日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「愛を追い求めなさい」

2024-05-12 19:28:38 | メッセージ
礼拝宣教   Ⅰコリント12章31章-14章1節前半

神は目的をもって私たちそれぞれに霊的な賜物を与えておられます。
パウロは12章の終わり31節で「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と、促しました。それはキリストのからだである教会が建て上げられていくためです。教会といいますと、多くの人は教会の建物を思い浮かべるでしょう。又それを建て上げるとなると組織づくりとか、良き運営の仕方のことを考えるかも知れません。けれど教会は人の業によって存在するのではなく、神の霊、聖霊のお働きによって形づくられているのです。
コリントの教会はこの時、残念なことに賜物をして自分を誇る人や賜物を適切に用いないため関係性が損なわれてしまうような事が起こっていました。
そこでパウロは言います。「わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」
パウロはコリントの信徒たちに、1~3節「わたしが異言や天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかなしいシンバル、たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしは何の益もない」と述べます。

パウロは「愛」のない状態を「騒がしいどら」や「やかましいシンバル」にたとえます。
ギリシャの異教の神殿では当時どらやシンバルを打ち鳴らしては悪霊を追い出す儀式が行われていました。
それらは、真の神さまを知るパウロにとってやかましいただの騒音に過ぎなかったのです。
異言という賜物は、私たちの言葉にならないような祈り、うめきや嘆き、そして讃美を聖霊がとりなして下さる、その言葉でありますから、神の恵みそのものであります。
ところが信徒の中には、それを受けたから本物のクリスチャンになったとか、受けなければ半人前などと言うような人がいたわけです。彼らは誇ろうとして所かまわず異言で語り出し、人をつまづかせていました。パウロはその人たちの行いを、やかましいだけのどらやシンバルに過ぎない、人の耳を疲れさせる騒音に過ぎないと言っているのです。

又、たとえ「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、愛がなければ、無に等しい」と言っていますが。
よく有名な伝道者やいろんな聖霊の賜物を与えられた人を招いては大集会が開かれたりします。ところが、そのように偉大に見られる働きや業であっても、「愛がないならば無に等しい」、働きも集会も何も無いのと同じ、と言うのです。

さらに、尊い財産や金銭をたとえ貧しい人のために使い尽くすような事をしたとしても、さらには自らを誇ろうとして為した殉教の犠牲でさえも、「愛がなければ、何の益もない」と言います。
これらの行いは、世の中では立派だと称賛される行為でしょう。
けれども、その動機が自分の栄誉や誇りのため、独りよがりのものであるのなら、「何の益もない」と言うのです。そこには神の愛が不在だからです。
あのマザー・テレサさんはかつて、「大切なのは、どれだけたくさんの偉大な事をしたかではなく、どれだけ心を込めたかです」とおっしゃいましたが。神の前に尊くされるのはどんな偉大な業を行ったかではなく、たとえ小さく見える事でも、どれだけ心を込め、愛に根差してなしたか、という事なのであります。

4節~7節には「愛」のもつ特性について述べられています。
このところは、結婚をされる方がたとの準備会でも読まれる箇所でありますが。
愛は、「忍耐強い」「情け深い」「ねたまない」「自慢しない」「高ぶらない」「礼を失しない」「自分の利益を求めない」「いらだたない」「恨みを抱かない」「不義を喜ばない」、「真実を喜び」「すべてを忍び」「すべてを信じ」「すべてを望み」「すべてに耐える」と、具体的に15項目並べられています。
その「愛」とあるところ全てにご自分の名前を入れて読んでみて下さると、どうでしょうか。自分にはそのようない愛がないということを思い知らされるのではないでしょうか。それでも何とか頑張って愛に生きようとして、たとえば「忍耐強く」「情け深く」と、ひたすら我慢して無理にゆるそうとしてストレスいっぱい、その相手は悪いことを行うがままとなれば、状況も人間関係もゆがんだままになってしまいます。
「愛は不義を喜ばないで、真実を喜ぶ」とあるとおり、間違った事はやはり正しされていくように、愛をもって祈り、努めることが問われます。

さらに、愛の特性として「ねたまない」「自慢しない」「高ぶらない」「礼儀を失わない」「自分の利益を求めない」「いらだたない」「恨みをいだかない」と述べられます。
妬み、自慢、高慢、非礼な態度がコリントの教会の分裂を引き起こしていたのでしょう。これらは愛の特性とは正反対の人間の罪、エゴから生じるものです。
主イエスは良いパン種と悪いパン種の話をされましたが。良いパン種、すなわちキリストの愛に根差した言葉は私たちの間に天国の喜びをもたらします。一方悪いパン種、すなわち反キリスト(サタン)の言葉は混乱や不満を膨らませる、と言われました。あの人はこう言った、あの人はこうしたという誹謗中傷も同様でしょう。
しかし、ここを読んで愛の特性というのがよくわかった、じゃあそれを行おう、そのように生きてゆこうと考えて実際過ごせるかというと、先ほどこの「愛」のところに自分の名前を入れて読んでみても分かりますように、なかなかそうはいかない。私たち自身のうちにもコリントの教会の人々が抱えていた弱さがあることに気づかされます。
この「愛」を自分の中に探そうとしても到底見出せし得ない、見つけたと思っても次の瞬間、短気に怒り、額にしわを寄せるような自分が顔を出すわけですが。

ところで、私たちが愛というとき、新約聖書のギリシャ語では男女間の愛をエロス、身近な人や家族、友への友愛をフィリアと言い表されます。
私たちがこの地上に生まれて最初に感受する愛は、親や親のように養護してくれる存在からでしょう。さららに成長とともに、家族以外の人とも接する機会が増え、ある人は友だちや異性との出会い、ある人は恋愛や結婚、又ある人は新しい家族というふうに、様々な愛を知る時が与えられるでしょう。
けれども私たちの愛は燃え上がることはあっても、それがずっと持続可能かというと、そういったものではありません。
状況や事態が変わってしまうと、愛情が薄れたり、揺れ動いたり、果ては泡のように消えてしまうようなことも生じていくものです。
私たちの愛情で最も次元が高いとされている母親の子への愛情でさえも、無償の愛といいきれるでしょうか。
どんな人間の愛もエゴや自我の思いが混ざり込んでいるのではないでしょうか。
しかし、たとえそんな未熟な愛でも、神さまはいつくしんでくださることを、私たちは知っています。

さて、この4-7節までに語られている愛について特に心に留まりますのは、愛は忍耐することで始まり、すべてに耐えることで完結している事です。
パウロはローマの信徒への手紙5章で、「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。(次が大事です。)わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
先に申しましたように、愛も、そこに必要な忍耐も自分の中に探したところで十分だと言えるものはありません。しかしその私たちの心に神の愛が注がれると、希望と共に忍耐強く愛に生きる力が与えられるのです。
この愛は、人間の自己愛や友愛ではなく、ギリシャ語でアガペの愛、神のご性質を示す愛です。それは、キリストがすべての他者、それも敵対する者に対してさえ自らを与え尽くされた愛です。唯、神のひとり子イエス・キリストを通して具体的にあらわされたこの愛と私たちは出会い、本当の愛を知ったのです。
キリストが侮辱を受けても、傷つけられても、苦しめられても、あの十字架上で自分をののしる者、敵対する者の救いと真の解放のため祈られ、最期を遂げられたそのお姿。私たちは唯、この神の愛の奥深さを知らされ、その愛に満たされて初めて自分も他者も神の愛によって愛せるのです。

さらに、パウロは8節~13節で「愛は決して滅びない」と、その愛の永続性を語っています。一方で、「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と、それらの賜物が一時的なものに過ぎないことを伝えます。
私たちも又、神さまから様々な霊の賜物を戴いているのでありますが。そうした種々の賜物はみなこの地上において神の愛と救いがよりゆたかに分かち合われてゆき、神がほめたたえられるためにと、与えられたものです。だからこそ、それぞれに与えられている賜物を活かし、神と人に仕えることが大事です。

パウロがⅡコリント4章で「わたしたちは土の器」と言っているように、人はだれも欠け多い者、もろさを持つ者であります。けれどもその土の器の中に宝を納めている。それこそが愛なるキリストであり、土の器であるわたしたちのうちに生きておられる、その事が土の器を価値あるものとしているのです。私たちの内に住まわれるキリストの愛によって、私も又神の愛を持ち運ぶ者とされているのです。


パウロは又、「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」と言います。
では、何が残るのでしょうか。「愛」です。
パウロが言うように、私たちがまだ神の愛を知らなかった時、幼子のような身勝手な愛しか持てませんでした。しかし神の愛に出会い、幼子であることを棄てたのです。そうして神の愛に生きるようになりますが、しかしその働きも完全なものとは言えません。それをパウロは「おぼろに自らを映す鏡」にたとえたのです。
ちなみに、この当時の鏡は、今のようにはっきり映る物ではなく、銅を磨きこんでおぼろげに映るようなものでした。つまり、どんなに素晴らしい賜物や祈りをもった行いも、今は神の栄光をおぼろげにしか映し出せないのです。しかし、必ずいつの日か、完全なものが来る。その時には、もはやおぼろげにではなく、全てが明らかにされます。キリストが私たちのことをすべて知っていてくださることを、私たちもはっきりと知ることになる、というのです。
その日が来たなら、私たちはもはや、神の賜物は必要でなくなります。顔と顔とを合わせて神を直接見る者とされるからです。私たちはその日を神の愛によって共に忍耐しつつ、待ち望んでいるのです。
それゆえに、13節「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。」
そして「その中で最も大いなるものは、愛である」。
聖書は今日も、私たちに呼びかけます。「この愛を追い求めなさい」。
祈ります。
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「共に集うキリストの教会」

