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誕生と使命

2024-10-06 13:32:16 | メッセージ
礼拝宣教    エレミヤ1章1~12節 

本日から約2カ月に亘ってエレミヤ書から御言葉に聞いていきます。
まず、このエレミヤについてですが。彼が預言者として立てられ、活動した時期については1章1節から4節までに記されております。ヨシヤ王が南ユダを統治していた13年目の紀元前626年に彼は主の言葉によって預言者として立てられます。そのヨシヤ王の時代は神の教えと戒めが読み直されたいわゆる宗教改革によって平安と繁栄が保たれていました。ところがヨシヤの子ヨヤキム王の時代になると国民(くにたみ)は主の教えを忘れ逆らい、腐敗していくのです。そして、次のゼデキア王の時代には遂に南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされ、南ユダ王国、そして都エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされてしまうのです。エレミヤは捕囚の民となる紀元前586年までの実に40年間に亘り、そのような激動の時代を主の預言者として活動したのです。

この預言者エレミヤの召命については、いくつかの特徴的な面を見ることができます。
それは、まず4節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と記されていますように、エレミヤの預言者としての召命は、彼が自分からやりたくて求めたものではなく、又人から与えられたり、勧められたりしたものでもないということです。主ご自身が彼を召し出し、使命を与えた。しかもそれは、昨日今日決まったというものではなく、5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とありますように、エレミヤが生れる前からなんと主が計画なさり、預言者となるためにエレミヤは世に生れて来たのです。
詩編139編ダビデの詩にはこのような賛歌が記されています。
「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」
それはエレミヤだけではなく、私たち一人一人もまた、天地万物をお造りになられた主なる神さまが、母の胎内に私を造り、私のことを知ってくださり、ご計画をもって地上に送り出しておられるということです。
私たちがイエス・キリストのみ救いを信じ、新生の命に与ったことも、聖書には「神のご計画によって召された」とあります。「いや、私はそのような者ではない」とお思いになる方もいらっしゃるかも知れません。エレミヤもそうでした。
現代の社会において、多くの人が自分の存在意義を見出すことができず、苦しんでいるといえます。仕事や学問の成績が良いか悪いか。周囲の見た目や、地位や肩書き、お金があるかないか。そういうことで常に計り計られています。この社会ではそれらがあたかも人としての存在の意義であるかのように評されていることが、往々にしてあるのではないでしょうか。
聖書は私たちが存在している意義や価値をそうしたこの世の基準や評価によらず、創造主であられる神さまが母の胎内にいるときからあなたを造り、あなたのことを知っていてくださり、母の胎から産まれ出てからも、あなたと共にいて、この地上の人生を歩み行くものとしてくださるのです。
「青春の日々にこそ、おまえの創造主に心を留めよ。」あなたの若き日に、あなたの創造主を覚えよ」(コへレト12章)と聖書の言葉がありますが。まあ昔とは違うでしょうから70~80歳が青春であってよいわけです。大切なのは、今、この光のあるうちに光の中を歩むように、救いの神をほめたたえつつ、恵みに応えて生きる。その証しの日々に私たちが存在し、生かされている。これが良き知らせ、福音なのです。

主はエレミヤに、5節「わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と語られます。
「聖別する。」それは、特別な目的のために取りわけておくということです。エレミヤが清いとか、聖なる者であったからというのではなく、主がエレミヤを諸国民の預言者としてお立てになるために、主自らエレミヤをその使命のために聖別されたのです。

その主の言葉に対してエレミヤはこう答えます。
6節「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」エレミヤはためらい、自分には相応しくありませんと、何とか逃れようとするのです。ちなみにエレミヤは「若者に過ぎないので、語る言葉を知りません」とも言っていますが。彼は当時少なくとも20歳にはなっていただろうということですから、単に年齢的に若いということではありません。自分のような若輩者にはあまりにその使命は重く大きすぎるという恐れの思いがあったのでしょう。それはエレミヤより少し前の預言者イザヤも主の召命にあたり、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」と答えているのです。又、出エジプトのために立てられたモーセも、「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕に言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」とやはり答えました。
共通するのは、彼らが聖なる主への畏れを持つ人であったということです。又、その担うべきものがあまりに重く、自分の才能や能力によっては到底務めることなどできないという誠実さからくるものでありました。私なら出来と考えている人は、往々にして高慢と貪欲なために主がお用いになることができないのです。

さて、主はエレミヤに語りかけます。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」
主も引き下がりません。
ここで大切なのは、「主が共におられる」という確約、約束です。「主が共におられる」ことを頼みとし、杖としていく人を主はゆたかにお用いになられるのです。主はエレミヤを南ユダだけでなく、諸国民の預言者として立つよう任命されます。
そして主はエレミヤに「手を伸ばして、その口に触れ、『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける』と約束されます。主が必要な言葉を与え、共にいて必ず救い出す。そう仰せになります。
さて、そのエレミヤに思いもよらぬ主の言葉が臨みます。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸国王に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
預言者エレミヤの生きた時代は、シリアや南ユダを含むパレスチナ地方一体の支配権をめぐり、大国エジプトとバビロンが争う中におかれていました。南ユダはエジプトと安全保障同盟のような関係を結ぼうとしますが、それは神の御心ではありませんでした。神は国民(くにたみ)が立ち返って神に信頼するよう預言者を通して語りかけます。エレミヤはエジプトに頼ればバビロンの反感を買い南ユダの滅びに繋がると王と民に訴えるのです。何だか昨今の情勢にも重なる話のようですが。

しかし、南ユダの国民は聞き入れられるどころか、エレミヤは多くの民から売国奴のようにみなされるのです。それでもエレミヤは主の御言葉に立ち、屈することなく、「主に立ち帰れ、戦争のための同盟に加わるなら南ユダは滅びる」と、警告を強く語り続けるのです。次第にエレミヤに対する非難中傷が激化し、彼の兄弟や親戚にもその被害が及ぶような危機にさらされていきます。

それでもエレミヤは最後の最後まで南ユダの国民に向け、「主に立ち帰らなければ、この国は滅ぶ」と訴え続けましたが。南ユダの王はじめ民はエレミヤの語る主の言葉に聞き従うことはありませんでした。そうしてまさに紀元前586年、主の預言のとおり南ユダの国は陥落してしまうのです。
それは「滅び」としかいいようのないものでした。主の言葉を語った預言者エレミヤの働きは無意味であったのでしょうか。
エレミヤに臨んだ主の言葉をもう一度よく読んでみましょう。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
確かにエレミヤの語った主の言葉は南ユダの国で現実となり、抜かれ、壊され、滅ぼされ、破壊さ
れました。
しかし、ここに「建て、植えるために」と、あります。崩壊と滅びの中においても、エレミヤの蒔
いた主の言葉は虚しく無くなったのではなく、やがてその来たるべき時、滅亡を免れた残りの人々
の間に主の言葉は芽を吹き、南ユダの国のみならず、世界に実りをもたらしていくのです。その預
言通り長い時を経てエルサレムへの帰還と信仰復興による神殿再建の時が訪れるのです。

11節、主はエレミヤにアーモンド(シャーケード)の枝を指し示して語りかけます。
「エレミヤよ、何が見えるか。」そこにはまだ実りの無いアーモンドの枝だけがエレミヤの目に映ります。
そのアーモンドは枝だけで実りの気配すらありません。アーモンドの木は枯れたように見えるその枝に、ある日突然ピンクの花を一斉に咲かせ、実をつけるそうです。当時の腐敗し滅亡せざるを得なかった南ユダの状況は実りの無いアーモンドの枝のようでした。
しかし、崩壊と共に捕囚の民の厳しい冬を耐え忍んだアーモンドの木が春の訪れと共にその枝に一斉に花を咲かせ、やがてアーモンドの果実を豊かに実らせるように、エレミヤを通して蒔かれた神の約束の言葉は、長い捕囚の民の生活を支え、解放とエルサレム帰還を経て実を結んでいくのです。

主なる神さまは12節にあるとおり、これからエレミヤを通して語られる言葉が成し遂げられるように見張っている(ショーケード)とおっしゃるのです。アーモンドは「シャーケード」、見張っているは「ショーケード」と、どちらも似ていますが。何かニューモラスにも思えますが。アーモンドの実はアーモンドの形が「目」に似ていることから、目にたとえられてもいるそうです。人々が何と悪い時代だ、逆に良い時代だと思っていても、神は見ておられる、見張っておられるのです。南ユダの民は滅びてしまったかに見えました。しかし、エレミヤを通して語られた神の言葉はバビロンから南ユダの民を帰還させ、荒廃したユダの地を植えなおし、信仰の復興がなされるのです。
確かにエレミヤが語った主の言葉は実現いたします。
エレミヤは「涙の預言者」と称されていますように。その生涯は、主の言葉を伝えても同胞の民から拒絶され、行く末を案じては憂い、涙する日でありました。けれどその語った神の言葉はそのエレミヤ自身の名が表すとおり、「主が建てたもう」という復興の実現として結実したのです。希望の種、御言葉を蒔き続けたエレミヤの人生でありました。

最後になりますが、本日は「誕生と使命」という題をつけました。
この世に生まれたのならば、何かを世に遺して人生を終えたいと考える人は少なくないでしょう。内村鑑三氏は「後世への最大遺物」「デンマルク国の話す」(岩波文庫)という本が著され、世の多くの人に読まれ続けています。
それは、当時の若い人たちのみならず、万民にむけても語られている内容であるからです。世で起した業績、地位や名誉、財産を遺せる人は一部でしょうが。すべての人が後世へ残せるものについて内村氏は、「高尚なる生涯」だと語っています。

エレミヤにとっての後世への最大遺物は、彼が命をかけて主の言葉にどこまでも聞き、それを伝えつつ生きていったその神聖にして高尚な生涯でありました。しかし、後世の最大遺物それは、何もエレミヤ、内村氏に限ったことではなく、すべての人びとのうちに主が託しておられることなのです。
それは世に生まれた者誰もは、天から与えられた使命が与えられているのです。私たちひとり一人が何のために誕生し、今を生き、存在しているのかを、今日の聖書の言葉から思いめぐらしつつ、ここから歩みだしていきたいと思います。

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良きものに変え給う神

2024-09-29 13:11:12 | メッセージ
礼拝宣教 創世記50章15節~26節 

9月は創世記からヨセフ物語の記事を読んできましたが、本日はその最終回となります。
先ほど朗読された50章の箇所から、聖書のメッセージを聞いていきたいと思います。
その前におさらいですが。イスラエル12部族の父となったヤコブは、その子ヨセフを溺愛します。ヨセフは兄弟とその父母までもが、自分にひれ伏し拝する夢を見て兄弟に話したために、兄弟からひどくねたまれ、穴に投げ込まれエジプトに売り渡されてしまいます。
奴隷となり、濡れ衣を着せられて囚人となるヨセフでしたが、どんなときも主が共におられることをヨセフは知っていました。
同じく囚人となっている王の料理役と給仕役の夢を解き明かしたことから、エジプトの王ファラオの前に出ることとなり、王の夢を解き明かして神の啓示を示し、為すべき備えを助言したことから、
ヨセフは王の任命によりエジプトの大臣となるのです。後に飢饉が起こりカナンの地から兄弟が糧を求めて下ってきます。様々ないきさつはありましたがヨセフは身を明かし兄弟を許し、父や家族を呼び寄せてエジプト近郊に住むところを与えるのです。
17年ほど経った後ヤコブは子らを呼び寄せそれぞれを祝福し天に召されます。

「ゆるしの再確認」
父ヤコブが亡くなると、ヨセフはカナンの地に葬られることを願っていた父の遺言を実行します。エジプトのファラオの許可を得て、エジプトの主だった重臣たちすべてとヨセフ家族全員、そして彼の兄弟たち、さらに戦車も騎兵も共にカナンの地に上っていくのです。そして一行はヨルダン川の東側のゴレン・アタドの地に着くと、エジプト流の非常に荘厳な葬儀、七日間にわたる盛大な追悼式が行われました。
こうしてヤコブの息子たちは、父のなきがらをカナンの土地に運び、父が生前に命じていたとおりマクベラの畑の洞窟の洞穴に葬るのです。ヨセフは父を葬った後、カナンの地にのぼった兄弟たちはじめ、すべての人たちと共にエジプトに戻りました。

