へと導かれていくのです。
24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れます。」
信仰の確信により彼は新たな日を歩みだします。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼は一切を主に明け渡し、新たな道をマリアと共に主の招きに応えて歩み出すのです。

私たちそれぞれも、日常の中で人としての弱さや無力さを感じたり、苦しみ悩み、葛藤することがあるでしょう。
ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフと同様、私たちもいろんな困難を覚える状況になった時、自分が正しいと思える考え方で解決しようとするのではないでしょうか。人間的な心遣いや配慮も大事ですが、それを優先するあまり、的が外れた方向へ向かうかもしれません。神さまだけが正解を知っておられ、最善を導き、万事を益とすることがお出来になるのです。世の習わしや模範的な回答でなく、すべての真理の源であられる主の御心がどこにあるのかを謙虚に御言葉から聴き取ってゆく、その姿勢が大切でしょう。それが信仰であります。
ローマ12章2節には、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」とあるとおりです。
神の御心に聞き従うとき、私たちの人生の道はまっすぐにされゆきます。まあそうは申しましても、私たちにはそれがなかなか分からない、だからこそヨセフのように苦悩するわけです。そういうもう人の側では何が正しいことなのか、どう生きていけばいいのか分からない、そういう時こそ、ヨセフを信仰に立たした聖霊の力、御霊の導きを求めていきましょう。
「わたしを呼び求めよ。そうしれば、わたしはあなたに答える。」先月エレミヤ書で、主が私たちに語られました。ヨセフはその聖霊のお導きに従ってマリアとその子を迎え入れる新たな一歩を踏み出しました。
ルカ福音書11章13節には、主イエスが「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」とおっしゃっています。さらに、使徒パウロは苦難の時は、ローマ8章26節に「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどの祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と記しています。
主によって私たちはこんなにも大きな励ましを頂いているのです。ヨセフとマリアのように私たちも恐れず主を迎え入れましょう。聖霊の確かなお働きに導かれつつ、インマヌエル、「主がわたしたちと共におられる。」命の道を歩んでまいりましょう。
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イエス・キリストの系図

2024-12-01 13:25:54 | メッセージ
宣教    マタイ1章1~17節 アドベント・世界祈祷週終日

いよいよ12月に入りました。今年も残すところ1カ月となりました。また、本日より主イエスのご降誕を待ち望みつつ歩む、待降節・アドベントに入りました。守り支えられている主の恵みひとつ一つを数えながら、クリスマスをお迎えしたいと思います。

本日のアドベントから新約聖書のマタイ福音書より御言葉を聞いていきます。今日はその1章「イエス・キリストの系図」の箇所であります。
新約聖書を初めて手になさった人は、まず、最初にマタイ福音書のこの系図をご覧になるでしょう。そして多くの方が自分と関係のない話だと、もうそこで読む意欲を失ってしまう人も少なくないでしょう。とても勿体ないことです。
しかしこのイエス・キリストの系図は、聖書の「神による救い」とはいかなるものかを示す大切な記事なのです。言い換えますなら、救いを必要とするすべての人に向けられたメッセージともいえるわけです。

それは、旧約のアブラハムの族長時代。次に、イスラエル統一の王であったダビデからの王国の時代。さらに、捕囚と苦難を経験したユダの民が、解放されて神殿再建と信仰の復興を得ますが、再びギリシャやローマといった大国の支配される暗黒の時代。そうした3つの時代を貫き、イエス・キリストへとつながっていきます。それはおおよそアブラハムから2000年もの年月が及ぶものでした。が、私たちはイエス・キリストの誕生からおおよそ2000年を経てきた時代の今を生き、生かされているのであります。

この「系図」と訳された原語は、ギリシャ語で「ビブロス ゲネセオース」という言葉で、「創造の経緯」と直訳できます。ひらたく言えば「いのちの誕生の書」といった意味合をもちます。それは神さまがお造りになられた人の「いのち」が連綿とつながれ、神の創造の業が続けられて来たことを表わしていると言えるでしょう。
普段は系図というと、その由緒、家柄、家系を証明するものをイメージします。まあ王室や皇族方はそれを重んじておられるでしょうが。一般的には家系や血統ということなど普段意識していないものです。
しかし、当時ユダヤの祭司たちは自分たちの誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。自分が何族であり、主だった先祖から何代目だとか、嗣業の地はどこにあるとかを記憶していました。それは、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになっていったからだということです。そこで自分が「神に選ばれた民」であるという、存在意義を見いだし力づけを受けて、共に結束して生きることができたからです。
だから系図はユダヤ人にとってとても大事なものとなったのです。
ところが、今日のイエス・キリストの系図には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリアと何と5人もの女性が登場しています。先に言いましたように、ユダヤの系図は父方の系図であるにも拘わらず、不思議にもこうした女性たちが登場するのです。

まず、夫を亡くして寡婦となった異邦人タマルは、義理の父であり信仰の父祖ヤコブの子であるユダが、自分を擁護する義務を果たそうとしない冷酷さに苦しみ、神の前に自分の存在を賭けて遊女を装いユダの子孫を宿した女性でした。次のラハブは、異邦の地エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でした。彼女はエリコの町を偵察に来たイスラエルの遣いの者たちを守るように助けるのです。それは彼女が彼らの主、天地創造の生きた神を信じた「信仰による」と聖書にあります。彼女は後に、イスラエル人サルモンとの間にボアズを生みます。そのボアズは異邦人ルツと出会います。彼女はかつてイスラエル人の夫に先立たれるのですが、その姑の神を信じ、その信仰によってイスラエルの地に住み、ボアズとの間にオベドが生まれます。そのオベトからエッサイ、エッサイはダビデと系図が続きます。この王国時代のダビデの妻というのはバテシュバのことですが。彼女はダビデ王の横恋慕に遭い、その夫ウリヤはダビデの策略によって殺され、ダビデはバテシェバを召しかかえるのです。ダビデというのは偉大な王であり、多くの賛歌を詩編に残した信仰者でしたが、救いの主、イエス・キリストの系図にその深い罪が、隠されないまま赤裸々にされているのです。
では、マリアはどうだったのでしょうか。その素性について何も記されていません。ただわかっているのは、彼女が信仰によってイエス・キリストを受胎し、生み育てたという事です。
この5人の女性たちは、それぞれに悲しみや重荷を背負って生きていましたが。そこで生ける神と出会い、心の底から信頼し、より頼むその信仰によって「神の創造の経緯」であるイエス・キリストの系図に用いられているのです。
人の世では恥となるようなことは隠したい。立派な父方の家系は箔が付くということで、このような女性たちの先祖がいたとしたら、極力隠したままにするでしょう。しかし救い主、イエス・キリストの系図はそれを露わにします。彼女たちはその信仰によって神に認められた人たちであるからです。

救いの神は世にあって如何に弱い立場におかれようとも、罪人と忌み嫌われようとも、生ける神を畏れ、敬い、慕い求める信仰を決して見過ごしにさらず、心に留めていてくださるお方なのです。この信仰による救いが、イエス・キリストの系図を通して示されているのです。
私たちは神の救いに与った者も、この信仰によって神の前に罪を言い表し、信仰によってイエス・キリストを救い主と信じたからです。
神の御独り子、イエス・キリストは、私たちと同じ人間の姿になられ、世にお生まれくださいました。イエス・キリストは「世の人の罪を取り除く神のあがないのための小羊」として私たちのところに来てくださいました。それは私たちが主に立ち返って、キリストにある新しい命に与って生きるためです。
歴史における神の創造の御業は続いています。この救いの主、イエス・キリストの系図に、信仰によって私たちひとり一人もまた連なる者とされているのです。私たちは確かにアブラハムからなる血肉のものではありませんが、神は「アブラハムの祝福によって地上のすべての民が祝福に入る」ことが約束しておられるのです。さらにローマ書13章にありますように、「共におられる主、イエス・キリストによって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木されて」いるのです。
私たちの存在がどんなに弱く小さく思えても、神の前に立ち得ないような罪人であったとしても、招き給う神は信仰によって、私たちをご自分の民としてくださるのです。何とありがたいよき知らせ、これが福音であります。私たちが主、イエス・キリストによって神に立ち返る道を聖霊によって歩む時、だれもが神の平安と祝福を受け継ぐ者とされるのです。