2024-05-05 12:49:52 | メッセージ
礼拝宣教 Ⅰコリント11章17-29節 主の晩餐

黄金週間も後半となっていますが、帰省や旅行中の方々もいらっしゃるかと思います。あるいは今が一番忙しいと励んでおられる方もおられるでしょう。今日こうして主の招きのもと、遠くから近くから、またオンラインを通して共に共に集まり、礼拝を捧げる幸い。お仕事の後ホッと一息つきながら礼拝の音声配信を通して主の平安に与かる幸い。安息日の主に心から感謝をささげます。
先週の29日には関西地方教会連合の定期総会が、当教会を会場に関西地区の30教会から代議員、陪席者が対面とオンラインを通して集まって行われました。8つの議案すべてが承認され、新たな歩みが始りましたが。私たちバプテストの関西地方連合諸教会は、上からの指示ではなく、各教会の主体的あり方が大切にされながらつながり、相互支援を行っています。野球で言えば監督のイエスさまを中心にチームメイトのような存在です。

本日は先ほど読まれました「主の晩餐について」の記事から御言葉を聞いていきたいと思います。
今から40年くらい前でしたが、私は大阪の神学校で学ぶことになり、前教会の牧師のお勧めもあってこの大阪教会に客員として出席する事になりました。そうして初めて主の晩餐が執り行われた時の事です。
大阪教会の会員は皆起立して主の晩餐に与っていたのですが。それ以外の人はたとえクリスチャンであっても、主の晩餐に与ることができなかったのです。私は大変衝撃を受け、「主を信じているのにどうして」という戸惑いと疎外感にかられて、しばらくすっきりしない日々が続きました。
そこで思い切って当時の大阪教会の牧師に、この主の晩餐の持ち方について、私の正直な思いを打ちあけました。すると牧師は、「排除や差別ではない。戦前のキリスト教会は国家の戦争に迎合していったその過ちは、教会という信仰共同体の一致が欠落していたからだ。そうした過ちを繰り返さないために、教会の共同体形成をしていくうえで、教会員のみという仕方にこだわっている。しかしその在り方も絶対的なものではない」と、私に話してくださったことを記憶しています。
この牧師のお話を聞いて、ああそういうかつての歴史的な時代の背景や考え方もあるのか、と思いました。これは良いも悪いも、学びが得られるのではないか、と大阪教会に飛び込んで、主の交わり加えていただく決心を私はしたのです。
それから年月が流れた2005年春、私が再び牧師として大阪教会に戻って来た時には、すでにその主の晩餐の持ち方も大きく変わっていました。大阪教会の教会員以ではないクリスチャンにも主の晩餐は開かれ、招かれるようになっていたのです。しかし、現在の主の晩餐に際しても、主イエスが十字架で裂かれた体と流された血は、私の罪のためのものであり、又その罪をあがなうためのものであり、神に立ち返って生きる救いのためのものである事には変わりありません。ただ今は、その主イエスにあって救いを願うすべての人が、神に招かれているのだという大阪教会の私たちの信仰をもって、パンと杯とを受ける取る人と主なる神との関係性が起されていく大切な宣教の機会としても行われております。

ところで今日の箇所でもひっかかりますのは、27-28節にかけて「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」と記されている点であります。
その「ふさわしくないまま」とは、どういうことを言っているのでしょうか。
みなさまの中で主の晩餐の時に、自分の普段の生活態度を振り返りますと、とても主の晩餐に与る資格など自分にはないと考え、受け取らなかったという経験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。
そこで、自分の内面に気づくこと、神との和解を求め、キリストの救いを信じて、神に向き直った人には立ち返るように努めることが大切です。そこに感謝と賛美が生まれます。
ある方からお聞きした話ですが。以前通っていた教会で、子どもと一緒に主の晩餐に出席したお母さんが、バプテスマを受けていない子どもにパンとブドウジュースを与えたということで大きな問題になったそうです。そのお母さんは非常に辛い思いをしていました。これを聞いたその方は、後で教会の牧師にこの事に関して尋ねると、その牧師は「イエスさまであったらどうなさったでしょうかね」とおっしゃったそうです。すばらしい回答だと私は思いました。自分であれ、他者であれ、主ご自身との関係性が尊いのです。
「ふさわしくないままで」と、新共同訳聖書、又口語訳聖書、新改訳聖書も訳されていますが。原語に忠実に訳すなら、「ふさわしくない仕方で」と訳す方が原意に近いということです。
「ふさわしくないままで」というと、それぞれの資格や何らかの資格が問われている気もします。その資格を自分にあてはめ他者にもあてはめますと、「今自分はふさわしくない」「あなた、それはふさわしくない」と自他ともに裁いてしまうことになりかねません。しかし、「ふさわしくない仕方で」と言うことになると、そもそも主の晩餐の仕方、持ち方に問題があるという事です。
そうしたら、その後の29節で「主の体のことをわきまえずに飲み食いしている」、そういう仕方に問題があるにだということがわかります。
「主の体のことをわきまえず」。この時の主の晩餐はコリントの信徒の家に寄り集まって行われていたようです。いわゆる「家の教会」です。家を開放して礼拝をもつ信徒たちを総称して、コリント教会と言っていたわけですが。
 そうしたことから、21節以降あるように「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」であったり、又22節「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせる」ような、裕福な人たちの宴会のようになっていた、というのです。
初めのうちは福音を信じて救いと解放の恵みに与った信徒たちが、共にその喜びを分かち合おうと家に招き合って主の食卓を囲んでいたのでしょう。
ところが次第に信徒間でいろんな分派や確執が生じ、生活環境の違いから腹を満たし酔いつぶれている者がいる一方で、厳しい労働を終えて駆けつけた者や、奴隷であった人、また社会的に弱い立場に立たされている人たちは空腹のまま放置され、無視されるような事があったのです。
主の御体である教会の中でこうした事が起こっていた。パウロは「それでは、主の体と血を犯すことになります。」と、問いただすのです。それは主イエスがすべての人のために十字架の死を通してあがなって下さった、御救いの出来事を台無しにするような事だと、パウロは強く警告したのです。
使徒言行録2章44節以降には、誕生したばかりの初代教会が「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をした」様子が記されておりますが。
主イエスによって救われ、神との和解と救いに与った人たちが喜びと真心から集まり、そのあらゆる立場や違いを超えて一緒に「主の食卓を囲んで」晩餐を分かち合われているその豊かさ。それこそが神からの贈り物、ギフト。福音の顕れです。「キリストに救われている」。唯この一点における信仰の共同体。そこに聖霊によって導かれた私たちの間に、証しは生まれ、神の栄光は顕されていくのです。
主にあってだれもが尊い者とされている恵みを覚え合いながら共に主の食卓が囲めるそのところに、この世の集まりや組織とは異なる神の国、平和(平安)と喜びがあります。

主イエスは言われました。「これはあなたがたのためのわたしの体である」「この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である」。
私たちは神のひとり子、イエス・キリストが私の救いのために、又すべての人のために十字架で血を流し、御体を裂いて死なれたことを記念します。主の晩餐において神の尊い愛と憐みを忘れることがないようにと守り行っています。そうして、神との和解に与って生きるものとされている事を確認するのです。
又同様に、主が兄弟、姉妹のためにも尊い御体を裂き、血を流された事を私たちが忘れないように、隣人愛をもって生きるようにと、この主の晩餐に招いておられるのです。

さて、私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で守るようにしています。
教会によっては主の晩餐を、礼拝後に教会員のみが集まって行っているところもあります。
私たちの教会が礼拝の中で主の晩餐を行うのは、バプテスマもそうですが、それが見えるかたちでの主イエスの福音宣教と捉えているからです。
この後に、主の晩餐が行われますが。そこで「主イエスが自分の罪のために十字架にかかって死んでくださった救い主であることを信じ、従っていきたいという決心なさった方にもどうぞ主の晩餐に与ってください。」と招きがなされます。すべての人が主の御救いへと招かれている福音宣教としての主の晩餐が、主イエスの福音を受け入れていく素晴らしい機会となりますようにと、祈ります。
私たちはその主の晩餐において、十字架上での主イエスの御体を象徴するパンを裂きそれを戴きます。
そうして主が私を罪に滅びることから、ご自身の裂かれた肉をもって贖いとって下さったことを思い起こし確認します。
私が福岡の神学生時代に出席していた教会では、パン屋であった教会員の方が朝焼きあげたばかりのふかふかの丸い大きなパンを、牧師が主の晩餐の時に「アーメン、アーメン、アーメン」と唱えるたびに2分割さらに4分割、さらに8分割にして裂いていき、礼拝席の前の方々に渡して、それをさらにお隣の方、後の方に裂いては次の人にという具合に渡されていきました。そこで私たちはひとつのキリストの体であり、その一人ひとりが大切であることを体験的に覚えることができました。そのように主の愛といつくしみを共に分かち共に味わう天の国の豊かさが、主の晩餐には与えられています。
又、主の晩餐のぶどう酒は、主イエスの流された血によって、和解による平和の新しい契約を結んでくださった事を心に留める象徴であります。
コロナ禍以前は「ぶどう酒の入った一つの杯(器)」を共に回しながら飲むという教会もあったようですが。それも皆が同じくキリストの御血によって救いに与っていることの確認となったことでしょう。
一説では、それがお茶を頂く茶道の原型となったとも言われていますが。今は衛生面の問題などから予め杯に注がれたものが用意され、それぞれが取って戴くという教会が多いでしょう。
又ぶどう酒を使っている教会もありますが、私たちの教会では諸般の事情を踏まえ形は多少変わりましても、その信仰の精神は一つであります。
ところで先週の役員会で6月からの主の晩餐についての話し合いがなされました。主の晩餐のパンについて、小麦アレルギーの方もだれもが安心して頂く事ができるものを用意していこうという事になりました。本日は主の晩餐のパンの一部に、米粉から作ったパンを用意して頂きました。感謝です。