父が死ぬとヨセフの兄たちは、ヨセフが自分たちに報復するかも知れないと恐れます。若き日に弟ヨセフを亡き者にしようとしたおぞましい仕業を、はたして本当にゆるしているのだろうか、そう考え恐ろしくなったのでしょう。確かに先週の45章で、ヨセフは兄たちに身を明かし、すべては神の救いのご計画であったと言って彼らを抱いて泣き、兄弟たちに口づけをし、ともに語り合ったとあります。まあ兄たちにとっては、ヨセフに対してそれだけの事をしたのですから、やはり罪責感があったでしょうし、それに加え、父の葬儀の時にはエジプトをバックに絶大な権力を持つヨセフを目の当たりにし、今後何をされるか分からないと不安が生じたのでしょう。
そこで、兄たちはヨセフが報復しないよう策を講じます。彼らは「父がヨセフに兄たちの罪をゆるしてやるように願っていた」と、人を介してヨセフに伝えさせるのです。
しかし父が兄たちの罪を知っていたかははっきりしていませんし、口にすることなどできなかっただろうと思えます。ヨセフもおそらくそれを見抜いていたのではないでしょうか。ただ、これを聞いたヨセフは涙を流します。いまだに兄たちが自分への恐れを抱いていることを知って、悲しく寂しい思いになったのです。
やがて、兄たちがやって来ます。彼らはヨセフの前にひれ伏し、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と、ゆるしを乞うのです。
すると、ヨセフは兄たちに言います。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができるでしょうか。」
「わたしが神に代わることができるでしょうか。」兄たちと再会した時、ヨセフは「あなたたちを生き永えさせ、大いなる救いに至らせるため神がわたしをここへ遣わされた。わたしを遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」そう言って、もはや「悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」とゆるしの言葉をかけ、兄弟たちと抱擁しました。
ヨセフは神に代わって裁くことはできないとの思いに至っていたのです。

私たちの日常の生活においても、又この社会の出来事においても、時に憤り、それは一体どういうことだと怒り、人を裁くことがあります。けれど、すべてを知っているのは唯神のみ、神だけが全く正しい裁きをなすことがおできになるのです。
ヨセフの「わたしが神に代わることができるでしょうか。」この言葉は、神の前において人は真に謙虚にされ、柔和な者に創り変えられていくことを示しているのです。
兄たちはヨセフがエジプトの絶大な権威と力を保持する大臣であることにも脅威を感じましたが、
ヨセフは兄たちに「どうか恐れないでください」と、等身で語りかけています。上から目線ではなく自分も兄たちと同じ人間に過ぎないことをはっきり伝えるのです。

ヨセフはまた、兄たちにこう言います。20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
隠れた神の救いのご計画が、それらの出来事を通して実現されて来たのだと言うのです。
ヨセフは自分の見た夢を兄たちに話したことで、恨みと憎しみを兄たちから受け、その悪巧みによってエジプトに売られてしまい、本当に様々な労苦と辛い経験をしました。もしそうした事がなく彼が父のもとにいたなら、彼の若き日は平穏であったかも知れません。しかし彼は外に投げ出され幾多の試練とも言える出来事に翻弄されながらも、遂には神の救いの業が父ヤコブと兄弟、その家族らのうえに実現されていく経験をするのです。
ヨセフはこれまでの人生を振返るとき、それが決して偶然ではなく、悪しきことをも良きものに変えてくださる、まさに万事を益と変えてくださる神のご計画があることを知ります。その救の計画が成るためにどんなときもヨセフと共に神がお働きくださったことを、ヨセフは確認することができたのです。まさにすべては神が、多くの滅びゆく民の命を救われるためのものであったのです。

ヨセフの時代からずっと後の時代のこと、エジプトを出て神の民とされ国を築いたヤコブの子孫は繁栄のおごりから、バビロンに滅ぼされ捕囚の民となってしまいます。絶望する彼らに神は預言者エレミヤをお遣わしになります。
「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(29:10-11)
彼らはこの約束を握りしめ生きていくのです。主が共におられる。これが私たちの希望です。時に過酷とも思える状況に直面することがあるかも知れません。しかし「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心にとめている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」この主の壮大な救いのご計画に信頼してまいりましょう。


さて、本日のもう一つの記事は、「ヨセフの死」についてです。
その後、ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、110歳まで生きます。110歳はエジプト人の理想的な寿命であったようで、彼は3代の子孫を見ることができ、長寿を全うしました。その後ミイラにされてエジプトの地で埋葬されたようです。
ヨセフは死を前にして、まず、彼の兄弟たちに「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」という希望の言葉を伝えます。

さらに、ヨセフは兄弟の息子たちにこう言って誓わせました。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
そこは先にヤコブが葬られたカナン地方のマクベラの畑にある洞穴の墓地でした。ヨセフとその兄弟たちの子孫らはそのヨセフの遺言通り、後にヨセフの骨を携えてエジプトからカナンの嗣業の地へと上り(出エジプト記13:19)、かの墓地に埋骨するのです。(ヨシュア記24:32)
父ヤコブがそうであったように、ヨセフにとっても真の休息の場、魂の居場所はエジプトにではなく、神の嗣業の地、神の約束の地であったのです。言わば、エジプトの総理大臣にまで上りつめたヨセフでしたが、その人生の集大成として兄弟たちと共に、自分たちは何者であるのかを再確認するのです。「神は必ず、あなたたちを顧みてくださり、導き上られる。」
神のご計画はこれで終わりではなく、続いていくのです。それは確かなる祝福のメッセージであります。
その神のご計画の祝福は彼らの子孫を通して持ち運ばれ、遂にそこから神の救い、イエス・キリストがおいでになったのです。この主イエス・キリストの十字架の苦難とあがないの死によって、今やすべての人に罪のゆるしと神との和解という救いの道が開かれているのです。それだけではありません。主イエス・キリストが3日目に死人の中からよみがえられた、その復活によって、主を信じる人、それは又、先ほどの交読文において「慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。主は主を畏れる人を憐れんでくださる」とありましたように、主を畏れて生きる人に永久(とこしえ)までも共におられる永遠の命の福音、朽ちることのない天の故郷を備えていてくださるのであります。
ヨセフが兄弟たち、又兄弟たちの子孫に伝えた「神は必ずあなたたちを顧みてくださる。」神は必ず導き昇ってくださるというメッセージは、主イエス・キリストを通して時空を超えて今や世界の果てにまで告げ広められ、今日の私たちのもとにも届き実現されているのです。この朽ちることのない希望に感謝しつつ、私たちも受け継いだ福音を伝え、分かち合っていく者とされてまいりましょう。
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救いに通じる悔い改めと和解の言葉

2024-09-22 13:53:14 | メッセージ
礼拝宣教    創世記44章18節~45章8節

先週の41章はイスラエルの族長ヤコブの11番目の子ヨセフが兄たちに棄てられ、行き着いたエジプトの地でエジプトの王、ファラオの夢を解いた箇所でしたが。それは7年の大豊作後、7年の大飢饉が起こるという神の託宣であり、そのための対応まで王に助言します。そしてヨセフはエジプトの第二の地位である大臣に任命され、務めることになります。大飢饉はエジプトだけでなくカナン地方にも及びます。エジプトに穀物を買い求めに出かけた兄たちは、穀物を管理販売する監督、総理であったヨセフにお目通りが叶うのです。
彼らはヨセフにひれ伏しました。ヨセフは一目でそれが自分の兄たちであることに気づきますが、兄たちは気づきません。ヨセフはその時、かつて兄たちについて見た夢、「兄たちの束が集まって来て、わたしの束にひれふした」(37:7)ことを思い起こし、それが目の前で現実となっているのです。その時から20年もの年月が経過していました。
ところが、ヨセフはその兄たちに対して「他国のスパイだ」言って責め立てます。あせった兄たちは「自分たちが12人の兄弟で、カナン地方に父ヤコブの息子たちであり、末の弟は、今、父のもとにおります。スパイなどではありません」とヨセフに懸命に説明します。しかしヨセフはその兄たちを3日間監禁し、一人シメオンだけを人質にして、穀物を持たせて末の弟を連れて来るように命じます。それはヨセフにとって同じ母の子、弟ベニヤミンでありました。
さて、兄たちは食糧をもってカナンの地に戻り、父ヤコブに事の次第を伝えるのですが。ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを許しません。しかし、その後も飢饉は続いて兄たちは再び一家食糧をエジプトに求めるほかなくなり、ベニヤミンをエジプトに連れて行かなければならない事情を父ヤコブに話します。すると父ヤコブは「では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐みを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わなければならないのなら、失ってもよい」と、断腸の思いで答えます。こうして息子たちは贈り物と二倍の銀を用意し、ベニヤミンを連れてエジプトに旅立ちます。
彼らがエジプトに着くと、大臣ヨセフの前で地にひれ伏し、拝しました。ヨセフは以前ユダが話していた彼らの父について安否を尋ねてから、ベニヤミンをじっと見つめ、「わたしの子よ、神の恵みがお前にあるように」と言うと、弟懐かしさに胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったので、奥の部屋に入って泣きます。そして一同はぶどう酒を飲み、ヨセフとともに祝宴を楽しみました。
ところが、そのヨセフが兄たち一行に思いもよらない過酷な難題を仕掛けるのです。それが44章の「銀の杯」事件です。ヨセフは執事に「あの人たちの袋を、運べる限り多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋にもどしておけ、それから、わたしの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、食糧と一緒に入れておきなさい」と命じます。兄弟一行が発った後、ヨセフはその執事に、すぐに彼らの後を追いかけさせ、なぜ主人の銀の杯を盗んだのか、と言わせます。
兄たちは「どうしてご主人様の御厚意を戴いたわたしたちがそのようなことができるでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、ご主人様の奴隷になります。」と言うのですが、ベニヤミンの袋の中からその銀の杯が見つかります。彼らは衣を引き裂き、悲嘆に暮れながら町へ引き返し、ヨセフの前で地にひれ伏します。        
ヨセフが「お前たちの仕業は何事か」と問いただすと、ユダが答えます。「何と申し開きできましょう。今さらどう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」
それに対してヨセフは「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」と言うのです。

そこからが本日読まれた44章18節以降の箇所であります。
これまでヨセフの物語を読んでまいりましたが、その展開のすべては、今日のこの「ユダの嘆願」と、それに呼応する「ヨセフの言葉」に向けられるためにあったと言っても過言ではないでしょう。
ユダがここでヨセフの前に進み出て、18節「僕の申し上げますことに耳を傾けてください」の「申し上げます」はヘブライ語で「ダバール」という原語で、「宣言する」という意味をもちます。
創世記の天地創造の折、神が光あれ、~あれと「宣言」されると、そのとおりになった。それと同じ意味です。
ユダは私がこの様なことを行った、それゆえにこの様なことになっているのだ、と言うのですが。ただそれだけなら原因と結果という因果応報です。けれど聖書は、これらすべてが神の宣言のもと成っているのだ、と示しているのです。はじめにヨセフが夢で示されたように兄弟がヨセフにひれ伏している様子も、そこから起こされていく救いの出来事も、この神の宣言のもと、そのとおりに成っている、と聖書は伝えているのです。