本日は世界祈祷週間の最終日であります。先にも言いましたが、神は「アブラハムによって地上のすべての民族がその祝福に与る」と語られました。それはイエス・キリストによって実現されているのです。それは又、血肉によらず聖霊の働きであるのです。
イエスは、素性のよくわからないマリアより聖霊の導きによって生まれ、聖霊によって神の国の到来を告げ、聖霊によって十字架の救いの業を成し遂げられました。救いの主、イエス・キリストは血肉、血縁によらず、神の霊によって人の力や業を遥かに超えた神の愛と慈しみを現わされたのです。そのことによって、私たちはまことの神を知り、信じる信仰が与えられ、主の救いに与る者とされているのであります。
今も私たちの社会、世界に目を向けると、ほんとうに暗く、闇のような出来事が起っています。現実の状況に絶望感やあきらめのような無力感さえ漂う世の中です。けれどもこの時代にあってなお、ローマの信徒への手紙8章14節にありますように、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
私たちの生の全領域において、主が生きてお働きくださっていることを聖霊によって信じ、主の救いの証し人として一日一日を喜びと希望に満たされて歩んでまいりましょう。
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「わたしを呼べ」

2024-11-24 14:13:30 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ33章1-3節、10-11節   世界祈祷週間        

本日から来週の日曜日まで、世界バプテスト祈祷週間として覚えていきます。それに先立ちお世話下さっている女性会より、世界バプテスト祈祷週間の主旨や祈りの課題等の説明とアピールがありました。日本バプテスト連盟の国内伝道、又国外伝道の働きをはじめ、世界各地において行われています様々な救援活動、和解といやし等の奉仕活動が守られ、世界の至るところで主の栄光が顕わされますよう共に祈ります。

10月から2ヶ月間に亘り読んできましたエレミヤ書、今日で最終回となりました。
先週は、危機的な時代の中で、王に主の言葉を語ったために獄舎に拘留されていた預言者エレミヤが主の命じられたとおりいとこのアナトトの畑を買うというエピソードから聞きました。その畑のある地にはベニヤミン族のレビ人たちが住んでいたのです。
それは、神に対して背を向け続けたことによって崩壊していく町々が、いつの日か回復し、人々が再びその地の畑を売り買いするようになる、というユダの民の希望のメッセージであったのです。

エレミヤは紀元前(BC)627年に預言者としての召命を神から受け、40年間預言者として活動しました。預言者は「見張り人」と呼ばれていました。見張り人は、「見張り台」の上に立って、寝ずの番をして、外敵が襲ってくるのを見張ります。人びとや社会の危機を察知して警告を発する者です。そのような、時代のときを見張る預言者が警告したにも拘わらず、人びとがそれに聞こうともせず、剣によって殺害された場合、その責任はその個々人にあるのです。(エゼキエル33章)
その一方で、預言者が危機を警告しなかったがために死者が出た場合には、血の責任は預言者にあると、預言者エゼキエルの書同33章に記されています。警告を発すべき者が発しないことの責任は重大であることを熟知していたエレミヤは、自ら迫害に遭いながらも、「神に立ち返って、その回復に与るように」と、熱く、誠心誠意をもって民に語りかけ続けます。
エレミヤはエルサレムから4キロほどに位置するベニヤミンの地のアナトトの祭司の息子でした。アナトトはレビ人の町であったようです。(ヨシュア21:17)祭司の系統であり神に仕える働きをするレビ人は他の部族と異なり嗣業の土地を与えられず、他の部族の捧げ物の中から糧を得ていました。また、共同の放牧地で羊を飼って生活をしていたのです。それは神がお命じになったことであり、神はご自身こそが彼らの嗣業となられると、おっしゃったのです。彼らは神に仕える者として敬われることはありましたが、人々の心が神から離れていく中で、レビ人を疎んじられ、流浪の民と見下されることもあったようです。エレミヤはそのような人びとの視座から、神の預言者としての召命を受け、その務めを担うことになったのです。

さて、本日の箇所も、獄舎に拘留されていたエレミヤに神は再び語られます。3節「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」。
エレミヤが囚われの身となったことは、ユダの民がやがて捕囚の身となることを象徴的に表していました。神の警告を聞かなかったエルサレムは陥落し、荒れ果て、バビロンの支配下におかれてしまうのです。苦しみと将来の希望など持てない状況に置かれていたそのエレミヤに、主が「わたしを呼べ」とおっしゃったのも、ユダの民が苦境の中で絶望することなく、主が「わたしを呼び求めよ」と語られた神の愛のメッセージ(使信)であったのです。預言者エレミヤその者が神の解放、救いのメッセージとしてもちいられていくのです。いや、預言者というのは、本当に大変な任務であるなあと思わされます。

さらに、ここで神はエレミヤに、「あなたに隠された大いなること」、新改訳では「あなたの知らない、理解を越えた大いなる事」を告げようとお語りになりました。それは2節にあるように、「神は創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる」お方であるからです。人の理解できることはほんの僅か一部分でしかありません。それさえ正しいかどうかわかりません。しかし主なる神さまは、すべてを確かにすることがおできになられるのです。その主なる神さまが「わたしを呼べ」とお語りになるのです。
こんなにも直接的に、一対一で相対して、「わたしを呼べ」と主が大胆お語りになっているのです。それは先に申しましたように、エレミヤのみならず、苦境におかれる者すべてに向けて呼びかけられているのです。エレミヤ書29章では「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしに出会うであろう。」と主は語られます。この力強い呼びかけに私たちも応え、主を呼び求めまていきましょう。

さて、10節以降には、その「あなたの知らない、理解を越えた大いなること」について語られています。
それは、その神に背を向けて陥落し廃墟と化したエルサレムが、何と再び人びとで満ち、喜び祝う声、感謝と「万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美する高が聞こえるようになるという大いなるビジョンがここに示されています。
かつて神に背き腐敗していた民、打たれ、砕かれ、嘆きと後悔ばかりであった民が、日常の生活を取りし、回復してくださった神に感謝し、主をほめたたえる賛美に満ちた活き活きとした礼拝がささげられるのです。今年の大阪教会のテーマをみなさん覚えておられるでしょうか。「まず、礼拝から」ですね。その「まず、礼拝から」の本質は、主の大いなる解放と救いに感謝を携え、「主をほめたたえよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主の御名がほめたたえられ、賛美されるところにございます。
「わたしを呼べ」と仰せのとおりに、「主よ」と呼び、叫び、祈り求める者の声に、主はお答えくださるのです。そしてその声が、やがて喜びと感謝、主をほめたたえる賛美の声に変えられるのですね。それこそが、主に信頼して生きる者の希望であります。

先週の礼拝後、肺炎の重度化で緊急入院をされているMさんの状況について担当医師はかなり深刻であるということと、検査や治癒についてもまだ当分の日数はかかるということをお嬢さんから伺いましたので、祈祷会に参加されている方々と共にお祈りしました。又、朝の早天祈り会でも祈りました。さらに先週の礼拝後、Mさんのお連れ合いとお嬢さん、教会員の有志の方々と共に、「わたしを呼べ」と仰せになる主に信頼し、「主よ、おいやしください」と思いを一つにして共に祈りました。すると、その日の夕方、何と吉田さんの主治医から、もう退院しても大丈夫ですよ、というお話しがあったという、ご連絡があったのです。まさに、すべて主によってなされたという以外無いような出来でした。思わず、「ハレルヤ、感謝します」と、主をほめたたえました。
先日も、やはり途方に暮れていたときに、「わたしを呼べ」という、御言葉にすがり「主よ」と祈ったところ、即座にその祈りが答えられる出来事が起りました。信仰は御言葉による体験です。御言葉によって祈り、神の霊の力の証明を確認して生きる。これこそ神が私たちに期待している、生きた信仰の生活です。主は生きておられ、わたしたちが主に信頼し、祈り求めることを喜んでいてくださいます。又、教会の祈りに神さまが即答してくださることを私自身経験してきました。それがたとえ思っていた通りでなくても、後になってみると最善なことであったということもあります。主イエスは「はっきり言っておく。どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ17:19)そのように言われています。
コロナ禍で集うことが困難になった2年間、信仰によるつながり、教会性を保っていくために、お一人おひとりの近況とともに、祈祷課題を載せたメールや郵送を続けました。「祈りの輪」という名をつけましたが。コロナ禍も落ち着きを見せた時点で、直接お会いできるなら、と一旦祈りの輪は終りましたが。しかし本日の「わたしを呼べ」との主の呼びかけに再びわたしたちっが心を合わせて応えていく時が来たと思っています。
私たちはもっと、「わたしを呼べ」と仰せになるこの主に期待をしていいのです。私たちがもっともっと主に依り頼み、祈り求めるところに主は答え、わたしたちのまだ知らないような大いなることを表わしてくださるでしょう。そしてそれは「主は我らの救い」と、心の底からほめ歌う、賛美へと変えられていくと信じます。
信仰という希望の道を与えられた者として、互いを祝福し祈りましょう。神が創られた世界を祝福し祈りましょう。神の国の地上における実現を祈り求めてまいりましょう。