主にある兄弟姉妹と共に、「キリストのいのちに与っている」事を記念して思い起こし、味わうその奥深さ。その形式は教会によって様々ありましょうが。大切なことは主の愛と救いの原点を共に確認し、神と人、人と人とのゆるしと和解を共に覚えて生きるのです。それは主の霊、聖霊によってなされる業であります。

今日は「共に集うキリストの教会」と題し、御言葉に聞いていきました。
コロナ禍前は大阪教会ではよく一緒に食事を頂く機会が多く持たれていました。礼拝においては第一主日礼拝に持たれる「主の晩餐」、毎週礼拝後の愛さん昼食、祈祷会後の昼食、さらに月二回行われていた夕べの礼拝の中での食事と主の晩餐、そしてこども食堂と、実に食べる事づくしでしたけれども。コロナ禍以降、その機会も少なくなりましたが。教会の愛さんの食卓は単に食欲を満たすだけのものではありません。私たちは肉の糧を頂くと共に、霊の糧である神の愛と救い、平和を頂く事で豊かに生きることができます。今週もここからあゆみ出しましょう。

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「共に福音に与るために」

2024-04-28 14:05:30 | メッセージ
主日礼拝宣教 Ⅰコリント9・19~27                

四月も四週目を迎えますが、朝の光を受けた木々の新緑に心和む時節になりました。教会玄関前のバラ(アンジェラ)も開花し始めました。一方で今年も猛暑が予想されます。
今年3月に「外国人国籍者の永住許可取り消し法案」が閣議決定され、4月から国会で審議されています。一昨日はこのことを受けて外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)等が主催する緊急集会にオンラインで参加しました。この法案は倒産、失業、大病をして、税金や社会保障料支払うことができなかったり、在留カードの不携帯、その更新を怠った場合、又僅かな罪等で執行猶予になった場合等で長年かけて取得した永住権を取り消されてしまう、強制退去となるような法案だということを初めて知りました。集会では諸教会につながる外国人国籍の方、その家族の方、教会の方からの不安と戸惑いの声をお聞きしました。病や資産の問題等は誰にでも起こり得ることでありますから、もし自分や家族がそのような対象になったらと考えますと、それは大変なことです。願わくば、日本で移住生活をされておられる方々の命と尊厳とが守られますよう、祈りに覚えていきたいと思いました。

さて本日は、先ほど読まれましたⅠコリント9章19節~27節よりみ言葉を聞いていきます。
パウロは、19節で「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と述べます。
彼はキリストに出会う前は神の律法を規定通りに細かに守っていました。律法を守らない者を裁き見下し、律法そのものを否定しているように思えたクリスチャンを激しく迫害しました。
けれどもパウロは復活の主イエスと出会った時、その律法の本質といえる「神の愛」を知って打ち砕かれました。そうして自由な者とされたのです。それは囚われからの解放であり、まさしく救いでありました。この「福音」を伝えずにはいられなくなったパウロは、できるだけ多くの人たちを救いへと獲得するため、奴隷のようにすべての人に仕えるようになった、という事です。
どのようにかと言いますと、20-23節にあるように、「ユダヤに対しては、ユダヤ人のようになりましたユダヤ人を得るためです。・・・律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・律法を持たない人(異邦人)に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人には(ここでは信仰における確信がないまま偶像にささげられたものを食べて心痛めたりと、誘惑にからめとられていく人)に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてにものになりました」とパウロは述べています。
そこには、23節「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言う福音伝道のパッションがありました。けれどその情熱の原動力は、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるため」だと言うのです。あらゆる人と「わたしが福音に共にあずかる者となる。」そのためにパウロは「どんなことでもする」とまで言うのです。

祈祷会の聖書の学びの時に、ある方がこの箇所を読まれて、「クリスチャンになったばかりの時は福音に共に与るということを考えたこと、思ったことがなかった。ここで、パウロはどんな人にも福音を伝えるということを書いている。相手に一方的に福音を伝える以前にその人との関係が築いていき、そういう中で一緒にイエスさまのことをお話できるということが大事かと思った」とこう話されていました。そのとおりだと思います。
福音とは自分一人が救いと解放を受け、満足することからさらに隣人や他者と共にあずかっていくことにより益々ゆたかなものになっていくのです。
福音と出会う前のパウロは自分が律法を持っていると人を見下し、迫害していましたが。福音による解放と救いにあずかってからは、福音を共に分かち合う者となったのです。

クリスチャンであっても自分はすばらしい言葉を持っている、助けてあげるといような上から目線で一方通行の押しつけであるなら、相手は引いてしまうでしょう。パウロがここで「福音に共にあずかる者となる」と言っていることと相反することになるでしょう。
神の愛と良き訪れであります「福音に共にあずかりたい」と願う時、祈りと共に相手を尊敬する思いが与えられるでしょう。自分の信仰を持ちながら相手を尊重し、主の愛に依り頼んで祈りとりなす福音の伝達者でありたいと願います。

毎年越冬の夜回りに参加させて戴いていますが。釜が崎キリスト教協友会という団体はカトリックやプロテスタントの教会の神父、牧師、信徒、ミッションスクールの教師や学生などが自由に参加して活動していますけども。夜回りも炊き出しもキリスト教の布教目的ではなく、「神にあってみな尊い命」というところで、一つになって奉仕しています。
そういう中で、「ああ、キリストの人たちか」と気づき、福音に出会う方が起こされれば、それはうれしいことですが。
大震災の被災地で、炊き出しの食事と一緒にキリスト教のトラクトや聖書を差し出された人が、「善意と思ったが、ああ布教のためだったのか」と心閉ざされたという事が実際あったようです。
私の苦しみに共感して、と思っていたが。自分の信仰のためだったのかと、がっかりさせてしまうとしたのなら、パウロの言っていることは逆のことをしていることになりかねません。
「もし自分がその立場であったら、どう思うだろうか。」一人の尊い存在として向き合う中で、声かけをし、心に迎え入れてもらうところからまず始まっていくのですね。
キリストの教会がすばらしい言葉を持っているとか、私たちはそうした人たちに語るべき言葉があるという思いは、夜回りをするなかで打ち砕かれ、私自身のうちに語りかける言葉が乏しいなという無力さ、ただその人の側に寄り添うことしかできない経験をします。
それでも向き合い、関わりをもち続ける中で信頼関係が少しでも築かれていけるとしたならうれしいですね。それは神の恵みの賜物です。
そこにはもはや支援する側とか支援される側というような関係、教える側とか教えられる側というような関係はなく、互いが神に造られた尊厳を持って生き、生かされているという思いが与えられるのです。それもパウロのいう「福音に共にあずかる」ということなのではないかと思うのです。
そういうことから申しあげたいことは、パウロのいう福音は一人で受けるものではなく、共にあずかるものであり、共有していくものなのです。
主イエスは「天の国は実にあなたがたの『ただ中』にある」とおっしゃいましたが。そのとおりだと思います。私たちの間、又私たちの遣わされる人と人の間が、そのような天の国となりますようにと祈ります。

さて、今年はパリでオリンピックが開催されますが。4年に一度世界のスポーツの祭典となっていますオリンピックは、古代ギリシャの町の一つであったオリンピアがその発祥の地であります。
ギリシャのコリントの町では、イトモスというスポーツの祭典が2年に1度行われていたようで、24節以降に、それに関係する競技場、走者、拳闘、賞といった用語が出てきます。競技はレスリング、幅跳び、やり投げ、円盤投げ、競争、拳闘(ボクシング)の6種目がアスリートたちによって競われていたようです。
ここでパウロは競技場のアスリートたちを例にしながら、福音を語る自らの使徒としてのあり方について述べています。
まず、競技場で走る選手たちやボクシングの選手たちは、「賞を得る」ためにどう走るか、どう考え、目標を定めて、そのために体づくりをしたり、さまざまな備えを惜しまず臨みます。
私はスポーツ好きとはいえ、今ももっぱら応援をする側ですが。例えば野球の選手は試合前にストレッチやキャッチボール、打撃、守備を入念に行い、試合の為に備えています。見えないところでもものすごいトレーニングをこなし、日毎の生活においても自己節制をしておられることを知らされます。
パウロは、「やみくもに走ったり・・・空を打つような拳闘をする」ことのないよう、アスリートたちのように目標を立てます。それは、一人でも多くの人がキリストの福音に出会い、共に福音にあずかることができるようになるための目標でした。そのために自己節制し、賞を得る者のようにひたすら福音を伝えるキリスト者として生きようと努めるのです。
そこでパウロが大切にしたのは謙虚さでした。
先ほど触れましたように「福音」は、「私は救われた、恵まれたで終わり」というように自己完結するものではなく、共にあずかることによって一層ゆたかにされ、神がほめたたえられることになってゆくのです。隣人や他者との出会い、関わりを通して、福音が共に活きて働くことをそこで私たちは体験するのです。そこに聖霊が共に働いてくださるのであります。

又、パウロはここで節制することが大事だと言っています。
競技に臨む者はベストの状態で臨めるように心と体のコンディションを保っていく必要があります。いざ競技という時に不調になってしまうわけにはいきません。できる限りベストな状態で臨んでいくことが大事です。そこで競技者は日頃から食生活と体調の管理に気をつかい、心と体を養い、鍛えていくのです。