ところで、ここでユダの置かれている状況は、20年前と全く同じです。当時17歳のヨセフが兄たちからあの荒れ野の深い穴へ落とされ、ヨセフの人生は大きく変えられてしまいました。それはヨセフを溺愛する父ヤコブの人生もそうでした。
それから20年後、今度はヨセフと同じ母から生まれた弟ベニヤミンの人生が、ユダら兄たちの手に握られているのです。ユダらはあの時のヨセフ同様、ベニヤミンを見捨てて父のいるカナン地方に帰ることも出来ました。20年前に自分たちが犯したことと同じように、帰って父に「弟はやむを得ない事情で失われました」と言うこともできたのです。このようにユダら兄たちは、20年前と同じ立場に再び立たされるのです。
しかしユダは以前とは違っていました。彼はヨセフに言います。30節「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところに帰れば、父の魂はこの子と堅く結ばれていますから、この子のいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府(よみ)に下らせることになるのです。」
ユダは、父ヤコブが以前愛するヨセフを失ない、その嘆き悲しむ様子を目の当たりにして大変心責められたことでしょう。父ヤコブは今、末息子ベニヤミンを慰めとしており、そのベニヤミンまで失うとなればどうなることか。「二度と父を悲しませてはならない」と苦悩します。そして彼は「ベニヤミンの代わりに自分が奴隷になります」とまでヨセフに申し出るのです。あの20年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのは、このユダ本人でした。その彼が今、ベニヤミンの身代わりになって自分が奴隷になると決意するのです。何が彼をそこまで変えたのでしょうか?
それは「悔い改め」です。ユダは20年前に弟ヨセフに対して犯した罪、その重荷を背負い続けてきました。彼は心から神さまの前で悔い改めていたのです。
このユダの変化は単なる状況の変化とか自然に起ったことではありません。年をとって少しは分別がついた、などということでもありません。人間の本質はそんなに簡単に変わるものではありません。罪ある人間が、それまでとは違う言葉を語り、それまでとは違う人間性、又人間関係を築いていくことができるとするなら、それは神の前に立ち返る、そのことによってなのです。それは単なる後悔ではありません。神に向き直り、本心から神に立ち返って新しく歩み始めることです。
本日の礼拝の招詞として先にコリント二7章10節が読まれました。
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
ユダはまさに、この「神の御心に適った悲しみ、救いに通じる悔い改め、回心を経験するのです。

さて、このユダの言葉を聞いたヨセフは、父の家のことを思い出したことでしょう。兄弟、又父母らが自分にひれ伏す夢を見たこと。それを口にしたため兄たちに棄てられたこと。そして兄たちの神の前における悔い改めの思い。ヨセフは神の摂理ともいえる出来事に「心が震える思いでもはや平静を装っていることができなくなり」、兄たちに2節「自分の身を明かし、声をあげて泣いた」とあります。
ヨセフは兄たちがかつて犯した罪の負い目、その痛みと苦しみから解放されずにそれを負い続けていること。又、父や弟をもう二度と悲しませ、辛い思いをさせるようなことはできないというユダの願いに心打たれたのでしょう。そして遂に、ヨセフは兄たちに「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と、自分の身を明かにしました。彼は単に「弟のヨセフです」というのではなく、「あなたたちがエジプトへ売ったヨセフです」と名乗りました。そのうえで自分の身に起こったことを口にします。
これはヨセフにとっては動かしようのない事実でした。ヨセフもまた20年前に受けた事実を忘れることはありませんでした。両者にとってそれは決してうやむやにできることではなかったのです。

新約聖書には、イエスさまが「あなたの敵を愛しなさい」とおっしゃっていますが。私たちはたとえ血のつながった家族や、又兄弟同士であっても、こんなことをされた、あんなことを言われたなどと、なかなか許すことができないことがあります。また些細なことに目くじらを立て、そのことに振り回されることの方が多い者でもあります。人のもつ憎しみや恨みとは恐いもので、10年経っても、20年経っても忘れないで、とうとう墓場までもっていくということもあるわけです。ヨセフにとっても、無かったことになどできやしなかったのです。
しかし、ヨセフは兄たちに対して、5節「今は、わたしをここへ売ったことを悔んだり、責め合ったりする必要はありません。」と、救い、ゆるしの言葉を語るのです。

ヨセフは自分がエジプトに売り飛ばされたことを「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった」「神が大いなる救いに至らせるためであった」「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と、自分の苦労や身に起こった試練は、すべて「神」からの出来事だと、確信をもって語るのです。
あの兄たちに穴に投げ入れられ、エジプトに売り飛ばされ、濡れ衣を着せられ、牢屋に入れられたことで不思議にもファラオの夢を解き明かしてエジプトの大臣になったこと。さらに、このようなかたちで20年も遠く離れて生活していた兄たちと再会して、その悔い改めの思いを聞いたこと。
それらすべては「神のご計画」であったというのです。そしてこの神のご計画の目的は、ヨセフの言葉によれば、5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先に遣わされた。」7節「この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるため」であった、と言うのです。これこそヨセフの口を通して語られた宣言、ダバール。神が夢をもって示されていたことが、このような出来事となったという宣言です。
このヨセフの言葉は、兄たちへの単なるゆるしや労わりの言葉ではありません。それはまさに、「神」がヨセフを通して「兄たちの命が救われ、兄たちに神との和解をもたらされ、後の世代に神の祝福、大いなる救いを得させるようになさる」、神のご計画とそのお働きを物語るものだったのです。

私たちもまた、あらゆる出来事や人間関係の中に、これは神さまとしか言いようのないご計画やお働きに気づかされることがあるのではないでしょうか。それを今日のヨセフの物語から聞くことが出来ます。命を救う神は、ヨセフを通してその父母、兄弟たちに、生きるための糧をお与えになりました。又、エジプトの周辺諸国もその糧に与ることになります。人間は食糧によって生きます。けれども、申命記には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主(神)の口から出るすべての言葉によって生きるのである。」(申命記8:4)とあります。神の口から出る命のパン、神の言葉によって人は真に生きることができるのです。
その命の糧、生ける御言葉は人となって世に現れ、私たちのもとにお出でくださいました。すべての人の救い、主イエス・キリストです。主は地上において苦難を受けられましたが、死に勝利されてよみがえられ、全世界のメシヤ、救い主となられたのです。

神は罪や恨み憎しみに滅びゆくわたしたち人間を、二コリント5章19節「キリストによって御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられているのです。」
本日は宣教題を「救いに通じる悔い改めと和解の言葉」とつけました。神のご計画の中で、兄ユダの救いに通じる悔い改めとヨセフの和解の言葉によりもたらされた救いと平和、シャローム。それは今や、主イエス・キリストを通して、私たち、この世界にダバール、宣言されています。
私たちもまた、主なる神さまの呼びかけに聞き、応えて生きる、救いと平和の道を主と共に歩みゆく者とされてまいりましょう。
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神を待ち望む人に備えられた計画

2024-09-15 12:52:46 | メッセージ
礼拝宣教 創世記41章1-57節  

先週の37章後、ヨセフはエジプトの地でファラオの宮廷の侍従長であったポティファルの奴隷となります。ヨセフはその家と主人に忠実に仕えました。ポティファルはヨセフに目をかけ、身近に仕えさせるだけでなく、家の管理やすべての財産をヨセフに任せました。それはヨセフに能力があったからだと書かれていません。ポティファルは「主がヨセフと共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計られるのを見たからだ」と書かれています。
そんなヨセフにまた大きな試練が訪れます。39章ですが。「顔も美しく、体つきも優れていた」ヨセフをポティファルの妻が自分の意のままにしようと執拗に誘惑するのです。ヨセフは「どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」と、拒否しました。
ポティファルの妻のゆがんだ愛は恨みとなり、彼女は家の者たちを呼び寄せて「わたしはあのヘブライ人からいたずらをされた。わたしが大声で叫んだのを聞いて、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました」と、ヨセフに濡れ衣を着せるのです。それを聞いたポティファルは妻の言葉を鵜呑みに信じ、ヨセフは収監される事態になるのです。

その後ヨセフが収監されていた牢獄に、エジプトの王ファラオに対して過ちを犯したとされる給仕役と料理役が入ってきます。40章ですが。給仕役と料理役は牢獄で同じ夜に不思議な夢を見て、何のことかと悩むのです。そこでヨセフが解き明かすことになります。それは給仕役には解放の知らせ、料理役には厳しい裁きの知らせでした。
ヨセフは解放されるであろうことを知らせた給仕役に、「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取りはからってください」と約束を取りつけます。その3日後、給仕役はヨセフの解き明かしたとおり無罪放免となり、元の職務に復帰が叶います。ところが給仕役はヨセフのことをすっかり忘れてしまうのです。

それから2年経ったある日、エジプトの王「ファラオは夢を見た」のです。それが41章です。
ファラオはこの夢のことでひどく心が騒ぎました。彼はエジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めて自分の夢を話しますが、だれも解き明かすことができません。
そうした時、ファラオの夢のことを知ったあの給仕役がすっかり忘れていたヨセフのことを思い出します。
彼はファラオに、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフのことを話しました。こうしてヨセフはエジプトの王、ファラオの前に出ることになります。
ファラオはヨセフに、「わたしは夢を見たが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と尋ねると、ヨセフは41章16節「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と、そう答えます。
投獄された奴隷のヨセフはエジプト最高の権力者ファラオに向け、絶対的権威者の「神がファラオの幸いについて告げる」と、臆することなく告げるのです。
ちなみに、この「幸い」と訳されている原語はヘブライ語で「シャローム」(平安・平和)であります。それはファラオ自身が抱えていた大きな不安や恐れ、激しい苦痛の解決が「神」によって明らかにされる、神がファラオの平安について告げられる、ということです。
ヨセフがこのようにファラオを前に堂々と言うことができたのは、彼自身が幾多の苦境を経験しても、なお共におられる神を待ち望み、共におられる神に依り頼んでいく人であったからでありましょう。どんなときにも神がヨセフのシャローム、平和・平安であったからです。だから、たとえ王であるファラオに対しても、神の幸い、シャロームを大胆に告げることが出来たのでありましょう。

さて、そうしてヨセフはファラオの見た2つの夢について、それは間もなく神がそれを実行されようとしておられる事をファラオに伝えます。
「7頭のよく育った雌牛と7つのよく実った穂は、7年の大豊作を意味し、7頭のやせた、醜い雌牛と東風で干からびた7つの穂は、7年間の飢饉を意味します。その後の7年続くその飢饉はひどいものであるため、最初の7年の大豊作のことを思い出せないほど、全く忘れてしまうものだ」と、解き明かします。ちなみに、エジプト南部で発見された文献には、BC2600年頃に数年間の豊作があった後、7年間の飢饉が訪れたという記録が実際に残っているとのことです。
けれど、ヨセフの夢解きは、それだけで終わりません。
ヨセフはファラオに、「これらすべては神がすでに決定しておられること」「神がこれからなさろうとしている」事であると、実に3度に亘って告げています。
それはつまり、神が必ずなさるのだから、ファラオもなすべきことをなさなければならない、ということを言わんとしているのです。具体的には41章34節以降にあるとおり、「豊作の7年の間、エジプトの国の産物の5分の1を徴収し、備蓄として保管すること」でした。それがやがて訪れる7年の飢饉によって国が滅びることがない手立てになるというのです。
ヨセフは王であるファラオにその夢の解釈だけでなく、エジプトの国の危機的な状況を前にして、知らせておられるシャローム、平安を語ったのです。たとえ大飢饉が訪れたとしても、それに対応した生き方、備えによって、国難を救うことができる道が用意されている。そのような幸いの道、シャロームの道を、神はヨセフを通して示されているのです。さらに、この事がエジプト周辺諸国の人たちにとっても食糧の備蓄拠点となり、エジプトだけでなくその周辺諸国に住む人々をも飢餓から救うことになっていくのです。

さて、ここからが先ほど読んでいただいた箇所ですが。これらのヨセフの言葉に、「ファラオの家来たちは皆、感心した」とあります。そしてファラオはヨセフを「神の霊が宿っている人」と呼びます。その霊とは、天地万物の創造をなさった「神」の霊であります。さらにフェラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人がほかにあるだろうか」「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう」と言っています。
それは実に当時のすべてのエジプト人がひっくり返るような発言なのです。なぜならエジプトは太陽神や月を崇拝しているのに、ここでファラオが口にした「神」は、聖書の天地万物の創造主の神です。ファラオはヨセフのうちにお働きになる万物を統べおさめたもう神の霊を見たのでありましょう。
新約聖書のヨハネ福音書19章には、イエスさまが十字架に磔にされるにあたり、ローマの総督ポンテオピラトから尋問を受ける記事がありますが。
そこでピラトはイエスさまに、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言います。それに対してイエスさまは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、堂々とお答えになられるのです。
ピラトは「自分が権限をもっているのだぞ」と言うわけですが、イエスさまは「その権限は神がお与えになったものであって、そうじゃなかったなら、このことに対して何の権限もない」とおっしゃっているのです。ピラトにせよファラオにせよ、地上の王や統治者は、すべての権威は天地創造の万物を統べ治めたもう主なる神にあるということを知らなければならないのです。地上のすべての国々の為政者、指導者がこの天地万物の創造したもう神を知り、神への畏れをもってその職務にあたることができますようにと、祈ります。