祈ります。
主よ、互いに祈りに覚え合うことにより、平安と神の国の喜びを知ることができますように。
主よ、教会の主にある霊的交わりによって、神への期待と信頼を学ぶことができますように。
主よ、今日は特に、世界各地の友を覚えて祈る世界祈祷週間ですが。苦しみと困難の中で祈る友、平和を造り出そうとする友、厳しい状況下で子どもたちに教育を得させ、将来に希望を育もうとする友を覚え、あなたの守りと祝福がありますように。
主よ、全世界があなたの御名を高く掲げ、賛美する日が一日も早く訪れますように。
主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。
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希望の言葉

2024-11-17 14:06:47 | メッセージ
礼拝宣教  エレミヤ32章6-15節、36-44節  

「希望」とは何でしょうか。「実現を待ち望むこと。」です。私たちの日常においても「希望」があるから生きることができます。当座の目標や目的を立て、それに向かって努めています。Gemiさん、Eimiさん夫妻が12月に日本語の検定試験を受けられるとのことです。みなさんもお祈りに覚えてください。お二人はきっと、希望をもってその実現を待ち望んでいることでしょう。私たちはそれぞれに人生の課題やその時々の困難があるかと思いますが。「希望」が生きるうえで大きな力と支え、元気の元になっているといえるでしょう。
本日はエレミヤ書32章から「希望の言葉」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

ユダの民の都であったエルサレムはバビロンの軍隊に包囲されるのです。そのような中エレミヤはユダの王宮にある獄舎に拘留されていたのです。それはエレミヤがユダの王に「バビロンと戦っても負けるので止めなさい」との主の言葉を語ったため、それに反感を抱いた王がエレミヤを拘留したのです。このような絶望的な状況の中で、「伯父の子ハナムエルの畑を買え」という主の言葉がエレミヤに臨みます。(32:6-7)
エレミヤがそうした中でも主の言葉を敏感にキャッチできたのは、たえず主と相対してきたからです。人からは理解されず反感を買うような時も、又、投獄という不条理ともいえる境遇の中でも、彼は主に相対して祈り、訴え、嘆きつつも、同胞の民のために執り成し続けたのでした。そうした神との関係性を保っていたエレミヤに、主は御言葉をお与えになるのです。
彼はエレミヤ書15章16節でこう言っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました」。
どんなに神の御心を伝えても、世間は彼の言動を理解しようとせず、エレミヤは涙の預言者と言われていますが。彼はその中で主の御言葉を切に求め、主に依り頼み、主を望みとして希望を抱き、生きたのです。
それにしてもユダの全土が間もなくバビロンの手に渡るような中、しかも監禁されているような時に、一体だれが「畑を買う。」そんなことをするでしょう。一体何になるというのでしょう。それが常識というものです。
そういう中、主のお言葉通り、親族のハナムエルがエレミヤの監禁されている獄舎に来て、「アナトトの畑を買ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください」と申し出たというのです。
こうしてエレミヤは主のお言葉どおり、ハナムエルからその畑を、銀17シュケルを量って買い取り、購入証書をもって契約を完了することになるのです。(32:6-12)
それにしても一体なぜ主は、そのようなことを命じられたのでしょう。
獄舎に囚われているエレミヤがその畑の所有権を持つことは、この後ユダの地がバビロンの支配下におかれたとしても、やがてはユダの民が再び帰って来て、それを所有するようになる。そのような回復の実現を象徴的に表していました。しかもそれは「神の新しい契約」でした。先週も申しあげたように、神の契約には神の熱情の愛が伴います。罪にまみれたユダの民を神は正しく裁かれますが、主は熱情の愛をもってなおも愛し、再びその地に連れ帰り、これを与えると言われるのです。この約束の言葉は、やがて土地を奪われ絶望的状況に陥ったユダの人々の希望となっていきます。

私たちは苦難に遭い自分ではどうすることもできない時にどうするでしょうか。聖書は、主の御言葉の約束をにぎりしめ、決して落胆せず祈り続けるようにと奨めています。そこから主との信頼は築かれ、希望と平安に生きる確かな道が拓かれていくのです。日ごろから主との信頼関係を築いていくことが大切です。そうでないと、いざ何か起こるとすぐにつまずき、祈ることも出来なくなります。主イエスは、「暗闇に追いつかれないように光のあるうちに歩みなさい」(ヨハネ15:34)と言われました。暗闇に追いつかれないように、主と共に生きていることが大事です。自分の力が尽きて、どうすることもできないような状況になった時に祈りを知らず、生ける神の御言葉を思い出せず、主の御手の業に期待できないなら本当に残念なことです。主はすべてをご存じのお方ですが、私たちがそこで主と向き合うように語り合うように祈る。その生きた関係性をもたなければ、何も始まりません。高慢になって自分のことぐらい自分で出来る。放っておいてくれ、と考えている間は、主がいくらお語りになっても、それをキャッチすることができないのです。主は、心砕かれ、主を呼び求める者の声を聴き分け、御許に引き寄せてくださるのです。祈り求める者に生きた御言葉をお与えになります。エレミヤのように私たちも、主の御言葉をキャッチできる心を持ち続けたいものです。

さて、畑の売買契約後、エレミヤはその証人たちとそれを見ていた獄舎の全てのユダの人たちに主の言葉を語ります。
14節、15節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イエスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう畑を再び買い取る時が来る』と言われるからだ」。
主なる神は、バビロンの侵攻とその捕囚後、長い時間を経たのちに、捕囚の民はユダの地に帰還し、家や畑を再び買うようになると告げられました。その預言の象徴的行為として、エレミヤはこの荒れ果てたぶどう畑を買い取るのです。それはその場に立ち会った人たちの記憶にしっかりと刻まれたことでしょう。それが後の世のユダの人々の希望となっていくのです。


本日のもう一箇所の37‐42節を見てみましょう。
そこにも破壊されたエルサレム、ユダとその民を主が回復される約束が預言されています。
ユダの民は神が語られた言葉への背信と罪のゆえに、剣と飢饉と疫病により破壊され、バビロンの王の手にわたされていました。多くの人々がその破壊されたエルサレムに、もはや回復の余地はないと考えます。しかし主は何といわれるでしょう。
37-38節「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰られ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」。
これは驚くべき神のご計画です。神はユダの民が悔い改めの後、民を新たにされるのです。

その回復の約束は、第1に、「約束の地への帰還」です。
神でないものを神として拝み、忌むべき行いを止めず、神の強い怒りを引き起こしたユダの民。彼らは神の裁きとして約束の地から追われ、諸国に散らされますが。しかし主は、その散らされた民をすべての地から集め、再び約束の地に帰らせ、安らかに住まわせようと、約束されるのです。
第2の回復の約束は、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と語られます。
罪による裁きによって国を失い、散らされたユダの民。しかし主はなおも、その民を背信の滅びから救い出し、新しい契約を結ばれるのです。
主は39節で、「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫とによって幸いとなる」と語られます。
主は民の心を新しくされます。それは民の内面的変化、覚醒による神との関係性の回復です。ユダの民が罪に陥ったのは、神への背信と忌むべき行いからでした。しかし、後に主に立ち返り、悔い改めと救いを待ち望む日々を通して、主は彼らに「一つの心と一つの道を与え」、主の御心に生きるようにされるのです。
主は40節で、「わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることがないようにする。」と語られます。
主の裁きは、民を滅ぼすことが目的ではありませんでした。彼らが主に立ち返って「主の民となり、主が彼らの神となる。」しかもそれを「永遠の契約」として結び、神の民の世々の子孫に恵みを与えてやまないとまで仰せになるのです。これこそ天地を創造され、私たちのいのちの源であられる主なる神さまの望まれる御心なのです。
さらに41節で、「わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いを下したが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える」。と仰せになります。
ちなみに口語訳では、「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心を尽くし、精神を尽くし、真実をもって彼らをこの地に植える。」となっています。何と、ユダの民が神さまに対して心を尽くし、精神を尽くしてということではなく、神さまご自身が「心を尽くし、精神を尽くし」て彼らを約束の地に植える、との回復をなさるというのです。それは42節で、主が「かつてこの民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。」とありますように、ユダの民の罪を神は、厳格に裁かれ、懲らしめをもって臨まれるのでありますが。主が心に望んでおられることは、主御自身が彼らのために心を尽くし、精神を尽くして、回復を与えると仰せになられるのです。神の愛はその民に対してどこまでも誠実で変ることはありません。その主の誠実な愛は、キリストにより神の民として接ぎ木された私たちに対しても変わることはありません。