今日の主題であります「共に福音に与るために」出来る事とは何でしょう。
それは、まず自ら聖書を読み続け、み言葉に日々親しんでいくこと、日々祈り続けることです。
神と私との親密な関係を日々築いていくことは言うまでもないことです。又、共にみ言葉に聞き、共に祈り合うことも大切です。そのために教会が与えられています。自分と違った視点から聞くことで、より聖書の言葉が深みを増してきます。又、共に祈り合うことを通して、聖霊がゆたかにお働きくださることを知ることができるのです。そのような日毎の霊的養いを通して、共に福音あずかる者として建て上げられていくのです。

本日は「共に福音に与るために」と題して、み言葉に聞いてきましたが。
パウロは21節で「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っている」と述べました。
先に申しましたように、かつてのパウロは書き記された規定どおりを行うことで自分の義を立てようとしました。ところがそれは、神の救いの恵みを締め出すことであったのです。彼は石や皮や紙に書かれた律法に縛られていました。
しかし、この「キリストの律法」、それはキリストが肉のからだをとってわたしたちすべての人間と共におられるお方、インマヌエルの主としてこの世界においでくださり、それはすべての人の苦悩と痛みを知って、十字架にかかり、すべての人の救いと解放の道を切り拓いてくださった、この福音こそが「キリストの律法」なのです。
1章23節「わたしたちは、この十字架につけられているキリストを宣べ伝えています。」
今も、苦悩と痛みが絶えることがないこの世界にあって、神の愛を通して救いと解放の道を示してくださったキリストの福音を共に分かつ者とされ、今週もそれぞれの場へと主と共に遣わされてまいりましょう。お祈りいたしましょう。

「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3章14節)

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「共に生きるために」

2024-04-21 14:59:24 | メッセージ
礼拝宣教  Ⅰコリント8章1-13節

コリントは当時ギリシャの中心地として栄えていましたが、ギリシャ神話にありますように、まあ神々を崇めるため数々の偶像が町中の至るところにあり、多くの人がその偶像に供え物をするような風土でした。
コリント教会の信徒たちはそのような中で、自分たちの信仰を守っていました。
私の前任地の篠栗キリスト教会が建っています福岡県糟屋郡篠栗町は、九州の新四国霊場として町中に88か所の札所があり、春秋のシーズンになりますと九州各地から白装束を身にまとい杖をもったお遍路さんたちで賑わいます。篠栗町にはキリスト教会が篠栗教会ただ一つでありましたので、お遍路さんが88か所の札所を回り終った後に、ぜひともキリストの十字架を掲げる篠栗キリスト教会にて、唯一の神、万物の創造主、まことの救い主と出会って頂きたいという祈りをもって、福音宣教に励んでおりました。篠栗町にはこの天王寺と同様神社仏閣が多くありました。さらに、大きな涅槃像が建立され、いろんな地蔵もいたるところにありました。
そういうものを純粋な気持ちお参りなさる方々に対して、私は偶像を拝んでいると人々に対して裁くようなことはいたしませんでした。なぜなら、その方々の中には不治の病や難題を抱えておられるご家族のために、自分がお遍路さんになって巡礼されているという方がおられ、亡くなられた故人の魂が安らかであるようにとの切に願いながら札所を回っておられることを知ったからです。しかしだからといって、全天全地を創造し給う神さまが人が作った動かない石像や木像に宿るわけはありません。
かつて使徒パウロはギリシャ(アテネ)での伝道旅行の時(使徒17章22節以降)に、アテネの人々に次のように語りかけました。
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」
いくら科学や物理学が発展し進化しても、それらの研究が進めば進むほどすべてを構成している存在と意思を無視することができない、という思い至った学者は少なくありません。生ける神こそが、この世界と万物を創り、治めておられます。
又、偶像は何も仏像や仏壇、地蔵や観音に限りません。偶像を作り出すのは人であり、人の欲望や執着心、囚われた心が偶像を作り出していくのです。お金や財産、名誉や地位、権力。仕事、家庭ですら神よりも絶対的なものに成り代って崇拝対象となるのも、偶像を拝むことにほかなりません。
こうした世のものを絶対化し最優先するとき、神の御心に反する生き方に向かっていきます。それは他者や社会に対してもそうです。戦争や環境の悪化もその一つの事象であります。

聖書に戻りますが。当時コリントの町にはそのような偶像が多く立ち並び、祀られ、その参道が市場と化していました。お宮参りの観光地のように、露店が出て様々なものが売られ賑わっていたのでしょう。
コリントの市場で売られている物のなかには、ユダヤ人が律法で禁じられていた動物の肉や、ここで問題となった偶像に供えられてから卸された肉類なども並んでいたのでしょう。
律法に厳格なユダヤ人たちは、そういう肉などを一々詮索して、買い物をしたのです。
私も随分前にガリラヤとエルサレムに聖地旅行した折、ユダヤの方々が食事に関してのきまりを細かに守っておられる様子を伺い知りました。たとえば、かの地にはチーズ入りハンバーガーが売られておりませんでした。仔牛の肉をその母の乳で煮てはならないとの律法の書・レビ記の戒めを固く守られていたからだそうです。

先ほど読みましたコリントの教会には、ギリシャ人、ローマ人のほかユダヤ人のキリスト教徒もおりました。彼らの中には、「偶像に供えられたものは汚れているから、そういった食べ物を口にすべきかどうか」と悩み苦しんでいた人たちがいたのです。彼らが人の家に招かれて食事をする時も、偶像に供えられたものかを確認し、どう対処したらよいか迷っていました。ある人たちは食べても大丈夫だと言うし、別の人たちは絶対食べないと言うのです。彼らの日常生活はいつも悩ましいものでした。

この「偶像に供えられた肉について」、パウロ自らの考えを持っていました。それは今日読みました先に書かれています10章25節のところで次のように述べています。
「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。」
その根拠については、本日の8章4-6節で「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外いかなる神もいないことを、わたしたちは知っています・・・・たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神に帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちはこの主によって存在しているのです」と述べます。これがパウロの基本的なスタンスでありました。
ですから、それがたとえ偶像に供えられた肉であったとしても、イエス・キリストの御名によって神に感謝して頂く。「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」(10章26節)

ところでコリントの教会の一部の人たちは、こうした偶像の肉について「「我々は、知識を持っている」と誇り、良心が責められる人の前で平然と飲み食いしていました。
そのことに危機感をもったパウロは、7節のところで、「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」と説明します。
この「汚される」と言うのは、懸念や疑い、惑う心が出ることによって、良いはずのものが損なわれてしまうという事です。
さらにパウロは9節で、「あなたがたのこの自由な態度が、(良心の)弱い人々を罪に誘うようなことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱い(良心が弱い)のに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い(良心の)人が滅びてしまいます」と述べます。
心に確信が持てない人たち、ここでは「弱い人たち」と表現されていますが。その人たちは確信が持てないまま知識を持つ人の言葉のまま偶像に供えられた肉を食べ、後で後悔し、自分を責める人や信仰そのものにつまづく人がいたのです。
弱い良心の人が、あなたの知識と自由な態度によって滅びてします。これは衝撃的なことです。
1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とありますように、たとえ信仰の知識を持っていても、すべての人に向けられた神の愛を知るのでなければ、人を傷つけ罪を犯すことになるというのです。

私どもの教会のほんのすぐ側に建っております宗教施設がありますが。私が着任する前から年に一度、そこの信徒さんが「お裾わけです」と赤飯をもっていらっしゃっていました。私どもの教会からもイースターにはイースターエッグをお届けしていたことから、こうした交流が始まったようですが。
しかし、私たちの教会の中で、その頂き物をどのように扱い、対応したらよいのか、という話になったことがありました。コリントの信徒たちと同様、「食べても問題ない」「いや食べるのは問題だ」という様々な意見がでました。教会で食べると、良心に呵責や抵抗を感じる方がいるのなら、それはどうだろうか。食べても大丈夫という方に持ち帰ってもらえばどうだろうか。みんなでいろいろと話し合われました。結果的には、感謝の気持ちで頂いたうえで、教会の通車場に勤務されている方にお渡しし、受け取っていただきました。
各々これが正しいと思うことはあっても、共に祈りつつ、最善を見出そうと努めることができたこと。又、主にあって良心が責められる思いをされている方とも思いを通わせてあゆむことができたのは、幸いでした。

パウロはローマの信徒たちに向けても、「何を食べてもよい」と主張する人たちに向け、「信仰の弱い人」を受け入れなさい!と強く勧告します。そして「その考えを批判してはなりません。信仰的な考えで野菜しか食べない人を軽蔑することが決してあってはならない」(ローマ14章)と述べます。
その一方で、「信仰的な考えで野菜しか食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とも述べます。
その人たちも、何を食べてもよいと信じていた人を裁くようなことがあった。自分が野菜しか食べないとしても、自由に肉を食べる人を裁く権利はないのです。「食べる人は主のために食べる。食べない人も主のために食べない。」その人その人それぞれの主との関係性、そのあり方で神に感謝を表す。そのことが何よりも尊いのです。

私たちは小さい時から、親から言われること、あるいは先生と言われるような人から「そうあるべき」「そうすべき」との指摘を、考えるいとまもなくただ受け入れて育ってきたという経験を持つ方は多いのではないでしょうか。幼少期から、大きくなって皆と同じようにとか。常識的にということが教えら育ってきた。社会生活をしていく上でのルール、決まりごとを大切にし、学習し、知識をもつことによって、考える力、判断する力が培われていったわけですけれども。その一方でそれらの染みついた知識によって、「こうあるべき」「こうあって普通、あたりまえ、当然」といった固定観念に縛られ、それを人に押しつけたり、逆にそのように生きることが出来ない自分を傷つけることも起こっていくのです。
以前、私がアンガーマネージメントの基礎講座を受ける機会があった折、講師の方から、「わたしたちのうちには怒りの根があり、『自分はこうあるべきだ』というものが、わたしたちを怒らせるものの正体だと」教えていただいたのですが。「自分はこうあるべきだ」ということを、私は意識、無意識のうちに自分とは異なる人にも同様にあてはめていないだろうか。だとするなら、わたしたちはいつも怒りの感情に支配され続けている、とそのことをまず知らされたのです。普段から自分の怒りがどこから来ているのか。怒りと向き合うということについて学ぶことができました。