さて、ファラオはそのヨセフの提案に基づき、聡明で知恵あるヨセフをエジプト全土を治める指導者として立て、彼に自分の指輪をはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをかけます。そして、自分の第2の車に乗せて、民を彼の前で敬礼させるのです。
ファラオはさらに、ヨセフにツァフェナト・パネアというエジプト名を与え、オンの祭司ポティ・ファラの娘アセナトを妻として与えた、とあります。
この時、ヨセフは30歳であったといいますから、つまりエジプトに売られてから13年もの歳月が流れていたのです。彼はその間、奴隷として、囚人として辛く過酷な時をずっと過ごしてきました。しかし遂には、エジプト全土を治めるいわばエジプトの王に次ぐ総理大臣(首相)という地位に就くのであります。一方で、ヨセフはエジプトの名に改名され、エジプト人として生きていくことになるのです。イスラエル(ヤコブ)の子であったヨセフの心にはきっと複雑な思いが交差していたことでしょう。
まず、エジプトの総理大臣の高位に就いたヨセフが最初になしたことは、エジプト中の町々を自ら足を運んで廻ることでした。そうして豊作の7年の間、エジプトの国中の食糧をできるかぎり町々に蓄えさせます。
49節「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」と書かれています。そのように、ヨセフがファラオに提案したとおりのことが7年にも及ぶ政策実践に移した中で整えられていくのです。
私たちもまた、人生、その生活の中でビジョンを与えられることがあるでしょう。又、それが夢であれ、困難に対する克服であれ、祈りのリストを作って、祈り求めながら、主に望みをおきながら日々生活していくことは大事です。そのように神のシャロームに与る者とされたいですね。

ところで、聖書は「飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた」と記しています。
長男の名はマナセで、ヘブライ語で「忘れさせる」という意味をもつ名です。「神がわたしの苦労と父の家でのことをすべて忘れさせてくださった」ということを表わす名です。         
これは、ヨセフが兄たちの恨みと憎しみを買って苦しんだ事、それが元でエジプトに売られて奴隷の身となった事、ぬれ衣を着せられ囚人の身とされた事、その13年にも及ぶすべての苦しみや辛さを「神は忘れ去らせてくださった」と、万感の思いを込めて最初の子を「マナセ」と名付けたのですね。
ヨセフは次男の名はエフライムと名付けます。ヘブライ語で「増やす」という意味があります。    
「神はこの異教の地、苦しみの地において子孫を増し加えて下さった」と、神をほめたたえているのです。
注目すべきは、ヨセフが二人の息子の名前をエジプト名ではなく、ヘブライ語名にしたということです。それは信仰の父祖アブラハム、そしてイサク、さらに父ヤコブ、すなわちイスラエルの神の祝福を受け継ぐ者としての信仰をエジプトにおいてしっかり保っていたことを表わしています。
それは決して忘れるわけにはいかないヨセフのアイデンティティー、存在意義といえるものだからです。辛い過去を忘れさせてくれる新しい人生。しかしその一方で、決して忘れてはいけない主なる神の祝福を受けている者としてのアイデンティティー。それを2人の子の名に読みとることがで
きます。
興味深いのは、そのマナセとエフライムの母親はエジプト人であり、それもエジプトの太陽神の祭司オンの家系であったということです。異邦の国の神々は、天地万物の創造主のご支配の下にあります。異教の国と民も又、この主なる神のものであり、御手のうちにおかれているのです。

さて、ヨセフが解き明かした通り、7年の豊作が終ると7年の飢饉が起りました。それはエジプトの国はもとより、周辺のすべての国にまで及ぶ非常に大規模で深刻なものとなり、ヨセフの故郷であるヤコブの家族たちが住むカナンの地にまで、その飢饉は及びます。
豊作時に蓄えられていた食糧庫は開放されてエジプトの人々はひどい飢饉から守られます。それだけではなく、エジプト周辺諸国、中東諸国からも人々が穀物を買いにエジプトにやって来るようになるのです。
神さまからの夢による啓示と解き明かし、聡明さと知恵による働きによって、豊作の7年の間に計画的に食糧を豊かに備蓄していたことが、こうした大規模な災害といえる飢饉の時に、ゆたかに活かされることになるのです。しかしこれらすべては、38節、ファラオ自ら語っているように「神の霊」のなせる業なのです。

ひるがえって、わが国の穀物自給率について5年前に発表されたデータによりますと、過去最低の37%ということでした。最低の自給率でした。残り63%は輸入に依存することでまかなうことができているということであります。現在(38%)もほぼ変らない状況であります
世界各地で温暖化、気候変動による集中豪雨、山火事、巨大台風などの様々な災害が多発しています。日本においても、計画的に農業を保護していかなければ、農産物を育てる土壌もやせ細り、後継者も育たず、日本の食糧の生産量もその倉もやがて朽ちていき、貿易さえできなくなるような事態が生じたら、私たちの食生活に大きな支障をきたし、ひいては死活問題となり得ます。漁業や畜産業においても同様でありましょう。自然災害が頻繁に起っている今日の時代において、神がお造りになった自然、いのち、人としての営みが、平安で、平和であり続けるために必要な対策と計画的実行が、急務であるといえます。
「神の霊」なるお方の計らいと働きを祈り、神を畏れ、共に生きる道を進んでいくようにと、聖書は私たちに語りかけています。

本日は「神を待ち望む人に備えられた計画」と題をつけました。
ヨセフは政治的指導者としてたけていたことが読み取れます。しかしヨセフがそのように行動できたのは、彼のうちに「神の霊」が宿っていたからです。それは彼がいつもどのような時も、神を待ち望む人として、神を畏れ、信頼と望みをもって生きていたからです。そこに備えられた神のご計画が実現されていくのです。
私たちも又、すべてを司っておられる神のご計画の中で、神に望みをおき、神に用いられ、生かされていく人生を歩んでまいりたいものです。
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ヤコブの深い嘆きの中に

2024-09-08 14:14:23 | メッセージ
礼拝宣教   創世記37章1-36節 

今月はヨセフ物語を読んでいく予定です。このヨセフ物語は創世記の37章~50章迄を占め文学的にも大変優れております。本日の1章には「ヤコブの家族」にまつわる出来事が記されています。
ヤコブにはレアとラケルの2人の妻がおりました。レアとの間に、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンの5人の息子が与えられました。一方のラケルは子どもができなくて召使いであったジルバをヤコブに与えて、ガドとナフタリの2人の息子を得ます。レアも負けん気が強かったのか、召使いのビルハをヤコブに与えて、ダンとナフタリをさらに得ます。そして、子どもができなかったラケルはヤコブの間に待望の男の子ヨセフが生まれ、さらに高齢になったラケルはベニヤミンを産むのです。
ヤコブは年寄り子でラケルの初めての子ヨセフを溺愛します。上の兄たちとヨセフとの年齢はずいぶん離れていたかが想像できます。よほど可愛かったのでしょう。ヨセフにだけ「袖の長い晴れ着を作ってやった」のです。
兄たちにしてみれば、「自分たちはお父さんの羊の世話をするためにぼろ着しかつけていないのに、なんでまだ働きもしないこの弟だけはこんな立派な着物なんだ」と不満をいいたくなるのもわかる気がします。その根底には家庭環境の中で、兄たちそれぞれが「もっと自分を認めてほしい。私のこともちゃんと見てほしい」という父の愛情への渇きがあったのでありましょう。不満を持ち苦悩する兄たちは素直になれず、弟を強く妬んだのです。信仰の祖である家族でさえそうだったのです。

私たちも人の好き嫌いはあるでしょう。又、力関係が働くこともあるでしょう。相性が良い悪いもあるでしょう。ただそういう時、感情に流されるまま悪く言ったり、それがどういう影響を与えるかお構いなしの言動をしてしまうと、関係は崩れてしまいます。やはりそこに相手の気持ちを思いやる想像力ってほんとうに大切です。家庭であれ職場であれ、教会でありましても、互いのことを思いやり、互いを尊重し、足を洗い合う気持ちで接していくようにと招かれています。

さて、ヨセフの兄たちは不満を直接父に向けるのではなく、ヨセフに向かいうらみしました。父に訴える勇気がなかったのか分かりませんが。そういった兄たちのもやもやとした気持ちをさらに炎上させたのは、ヨセフ自身でもありました。
それはヨセフが兄たちに天真爛漫に語った2つの夢です。
7節「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」
それを聞いた兄たちはヨセフに、「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するのか」と言って、夢とその言葉のためにヨセフを激しく憎むのです。兄たちのねたみと憎しみは、遂に殺意にまでエスカレートします。「ねたみ」は、人をうらやむ、うらやましく思うことから生じます。それがエスカレートすると殺意にまで及ぶのです。恐ろしい事です。

ヨセフは又、別の夢を見て、9節「太陽と月と11の星がわたしにひれ伏した」と言います。
それは、ヨセフの父ヤコブと母ラケルまでもがヨセフを拝むというものでした。これには父ヤコブも「一体どういうことだ、お前が見た夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」と、ヨセフをいさめます。いくら溺愛の息子でも自分を拝まれる対象にするなど許されることではなかったからです。
その上で、聖書は「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた」(11節)と、伝えるのです。
この「心に留める」と同様のことが新約聖書にも出てまいります。クリスマスのキリスト誕生の折、天使のお告げを受けた羊飼いたちがベツレヘムの家畜小屋を訪れますが。(ルカ2章)羊飼いたちはそれを人々に知らせると、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。この「心に納めて、思い巡らした」が、ヤコブがヨセフの言葉を「心に留めた」という事と同じ意味なのです。
それは、今すべてそのまま受けとめる事ができなくても、何度も繰り返し重ねて思う。牛が一度口に入れた牧草を胃袋に入れてはまた口に戻して、それを何度も繰り返し反芻(はんすう)して体内に摂り入れていくように。ヤコブもまたマリア同様、神のご計画とお働きと思われる出来事やその言葉を心に留め、反芻していくのであります。
この事は私たちの信仰にも大事なことです。週ごとの礼拝の宣教の言葉や祈祷会でみ言葉に聴き、学び、又、一日一日の聖書日課のみ言葉と黙想、祈りを通して、主が語りかけて下さいます。それを何度も反芻するように心に留め、思い巡らしていく。その時にはわからなくとも、やがてそのみ言葉を体験的に知って、主が生きておられることが確信できるように導かれます。
ヘブライ書11章1節以降に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められたのです」とありますように、今を生きる私たちも、信仰におけるこうした確信と確信を得、日々を保っていきましょう。

さて、その父ヤコブですが。ヨセフに「シケムで羊の群を飼っている兄たちのところへお前を遣わしたいのだが」ともちかけます。まあヘブロンの谷からシケムまでは北に77キロもあり、山や坂、谷などあり、険しく危険な道でもあったようですが。ヨセフは「はい、わかりました」とすぐに承知します。ヨセフにとっては親子関係、兄弟関係は何のわだかまりもなかったようです。
次いでヤコブも、「では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか」と言うのですが。その言葉からも、ヤコブが他の兄息子たちのことを心にかけ、大切に思っていた様子が伝わってきます。ヤコブは確かにヨセフを可愛がっていましたが、どの子も大切なこどもに違いなかったのです。