さて、ここまでエレミヤを通して主が語られた「回復の約束」の言葉を読んできました。
43節以降には、ユダの地の全土で人々はまた畑を買うようになる。と主は回復の予告をされます。それはユダの全土で見られるようになるというのです。その最初に回復される土地をエレミヤが売買契約したアナトトの畑のあったベニヤミン族の地であると告げられています。
ユダの民はバビロンの捕囚から解放され、約束の地に帰還が適ったとき、再びエレミヤが先に買い取ったアナトト畑があるベニヤミンの地をはじめ、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々などで畑を買うようになるのです。エレミヤが主のお言葉通り、荒廃していたぶどう畑を買い取ったのは、人々が絶望の中で主の言葉に希望を見出して生きるためでした。
ヘブル人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」とあるとおり、彼らはエレミヤを通して示された神の言葉を希望として待ち望み、遂にその実現を確認するに至るのです。

私たちはどうでしょうか。いかに揺さぶるような出来事が起りましても、神が与えて下さる救いと命のことばを確信し、確認の日々をもって希望としているでしょうか。
今日の世界をとりまく状況、この日本の状況も、このエレミヤの時代のように「国々は騒ぎ立ち、地の面は揺さぶられている」事態といえますが。これを主イエスは「生みの苦しみ時」(マタイ24:8)と言われました。それは大変厳しく困難苦ともいえます時代の中にあっても、主が再び来られるという、主の来臨の希望が語られているのです。今、与えられたわたしたちの命の日々が、その希望の実現に向けた歩みとなりますよう、祈り求めてまいりましょう。
お祈りします。
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新しい契約によって生きる

2024-11-10 14:09:59 | メッセージ
礼拝宣教   エレミヤ31章27-34節   

本日はエレミヤ書31章から「新しい契約によって生きる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
聖書は新約と旧約とからなっております。そのどちらにも約束の「約」がついていますが。これは契約を意味しております。神が人と契(ちぎ)りを結んだ、約束を交した。聖書は言わばその誓約書であるとも言えるでしょう。
この世の中も「契約」社会として、物を買ったり、保険に加入するにも、家を建てたり住宅を借りるにも、又就職するのにも、相手があり、契約を交わします。大阪教会の会堂建築も建築業者との間で請負契約を互いに取り交わした時は大変緊張しましたが。双方の契約内容は守られ無事完成に至り幸いでありましたが。契約には互いの信頼関係、信用を基にした誠実さが求められます。まああってはならないことですが、契約した約束事に違反するようなことが起これば、契約は破棄されて大変なことになってしまうわけです。旧約聖書の時代、ユダの民は神との契約を軽んじ、自ら滅びを招いてしまいました。祝福をもたらすはずの契約が破綻してしまったのです。しかし神は彼らを見放してはおられませんでした。
なぜ神は、呼びかけにそむき罪に滅びるような民を、なおも導き救いの回復をお与えになるのでしょうか。

今日は神が人と約束された「新しい契約」についての記述から、まず「神の救いの確かさ」を読み取っていきたいと思います。
32章27-28節にこう記されています。「見よ、わたしがイエスエルの家とユダの家に、人の種と動物の種をまく日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる」。
神は打ち砕かれた彼らを回復、復興なさるというのです。
この「見よ、わたしが」とのお言葉には、主なる神さまの力強い再創造の業が宣言されています。そのむかし神は、出エジプトしたイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らが祝福に与るか、滅びに至るか、その契約にかかっていました。
これについて神は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(19章5節~6節)と言われました。
イスラエルとユダの家が神に信頼をし、忠実に従うのなら「神の民」として祝福されるのです。しかしこれに反して不信と背信とに生きるなら、厳しい裁きがなされるという警告がなされたのです。にも拘らずイスラエルの民は、度々その神との契約を軽んじ、欲するままにふるまい続けるのです。このユダの民はエレミヤの再三にわたる「悔い改めよ、主に立ち返れ」という警告にも拘わらず、罪を犯し続け、遂に先の北イスラエル同様、崩壊して捕囚の民となってしまうのです。その彼らの中には、「神に見放された、見捨てられたのだ」と言う者もいました。
しかしそうではありません。神はそのような彼らを断腸の思いをもって「立ち返って命を得よ」と、見守り続けておられたのです。
北イスラエルと南ユダ王国の崩壊で何もかもが終わったように見えました。けれども、そうではなかったのです。神は後に実現する「新しい契約の日」に向け、「今、わたしは彼らを建て、また植えようとして見張っている」とおっしゃるのです。神は決して民から目を離してはおられないのです。たとえ絶望的といえる状態であっても、神は決してお見捨てになることなく、彼らがゆるしの恵みによって新しく創造されていくようにと、見守り導かれようとしておられたのです。

さらに29節を見ますと、「人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」とあります。
国の崩壊と捕囚の惨禍は、確かにその時社会を腐敗させ、又それを容認していた世代の責任とも言えるでしょう。しかし新たな世代は次の時代をどう生きるかが問われているのです。先祖の後を追うように背信の道を行くのか。神に立ち返って生きるのか。それが各人に問われているのです。神は一人ひとりが神に立ち返り、新たな一歩をあゆみゆく者が祝福を受けるようにと望んでおられるのです。私たちも又その祝福に与るものとされてまいりましょう。

さて、その「新たな契約」についてでありますが。
31-33節に「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはわたしの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と語られています。
神さまは新しい契約について、「わたしの律法(御心)を人の胸に授け、人の心にそれを記す」と語られました。エゼキエル書36章26節には、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。」とも語られています。
かつてエジプトから導き出された時に結ばれた神の契約は「十戒」に基づくもので、それは本来神の民とされた彼らが祝福に満ちた世界を築くために与えられた高い倫理性をもった優れた戒めでした。しかいイスラエルの民はその戒めを軽んじ、逆らい続けたのです。再三にわたる預言者たちの「悔い改めよ、神に立ち返れ」との警告に対しても民は聞く耳を持ちませんでした。そうした彼らの不誠実によって遂に始めの契約ははたんしてしまい、北イスラエル王国、そして南ユダの王国は崩壊し、捕囚の民となるのです。
それにも拘わらず神はその民から目を離されることなく、なんと彼らと「新しい契約」を結ぶ日が来る、と予告されるのです。
始めの契約は石に刻まれた戒めが民の指導者モーセを通して授けられましたが。この新しい契約は、「神御自身が彼ら一人ひとりの胸の中に授け、その心に記す」というのが大きな特徴であります。ユダの民はその後、捕囚から解放され、その歴史を省みて心新たに神殿の再建の着手や神への信仰復興へと歩み出します。しかし世の戦いは険しく、民はその後も時代に翻弄されながら、様々な厳しい迫害の時代を経験するのです。
その後(のち)ユダヤの民がローマ帝国の植民地下におかれていた時、遂に神の御子イエス・キリストが世に誕生なさるのです。それはエレミヤ、又エゼキエルといった預言者が、「神自ら人の胸の中に授け、人の心にそれを記す」「新しい心を与え、人のうちに新しい霊をおいて、石のようなかたくなさを打ち砕き、柔らかくしなやかな心を与える」と語られた新しい契約の実現の始まりでした。エレミヤによって語られた預言の言葉は、神の御子イエス・キリストによって実現されていくのです。神によって始められた主の救いの実現の出来事は、今も時代を超え世界のいたるところで、新しい霊をもって人のかたくなな石の心を取り除き、柔らかな肉の心を授け、新しい人に造り変えられる再創造の出来事として起こり続けています。
34節「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。
「主を知る」。それはまさに、神さまの側のお働きと導きであり、聖霊のお取り扱いになされます。「神は生きてお働きになられる」「神はわたしと共におられる」という確信、その信仰の体験によって私たちは神の前に日々新しく創造されていくのです。そこから世にはない喜び、感動が溢れ出てくるのです。

ところで皆さまは聖書の神をどのようなお方であるとイメージするでしょうか。私たちは聖書の中にそのお姿を垣間見ることができるでしょう。創造主、クリエーターなるお方。あるいはご自分の民を教え導き、正しく裁かれる厳格なお方。そうでしょう。
31章3節には「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」。さらに20節「神がエフライム(これは北イスラエルのことですが)、エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにいられないと主は言われる。」とありますように。神さまは「熱情愛をもつ、いつくしみ深いお方である」と言い表されています。
ご自身に逆らい続け、罪の滅びに向かう民に対して、神の愛は常識をはるかに超えています。             わたしは彼を憐れまずにはいられない」と主は言われます。
この神の愛はヘブル語でヘセド、「憐み」と訳されます。それは神さまが人と契約を結ぶときに伴う神の熱情的な愛を意味します。「神はとこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」「彼のゆえに、胸は高鳴りで、わたしは彼を憐れまずにいられない。」お方なのです。
世にあって私たちは様々な困難や苦難があるでしょう。けれどもそれは、神が私たちを子として取り扱っておられるからです。神は試みの中で私たちが神に信頼して生きるように願っておられるのです。これはご自分の宝の民とされるためです。私たちが失敗した時も、弱った時も、もがき苦しむ時も、神は契約に伴う熱情の愛といつくしみで私たちを愛してくださるのです。
かつてイスラエルの民は神に選ばれ宝の民とされました。申命記7章7節によれば、「主が心引かれて選ばれたのは、あなたたちがどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対することのゆえに、」とあります。しかし、民は高慢になり、主のその愛を忘れてしまいました。神の憐れみ、熱情的な愛によらなければ彼らは滅んでしまったことでしょう。
私たち一人ひとりも又、主イエスにある新しい契約のもとこのいつくしみ深い、熱情の神の愛を受けて今を生かされていることを忘れずに日々心新たでいたいものです。
主は言われます。34節「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。
神は罪に滅びるほか無いような人間を深く憐れみ、熱情の愛を注いでいて下さる。私たちはこの事実を主イエスの十字架に血を流されるとてつもない代償によって知り、信じることができます。その大いなる赦し、救いが私どもにももたらされているのです。
この神の熱情の愛が注がれていることを忘れて高慢になることがないように、私たちの胸の中に主の十字架の愛のお姿を刻んで歩んでまいりましょう。日々感謝と賛美をもって、主の良き知らせを伝え、証しするものにされてまいりましょう。新しい契約に与った者として。
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わたしがあなたの傷を治し、打ち傷をいやそう