イエスさまも時に、心の憤りや怒りを表すことがありました。宮清めの折に貧しい者たちが蔑ろに扱われていたことを怒られたのです。ここでは、何に対して怒られたかということが大事です。
又、律法を学んだことで高慢になった人が、律法を守ることの困難な人を裁いて、罪人と決めつけていることを非常に残念に思われました。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(1b-3)
イエスさまは律法とは、「神を愛すること。そして自分を愛するように隣人を愛すること」にそのすべてがあると、仰せになりました。また、「自分にしてもらいたいと思うことは何でも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7章12節)と仰せになられました。
今週も今日のみ言葉を思いめぐらし、聖霊に導かれつつ、それぞれの場に遣わされてまいりましょう。
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「神の畑、神の建物」

2024-04-14 13:59:19 | メッセージ
礼拝宣教  Ⅰコリント3章1-15節

 春爛漫の4月、入学、就職、又異動のシーズンを迎えています。新しい歩みを始められた方に主の伴いがゆたかにありますようお祈りいたします。

先週はコリントの第一の手紙1章から、コリントの信徒たちの間で分派や派閥による争いが起こっていたというお話でした。
今日の3章の冒頭でパウロは、「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語った」と述べます。
ここに肉の人と霊の人が出てきますが。
「肉の人」とは、主を信じてクリスチャンとなったが、その考え方や生き方は相変わらず自分本位でキリストに倣うことなく、未だ妬みや争いが絶えず、悪口を言い合っている人たちのことを言っています。
一方、「霊の人」とは、人間的に立派であるとか、完全な者という意味ではなく、どんな時も神との関係を築き、キリストに倣いながら主の平和を祈り願いつつ日々を生きる、霊的に成長している人のことを言っているのです。
ある教会では牧師が替るたびに、前任の牧師に導かれた教会員の数人は教会に来なくなり、その教会に着任された牧師の数だけ分派ができたりすることもあるようですが。
コリント教会の党派争いは、伝道者のアポロが現れて表面化してきました。彼は旧約聖書に精通し、素晴らしい伝道の働きをしました。ところが、ある人々が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言う状態になっていたのです。

ここでパウロはまずコリント教会の信徒たちに5節、「アポロとは何者か。又、パウロとは、何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」と問いかけました。
アポロも私も福音の伝道者、福音のあかし人にすぎないということであります。
それにも拘わらず、コリントの信徒はパウロやアポロが自分たちに信仰を与えてくれた者であるかのように考え、パウロ党、アポロ党といった派閥を造り反目し続け、争い合っていたのです。
そればかりでなく、自らを知恵ある者として高慢になり、人を見下す者がいました。

パウロはこの高慢になっている人たちに対して、6節で「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と語ります。
いくらパウロが優れた働きをした者であったとしても、ただ信仰の苗を植える者であり、一方アポロがいくら雄弁な働きをした者であったとしても、その福音の苗にただ水を注ぐ者であったに過ぎないのです。
実際に信仰の苗を育て、実りへと至らすことがおできになるのは、すべてのものを創造し、生かし、守り育て、永遠の命に至らせことがおできになる救いの神さま以外にいません。すべては人の業ではなく、この神さまの御業なのです。

ところで、パウロが言う「成長」とは何でしょうか。
日本は敗戦後、高度成長期がありましたが。この場合の「成長」は前進する、発展する、大きくなる、拡大することを示すものであったでしょう。けれど教会が大きくなった、人が増えた、信仰生活が長くなったということが「成長」とは言いません。ここでパウロが成長と述べたことは、能力によるものでも発展といえるものでもないのです。
先に「肉の人」に対して「霊の人」という事が語られていましたが。この神が与えて下さる成長とは、どんな時もキリストに倣う人、神の御心に聞いて歩む人、神の栄光が顕されることを忍耐強く祈り続けていく人、でありましょう。
私たちの教会においても、90歳以上であるにもかかわらず遠方よりこの礼拝に毎週出席なさっておられる方がたがおられますが。そのお姿を通して、どんなにか共々に元気づけられ、励まされます。又、仕事などの忙しさの中でも時間をできる限り作って礼拝に参加されておられる方。礼拝に対面で参加できなくても、オンラインで礼拝に参加されておられる方。真摯に礼拝の音声配信に耳を傾けておられる方、なかなか礼拝に来ることができなくても教会の祝福を祈り続けておられる方とさまざまですが。神への感謝と喜びを色あせることなく保ち続けて生きるところに、その成長は確かなものとされていくのです。

パウロは9節のところで、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と述べています。
それは自分本位の生き方でなく、豊かな実を共にみのらせていく「神の協働者」ということです。
「あなたがたは神の畑」と述べたのは、6節でパウロは植え、アポロは水を注いだ神の協働者として共につながりながら、神さまの栄光が顕わされる畑として成長するということです。

では、「あなたがたは神の建物」と述べたのは、どういう事でしょう。
それは、一人ひとりと教会がしっかりと建て上げられていくことを示しています。
パウロは「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と述べています。この土台は11節にあるように「イエス・キリスト」であります。
パウロは「すでに据えられたこの土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない」とも述べます。
どのような建築に際しても、重要なのはまずきちんとした土台を据えることです。

私たちの大阪教会では2013年11月に3代目の新会堂が完成しました。
基礎には確かな土台をつくるため13本もの杭が打ち込まれました。まるでイエスさまと12弟子を表しているようにも思いましたが。何よりも起工式に聖書が据えられ土台ができました。神の言(ことば)であるイエス・キリストの信仰が据えられた、ということが重要でありました。
どんなに外観的に立派で頑丈に見えても、基礎となる土台がしっかりと据えられていないのなら、大きな災害が襲来すれば、どうなるかわかりません。梁や基礎は隠れて見えませんが、建物にとってはとても大事な要となるのです。
同様に、パウロは「だれも他の土台を据えることはできません」と述べ、その土台が「神からいただいた恵みによって据えました」(10節)と述べます。
この恵みとは、パウロ自らもそうであったように、罪のため十字架にはりつけにされ、その贖いの血によって赦しと新しい命を与えてくださるイエス・キリストの救いであります。
ですから、如何にキリスト教的であろうとも、賛美歌らしきものを歌っていようとも、説法が優れていようとも、イエス・キリストを神の救いの基としないのなら、それは本質を欠いたものであり、キリストの信仰とは言えません。
キリストが、今も十字架につけられたままのお姿で私たちを、この世界をとりなし続けていてくださる。この神の愛のお姿こそが私たちの信仰の「土台」なのです。

次にパウロは、このイエス・キリストという土台の上に、「おのおの、どのように建てるかについて注意すべきです」と述べます。
建物を建てる人は、まずどんな建材を用いるか。又、その設計を熟考するでしょう。
ある人は「金、銀、宝石」と、それぞれ自分がイエス・キリストという尊い土台にふさわしいと思えるもので建て上げていこうと努めます。
「木」という自然の建材を用いて土台の上に築こうとする人もいます。ある人は「草」や「わら」によって。それが劣っているとか悪いというのではありません。問題はどのような目的でそれを建てるのか。どのようなあり方で神の栄光を表わそうとしているのか、ということです。
これは、信仰者として人生を、日々どう生きるか。どのように建てあげていくかに、たとえられているのです。
そして、やがてそれがどのようなものであるかを試される日が必ずやってきます。

13節「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その日はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。」(13-15節)。
これは最後の審判と裁きの時を示しているように思いますが。同時にいつそういった試みられるような時が来るかわかりません。
現実の生活の中で信仰が揺さぶられる出来事が起こるかも知れません。又、思い通りにいかなくて喜びや感謝があせる事があるかも知れません。けれど、そこで主への信仰を投げ出してしまうなら、どれほどの損失でしょう。建築中半で神にある価値ある人生を投げ出さないためにはどうしたらよいのでしょう。
主イエスは、「だからいつも目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃいました。しっかりとした信仰の土台が築かれているかどうか。日毎、自分自身が主からの問いかけに聞いて、その信仰を吟味していくことがとても大切なことです。
どんな勇者も躓き倒れることがあるでしょう。しかし、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」とイザヤ書にあるとおりです。

パウロはここで、「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、仕事が焼き尽くされたその人は損害を受ける」とは述べても、その人が滅びるとは言っておりません。「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と述べるのです。
どういうことでしょうか。
救いは、人の業にあるのではなく、唯神の御手のうちにあるからです。
神さまの目的は私たちを断罪するためでなく、救うことにあるのです。
ですから大事なことは、私たちのすべての営み、その生の全領域においてイエス・キリストを土台としていくことであります。そのように神さまに信頼して生きる限り、神さまは御憐れみによってかならず救って下さるのです。

今日の聖書の言葉は、何を土台に据えて、人生設計をしているのかを問いかけます。
イエス・キリストの土台の上に人生をどのように建て上げていくか。その土台の尊い価値に気づいた人は、その建て方、生きる質も大きく変わってくることでしょう。
たとえ、試練や予想もしなかった出来事に遭遇したとしても、主が共におられる希望、イエス・キリストという「土台」を基に据えて生きる確かさは、何ものにも勝る恵みです。
今週もこの感謝と喜びのうちに歩みだしてまいりましょう。
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争いを越えて