ちなみにこの「無事かどうかを見届けて」の「無事」は、シャローム(平和・平安)という言葉が用いられています。普通なら安全か、何事もないかを尋ねるでしょうが。ヤコブは「兄弟たちが平和であるか。お互い平安であるか。」それを心にかけ、見とどけて様子を知らせてほしいと言うのです。
先にも申しましたように、ヤコブの家族関係は2人の妻とそれぞれのそばめ2人、そしてその子どもたちというのでありますから、彼らが成長してからことさら父ヤコブは家族の平和、兄弟間のシャロームを心から願っていたということでしょう。
ヨセフは父の思いをくみ、自らも兄たちとの平和・平安を願いつつ出かけて行きます。こうしてヨセフは長く険しい道のりを経て、兄たちがいるシケムに辿り着きます。しかし、ヨセフは兄たちがドタンに行こうといっていた事を人から聞くと、さらに北に25キロも先のドタンの地に向います。
一方、「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めます。」(18節)
彼らは父やヨセフの思いも知らず、近づいて来るヨセフを何と、殺してしまおうとたくらみ相談するのです。いや、恐ろしいですね。妬みがうらみ、さらに憎悪となり、のけ者扱いが遂に殺意にまで及んでしまうのです。
しかし、長男のルベンだけはヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったようです。彼は「命まで取るのはよそう」(21節)「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない」(22節)と弟たちに訴え、ヨセフは殺されることはなく、命だけは守られるのです。けれども、兄たちはヨセフが着ていた裾の長い晴れ着をはぎ取り、捕えてヨセフを荒れ野の穴に投げ込みました。
そこへ荒れ野を通りかかったミディアン人がヨセフを穴から引き上げると、そこを通りかかったイシュマエル人に銀20枚で売り、ヨセフはイシュマエル人にエジプトへ連れていかれてしまうのです。
この空の穴の第1発見者は長男のルベンでした。早くヨセフを穴から助け出して父のもとへ帰そうと考えて走って行ったのでしょうか。しかしそこにヨセフはいません。相当なショックを受けた彼は「自分の衣を引き裂く」ほど嘆くのです。
そうして途方に暮れたルベンが他の兄弟たちにこのことを伝えるのですが、他の兄弟の反応は冷ややかでルベンとは違いました。彼らはその時にもヨセフが自分たちの目の前からもはやいなくなり、父からも切り離されてしまえばよいと思っていたのです。
人はだれしも自分の存在を肯定してくれる人を必要としています。その始まりは親的な存在であるでしょう。私は少年期に両親の離婚を経験し、母親の手によって育てられました。その頃の自分の心はどこか空洞のようになり、荒れ果てていました。近所の悪がきグループに入り万引きを繰返したりもしました。そんな時でした。ある一人の同級生と草野球のかけをして負けてしまい、連れていかれたのが近所の教会の日曜学校でした。小学校4年の時でした。その後中高生時代は少年少女会に参加するようになり教会の友だち、親友もできました。又、教会の方々もそんな私を温かく迎えてくださいました。いつの間にかキリストの教会が空しい私の心を満たしてくれる居場所・家族になっていったのです。そして高校1年の時に主イエスを信じ、バプテスマを受け、喜びと平安に与かりました。もしあの少年時代の出会がなかったなら、ほんとうに自分はどうなっていたのだろうと思います。

聖書に戻りますが。
31節「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、『これをみつけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください』と言わせた。」
その間長男のルベンは責任を感じて茫然自失になっていたのでしょうか。どうしてイシマエル人の商人の一団を追跡してヨセフを取り戻す行動がとれなかったのか。また、何とか他の兄弟たちの行為を思いとどまらせ、正直に父ヤコブにヨセフが売られていったことを話すことができなかったのか、とも思いますが。ルベンは自分たちがヨセフになしたことを、洗いざらい父に明らかにしなければならないと思うと、恐れが先立ってしまったのでしょうか。他の9人の弟たちの行為を黙認する外なかったのです。
彼は結局、父ヤコブのもとに雄山羊の血のついたヨセフの晴れ着を届けさせた責めを、ずっと負っていくことになるのです。

33節「父は、それを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。『ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。』父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」
息子ヨセフを亡くしたヤコブの落胆と嘆きは、あまりにも深く誰の慰めも寄せつけません。兄息子たちは、ヨセフを排除することで父の愛を自分たちに引き寄せようと結託しました。「ヨセフは野獣に殺された。もういないんだ。」そのように見せかけたのも、父の愛をヨセフから自分たちに向けさせるためでした。彼らは「今こそ悲しみ心痛める父ヤコブを自分たちが慰めて、父からの愛を得よう。」そう考えたのではないでしょうか。が、しかし兄息子たちの偽りの慰めは何ら父の心には届かず、そのもくろみは完全に失敗します。それは、ただ父ヤコブを絶望と悲しみのどん底へ突き落とす結果にしかならなかったのです。
ヨセフの兄たちは確かにヨセフに直接手をかけて殺害したわけではありません。けれどそれはヨセフを見殺しにしたも同然でした。父に対して正直に「ヨセフが商人の一団に連れていかれた」と一言打ち明けていたなら、父が悲しむことはあっても、まだ父は希望がもてたはずです。しかし、兄息子たちは「ヨセフが死んだ」と思いこませ、父の心まで死ぬほどに苦しませたのです。
先に申しましたように、父ヤコブがヨセフを兄たちのもとに送ったのは、家族のシャローム、平和、そして和解のためでした。ヨセフもまた、その父の思いを受けて兄たちのもとを自ら進んで訪ねて行ったのです。けれど兄たちはそれを理解できず、反ってヨセフを憎しみ、亡き者にしようとしたのです。
注目すべきことに13節には、父ヤコブの名が「イスラエル」の名で記されています。それは神から受けた祝福の名です。その子らもイスラエルの12部族の祖となっていくのです。ヤコブはその家族のシャローム、平和、平安だけでなく、後々受け継がれてゆくであろう12部族のシャローム、平和、平安の願いでもあることをここで伺い知ることができます。
そして新約の時代に時至って、神は12部族を超え、地上のすべての人々の平和と和解、シャロームを実現するために、独り子イエス・キリストを救い主としてこの世界にお遣わしになりました。
そのイエス・キリストは、罪を認めようとせず、うそ偽りで塗り固め、自己正当化する人間の罪によって妬みを受け、殺されてしまうのです。けれど不思議にも、そのイエス・キリストの十字架を通してすべての人の罪はあがなわれ、神さまとの和解と平和、救い、シャロームの道が拓かれていったのです。
ヨセフの兄たちもまた不思議にも、ヨセフの受難を通して最後には罪の滅びから救われ、ヨセフ、そして父ヤコブとの真の和解と平和に与ることになります。ヨセフ物語は全世界に向けた神の偉大なシャローム、平和と和解のご計画の先取りであり、それは今やイエス・キリストによって実現されているのです。
今日私たちはこのヨセフの受難と父ヤコブの深い嘆きの中に、キリストの受難と父なる神の深い愛を思い起こしながら、心新たにその恵みを覚えつつ、神さまの愛に立ち返って生きる者とされたいと願います。
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朽ちない冠を得るために

2024-09-01 16:33:58 | メッセージ
礼拝宣教     フィリピ3章10-16節 24/9/1 召天者記念日


本日は召天者記念日として先に主のもとに旅立たれた兄弟姉妹のありし日をしのびつつ、十字架と復活の主をほめたたえ、揺るぐことのない希望が私たちにも与えられていることをおぼえてまいりたいと思います。

先ほど、フィリピの信徒への手紙の3章の箇所が読まれました。
このフィリピの教会は、パウロが東ヨーロッパで最初に建てた教会でした。その経緯は使徒言行録16章のところに記されております。パウロが第2伝道旅行の折にフィリピを訪れて伝道し、教会がたちあがります。パウロはその後、第3回目の伝道旅行の折にもフィリピの教会を訪ねています。
このフィリピは古代マケドニア王国があった当時のローマ帝国の植民地でした。そこには退役軍人が沢山おり、愛国主義者の多い事で知られていました。
パウロがその地で、「イエスは真の王」であると宣べ伝えようとすると、それはもう強い反発と非難中傷の標的にされたのです。フィリピの信徒たちもまた、パウロと同様の迫害を受けていました。しかし、フィリピの教会は信仰にしっかりと立ち、主イエスの教えに忠実でした。
フィリピの教会は決して経済的に豊かとはいえませんでしたが、後に投獄されたパウロのために、信徒の一人であったエパフロディトに支援金を託し、パウロへ届けさせていました。パウロはそのお礼と喜びの福音について伝える手紙を獄の中でしたため、エパフロディトに託したのが、このフィリピの手紙です。

この手紙の中心は次の2章6以降の言葉にあると言われています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
これはいわゆる「キリスト賛歌」と言われています。
ローマ皇帝下の植民地フィリピにおいて、真の王であるメシア、救い主、イエス・キリストの受肉とその生涯、死とよみがえり、昇天を高らかにほめたたえた彼ら。この賛歌から、迫害下にあっても、なおその信仰の道を辿り行こうとする人々の思いが聞こえてくるような気がします。
さらにパウロは、この手紙を通して、地上にあって「キリスト者として生きる」とは、どういうことかを説き明かします。今日の箇所からそのメッセージを共に聞いてまいりたいと思います。

まず、この手紙の背景でありますが。パウロは「イエスこそ救いの主(キリスト)」と、福音を伝えていった事で捕えられ、獄中に閉じ込められますけれども、思いがけないことに牢の番兵や兵営全体にも主イエスの福音を伝えることができ、キリストの救いに与る人たちが起こされていくのです。             
さらに、投獄されてもなお愛をもって福音を伝えて生きるパウロの姿を知って、コロサイの教会の人々も信仰の確信が強められ、恐れることなく益々勇敢に、「イエスこそ救い主」と、宣べ伝えていくようになるのです。パウロは、自分が投獄されたことさえ、「福音の前進に役立った」と記しています。
また、パウロを妬み、敵対心、争いの念、不純な動機から伝道していた人たちもいました。しかしパウロはそれさえも、「キリストが告げ知らされていることを喜んでいる」というのです。
このようにパウロは逆境の中に働かれる主の御業を仰ぎ見て、心配してくれたフィリピの信徒たちを励まし続けるのです。
パウロはどうしてそのようにできたのでしょうか。
それはまさに、パウロ自身がキリストとその福音に捕えられていた者であったからです。彼は神の愛に生きる人生の意義と希望を見出し、喜びに満たされていたのです。その喜びはだれも奪うことはできません。

さて、本日のフィリピ3章10-11節でパウロはこう述べています。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
ここに「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とありますが。キリスト者はキリストと共に古き肉なる人に死んで、キリストの新しい命に与って生きていますが。それはキリストを信じバプテスマを受けて、はい、それで終りということではありません。
大事なことは、この命の日々がやがて来る神の国の完成に結びついているということです。
そして今も復活の主の力は聖霊を通して働いており、やがて訪れる主の来臨とともに朽ちる者が朽ちない者に変えられる(Ⅰコリント15章)とありますが、その大いなる希望は私どもにも与えられているのであります。

一方でパウロは12節以降にこう述べています。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。」
パウロがこのように言ったのは、フィリピの信徒の中に「自分たちは既に救いを得ている、その上、割礼を受けて戒律を守っている」と、まあ自分たちは完璧なキリスト者だというふうに誇り高ぶっていた人たち、自己完結していた人たちがいたからです。しかしそれはキリスト者となる前のパウロ自身の姿でもあったのです。自分は正しいと、自己正当化してキリスト者とキリスト教会を激しく迫害していたのです。まさにその時、彼は真の救い主、キリストと出会い、それまでの誇りや高ぶりが如何に愚かなことであったかを思い知って心打ちのめされるのです。それは自分の力や業で救いを勝ち取っているなどとは言い難い自分を知っていたのです。

パウロは又、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです」と言っています。
この「後ろのものを忘れ」と述べたのは、単に過去のことを忘れ去りなさい、と言っているのではありません。この「後ろのもの」とは、自分の才能や能力、地位や立場、また世の中の基準に価値をおき、それらを頼みとしていた古き自分、キリストを知る以前の人生のことです。それらを、もうかなぐり捨て、「前のもの」、すなわち十字架と復活のキリストを深く知り、キリストに倣って生きる人生を目指しましょう、と言っているのです。