2024-11-03 19:53:07 | メッセージ
礼拝宣教    エレミヤ30章1-3節,12-22節 

本日は先ほど読まれましたエレミヤ書30章から御言葉に聞いていきます。
預言者エレミヤを通して語られた罪の告発と悔い改めの招きの言葉は、ユダの民の心に届きません。彼らは遂に神に背いた罪の裁きによってバビロンの捕囚となります。
それにも拘わらず神はなおもその民に向け、懲らしめと共に「回復を約束」をされるのです。
1-3節「主からエレミヤに望んだ言葉。『イスラエルの神、主はこう言われるわたしがあなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する時が来る、と主は言われる』」。
神はこの約束を巻物に記録させました。
「タイムカプセル」というものがありますね。学校卒業のときなどに、それぞれが将来の夢や希望の言葉を一つのカプセルに入れて埋めます。長い年月が経った後、そのカプセルを掘り起こし、そこで自分たちの過去と今をみつめ、確認していく、そうした機会になっているようですが。
ここで神が回復の約束を巻物に記録させたのは、後の時代になってその主の回復の約束が信実であることを、神に背いた民が改めて知るためのものであったのです。それは捕囚の民が70年後に知ることになるのですが。捕囚の状態にあった民はその回復の言葉を握り歩んでいったのです。
ヘブライ書11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」と記されていますが。聖書という書物は単ある文学書や教訓書ではありません。ここにはまさに、神がこの創られた世界に主権をもって介入し、お働きになっておられる、そうした神の義と愛による救いのご計画が証しされています。
「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40:7)生ける神の言葉は今も霊と力とによって証明され続けているのです。
さて、その「回復の約束」についての記録は、この30章から31章にかけて書き記されておりますが。本日は特に30章12節以降の主御自身による「いやしと回復」について、主が語られた言葉より、共に聞いていきたいと思います。
12-13節「主はこう言われる。お前の切り傷はいえず、打ち傷は痛む。お前の訴えは聞かれず、傷口につける薬はなく、いえることもない」。
ユダの地が、民の罪のゆえに荒れ果てていました。焼け跡に取り残された民も、又捕囚とされた民も皆傷つき痛んでいていたのです。しかしその傷は外傷だけではなく、最も深刻なのは心の傷でした。その傷口に塗る薬はなく、いやす方法もないのです。また、「愛人たちは皆お前を忘れ、相手もしない」と言うのは、神こそが主なるお方でありながら、強国にこびて寄りすがり、安泰を図っていたつもりであった彼らが、見放されていく様を物語っています。
それは14節にあるように、ユダの民の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、神がバビロンの攻撃をもって民を撃たれ、過酷に懲らしめられたのを見ることになるのです。さらに15節「なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、わたしがお前にこうしたのだ」。
何とも厳粛な裁きの前に人は成すすべがありません。実際滅ぼしつくされても致し方のない悪行が横行していた社会の状況であったのです。
ところがです。それにも拘わらず17節「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう。」と、主ご自身が、人の力によってはなはだいやし難い傷を治し、いやす、と言われるのです。
罪の傷、いやすことのできない罪。そのことをテーマにした、あのキリスト者であり神学者であったキルケゴール氏の「死に至る病」という著書が世に出されました。死に至る病とは「絶望」です。絶望は死に至るというのです。世の多くの人たちがその書を手にされてきたことでしょう。私は高校生の時に出会った魂の書となった一冊でした。その深い洞察と力強いメッセージに心打たれてきましたのも、この死に至る病、すなわち絶望からの解放、希望こそが、真に人を生かす力となるからでしょう。
昨今の国内、又世界状況に目を向けるときに、人の罪による破壊といやしがたい傷が世にあふれています。しかしそれは、単なる社会批評家のような人事ですまされるものではありません。人が、又社会が創造主に立ち返り、断たれた関係性に気づき直す以外、本質的回復を得ることはできません。
今日のところで聖書は何度も、主なる神自ら「わたしが治す」「わたしがいやす」「わたすが回復する」「わたしが再びふやす」「わたしが栄光を与え、昔のように立て、報いる」と主ご自身が語られたと伝えています。神が創造された人間が人間として生きていくために、神ご自身が罪によって断たれたいやしがたい傷をいやし、回復の道を開いて下さるというのです。
18節以降には、神ご自身によるヤコブの子孫の回復と繁栄が約束されていますが。しかしその出来事に至るまで70余年の時を要することとなります。その間は気づきと悔い改めへの招きの時であったと言えましょう。
その民の厳しい試練の最中29章で、エレミヤらは廃墟とかしたエルサレムからバビロンの捕囚の民に、主の言葉をしたためた手紙を書いて送ります。そこにはこのように書かれていました。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
それを読んだ民の中には、そんなたわごとなど信じられるものかと、さらに心をかたくなにする者たちもいたことでしょう。又、罪の裁きについて厳粛に受けとめることなく、神は即我々を解放してくださると軽々しく宣伝していた偽預言者たちもいたようです。その一方で、この捕囚の現実は自分たちの罪の裁きとして生じたことだと、しっかりと受けとめ、「約束された回復」の希望の言葉を胸に抱きながら、主に依り頼んで生きる者たちもいたのです。残りの民と言われた人たちです。彼らは元ある状態に戻る生き方ではなく、主の言葉に望みをかけて、新たに造り変えられていきる道を選ぶのです。
それは29章12節以降で主が、「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くして求めるなら、わたしに出会うであろう。」と語られた言葉を自らのものとして受けとり、死に至る病、絶望の淵から生還した人たちでした。

明日はこの大阪教会を会場に、アフリカのルワンダに国際ミッションボランティアとして佐々木和之さんが「平和と和解の働きのために」派遣されてから今年で20年の経過報告をしてくださいます。あの同じ町に住む者同士のジェノサイド(大虐殺行為)は今も深い傷を残していますが。その絶望からの回復の道を切りひらく働きが今も続いています。
その佐々木さんの働きを支援する会が発行する会報誌「ウブムエ」(2022年3月8日季刊誌)で佐々木さんはこういうことをおっしゃっていました。
「和解とは元々あった関係が、抑圧的なものであれば、そこに戻すことは目標になりません。被害者と加害者の関係も同じです。暴力が起きなかったことにはできないのです。それを踏まえた上で、それを乗り越えていく新しい関係性をつくること、関係の構築が大切なのです」。
ゆるす、ということは大変なことです。傷つけた相手がゆるせない。失敗した自分がゆるせない。社会がゆるせない。しかし、たとい人にはいやしがたくとも、神さまご自身がいやし、回復してくださる。この救いに死に至る病から生還する希望がかかっています。
本日の21節以降には次のような主の預言の言葉が告知されています。
「ひとりの指導者が彼らの間から治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので、彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて、わたしに近づくであろうか」。
ほろびる以外なかったような者が、唯このお方によって神の民とされ、救われるのです。
エレミヤより少し前に主の預言者として遣わされたイザヤは次のように語りました。
イザヤ書53章4-5節「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたからだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。
絶望の死に至る病から罪のあがないといやしによって、神との生きた関係性を取り戻してくださるお方、それは人間の姿、肉なるからだをとって私たちのところにお出でくださった神の救い、イエス・キリストです。それも主は十字架をとおして自らの体を裂かれ、血を流して私たち人間の罪をあがない、まさにいやしがたいその傷をおいやしくださったのです。
この生ける神の言(ことば)、主イエス・キリストのいやしと回復、その解放によって新しく創造された者として歩んでまいりましょう。
お祈りします。
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まことの牧者