2024-04-07 15:56:34 | メッセージ
礼拝宣教   Ⅰコリント1章10-18節

本日から6月いっぱい迄使徒パウロの書簡、コリントの信徒への手紙1と2を読んでまいります。
はじめに、当時のコリントの背景について少し申しますと。コリントは紀元前の古い時代から大変優れた文化をもっていました。ローマ領になってからコリント(現・ギリシャ)はアカイア州の首都となります。
南部の海沿にあった大きな2つの港は、地中海の西と東を結ぶ地点にあったので貿易による商業が非常に栄えました。又、さまざまな地域から人びとが海を渡って集まっていたので多民族、多文化、多宗教がこの地にもたらされ、混在していたのです。まあ、どことなくこの「大阪」とも重なってくるように思えますが。当時コリントには約60万の人が住む大都市であったようです。
一方で、古代ギリシャ神話の女神を祀る巨大神殿を山に建て、その神殿には多くの神殿娼婦が仕えることを公認する道徳的な退廃や賭博場も開かれていました。
そのようなコリントの地に使徒パウロは2年近く滞在します。そこで、パウロと同じく天幕造りで生計を立てていたユダヤ人のアキラとプリスキラ夫妻の家に住み込んで一緒に仕事をし、福音伝道に励んでいたのです。
当初はなかなか福音伝道がうまく進まなかったようですが。しかし行き詰まった中で、ユダヤ会堂長のクリスポなどその地の有力者や資産家が福音を信じて救われ、パウロの働きに加わり、コリントでの福音伝道は大きな実を結び、コリントの信徒の教会が建てあげられていくのです。
しかしその後パウロがコリントを離れますと、徐々にコリントの信徒たちの間で様々な問題が生じました。パウロはクロエという女性の家の人たちからその内実を知らされ、この手紙を書いたということです。

コリントの教会の中で大きな問題となっていたのは、「派閥争い」でした。これって昨今のニュースでもよく聞くフレーズですが。「パウロ派」「アポロ派」「ケファ派」すなわちペトロ派が存在し、それぞれを支持したり批判したりするような人たちがいたのです。
パウロもアポロもペトロも意図して派閥を作ったのではなく、周りの人たちの思惑によってそうした分派や派閥ができてしまったのです。
パウロはそのコリントの信徒たちに対して、「わたしたちの主イエス・キリストの名によって勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と書き送ります。
この「勧告」とは、大変強い言い方です。キリストの十字架による神と人、人と人との和解の福音を宣べ伝えてきたパウロにとって、それはあってはならないことであったからです。

先に申しましたように、コリントの教会には様々な人たちがいました。ギリシャ人やローマ人、ギリシャで生まれ育ったユダヤ人、その周辺諸国から、又遠く海を渡って移り住んだ人たちがキリストの共同体として教会形づくられていたのです。
そこでパウロを支持していた異邦人の信徒、哲学や知識にたけていたアポロを支持していた信徒、ケファ(ペトロ)を支持していたユダヤ人の信徒がいたというのは頷ける気がします。
ただ問題は、それぞれが派閥を作って自分たちこそ正しいと主張しては相手を非難し、争い合っていったということです。
ここでパウロが「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と言っているのは、皆同じようになりなさい、ということではありません。ギリシャ人やローマ人がユダヤ人のように生きる必要はないし、ユダヤ人が律法を守る習慣を棄てねばならないということでもありません。
神の救いの福音は、今もキリストによって分け隔てなくすべての人にもたらされたものです。
神から受け入れられたのですから、私たちもまた互いを尊重するようにと、聖書は奨めます。
では、そのように違いを認め合うためには、一体「何によって」心を一つにし思いを一つにし、固く結び合うか。そのことが重要なのです。

パウロはこの手紙の12章において、キリストを信じる群、教会を「キリストのからだ」と言い表しました。それは世の中の組織とは異なる、キリストを体現するつながりです。一人ひとりがその体の一部であり、それぞれの存在が尊く、キリストを頭として互いに組み合わされているのです。私たちはそれぞれの環境、生活スタイルも異なりますが、そうした違いを持つ人が互いにキリストの体として建てあげられていくことが神のみ業であり、素晴らしいのです。
人は誰も自分と考えや見方の異なる人との出会いや交流を通して、気づきや発見が与えられます。又、教会のつながりは、み言葉を聞くだけでなく行う者として生きる、体験的学びでもあります。さらに互いに励まし合い、祈り合う、「愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実、柔和、忍耐、自制心」という御霊の実をみのらせる救いの証し、主の恵みのゆたかさと奥深さを与り知ることにつながっていきます。
私たち一人ひとり同じ者などいません。それぞれに違いがあり、個性や特徴をもっています。
その一人ひとりが主にあってキリストのからだなる共同体とされていること自体奇跡であります。そこに聖霊のゆたかなお働きがあるからです。
全国規模では「日本バプテスト連盟」、関西圏では「関西地方教会連合」とのそれぞれの協力関係があることは、大きな励ましであり、感謝なことであります。その一つひとつの主のみ体なる教会がそれぞれの地域にあって福音をさらに伝え、分かち合っていけますよう、祈り努めてまいりましょう。

先週は、ブラジル人のチアゴさんの信仰告白とバプテスマが行われました。彼は英語で信仰告白する事で、英語が理解できる海外のクリスチャンたちにそれをシェアしたいと願われました。一方、日本の方には日本語に彼の信仰告白を翻訳して信仰を表明する事ができました。
このようなスタイルで信仰告白がもたれたのは私も初めてでしたが。言語の違いを越えて主の救いの証しを共有することができた、記念すべき時になりました。今の世界的状況の中で、こうして共に主のみ名をほめたたえることの意義を深く覚えました。
それにしましても不思議です。海外からの方が多いのは牧師の英語力が無いのに。感謝なことにここに招き集められている海外の方々は私の英語力以上の日本語力をもっておられます。翻訳ツールも助けになっています。しかし、やはり素晴らしいのは聖霊が常に良き導きをもってお働き下さり、国の違い、言語の違い、文化の違い、世代の違い、あらゆる違いを越えて、キリストにより救われた者のうちに愛と喜びを満たし、招いて下さるその豊かさです。
パウロはコリントの教会に起こった勢力争いや分派争いをどれほど残念に思ったことでしょう。
けれどそういったことは何もコリントの教会だけでなく、どの教会にも起こり得ることです。私はそういう話を聞いてきたし経験もしました。
そういったことから自由であるためには一体どうしたらよいでしょう。
そういうときに私たちは頭なる主の御前に静まって常にこう尋ねる必要があります。
「私たちはどうしてここにいるのか?同じ救いの主、イエスさまを信じて従う者とされて、唯イエスさまによって、ここに呼び集められたかのではないか。他に、どんな理由があるでしょうか。」そうご自分に問いかけるのです。主は必ず平安と、福音の持つ力、真の自由と解放を与えてくださいます。

さて、パウロは17節で「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで、告げ知らせるためだ」と述べます。
彼は12弟子に並ぶ使徒であり大伝道者ですが。自ら権利や力を振りかざし、教会と信徒を自分の思う通りにしようとはしません。パウロは唯ひたすらキリストの福音を知ってほしいと伝え、心から喜びのうちに、主がほめたたえられることを願ったのです。
パウロは世の知恵、すなわち「言葉の知恵」によらず、パウロ自ら経験した救い、十字架にかけられ、今も十字架に磔にされたまま執り成し続けていて下さるキリストを宣べ伝えるために、自分はキリストに遣わされたのだ、と述べます。それが神から与えられたパウロの召命でした。

キリスト者もそれぞれに、初めに主イエスを信じて救われ、信仰の告白しバプテスマを受けました。それはずいぶん昔であろうとも、主はその時のことを覚えておられ、今もその愛は変わることなく注がれています。
今年は教育委員の方から第2週の各会の時間に、例えば青年の会で壮年会や女性会の中から、証しやお話を聞く方を招き、その方の体験や信仰について尋ね合ったり、聞き合う機会を作っていきたいと提案がなされました。このことは女性会や壮年会の方々にとってもよき交流と信仰の確認の時にもなるでしょう。私たち一人ひとりに与えられた十字架の救いと証し。このキリストによってもたらされた平和の福音こそが、争いを越えて働く一致の力なのです。
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復活のキリストにある希望

2024-03-31 17:48:13 | メッセージ
礼拝宣教    ヨハネ20章11-23節 イースター

主イエスの復活を記念する「イースター」おめでとうございます。
本日は先にドス・サントス・チアゴさんの信仰告白とバプテスマが行われました。主のみ名をほめたたえます。こうして主なる神さまの救いのみ業が目に見える形であらわされ、分かち合われて大変うれしく思います。
バプテスマは、新しく生まれた信仰者の最初の第一歩であります。これからも信仰の闘いや試みが多くあるでしょうが。そんな時もバプテスマの出発点に立ち帰り、主の救いの恵みを再確認して、前に進んでいく力を頂くことができるのです。どうかサントス・チアゴさんのこれからのあゆみのためにとりなし、お祈りください。共にキリストのからだなる教会を立てあげてまいりましょう。