パウロは信仰の生涯を、陸上競技に参加するランナーにたとえます。そのスタートは、キリストの十字架と復活の福音を信じた時点であり、そして目標を目指して、ヨーイドン!で走り出したのです。ここにいらっしゃるお一人お一人それぞれ、そのスタートから走り出して、そして今がございます。今日までに本当に様々な出来事があり、時には信仰の歩みが停まってしまうような事があったかも知れません。けれども、今ここにいらっしゃるということは、ご自分の信仰の生涯を走り続けておられることにほかなりません。すばらしい恵みです。
また、私たちの今現在は、ゴールに向けたその途上であります。中には走っているのでなく、歩くのが精いっぱいという方もいるかも知れませんが。でも心配はいりません。聖書には、年老いても、主が背負っていて下さるとあります。大切なのは、ひたすら主と共に歩み通すということです。ゴールを目指す道は山あり谷あり、その時には苦しさ、しんどさ、つらさも経験します。又、内に外にと闘いも起ってまいります。けれどもそれは理由もなく、意味のない苦しみや闘いではありません。何よりも、主はそこで共におられ、私たちが忍耐強く、ひたすら目標を目指して日々歩むようにと、御言葉をもって闘うすべを教え、励まして下さいます。私たちはそこで練られ、さらなる希望へと導かれます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むというということを、わたしたちは知っているのです」(ローマ5章)と聖書にある通りです。
そのようにゴールを目指す者にとって大切なことは、その途上にあるのです。

ヨハネの黙示録1章17節には「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」と記されていますが。その主は、ヨハネ福音書14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と、おっしゃいました。
主は初めと終り、スタートとゴールにおられるだけでなく、その道そのものが、主イエス・キリストなのです。主ご自身こそが、御父(御神)のもとに行く道であるのです。
それは、フィリピ3章20節に「わたしたちの本国は天にあります。」その御神へ至る道なのです。完走者に与えられる栄冠は地上の朽ちるものでなく、天の御国で主御自身から戴くものとの希望が私たちに与えられているのです。
日々の歩みの中で、主イエスに信頼し、主イエスを追い求め、主イエスの道を進みゆく人を、神さまは新しい命に生かし、守り、導いて下さいます。そして遂には復活の新しい体、栄光の姿に変えてくださる。それはキリストの教会に連なる私たち共通の希望であります。
だから、パウロは信徒たちに向け、4章1節「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」と語りかけます。

パリでオリンピックが開催され、今はパラリンピックが行われておりますが。選手たち、アスリートたちには「勝者」と「敗者」と、はっきりと勝敗がつきます。金メダルは最後まで勝ち抜いた勝者にしか与えられません。この勝者にはサクセスストリーや英雄伝説が生まれます。敗者はどうでしょうか。再起をかけた再チャレンジでしょうか。あるいは引退という幕引きでしょうか。
先にも申しました。パウロは、「きょうだいたち、なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と記していますが。
ここに「目標をめざして」とあります。私たちの人生の折々においても、私たちは目標を立て、その目標を達成するための計画をたて、日々なすべきことを定め、それに向かって努め、時にはそのために自己規制や節制もしなければならないでしょう。自分の好き勝手なことをやっていればその目標を達成することは困難だからです。
パウロはⅠコリント9章でも「競技する人は、皆、すべてに節制します」と、記しています。
パウロはさらに、「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だからわたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」と、こうも記します。
重要なのは、パウロがここで「目標をめざして」と述べた目標は、「朽ちてしまうような冠を得るのではなく、朽ちない冠を得る」ことであります。
それはまさに、私たちの人間の姿となって地上に生まれ、死よりよみがえり、復活のからだの初穂となられたキリストが、わたしたちの朽ち果ててしまうような体を、「御自分の栄光ある体に変えてくださる」ということなのです。そこに私たちの真の希望がございます。この朽ちない冠を得るために、主イエス・キリストの命の道をひと足ひと足ふみしめてまいりましょう。
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神様の祝福

2024-08-25 17:11:53 | メッセージ
宣教  創世記35章1-20節  C・H
 
救われて良かった!このことばは教会創立記念誌に載せられたある人の証の言葉です。記念誌には教会員の皆さんが顔写真とともに証の文を書いていましたが、この方だけは救われて良かった!と一言だけでした。口数少ない60代の女性でしだが、何と彼女らしくシンプルな証だろうと思いました。記念誌の多くの証の中で今も記憶に残っている唯一の証の言葉です。救われて良かった!
ここで誰かが何が良かったですか!突っ込んできたとしたら彼女は何と説明したのでしょう。私たちも神様の恵みによりただ信仰によって救われました。救われて何が良かったでしょう。はっきりと自分のことばで人に伝えることができれば本当にその方は幸せだと思います。神様にも喜ばれることでしょう。
このことを覚えながら、今日は創世記35章おいて、「神様の祝福」という主題をつけてみました。これからご一緒にこのところの御ことばを学んでいきたいと思います。

35章一節に神様はヤコブに「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」と命じられます。しかし、その前に34章で大事件があったことを見逃すことはできません。ヤコブは兄エサウと和解した後、カナン地にあるシェケムの町の手前で宿営をしますが、その土地の族長ハモルの子シェケムはヤコブの娘ディナを捕らえ寝てはずかしめます。そこでハモルとシェケムはヤコブをたずねて息子の嫁にしてください。縁を結んでこの土地で住み自由に行き来し、この土地を得てくださいといいます。しかし、憤っていたヤコブの息子たちは許せない感情をもって悪巧みをたくらんで、割礼を受けていない者に妹をやることは出来ないと割礼を男子みんなに受けさせます。三日になって、傷が痛んでいるとき、ヤコブの二人の息子ティナの兄シメオンとレビガ、それぞれ剣を取って、難なく町を襲い、すべての男子を殺しました。
それでヤコブは二人の息子に「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの住民のカナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるだろう。」とこのように生き詰まるような不安と恐れの中で神様は支持を出します。
今日の35章です。「ベテルに上り、そこに祭壇を築きなさい。」
大変な状況の中で困っているときに、神様から与えられる御ことばは最高です。
平安が与えられます。困ったときには真っ先に神様の御ことばを求めて、
ひたすら祈るのが助けになるでしょう。神様の働きには御ことばが伴います。

さて、35章1-20までの御ことばから重要な単語3つ取り出して考えていきたいと思います。ベテル。祭壇。祝福。
ベテルという場所の名前は創世記だけでも10回出てきますが、ヤコブの人生において、とても重要なところです。神様はヤコブがベテルで神様にあったところに行って祭壇を築くように支持を出します。そして、守り導いて行かれます。ヤコブは家族単位で異国の神神を取り除き、身をきよめ、着物を着替えてベテルに上って行こう。私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつもともにおられた神に祭壇を築こう。と自分の家族と自分といっしょにいるすべての者たちに呼びかけます。運命共同体として人達が族長ヤコブに従い、今までの身についていた偶像を捨て、身をきよめ、着物を着替えることによって、真の神様に対する信仰の決心と新しく覚悟をして旅立ちます。そして、争いが起こったそのところから旅立つと神様からの恐怖が回りの町々に下ったので彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。と書いてあるように、ヤコブが恐れていたシェケム事件後、神様はヤコブの子どもらの暴虐があったにも関わらず御心によって導かれ回りの住民たちから守られました。ここにも神様の真と恵みを覚えられます。神様は回りの町々に恐怖を与えることの一つの方法でヤコブの一族を見事に守り、行きなさいと言われたベテルまで責任をもって彼らを連れて行かれました。ヤコブの一族とともにおられた神様!今日も私たちとともにおられ、私たちの行くべきすべての道のりをも守り導いておられることを信じ神様に感謝したいと思います。ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょにカナンの地にあるベテルに着き、祭壇を築きます。

ベテルという場所は彼が親元を離れて不安のなかで旅立つときに神様が現れて祝福の約束の御ことばをもって励ましてくださった所であります。
その約束の御ことばとは(創世記28章:15)「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがとこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」こういうわけで、ベテルという場所は、彼の信仰の出発点であり帰るべき場所でありました。神様は帰って来てその約束を果たしてくださった神様に感謝するための祭壇を築くように導かれます。
このときの祭壇を築くことは今日私たちにとっては礼拝と言えるでしょう。
私たちは毎週礼拝を通して神様との関係を確認し信仰を深めることができます。礼拝は私たちの信仰生活の軸です。
神様はかつてイスラエル民族をエジプトの奴隷から解放させ自分の民として、関係を作るために、まず律法を与え神の幕屋とそのなかに祭壇を作らせ、わたしはあなたの神、あなたはわたしの民という契約を結び、まず神様に礼拝することを教えられました。
祭壇がある幕屋はやがて来られるキリストの模型だと言われています。
現在も、神様は私たちを罪の奴隷から解放させ、この世から分離させ、イエスキリストの支配の中に入れられ、礼拝者として招かれています。

本章に戻って、7節、9節から13節まで読んでみたいと思います。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現われたからである。
こうしてヤコブがパダン・アラムから帰ってきたとき、神は再び彼に現れて彼を祝福された。神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。あなたの名は、もうヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいがあなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。神は彼に語られたその所で、彼を離れて上られた。」

ここでのポイントは「神は再び彼に現れて彼を祝福された。」ですが、神様は私たちにも現れて祝福してくださっていることを覚えたいと思います。
全能の神があわれみによって、神様を知るように、信じて救われるように、私たちを導いてくださいました。そして、礼拝者として招いてくださっています。

私たちが今日も礼拝を捧げられるのは私たちの特権です。
礼拝を捧げること自体が祝福であります。
神様はヤコブの兄エサウではなくヤコブに祭壇を築くように仰せられました。ヤコブに現れて、祝福してくださいました。
神様はエサウではなくヤコブを選んだように、私たちを選び、私たちとともにおられます。私たちのすべての道のりに伴い、ご自分の者として豊かな恵みをもって取扱い導き、守り、助け、祝福してくださっておられます。

今日の宣教のことばの初めに、救われて良かった!何が良かったか自分のことばで人に伝えることが出来ればその人は幸せだと言いました。
この良かった!ということばは神様が創造の業を終えた第6日に発せられたことばでもあります。私自身、神様のあわれみを受け救われました。それで良かったことは、「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべでが新しくなりました。」(第2のコリント5:17)この格調高い御ことばのように、私が再創造されたことです。そして、神様から目線で良かった!キリストにあって、神様に受け入れられたことです。それだけでなく、闇の中から光の中に入れられ、もはや罪に支配されることなく、死の恐怖からも解放され、永遠の命をいただき、真理の御霊様より自由が与えられています。
幾らでも言えます。自分がキリストを知り、信じることによって得られる祝福は無尽蔵であります。神様の祝福は信仰によって、自分自身がどれほど経験できるかによるものでしょう。

今日の聖書箇所でヤコブが経験した祝福は何だったでしょう。
(35章:3)を読んでみましょう。「そうして私たちは立って、ベデルに上って行こう。私はそこで私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」このように、神様に祝福されたヤコブに苦難がなかったわけではありませんでした。しかし、苦難の日に私に答え、自分の歩いた道に、神様はいつもともにおられたというインマヌエルの祝福はヤコブが経験した祝福でした。今日私たちにも与えられている祝福、私たちとともにおられる主!このインマエルの祝福を神様に感謝し、主イエスキリストに賛美を捧げたいと思います。今週も主とともに一足一足歩んでまいりましょう。

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神様との平和

2024-08-18 17:13:47 | メッセージ
宣教  聖書 創世記33章1-20節 C.H

人はなぜ争うのでしようか。その原因はどこにあるのでしょう。
神様は人間を本来平和な世界で住むように造られました。それなのに人間が自ら神様への不従順と反逆によって台無しにしてしまいました。その罪が人間を神様から引き離してしまい、神様との関係が壊れる事により、神様と人間との関係だけではなく、人間と隣人、自分と自分、自然との間も平和がなくなり、すべでの関係のバランスが取れなくなってしまいました。そういう結果で創世記4章にアダムとエバの息子で兄カインがアベルを殺した人類の初めての殺人事件以来、人類の歴史は戦争の歴史と言われるほど、民族は民族に国は国に敵対し立ち上がり次から次へと絶えず争いは止みません。今もそうです。
この問題の解決策はどこにあるのでしょう。人類にとって根本的な課題ではないでしようか。これからご一緒に考えていきたいと思います。