2024-10-28 07:45:52 | メッセージ
主日礼拝宣教    エレミヤ23章1-6節  

本日は「まことの牧者」と題して主の言葉から聞いてまいりましょう。
先ほど読まれました23章の前の22章のところには、エレミヤが主の言葉をユダの王らに語られた言葉が記されております。2節以降「ダビデの王座に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉に聞け。主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え、寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。・・・もしこれらの言葉に聞き従わないならば、・・・この宮殿は必ず廃墟となる。」
さらに、エレミヤは主の言葉を語ります。13節以降「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を支払わない者は。・・・あなたの目も心も不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をおこなっている。」

本日23章の冒頭においては、エレミヤは「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは。」と言っていますが。この「牧者」とは誰のことでしょう。私も牧師とか言われる身なので人事ではありませんが。
古代ユダヤ社会は神の戒めと律法からなっており、宗教指導者と社会的指導者が強い結びつきをもっていました。本来ならば彼らは自ら神の御心に生きて、それを示し、民も又、神の御心を聞いて実践するなら神の平安と祝福を享受することができたのです。ところが彼らは神の御心に反し、おのが道に従ったため滅びに向かっていくのです。
今もまさに、エレミヤが主の言葉を語った時代と同様の事が世界のいたるところで起こっています。権力の暴走、戦争、搾取、収奪、無実の人の血が流されています。時代は変わろうとも神に背を向けた人間同士の争い合い、奪い合いは尽きることがありません。唯、主の言葉に聞き、従って生きるところに平和と正義があることを信じます。

今日の週報の巻頭言は、聖書教育誌10月号に記載されました西南学院大学神学部教員、金丸英子さんの言葉(一部)を紹介させていただきます。
「バプテストは『バプテスト』教会を建てるために始まったのだろうか。聖書が教えるように、首長でも宗教官僚でもなく、キリストだけを首(かしら)に戴く「キリスト」の教会を望んだのではないか。その時、復活の主との出会いの経験と神の言葉を信じる聖書への信頼だけを拠り所にし、伝統や慣習の古き衣を脱ぎ捨てて、歩み出した。バプテストの先達は、神の前に自らの足らざるを知らされていた。だからこそ、復活の主を見上げて共に生きる在り方を聖書に求め、交わりを育もうとした。そのために体制(宗教体制も含め)と相入れず、権威におもねることを「是」としなかったため疎まれ、排除された。しかし、個の内面の自由に枷をかけ、異なる声を黙らせて均一化する全体主義的な力や目論見に対しては、立場や利害を超え、時には神学や宗教の違いをさえも超えて、文字通り身を挺して「否」を唱えた。それがバプテストとしての信念、バプテスト教会の使命と信じたからである。この信念は、「自分の目で聖書を読み、自分の頭で考える方」へと私たちの背中を押し、「自分の声を取り戻して、自分の言葉で語るように」と励ます。他者にもそう励ます。そのミッションを帯びていきたいものだ。神と人とに対しても、自分自身に対しても。」
含蓄のある言葉だなあと拝見させていただきました。どのような時代、又どのような状況におかれても、神を畏れ敬い、人を真に生かす主の言葉に聞き、生きるところに真実の正義、平和があると信じます。自らを戒めるとともに、神の正義を祈り求める存在として私たちは招かれているのです。

さて、牧者といえば「羊飼い」ですね。詩編23編には、よく私たちも知っていますダビデ王の詩、賛歌が記されています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
ここでダビデ王は、主御自身が私をいつも養い育て、危険なものからも共にいて守り、助けてくださる真の羊飼である、と歌います。ダビデはこの主に信頼し、依り頼んで生きたのです。主を愛し、信頼し、主の御声に聞き従って、王としての務めを果すことができたのです。
ところがダビデの子であったソロモン王の後の王たちは、律法を読み直し宗教改革を断行したヨシュア王を除けば、大半の王は主の言葉に聞き従おうとはしませんでした。彼らは2節にあるように、羊の群れを散らし、追い払い、顧みることをしません。
22章にありましたように、「恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を支払わず、目も心も不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をおこなっていた」のです。王たちは権力に自分の基を置き、私利私欲のために働いていたのです。
それは祭司や預言者という宗教的指導者たちもそうでした。彼らも自らの立場を守るための御用学者、偽宗教家でした。主の言葉に聞き従うのではなく、王におもね、自らの地位をいかに築くかに心を囚われていたのです。王や宗教的指導者たちは、自ら進んでよい羊飼いとなることはありませんでした。彼らは自分たちの利益や安泰を図ることに心と思いがあったために、主の言葉を聞く耳を持たなかったのです。やがてユダの国、王や指導者たちは滅び、裁きを身に受けることになります。しかし、主はただ彼らが滅びることを望まれたのではありません。本心から立ち返って生きることを願っておられたのです。
3節「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない。」
主はこのようにその救いの回復と希望を語られるのです。それは人の知恵など到底及ばない神のご計画でありました。
4節「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。」
なんと主御自身が、群れを散らされたところから集め、ダビデ王の時代のような繁栄を取り戻してくださるというのです。それは神を畏れ敬い、神の御心を行うことによって真に喜びに生きる社会、又世界の訪れです。この主の回復の言葉を語ることができたエレミヤの胸中は、心に覆っていた嘆きと悲しみの闇に光が差し込んで来る思いであったのではないかと想像いたします。

主は言われます。5節「見よ、このような日が来る。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。」
主は回復のための神の直接的な介入者として「正しい若枝」を起こされるのです。
この「若枝」(ネツェル)については、預言者イザヤも同じ言葉で預言しました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず。耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い。この地の貧しい人を公平に弁護する。」(イザヤ11:1-5)
この「正しい若枝」は、神の義による統治を実現する神の知恵と知識の霊がとどまる王です。
その「王」の名は「主は我らの救い」と呼ばれる、とも言われます。名は体を表すといわれますが。それは「救いをもたらす王」であるということです。又、この「救い」は「正義」という意味をもつ言葉であることから、「正義の王」であるということです。しかしその時代の王や指導者たちも「正義のために」ということを口にするのであります。それは時に都合よく曲げられ、すり替えられ、社会的に弱い立場の人たちを見捨てていったのです。
預言者イザヤはそれに対してこの若枝である王は、目に見えるところによって裁きを行わず。耳にすることによって弁護することなく、弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護される、と語りました。人を偏り見ることなく正しい裁きをもって導く指導者、しかもいつくしみをもって弁護する「救いの王」「正義の王」を起こすと神の約束を語っているのです。
捕囚となった者も、また廃墟と化したエルサレムに取り残された者も、深い絶望感に陥っていました。しかし彼らはそういう中で、主が預言者イザヤ、又エレミヤを通して語られた「救いの王」「まことの王」の出現とその正義による民の回復に望みをおき、それぞれの地で生き抜いたのではないでしょうか。それから70年近くの後、政権はペルシャの王キュロスの手に渡ります。神はキュロスを用いてその神の約束を実現します。ユダの民は捕囚からの解放、そしてエルサレムへの帰還、さらに神殿の再建といった神への信仰復興へと導かれていくのです。
神を畏れ敬うリーダーが神に立てられ、神の愛に立ち返ることを通して、神の律法と礼拝の大切さを再確認することができたユダの人々が神の民として生きる時代が訪れるのです。しかしそれは決して平たんな道のりではありませんでした。その後も神に逆らう勢力は神の民を圧迫し、非常に厳しい迫害の時代が訪れます。再び「救いの王」「正義の王」を待ち望む切実な神への祈りが捧げられ、それが時代に翻弄される神の民の支えと希望になっていきました。そしてその後、ローマ帝国の支配と圧政、その傀儡政権の時代の最中において神の約束、「正義と恵みの業を行う」イエス・キリストが誕生されるのです。イエスの弟子たち、そして私たちキリスト教会はナザレのイエスというお方のうちに、この預言者エレミヤの言葉が実現していることを見て、信じているのです。

ヨハネ福音書10章10節「わたしが来たのは、羊が命を受けるためである。」11節、14節「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」28節「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
それは十字架の死と復活を通して実現されました。さらに聖霊の降臨による偉大なお働きを通してもたらされたのです。
「主は我らの救い」「主は我らの正義」「主はまことの牧者」。この主に導かれる私たちも、主の正義と恵みの業がこの社会に、又世界に行われますよう祈り努めてまいりましょう。
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まことの神に信頼せよ

2024-10-20 19:17:53 | メッセージ
礼拝宣教   エレミヤ書10章1~16

今日の宣教箇所、エレミヤ書10章1節~16節は一言で言えば偶像を拝むな。頼るな。真の神に信頼し立ち返りなさい。ということですが、私たちには関係がないことばのように聞こえるかも知りません。私たちは偶像を拝んだりしないからです。また私たちはまことの神様を知っています。私たちが信じている神様は天地万物を造られた創造主であり、私たちを愛して救うために、ご自分のひとり子さえも惜しまず、十字架の死に引き渡された愛なる神様であることを信じているからです。だからと言って本当に関係がないことでしょうか。
皆さんもご存知であるように偶像というものは木や金、銀で作られた目に見えるものだけではないからです。