本日の箇所には、イエスさまが十字架刑で死を遂げられてから3日目のまだ薄暗い早朝、イエスさまが葬られた墓へ最初に向かったのはイエスさまの弟子たちではなく、かつて7つの悪霊をイエスさまから追いだしてもらったマグダラのマリアであったと記されています。
このマグダラのマリアは、十字架にかけられたイエスさまの傍らで、イエスさまの苦しみと死を嘆き悲しみました。イエスさまが十字架から降ろされてからも側を離れず、埋葬の場にも付いて行きました。そしてこの安息日明けの早朝、彼女はせめてイエスさまのお身体に香油を塗ってさしあげたいと墓を訪れたのです。彼女はすべての囚われから解放し、新しい人生を与えてくださったイエスさまのことをひとときも忘れることなどできなかったのでしょう。
ところが、マリアがイエスさまの墓に着くと、すでに石が取りのけてあり、イエスさまのお身体は見当らないのです。イエスさまが全く跡形もなく消えてしまった絶望感と悲しみから、墓の外で泣き続けていました。
人はみな草が枯れ花はしぼむように消え去り、やがてだれも思い出さなくなる。その空しさ、そのごとく。残された者はその記憶を忘れないように弔い、思い起こしてもやがては自分も消えてゆくものです。伝道の書(コへレトの言葉)にあるとおりです。
そのように墓の外で立ち尽くして泣いていたマリアでしたが、再び身をかがめて墓の中を確かめるように見ると、白い衣を着た二人の天使が座っているのが見えました。天使は、「婦人よ、なぜ泣いているのか」とマリアに語りかけます。
マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません」と答えるのですが。
後ろに何か、人の気配がしたのでしょう。悲しみに沈んで骨まで枯れそうな時、主が見えなくなる。わからなくなる。私たちだけではありません。このマリアも弟子たちもそのようなところを通りました。
マリアはすぐにイエスさまだと分りませんでしたが、イエスさまは語り続けます。「婦人よ、なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか」。
マリアはその相手が園丁だと思いました。ただ人がそう言っているだけだと思ったのです。でもそれは、イエスさまでした。
マリアは「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と答えます。
彼女はイエスさまを目の前にして言葉を交しても、それがイエスさまだということがわかりません。それは、彼女が捜していたのはイエスさまのなきがらだったからです。

私たちは何を探しているでしょうか?神学的教義か。生き方の指南か。愛か。希望か。何れも大事でしょう。けれどもそれらの源は生ける神、復活し、生きておられるキリスト、イエスなのです。
その生ける主イエスは彼女に、「マリア」と個人的に呼びかけます。その瞬間、マリアは眼が開かれ、それがイエスさまだとわかって「ラボニ」と、いつものように答えたというのです。
このラボニとはヘブル語で「敬愛する師」という意味でした。マリアはイエスさまのお言葉、その教えに救われ、生かされ、イエスさまを心から尊敬していたことが伝わってきますが。
ヨハネ福音書10章には、「羊は羊飼いの声を知っているのでついて行く」とあります。
マリアはイエスさまの声を知っていました。これは私たちも、毎日聖書のお言葉に親しむことの大切さを教えています。そうすることで、あ、これは主が私に語りかけておられる御声なんだ。逆に、いや、これは主の御声ではない、と聴きわけることができるからです。
マグダラのマリアは、その生きておられるイエスさまのお声だとわかった時、どんなに喜んだことでしょう。歓喜に溢れたマリアは思わずイエスさまにハグしようとしたのでしょうか。
ところが、イエスさまはマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われるのです。
ちょっとつれない気がしますが。イエスさまは彼女を突き放されたわけでは決してありません。
そのことについてイエスさまは、「まだ父のもとへ上っていないのだから」とおっしゃいます。
イエスさまはラボニ、敬愛する師という関係だけにとどまらず、救い主、イエス・キリストなるお方、いつも共におられ、生きておられる主として新しい、全く確かな関係性を築こうとされていたのです。
聖書は人生のためになる本、知識や教訓として学ぶことは意義があるでしょう。そういう意味でイエスさまはラボニ、尊敬できる先生です。
しかし最も大切なことは、イエスさまが死に打ち勝たれて復活された救い主、キリスト。時間、場所、立場をも超え、個人的に出会ってくださるお方であるとのことです。その主イエスとの決定的な出会いこそが重要なのです。
ここで、イエスさまはマリアに「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」言われました。
そうです。イエスさまは十字架の上ですべての人に救いの道が開かれるという大いなる御業を成し遂げられました。その勝利のしるしこそ、復活です。そしてこのよき知らせ、福音が全世界にもたらされるという大いなる神のご計画は、聖霊の降臨によって実現されるのです。
イエスさまはご自身が天に昇られた後、地上に残された弟子たちはじめ、イエスさまを慕って来た人たちに、弁護者であり、慰め主であられる聖霊を送られると、約束してくださいました。
そして、本日の21節のところで、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そう言って息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」とおっしゃるのです

復活のイエスさまはマリアに、「わたしの兄弟たちのところに行って、わたしが天の父のもとへ上ることを伝えなさい」と言われます。イエスさまはここでご自分の弟子たちを「わたしの兄弟」と呼ばれるのは、主イエスを信じる人たちがみな神の家族、兄弟、姉妹となるように願っておられたからです。それは主のもとに創り出される平和であり、「互いに愛し合いなさい」との主の強い願いとその教えによって実現されるべきビジョンなのです。

感情の嵐によってちりちりばらばらになった弟子たちでしたが、イエスさまを慕い求める思いはママグダラのマリアと同じであったのです。
後悔や自責の念にさいなまれる彼らを復活の主イエスは「わたしの兄弟」と呼んで、同様に神の家族として招かれるのです。
「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(18節)とあります。彼らはそれをどのように聞いていたことでしょう。

さて、その日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。狭い部屋の中にイエスの弟子たちと、いつもつき従っていた男女らが、いわばすし詰め状態で息を潜めていたのです。彼らは「イエスの仲間だ」ということで、いつ権力をもつユダヤ当局に捕まってしまうか分からない、いわば外的な恐れのため家の戸に鍵をかけていました。又、彼らはイエスさまを見捨てて逃げた事への内的恐れに苛まれていました。彼らの心も、内から鍵がかけられ、閉じこもっているような状態であったのです。
今も、権力や身近な人から激しい迫害を受ける人たちが世界中におられます。又、心の扉を開くことができない苦しみと痛みの中におられる人たちもいます。
ヨハネの福音書はそのような兄弟姉妹の真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、傷のある手と脇腹を見せて、復活のいのちを証明してくださるのです。
それはどれほどの勇気、希望を呼びさますものであったでしょうか。
復活のイエスさまは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われるのです。
それは神の家族とされた私たち、すなわちキリストの教会が聖霊により、罪の告白とゆるしの宣言という神の権能を与っていることにほかなりません。
今日まさに信仰告白とバプテスマ式が行われました。罪を告白し、キリストのあがないによるゆるしの宣言を受け、キリストの平和、平安の中に招き入れられているのです。

先に、チアゴさんは信仰告白の中で、どうしても許せない人びとに対しては非常に厳しい批判や厳しい言葉を使って裁いていた。しかし、これらの人びとに対してなした非難や裁きが、自分に対して使用された場合、自分は堪えられず、逃れられないような苦痛と恐れが生じると告白されました。そういう中で、どうすれば厳しく批判しないで済むのか?そのキーワードは、神さまの「受容」「許し」から始り、神さまへの感謝」へと向かった。それは聖書の言葉によるもので、「主の言葉(御言葉)には力がある」ことへの目覚めであったというのです。それはまさしく、生ける主イエス、キリストとの対話であり、体験です。
サントス・チアゴさんは、主イエスが「受けなさい」と言われた聖霊を受けられたからこそ、主イエスにある救いの確信、真の平和、平安を得られるのです。これからは、その主イエスから頂いている平和、平安をより多くの人と共有し、分かち合う者とされていきますよう、祈ります。
キリストにあって神の家族とされた私たちも又、互いにとりなし合いつつ、復活の主イエスは今も生きておられる、その証言者として、このイースター礼拝から心新たに歩み出してまいりましょう。

祈ります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
主なる神さま、今日、私たちの救い主、イエス・キリストのご復活をおぼえる主の日を迎えることができ感謝いたします。私たちに復活の信仰が与えられていることは何よりも大きな希望です。
今日はあなたにある平和、平安は揺るぎのないものであり、それは、わたしたちの救いの土台であることを知ることが出来ました。
この世界には悪の力が働いて戦争や紛争、収奪や搾取が繰りかえされてます。私たちはあなたの力に依り頼みます。絶えずあなたの平和と平安が地に満たされていくために祈り続けます。
この地上においてさまざまな葛藤や試みは尽きませんが、復活の主イエスにある希望をもって歩み続けることができますよう、絶えず守り導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アァメン
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十字架の言(ことば)

2024-03-24 18:30:56 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ19章17-30節 受難週

レント(受難節)の1ヶ月あまりヨハネ福音書からイエスさまの告別のお言葉を中心に読んできましたが。いよいよ本日イエスさまの十字架の受難と死を覚えて過ごす受難週を迎えました。今日はイエスさまの最期の1日に起こった記事より御言葉に聞いてまいりましょう。

「権限について」
まずこの19章8節以降には、「イエスさまを十字架につける権限」をめぐるローマ総督ポンテオ・ピラトとイエスさまとの問答が記されています。
その中でピラトが、「お前を釈放する権限も十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言うのでありますが、イエスさまは、「神に与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」とお答えになります。
そこでは、イエスさまが神の主権によって十字架にかけられたこと。イエスさまが、その父なる神の御心をお成し遂げられたことが明らかにされています。すべては世の力をもつ者の権限によらず、唯神さまの主権による救いの計画が成し遂げられ。この事実をイエスさまは明らかにされるのです。
このイエスさまのお言葉は、ローマ総督のピラトに神への畏れを呼び覚ましたのでしょうか。彼はイエスさまが十字架刑に相当するような罪を犯したと認めることはできず、その責任から逃れるために何とかイエスを釈放しようと努めるのです。
しかし、ユダヤの指導者たちは「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と叫びながら激しく抗議します。
さらに、ピラトが今一度「見よ、あなたたちの王だ」「あなたたちの王を十字架につけるというのか」と問いかけると、ユダヤの祭司長たちは「わたしたちは、ローマの皇帝のほかに王はありません」と断言するのです。彼らは神が約束された救い主、メシアなる主を拒んで、事もあろうに地上の王以外の王はいないと、彼らが何に仕えているかを暴露するのです。ピラトも又、神への畏れを抱きつつもイエスを彼らに引き渡します。