それでは先ほど読まれた創世記33章の内容は兄エサウとヤコブの和解の話しですが、ヤコブが叔父ラバンの家から出て兄エサウに会い和解するまでのヤコブが取った行動一つ一つを見逃すことはできません。
神様がこの土地を出て、あなたの生まれ故郷に帰りなさいと言われたにせよ、父の家に帰るのにはエサウとの和解がどうしても必要になります。
兄のことが大きな問題であるわけです。兄エサウの復讐に対する不安と恐れは自分の力ではどうにもならない、今までのように自分の力や知恵と努力では解決することが出来ないことを彼は痛いほど分かっていました。結局神様の助けが絶対的に必要でありました。
ここで私たちは神様に明確に示された道なのに、今のヤコブみたいに危険と障害がある場合があります。確かに神様の御心のはずなのに上手くいかないことも多々あることを覚えたいと思います。
それが神様の知恵かも知れません。私たちの人生とは神様側でしてくださることがあれば、私たちがしなければならないことがあるのです。

それではヤコブが兄エサウと和解のために取った行動、先週の箇所ですが、前の32章を少し読んでみたいと思います。ヤコブはセイルノ地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者をおくった。
「あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、いままでとどまっていました。私は牛、ろば、羊、男女の奴隷をもっています。
それでご主人にお知らせして、あなたの好意を得ようと使いを送ったのです。」
ヤコブは兄をご主人といい自分をしもべといい、身を低くしてエサウに近寄ろうとします。兄がヤコブを迎えるために400人を引き連れて来られるという使者から聞いたヤコブは、非常に恐れ心配をして人も家畜も全部失われることを避けるために二つの宿営に分けます。
そうして神様に切実な祈りをささげます。(32:9-12)「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつてわたしに『あなたの生まれ故郷に帰れ。あなたを幸せにする』と仰せられた主よ。私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけをもってこのヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営をもつようになりました。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」
このように彼は約束の御ことばを握って神様の助けを求めて祈りました。
私たちも祈るときには約束の御ことばを握って祈るとき確信が与えられ、力ある祈りを捧げることが出来ます。
そのためには、日頃聖書を読み御ことばを心に蓄える必要があるでしょう。

さて、ヤコブは祈った後、彼は兄エサウのために贈り物を選び、その贈り物によって兄をなだめ、彼を快く受け入れてくれることを期待します。また人と家畜の群れの進み方にも細かい配慮と真心を込めて整えます。兄エサウは自分を赦してくれるだろうか、20年前のことだがお父さんがなくなったら弟ヤコブを殺してやろうと言っていた兄が果たして自分を赦してくれるだろうか、あるいは自分と家族を打ちはしないかと復讐して来たらどうしょう。恐れと緊張感が高まる一方で、ある人が夜明けまで彼と格闘するような不思議な出来事がありました。ここで彼の名前が変わります。彼の人生の大きな転機になります。神様の使いなのか神様なのか、ある人との格闘とは必死な祈りとも言えるでしょう。「私を祝福してくださらなければ、私はあなたを去らせません。」
その人は「あなたの名前は何か、ヤゴブです。もうヤゴブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
ヤコブが、「あなたの名前を教えてください。」尋ねるとその人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名前を尋ねるか」その場で彼を祝福した。
このように、ヤゴブの積極的に祝福を求めて一晩中神の人と闘って必ずや祝福を手に入れてしまう姿勢は、かつて20年前兄エサウから長男が受ける祝福の権利を奪い取る時と重なります。

(マタイの福音書11:12)にイエス様は、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は、激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」御ことばを思い出します。この御ことばは信仰とは決して生ぬるいものではなく、積極的なことであることを言い表しているのではないでしょうか。

ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが400人の者を引いてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれ二人の妻レアとラケルと二人の女奴隷とに分け女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。この置き方にも彼の偏愛が見られ、家族の中でも大事にされる者を少しでも安全な一番後ろに置くという生の人間の姿が見られます。そして、ヤコブ自身は、彼らの先に立って進み兄に近づくまで、7回も地に伏しておじきをします。エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいたき、首に抱きついてくちづけし、二人は泣きました。感動的な場面です。

被害者が加害者を無条件で赦し受け入れられるとはまさしく神様の愛ではありませんか。ヤコブは言います。「私はあなたの顔を神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。」
ここで私たちは考えてみたいと思います。自分の過ちが赦されることは幸いですが、自分を傷付けた人を赦すことのできることは最も幸いではないでしょうか。赦しとは本来愛である神様の性質の一つだからです。それで赦す側が神様のように見えるのではないでしようか。自分を傷つけた人を赦すとは簡単なことではありません。しかし、神様に赦されたものであれば赦すことができます。
続いて考えてみましょう。ヤコブとエサウの和解はいったいどのように成立したのでしょうか。ヤゴブの知恵と懸命な努力によるものでしょうか、あるいはエサウが優しい人だからでしょうか。そうではないでしよう。この和解は神様の業です。神様がなさったことです。ヤコブは神様に祝福を受けました。生まれ故郷に帰りなさいと命じられた神様ご自身が兄との問題解決をしてくださったのです。神様とヤコブの関係がエサウとの和解を生み出さられたのです。(箴言21:1)「王の心は主の御手の中にあって、水の流れるようだ。御心のままに向きを変えられる。」人が人の心を動かし、変えるのは難しいですが、神様は敵をも味方に変えるほどいとも簡単に人の心を変えられます。ここで長年の間、ヤコブの良心の呵責、兄を欺いたことによる罪の意識から解放され、新たに前に進むことが出来るように神様が道を開いてくださいました。神様は真実な方です。
結論になりますが、この世の人間社会はヤコブとエサウのように兄弟の争いがあれば、親子の争いもある。人と人の関わりがあるところには何かしら厄介なことがある。それでひとりがいい。面倒なことも避けられる。そうやってひとりで生きる道を選ぶ人達も少なくない今の時代であります。
しかし、(創世記2:18)神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手をつくろう。」
やはり人間はひとりでは生きられない存在であるということ、お互いに助けあってそれも平和に生きるように造られていました。
しかし、罪の性質をもつようになった人間には争いと分裂が常に付き惑うようになりました。アダムの神様に対する反逆という傲慢の罪から始めて、カインが弟アベルを殺したねたみの罪など、すべでの罪は神様と人間を分裂させます。
人と人の間も分裂させます。

平和は四つあるといいます。神様との平和(調和、バランス)、自分との平和、隣人との平和、自然との平和であります。
この中で神様との平和があれば、(神様との関係回復)後三つの平和は自然的に平和になります。こういうわけで、罪の問題が解決されない限り人間社会では本当の意味で平和はありません。
(ヨハネの福音書1:29)その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」神様はこのように私たちの罪を取り除くために十字架につけられ、よみがえられた主イエスキリストにより、信じるすべての人たちに神様と和解され、神様との平和の道を備えてくだしました。そして、神様を愛すること、自分自身のように隣人を愛することによって、本当の意味での平和と幸福を与えてくださいました。この恵みを忘れずに平和のために祈り、平和をつくる神様の子どもとよばれたいと思います。
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神様のご計画

2024-08-04 13:40:30 | メッセージ
聖書 創世記31章1-13節   宣教 C・H

信仰とは何でしょう。何から始まるのでしょうか。
神様は存在するのか、存在しないのか、問いかけるところから始まるのではないでしょうか。
存在するのであればいったい神様がとういう方なのかを知ること、信じることが大事だと思います。
しかし、多くの人々は神様の存在は認めるが知ろうとはしません。信じようともしません。その中には神様の存在をしるために探し求めている人達もいます。

最初に読まれた(ヘブル人への手紙 11章3節)によると、信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、従って、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。このように私たちが信じている神様は万物を造り、支配し始めておられる全能の神様であります。ことばと人格をもっておられます。特にご計画をもっておられる神様です。 その神様のご計画とは人類を救うためのご計画です。
そのために神様は最初にアブラハムという一人の人を選びました。(マタイの福音書 1章1~2)アブラハムの子孫、 ダビデの子孫、 イエスキリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟が生まれ、延々と続きまして42代目に救い主イエスキリストが生まれます。
この歴史の流れの中で今日の宣教箇所、ヤコブの物語が出ます。このヤコブを通して、神様はご自分のご計画をどのように、実現して行かれるのかを確認していきたいと思います。それと同時に神様は私たちの人生の中でもご計画をもって生きて働かれる方であることを覚えて、励まされたら幸いなことだと思います。

さて、ヤコブはイサクとリベカの間で双子の弟でありますが、ヤコブは男が受ける長子の権利を、それもお父さんを騙してまでして、 祝福の権利を横取りにしました。当然ながら兄エサウは恨みます。「父の死ぬときも近づいている。そのとき弟ヤコブを殺してやろう」というのを聞いた母リベカは、ハランへ自分の兄ラバンのところに逃げるようにします。
そこで住み始めて20年の歳月が経ったところで、ラバン息子たちもラバンも、態度が以前のようではなく居心地が悪く、そこを去る潮時になったのでしょう。そのとき神様もあなたの生まれ故郷に帰りなさいと声をかけられました。
ヤコブは、自分の家族と財産を引き上げる前に、二人の妻たちに一緒に帰るため説得に当たって、自分の20年間の生活を振り返って話しをします。(31:5~7) そして、ラバンに何も言わず逃げるように旅に出ますが、追いかけてきたラバンにもこれまで我慢して尽くして来たことをいいます。(31:38~42) これが 31 章の内容です。
それでは、ヤコブがイサクから受けた祝福のことば (27:28~29)と、ベテルで主からうけた祝福のことば(28:13~15)も読んでみましょう。ここでヤコブの苦労話と祝福のことばを両方横に並べて見れば、人間的には矛盾を感じます。ヤコブの 20 年間の人生にある暗い部分というか、その陰は、そこに光があっての陰であると言えるのではないでしょうか。祝福の中にある苦難と言えるでしょう。
神様はあのベテルでの約束 「見よ。 わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、 あなたをこの地に連れ戻そう。 あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」という、その約束を守られておられました。それによって、神様は着々とご計画を実現されていきます。
実は、ヤコブは叔父ラバンの家で非常に苦労をしたかもしれません。しかし、主がともにおられました。決して御捨てになりませんでした。そこで二人の妻とそばめたちによって、 11 名の子どもが与えられます。 後からもう1人が生まれます。これがやがてイスラエルの12部族になり、イスラエル民族形成、つまり、国家建設のための基礎になります。そういうわけで、ヤコブの叔父ラバンのところでの20年間の生活は意味深く、神様からすればとても重要な計画の中の一段階でした。
もう少し進むと、ヤコブとその子どもたちは飢饉があって、エジプトにいって住むことになります。行くときは70人でありましたが、 エジプトを出るときには、徒歩の壮年の男子だけで60万人でありました。アブラハムに約束したように彼の子孫はそれからも増え続けられていきます。
エジプトから出たイスラエル民族は、荒野で40年間徹底的に神様の選民として、作り上げられます。律法が与えられ、礼拝を教え、聖なる国民、選ばれた種族、王なる祭司になるように訓練されます。神様は結局、ご自分の民に何を教えようとしたか。それは神様を信じること、従うことでした。
今日、私たちはヤコブの人生の節目と言えるところで、20 年間の人生を振り返って二人の妻たちとラバンに語った話しを聞きました。しかし、そこには神様が共におられ、祝福の約束のご計画を実現するために働かれたことを覚えることができます。その祝福は、イエスキリストにあって、今日の私たちにも及んでいます。どんな人生にも意味がある、無駄がないと聞きますが、その通りだと思います。