さて、私たちは7,8、9、三ヶ月間礼拝で創世記を学びました。
創世記から今日のエレミヤ書まではかなり距離があります。これから、その間のイスラエルの歴史、その聖書の物語の流れを大まかに、覚えていきたいと思います。それによって、今日のエレミヤ書の御ことばの背景を理解することで神様の切実な思いが私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。

創世記は旧約聖書の重要人物であるアブラハム、イサク、ヤコブとヨセフの物語でした。創世記の最後50章26節で「ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、館に納めた。」で創世記の記事は終わります。
それではその後ヤコブの一族イスラエルの運命はどのように展開していたのでしょう。アブラハムに約束された祝福のもととなる運命を背負って生きていくイスラエルは、思いもよらない彼らの波乱万象の歴史が本格的に始まります。ヨセフもその兄弟たちもまたその時代の人々もみな死んでヨセフの知らない新しい王がエジプトに起こり、彼らの立場は一変します。奴隷のように扱われます。その理由は増え続ける彼らの民の数と彼らの強さに恐れたからです。ここで神様がアブラハムに約束された御ことばが実現されていることに心を留めたいと思います。あなたの子孫を星のように、海辺の砂のように、数えきれないほど、おびただしく増やすということと、あなたの子孫は自分たちのものでない国で寄留者となり、奴隷になって、彼らは四百年間苦しめられる。という神様の計画のなかで預言通りになっています。ここで、私たちは神様の語られた御ことばはその通りになることを覚えたいと思います。それと、神様はご自分の民を苦しんでいるまま放置される方では決してありません。
出エジプト記2章23節~25節まで読みますと、「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。イスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」と書いてあります。そこで神様はその民をエジプトから救い出すために先立準備された者、ミデヤンの地で羊を飼っているモーセを呼び出し遣わします。モーセを通して全能の神様の方法でエジプトから連れ出したご自分の民を今度は荒野で養い律法を与え神様の民として、生きる道を教え訓練をします。
レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記の内容をみますと、神様はイスラエルに異邦人の中で選民として、どう生きるべきかを徹底的に教え込みます。してはならないことと、しなければならないことを事細かく、念入りに教えます。神様の厳しさがここにありますが、その厳しさは子どもの幸せを願って止まない父の愛が根底にあるからです。神様の厳しさを知ればしるほど、私たちは神様の愛の深さ、その哀れみを覚えられます。本当の意味で十字架の恵みの深さが覚えられます。

創世記50章24節でヨセフが死ぬ前兄弟たちに神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。と言ったように、イスラエルは40年間荒野で生活を経てやがて約束の地カナン地に入ります。神様は荒野で彼らにエジプトから連れ出してくださった神様だけに信頼し、頼り、仕えるように訓練させましだが、彼らの信仰はこのカナン地でどうなっていくのでしょう。モーセの次の者ヨシュアによってカナンの地を征服しその地に定着し始めたイスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべでのわざを知っていた長老たちの生きている間は主に仕えたと書いてあります。
士師記によれば、その後に主を知らず、主がイスラエルのためにされたわざも知らない他の世代が起こって主の前に悪を行い、バアルに仕えます。彼らはエジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの周りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせます。
イスラエルの歴史はこういうことの繰り返しでした。列王記に記録されているようにほとんどの王たちは偶像崇拝と周りの強い国に頼るだけではなく、あらゆる悪を行い、神様の前に不信仰の罪を犯します。その度に神様は預言者を遣わし、悔い改めて立ち返るように警告をします。繰り返し、繰り返し、哀れみの神様は忍耐の限りを尽くし預言者の口を通して警告しても、彼らは聞きませんでした。

その預言者の一人エレミヤも、今日の聖書箇所で国の滅亡を前にして悲痛な思いで神様から頂いたことばを伝えますが、彼らは頑なに聞きませんでした。
結局、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユタ王国、二つに分断された国は、北イスラエルはアッシリアに捕虜になって連れて行かれます。ユタ王国はバビロンの捕囚になって連れて行かれます。
預言者たちの預言通りに彼らは裁かれました。しかし、裁きは裁くだけで終わりません。主は愛する者を懲らしめるという御ことばがあるように、裁きは神様の愛から出たもので、悔い改めて救われることを前提とした建設的なもので、そこには希望があります。
エレミヤ書29章:11~14節にこう書いています。耳に慣れた御ことばかも知りません。「わたしはあなたがたのためにたてている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。-主の御告げーわたしは、あなたがたの繁栄を元通りにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々とすべての場所から、あなたがたを集める。-主の御告げーわたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
このところから教えられることは、―現実は厳しく暗く思われることがあっても、物事を肯定的に前向きに考えて現実から逃げたりせず、疑わず、恐れず、私たちを救ってくださった神様に、全面的に信頼して、どんなときにも希望を持つ大切さです。

今日創世記後出エジプト記からエレミヤ書のところまで簡単に話しをしました。
それでは本文エレミヤ書10章1~16まで所々を読ませていただいて結論に入ります。「イスラエルの家よ。主があなたがたに語られたことばを聞け。異邦人の道を見習うな。国々の習わしはむなしいからだ。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。主よ。あなたに並ぶ者はありません。
あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」アーメンです。

今日の御ことばは、その時代の選民として神様に結ばれたイスラエルの人たちに向けられたものでありますが、今日私たちにも、また広くはすべての人にも共通のメッセジーであります。
人は神様の恵みによって信仰が与えられ、救われていなければ、霊的に盲目状態です。救われて霊の目が開かないと、何でも信じる価値がないものでも、いとも簡単に信じてしまいます。何の力もない。わざわいも幸いも下せないものを恐れたりします。私たちも経験してきたことではないでしょうか。
もし、この場に神様を知らない方がいらっしゃいましたら、これだけは覚えていただきたいと思います。主イエスキリスト以外にどんな宗教にも罪の赦しと救い、永遠の命のことばはありません。それに肝心な人生の指針がありません。
人々は誰もが幸せな人生を願います。ここで覚えたいのは、神様も私たちが幸せであるように、誰よりも願っておられることです。そのために、私たちに救い主御子イエスキリストが与えられています。私たちに御ことばが与えられています。天地万物を造り、私たちを救ってくださった真の神様に信頼して、その御ことばに従うことが、私たちの人生を最も価値ある豊かなものにしてくれます。

イスラエルは自分たちをエジプトの奴隷から救ってくださった神様を忘れました。捨てました。と書いてありますが、私たちは、御子イエスキリストの血の対価を払ってご自分の子どもにしてくださった父なる神様をどんなときにも忘れず、信頼していきましょう。この世のものに頼らず、自分に頼らず、まことの神様だけに頼って生きていきましょう。
最後にイザヤ書55章1~3節までの御ことばをもって今日の宣教を終わらせていただきます。

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために、労するのか。
わたしに聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」



       2024年10月20日      橋本知映
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主の言葉を聞け

2024-10-13 13:13:32 | メッセージ
主日礼拝宣教  エレミヤ7章1-11節  

先週の礼拝からエレミヤ書が読まれ、その1章のエレミヤの召命の記事より御言葉を聞きました。その後の2章~6章では南ユダの人々の罪に対する指摘と、悔い改めなければエルサレムの都は陥落し、滅びることになるとの警告が、語られています。さらに5章にはエルサレムの陥落した民の様相が描かれていますが。その1節「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者がいれば、わたしはエルサレムをゆるそう。」と神は言われますがそれを見出すことができません。31節には「預言者は偽りを預言し祭司はその手に富をかき集めわたしの民はそれを喜んでいる。」このように地方からの巡礼者をいわば食い物にする人々の姿があります。さらに6章13—14節「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民に破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。」このように南ユダの現状は神の前に惨たんたるものであったのであります。
立派な神殿が築かれた都エルサレムは、大国の脅威にさらされながらも一見平穏に映ります。けれども神さまの目にはすべてが明らかです。人々は神への背信によって戒めを破り、危機的状況であるにも拘わらず偽預言者や祭司たちは「平和、平和」と人々に偽りの平安を語っていました。
何が偽りかといいますと、神の御心を尋ねようとはせず、気安く主が守って下さる、主の神殿があるのだからエルサレムは大丈夫と安価な恵みを語り、祭りごとを行って富をかき集めていたのです。繫栄した社会に浸ってきた民衆の心は神から離れ、民の指導者たちの言葉に喜んで聞き従っていました。それは耳触りの良い言葉であったからです。権力者や富裕層は自分たちの生活のために地方の人々や外国人たちを搾取し、私腹を肥やしていました。風紀は乱れ、神ならざるものを崇拝する偶像礼拝がはびこっていました。孤児や寡婦、寄留の外国人は虐げられ、無実の人の血が流され、神ならざるものが崇拝される世の中。それは神さまの目には悪と映りました。

さて、エレミヤが主の言葉を語った人々は、「主を礼拝するために神殿の門を入って行くユダの人々」でした。エレミヤはその人々に向けて、「主の言葉を聞け」と訴え、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と主の言葉を告げます。
人々が荘厳で立派な神殿にお参りに行くようなことをいくら形式的に行ったとしても、神は喜ばれませんでした。神が望んでおられたのは、悔いて改める心、砕かれた霊でした。かつて先祖たちを滅びの国から導き出し神の民としてくださった主なる神への真の悔改めと感謝、その生きた交わりを神は待っておられたのです。いくら神殿に出入りしても、神の前に改まった人生の歩みにつながらないのならば、それは虚しいものでしかありません。
まあ人々はおまじないのように「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と言っていたようですが。この言葉はかつて先の預言者イザヤの時代、南ユダの国がバビロン帝国の王の進攻に遭い、町がことごとく占領され、最後に残ったエルサレムも包囲されるのですが。しかし神はその王の心を変えさせて、エルサレムとその神殿だけは残ったのですが。そのところから生まれた言葉でした。
南ユダの指導者はじめ民衆は、自分たちの神の前におけるふるまいを認めようともせず、もはや迷信のようにそれをただ唱えていたのです。偽預言者たちが「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と唱えればエルサレムは「神がおられ、神殿があるから我々も滅びることなどない」との不滅神話となったのです。
けれども、それは主なる神さまに対する信仰ではなく、神殿という建物に対する盲信でありました。神殿は神ではありません。よく「〇〇神社は〇〇のご利益がある」とか、最近は「〇〇パワースポット」とか言うそうですが。神殿が何か救いや平安を保証してくれるのではありません。 
その神殿が建てられた時ソロモン王はこう祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王記上8章27節)
神殿もこの私たちの教会堂も、それを神聖なものとされるのは神さまご自身です。神殿そのものを信仰の対象として神格化することは、神さまがお嫌いになられる偶像崇拝です。
それでも私たちが共に集まりますのは、主の日(日曜日)に礼拝を捧げ、水曜日には祈祷会で聖書を学び、祈り合う。神の前に信仰が確かなものとされ、共に主の救い、福音を喜び分かち合うためです。それは又、日常生活で心疲れ、重荷を抱えている中で霊的にガス欠にならないように魂に霊の油を給油する貴重な時であるからです。ただ「主の神殿」と唱えても、そのように神の前に出るのでなければそれは虚しいものです。

さて、この当時、礼拝するためにソロモンの神殿の門に入いることができる人たちは限られていました。預言者や祭司をはじめ、主にエルサレムの権力者や富裕層たちでした。
エレミヤは神殿の門をくぐることのできた人々に対してこう告げます。5-6節「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」
神は彼らに正義を求め、呼びかけておられたのです。
ところで主イエスは、「神殿から商人を追い出す」いわゆる「宮清め」と言われる記事(マタイ21章他)で、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしている」とあります。これは預言者イザヤ(56章7節)、そしてエレミヤが取り次いだ主の言葉(エレミヤ書7章11節)を用いて、主イエスは宮きよめをなさったのです。
神殿の境内には遠方から礼拝を捧げるために大変な旅をして来た巡礼者から、ささげ物などを高額な値段で売りつける商売人や両替商。場所代や出店の権利をまきあげる宮仕えがいました。主イエスは「わたしの父の家を強盗の巣にしている」とお叱りになり、その台をひっくり返し、神殿から彼らを追い出しました。この場面の主イエスの行動は実に激しく厳しいものでありました。
神殿は祈りの家、神の前に立ち帰って自らの行いを省み、悔改めとゆるしの宣言に与って、その感謝をもって御心に生きようと方向転換する、そのような場であることを明らかにされるのです。
先の5章の「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者が」と、主がエレミヤに問いかけた言葉を読みましたが。主の神殿の門をくぐる人たちに本当に求められていることは、彼らが目を覚まし、神に立ち返って不正や搾取をやめ、隣人愛をもって神の平和を追い求める生き方でした。しかしいくら神殿の門をくぐっても彼らの日常は不義に満ちていました。
ところで、神殿の時間と日常の生活とが切り離されている様子を「サンデークリスチャン」と言うそうですが。聖書の言葉を開くものの、その場限りに終わって日曜日の礼拝に出席していれば大丈夫、安心だ、という安全神話になりますと大変です。
大切なのは、主の救いを忘れることなく思い起こし、希望を戴き、感謝と喜びに与ることです。耳の痛い話でも心探られて立ち返って、御心に歩む人を神は喜び迎えて入れてくださいます。
逆に、教会堂から一歩外に出ると、もう神さまとの関りのない別の世界に切り替わってしまうのであれば、それは残念なことです。もしその行動が不正や暴力、又無慈悲なものであるのなら、もはや躓きでしかありません。争いを仕掛けながら人前で十字を切って見せるような指導者の映像がテレビで流れましたが。何よりも主なる神さまはすべてをご存じです。神を畏れ敬う人はその行いも自ずと正されるでしょう。

始めにも申しましたが、この南ユダの時代は大国の脅威にさらされながら、いつ滅ぼされるかわからないような危機に瀕していました。にもかかわらず、偽預言者らは「主の神殿」があるのだから大丈夫だとかたり、礼拝に来る人たちに偽りの平和を告げ、権力者や富裕層の人たちの不正や搾取に対して見て見ぬふりをしていました。
エレミヤは、真の神は義であり聖なるお方であられる、主に立ち返って生きなければ、滅びる」と御言葉をまっすぐに語りましたが、偽預言者たちは「平和、平安」と口にしました。それは一時は民を安心させたかも知れませんが、偽りに過ぎなかったので結局民は悔い改めることなく、結果的に滅びを招くことになります。又、神殿の祭司たちは状況を知りながら神殿参りに来る人々から奉納金を集め保身に走っていました。
偽預言者、祭司、神殿の門をくぐる指導者や裕福な人々は皆それぞれにもたれ合いながら、主の神殿を私利私欲、自分たちの保身の道具として利用していました。その状況をご覧になられた主なる神さまは、「わたし名によって呼ばれる神殿が強盗の巣窟に見える」と言われたのです。それは人から信仰もお金も平和もあらゆるものを奪う強盗という意味であります。どうしてそうなってしまったのでしょう。それは神を畏れ敬う心を忘れ去っていたからです。

本来の「主の名による神殿」とはどのようなところでしょうか。
それはユダの人々にとっても、又私たちにとりましても、悔い改め神に立ち返り、救いの確認を頂いて感謝と喜びに溢れ、神の御心に沿う御言葉を生きる場であります。先にも申しましたように、生ける主は人の造った建物に住まわれる方ではありません。それにも拘わらず神さまは、私たち人間と共にいる決断をされたのです。それが遂に救いの主、イエス・キリストを通して実現されたのです。
ヨハネ福音書1章にはこうあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」神の生ける言(ことば)。イエス・キリストが人の姿となって来てくださった。だれでもこの救いの主なる方を迎え入れるなら、その人は「神の神殿」(Ⅰコリント3章16節)なのです。神は御独り子イエスさまをお与えになるほどに、罪に滅ぶほかない私たちを愛されています。人はこの神の慈愛を迎え入れ立ち返って生きるところに、人本来の幸いと平和を得ることができるのです。罪に滅びることがないためです。

最後になりますが。エレミヤは神の裁きの言葉を臆することなく示し続けました。世間の人がどう思うか、どう人に見られるかではなく、主の言葉を聞き、誠実に御言葉を伝えたのです。キリスト者も又、人がどうとか、周囲がどうかではなく、主の言葉に聞き従って「これは本当だ」という主の御心を示す者とされているのであります。それは語ることだけに限ったことではありません。語る言葉の少ない方はそのしぐさや存在そのものを通して、「神が生きておられる」ことを示しておられるのです。いずれにせよ、主は私たちの存在を通してその主の御心を示し、表そうとなさっておられます。
主イエスは最も重要な掟についてこう仰せになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。」同じように「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22章他)この喜ばしい命の言葉をキリスト者として生きるようにと、招かれています。
今日、私たちも又、「主の言葉を聞け」と、エレミヤを通して主の語りかけを聞きました。実にこの主の言葉とは、神の救いの道イエス・キリストご自身であります。真の幸いに至るイエス・キリストの真理の道を歩んで魂に安らぎを得、本物の平和、シャロームの実現を共に待ち望み、祈り求めてまいりましょう。
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