今回、ヤコブの20年間の人生を振り返っての物語を考えながら、私自身の40年間、日本での人生を振り返ってみました。「(箴言20:24) 人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。」「(イザヤ書55:9)天が地よりも高いように、 わたしの道は高く、わたしの思いは、あなたがたの思いより高い。」
私は、神様のくすしい摂理と計り知れない神様の御心によって歩んできました。40年間という歳月は決して短くありません。しかし、あっという間に過ぎ去りました。キリスト信仰一筋で教会が私の生活の重心でした。神様が最優先順位、イエス様が一番!何よりも勝る何にも代られない宝でした。使徒パウロの告白の御ことばのように。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」この御ことばが心に刻まれて、ひたすら神様を慕いながら生きてきました。
3人の子どもを育てながら仕事もして、毎日のように何かしら教会に走っていました。今考えれば、私の意志ではありませんでした。主イエスキリストに捕らわれて、握られて、神様は私を一瞬も御手を離しませんでした。
だからと言って、私が平坦な道を歩いて来たかと言えば決してそうではありませんでした。山あり谷あり、雨の日もあれば曇りの日もあり、太陽が燦燦たる日もあり、嵐の日もありました。それで花は咲き、実は結ばれる。これが神様の営みではないでしょうか。また、そのすべての事柄が神様の祝福という一つの箱の中に入っていると私は解釈しています。ときに喜ばしくない望ましくないことに直面したそのときにはしんどいことであっても、過ぎてみたら、すべてが恵みでありました。そこには善であられる慈しみ深い神様の御計らいがあって、恵みが備えられていたことを体験してきました。神様は真実な方です。 その恵みはとこしえまで、命ある限り力ある限り主をほめたたえます。

最後にまとめますが、ヤコブは晩年にエジプトの王パロの前に立ったときに (創世記47:9)
ヤコブはパロに答えました。 「私のたどった年月は130年です。 私の齢の年月はわずかで、不幸せで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」
ヤコブは不幸せだったと言っています。 ラバンの家から出てからもどれほど苦労の連続であったか、今日は31 章を続けて読んでいくと分かるようになります。ここで祝福とはなんであるか考えざるを得ません。どんな困難なところでも、キリストがともにおられるのであれば、キリストの支配があれば、どんな悩ましい人の心にも永遠の命があれば、祝福されたと言えないでしょうか。
アブラハムに約束された祝福は、土地や子孫などですが、結局それはイエスキリストのことです。どんな状況の中にあっても、キリストがともにおられるのであれば、支配があるなら、悩ましい心、弱い体があっても、そこにキリストの命があれば祝福と言えないでしょうか。

私たちキリストの信仰者たちは、物事を霊的な目で、信仰の目で、解釈をすることがとても大事だと思います。どんな出来事でも、神様の御計画の中にあること、御心があることを信じることではありませんか。神様に信頼し御心が叶えられますように祈りゆだねることができれば幸いでしょう。
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「わたしはあなたと共にいる」

2024-07-28 18:35:57 | メッセージ
主日礼拝宣教     創世記28章10-22節  

先週は27章の弟息子のヤコブが父ヤコブをだまし、祝福を奪い取ったお話でしたが。その後兄息子のエサウは父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになり、遂には殺意を抱くようになるのです。そのことを知った母リベカは、そのエサウの強い憎しみと殺意をヤコブに伝え、伯父ラバンのいるハランに逃げるようにと勧めました。母リベカには溺愛していたヤコブと別れなければならないというつらさや寂しさがきっとあったと思うのです。でも、彼女は「一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう」と、苦渋の決断をしてヤコブを送り出します。ヤコブもその母の勧めに従い、700キロ以上、(大阪から秋田ほどの距離くらいしょうか)離れたハランの地へ一人で向かうことになるのです。
28章の始めのところには、そのヤコブが父イサクに祝福され、ハランの地に送り出されていったという場面がありますが。父イサクはヤコブにだまされたにも拘わらず、ヤコブを愛していました。父イサクも母リベカと同様、二人の息子が失わないために祈りつつ、、ヤコブを送り出すのです。
ハラン、そこはかつて信仰の祖父アブラハムが召命を受けたとされる地であり、ヤコブもまた、用意された神の召命に与る時に向けて険しい長い旅路が始まるのです。

さて、ヤコブは10-11節「ベエル・シェバを立ってハランに向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」
「とある場所」とは後のベテルのことですが、そこは荒れ野のような場でした。このベテルが後には聖地となるのです。ヤコブはそこで一夜を過ごすこととなったのですが、彼は石を枕にして休んだようです。この時の彼の心境はどのようなものであったことでしょう。親もとから離れ、兄エサウには殺意を持つほどの恨みを持たれ、父が祝福して与えると約束した土地や財産、さらに家を継ぐという希望も持てず、身も心もボロボロになるくらい疲れ切っていたのではないでしょうか。これが神から祝福を受ける者の姿であろうかと自らの状況を嘆いていたのかも知れません。そういう中で、石を枕にして荒野で寝入ったヤコブでありました。その石の枕は涙でぬれていたのかも知れません。

そうして眠りについた時、彼は真に不思議な夢を見るのです。
それは12節「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていた」というのです。
この光景は、「神が人の生きている地に深く関わり、近づき、交わりをもってくださる」ことを示していました。
この地上の生涯を生きる私たちにも、悩みや苦難の中で、まるで神さえ私をお見捨てになり、神の助けすらも得られないように感じることがあるかも知れません。しかし、主はすべてをご存じです。又、共におられ、うめきをもって祈り執りなして下さいます。(ローマ8章)
天から地に向かって伸びる階段を天使たちがせわしなく行き来するように、主は私どもをいつも気にかけ、助けを送り、見守っていてくださるお方であることが、ここに示されているのです。

13節、「見よ、主が傍らに立って言われた。」
ヤコブは何と、自分の傍らに立っておられる主の御声を聞きます。それは驚くような祝福と力強い約束の言葉で満ちていました。
「あなたとあなたの子孫に今横たわっているこの土地を与える。」「あなたの子孫は大地の砂粒のように多く広がり、地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」さらに「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。」「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
「決して見捨てない。」この力強い約束と共に、何とヤコブとその子孫によって地上の氏族すべてが祝福に入る。そんなあまりにも壮大なビジョンまで神はヤコブに語られるのです。

16節で、ヤコブは眠りから覚めて次のように答えます。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
「主が共におられるお方である」そのことに目が開かれる時、それは平穏で何事もないような時よりも、むしろ逆境の中で石の枕に涙するような時なのではないでしょうか。自分にとって最低と思えるようなところにまで落ち、身も心もボロボロのヤコブ。そのような打ち砕かれた思いの中にあるからこそ、「わたしはあなたと共にいる」「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」「あなたを決して見捨てない」との主なる神さまの臨在に気づくことができたのではないでしょうか。そして主の約束が希望となり、生きる力を取り戻していったことでしょう。

17節、ヤコブは畏れおののきつつ、このように言いました。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
まあ「神の家」と言えば、普通教会堂とかの建物が思い浮かびますけれども。しかしここではそういった物理的な建物のことではないのです。何もかも失い、どん底といえるようなところにおちた恐れ、不安、孤独のその只中で、神の救いを見たのです。この神の救いこそ「天の門」であり、神が共におられるところこそが「神の家」なのです。
主イエスは言われます。「わたしは門である。」私たちは主イエスこそ天の門であることを知っています。主イエスはこうも言われます。「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ福音書10章)
この「神の家」へと主の救いの門を通っていくようにと、私たちは今日も招かれているのです。

さて、18節、「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを祈念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。」
まあ、これまでヤコブは母リベカの指示や勧めの言葉によって行動してきた事が多かったわけですが。この「とある場所」においてヤコブは、主の言葉、主の祝福によって生きる者へと変えられるのです。
彼、ヤコブにとっての大きな分岐点、ターニングポイントがこの「とある場所」であったのです。
私の人生のターニングポイントは、やはり悩みの中でキリストと出会った時でした。次いで、主の御言葉に聞き従って生きていきたいと決心し、母のもとを離れて主と共にあゆみ出したその時でした。それまでは周りの影響を受けながら流されて生きていましたが。主との出会い、そして招きに応えて生きる人生がそこから始まったのです。
ヤコブは母リベカの言葉や勧めを素直に受けて行動した結果、兄からは憎まれ恨まれて、父母とも別れ逃亡せざるを得なくなります。それは周りに流されるような人生でした。そのヤコブに主はビジョンを示し、ヤコブは主の言葉、主の祝福によって生きる者とされていくのです。
ここでヤコブは「枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた」とあります。そのようにして彼の人生を変えたこの出来事を心に刻みつけ、新たな一歩を踏み出していったのです。
私たちもそれぞれに、人生において唯一度の決定的な主なる神との出会い、また招きがあることでしょう。その記念として礼拝が捧げられ、神の家族が与えられているのです。

次いで20節、彼は「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるのなら、、、、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」と請願を立てます。
ヤコブは夢で見たことを、ただの幻として終わらせません。彼は夢で見た事がらと神のお言葉が現実の出来事となって顕わされることを期待し、その必要を与えて下さい、と切に願うのです。
これは、私どもに大切なことを教えています。聖書の言葉はただの物語ではありません。それは、生きた神の言(ことば)であります。そこに自分の存在と人生をかけ、信頼し、実現に向け、具体的に祈り求め、行動していく。そこに神の御業が顕わされていくと信じるからです。
「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」このみ言葉のゆえにヤコブは主に信頼しました。「主は必ずそのあなたに約束したことを果たしてくださる。」「ずっとその最後まで見捨てることはない。」「あなたとどこまでも共にいる。」そう約束してくださるのです。
それは主イエスによって私たち一人ひとりにも与えられているお言葉であります。この主の約束に信頼して日々祈り求めつつ、恵みに応えて生きているのです。これが聖書に立つ「信仰」であります。

今日この「ヤコブの夢」のエピソードを読む時、新約聖書の御言葉を思い出します。
それは、ヨハネ1章14節の神の子イエス・キリストの受肉の出来事を伝える御言葉であります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
「言」というのはイエス・キリストであります。「神が罪深い私たちの間に宿って下さった。」この「宿る」というギリシャ語は「テント(天幕)を張る」という意味です。つまり、神さまは罪深い私たちの間に来て天幕を張り、いつまでも共に住んでくださる「神の家」となってくださったのです。
神の子イエス・キリストは人となって私たち人間の苦しみ、悩み、悲しみ、痛み、孤独をすべて負われ、十字架の処刑場に至る最期の時まで、罪深い人間を愛し抜き、共に生きる道を貫き通されました。その天の門、神の家である主イエス・キリストによって、私たち人間の深い罪は贖われ、救いの道が開かれたのであります。ヨハネはそのくすしき神の御業について、「わたしたちはその栄光を見た」と言い表しました。   
本日の箇所において、ヤコブは荒れ野という身も心もすさみきっていたその所で、「あなたと共にいる」という神の御声を聞き、主の臨在を経験します。そこでヤコブは畏れおののきながら「これはまさしく神の家である」と言った。
今や私たちは救い主イエス・キリストというまさしく「神の家」に住まいを得ているこの幸いであります。
「そうだ、ここは天の門だ」と、それを見出し得た幸い。その感謝と畏れをもって今日もこうして私たちも礼拝を捧げているのであります。

主はヤコブに「必ずこの土地に連れ帰る」と約束されますが。それはヤコブの生まれ育った地カナン(現イスラエル)をそこでは指していました。        
確かに地上の故郷(ふるさと)というものは、私どもにとって「忘れがたき故郷」でありましょう。しかし、主がここでヤコブに約束した「その土地」は、地上のカナン(現イスラエル)という意味以上の、「神の家」であったのです。
私たちはやがてこの地上の生涯を終え、すべてを手放す時が来るでしょう。この地上は仮の住まいなのです。
使徒パウロが「私たちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)と述べているように、私たちは主によって帰るべき家が用意されているのです。(ヨハネ福音書14章)

ヘブライ人への手紙11章1節(口語訳)には「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と記されています。そこには信仰の父祖アブラハムはじめ、信仰の先達の名が幾人も連記されていますが。その終りの13節には「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちは地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです」とあります。
私たちもまた、本日の「わたしはあなたと共にいる。あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」との主の言葉、主の祝福を基に据え、信仰の旅路を歩み通してまいりましょう。
お祈りします。
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