17節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所、それは処刑場でありますが、そこへ向かわれた」とあるように、イエスさまは「自ら十字架を背負われた」のです。
それは、イエスさまがあのゲッセマネの園で血の汗をしたらせながら懸命に祈られた末、父なる神の御心を悟り得、そこで確か父なる神の御心にご自身を従わせる道を選び取られた事によるものでしょう。一人の人間として大きな恐れや深い葛藤がある中で、なおも父なる神の御心、ご計画は成し遂げられることを切に願われたからでありましょう。まさに、「御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため、御子によって世が救われるため」(ヨハネ3章16節)であります。イエスさまはそのために自ら十字架を負われたのです。唯この神の愛と救いにすべての権限があるのです。

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」
さて、ローマの総督ピラトは、イエスさまの十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤの王」と、その罪状書きを掛けた。それは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれてあった」とあります。ヘブライ語はユダヤ人の言葉で、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシャ語は当時の地中海世界で広く使われていた共通語でした。それはいわば全世界に向けられた、「ナザレのイエスこそ王、神の救い」という真理のメッセージであったのです。
ユダヤの民は旧約時代からずっと来たるべきメシア(救世主)、ユダヤの王の到来を待ち望んでいました。この罪状書きを見たユダヤの指導者たちはピラトに、「この男はユダヤの王と自称した」と書き直してくださいと言うのであります。しかしピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と退けます。ピラトの中に正しい人を引き渡したという罪悪感があったかどうかはわかりませんが。このことによってナザレのイエスがユダヤの王であるばかりか、世界の王、救い主、キリストであることを全世界に布告されることになったのです。実にここに神の摂理が示されているのです。

「成し遂げられた」
このヨハネの福音書は、旧約聖書で預言された来るべきメシア(救世主)が、イエスさまであられることを証しています。
18節には「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真中にして両側に十字架につけた」とありますが。それは預言者イザヤの書53章12節に、「彼は罪人のひとりに数えられた」と記されたことが事実となったことを示しています。
又、「兵士たちがイエスさまの服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着は一枚織の衣になっていたのでくじ引きをして決めた」とあります。これはメシアの苦難を預言したといわれる詩編22編19節に「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と記されていることと同様のことがなされたということです。そのようにイエスさまの十字架の苦難と死は、旧約聖書に予め預言されていた神の救いを成し遂げられる苦難のしもべのお姿そのものであり、そのお方によって神のご計画の実現は成し遂げられたのだということが証されているのです。
28節「イエスが、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」とありますのも、「口は渇いて素焼きのかけらとなり」という旧約聖書の言葉が実現したのであり、兵士たちが、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出したのも、詩編の「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢(酸いぶどう酒)を飲ませようとします」と記されたメシアの苦難に対する預言の成就ととれます。
この酸いぶどう酒を差し出すために使われたヒソプの枝は、かつてイスラエルの民が囚われのエジプトから神によって導き出される折、エジプトで起ころうとしていた災いを過ぎ越すためにほふられた小羊の血をそのいヒソプの枝に浸してから、それぞれの家の門柱に塗ったのです。それによって民は滅ぼすものから守られ、救われるのです。
バプテスマのヨハネは、イエスさまを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。イエスさまはまさに世の罪を取り除く過ぎ越しの小羊として十字架上でほふられたのです。ヒソプの枝はその神の御心、救いのご計画が実現する証しであったのです。

「主イエスの十字架の下から始まる新しい関係」
最後に本日の箇所の中で、もう一つ心に留まる光景がございます。
それは、十字架のイエスさまの側に留まり続けていた女性たちのことです。
25節「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とあります。
マタイの福音書によれば、そこでは大勢の婦人たちが遠くから見守っていたともありますが
この女性たちはイエスさまがガリラヤにおられた時からいつも付き添い従ってきたようです。彼女らはイエスさまとその一行の身のまわりのことや食事のお世話をしてきたようですが。イエスさまが捕えられて弟子たちがみな逃げて行く中、なおイエスさまの十字架の側に留まり続け、その死の最期を見届けた彼女たちの姿にはひときわ存在感があります。 
苦しみの果てにいまわの息であられたイエスさまは、十字架の上から母とそのそばにいた愛弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。それから愛弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われます。
この愛弟子とはヤコブの兄弟ヨハネであったようですが。彼はイエスさまのお言葉を受けると自ら進んでイエスさまの母マリアを引きとり、世話をしたようです。イエスさまの母マリアも同様に彼の申し出を受けたのでしょう。
死ぬ直前にはよく自分の母親を家族や親族に、この人はあなたの親なのだからとか、子どもなのだからよろしく頼んだよ、と言うのが一般的にはあるでしょう。しかしここでイエスさまは、自分の肉親ではない愛する弟子に「この婦人はあなたの母です」。母には「この人はあなたの子です」と言われるのです。
イエスさまはマタイの福音書12章において、ご自分の母と兄弟が訪ねて来たことを聞かれた時、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」とおっしゃって、弟子たちの方を指してこう言われました。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟姉妹、また母である」と言われるのです。イエスさまに信頼し従って来た弟子たちや女性たちはどんなに嬉しく誇らしかったことでしょう。

この十字架のみそばで母マリアは、愛するわが子が、嘲りと暴力によって血にまみれた姿を前にしていました。かつて預言された通り、剣で心を刺し貫かれる苦しみがマリアを襲っていました。
イエスさまはわかっていらっしゃったのだと思います。たとえ肉親の兄弟がどんなに慰めても、到底癒されない。一生立ち直れない。それほどの状況、それほどの状態です。弟子たちも又、人生をかけて従って来たイエスさまを取り去られる絶望と暗闇の中にいました。
唯彼らが救われるとするなら、それはまさにすべてのご計画は神の御手のうちにあると知ること。その苦難の先には全世界に向けて、大いなる救いの喜びと神への賛美が起こされていく、そのキリストの勝利を体験していくことの外ありません。それは、主イエスが生きておられるという体験であり、今もとこしえまでも主イエスが共におられるという永遠の命の希望です。

イエスさまがこの時、愛する母、嘆き悲しむ母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と仰せになった。また愛する弟子に「見なさい。あなたの母です」と仰せになった。この瞬間、イエスさまと苦しみを共にする者の間に、血縁を超えた新しい人間の関係が生まれたのです。
主イエスにある者はだれも、この神の愛と救いによってつながる神の共同体へと招かれます。
ここにキリストの教会の本質がございます。それは、いかなる人もキリストにある父母兄弟姉妹として名を連ねる者として、互いを尊重し合う救いの喜びを共有しています。
今日もこの礼拝で、主イエスの恵みと救いを共に確認しましょう。さらにその喜びと平安がそれぞれの遣わされる場所に拡がっていきますよう、祈りつつ歩んでまいりましょう。

祈り
主なる神さま。受難週にあってイエスさまが十字架を自ら背負われてゴルゴダへの道を辿り、十字架に磔にされて死なれた箇所から、今日はイエスさまの十字架の言(ことば)からあなたのメッセージを聞いてきました。
今も、世界においてロシアとウクライナ、イスラエルとガザの間に激しい戦争が続き、先行きの見えない現状であります。又、中国と香港、ミャンマーの内戦、さらに先日はモスクワにおいて壮絶なテロが起こりました。今も憎悪と自己保身が渦巻く世界において、愚かな戦争や紛争が飽くことなく起こっております。イエスさまを十字架に再び磔にようとする悪しき力が働いておりますが、それらはあなたに対しては何の力も無い存在です。すべてを治めておられるあなたに私たちは信頼し続けます。
どうか、主よ、あなたがお造りになられたこの世界を憐れんでください。又、あなたご自身の愛と救いのもとに立ち返ることができるように導いてください。又、戦火の中で逃れる場もなく飢えと寒さと苦しみの中におかれているお一人おひとりをどうかお助けください。主よ、あなたの愛につながって、すべての悪と災いにも打ち克つことができるように、この世界を守り、導いてください。
私たちの主イエスのみ名によって祈ります。アァメン。
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「わたしはひとりではない」

2024-03-11 07:37:24 | メッセージ
礼拝宣教   ヨハネ16章 レントⅣ
                         
3月11日は東日本大震災から13年目となります。宣教後に「3.11東日本大震災から13年を数えての祈り」(東北バプテスト連合震災支援委員会)を共に心を合わせてお祈りいたします。
今年は元旦の日の夕方に能登半島を震源地とする大きな地震が起こりました。家族や親しい方を亡くし、悲しみと痛みのうちにある被災地の方に神さまの深い慰めと一歩ずつでも前にあゆみ出すことができますように。被災地から離れられて避難生活を余儀なくされた方には先行きが見える安心が与えられますように。一方ふるさとにとどまる決意をされた方に、一刻も早い生活環境、水道下水道等ライフラインの回復が進みますように、とお祈りいたします。

受難節も4週目に入りましたが。ヨハネ福音書から、イエスさまが御自分の時が来たことを自覚され、弟子たちに別れの説教をなさった箇所を読んでいます。先週は「ぶどうの木であるイエスさまにその枝である私たちがしっかりつながって生きることで、豊かに実を結ぶキリストの弟子となるなら、神は栄光をお受けになる」というお勧めをいただきました。福音に生きる歩みを続けてまいりましょう。

本日の16章はイエスさまの告別説教のクライマックスともいえる箇所であります。
ここでイエスさまはまず、弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と語られました。
キリストの使徒となった弟子たちは、イエスさまのお言葉のように迫害を受け、殉教する事も多くありました。そしてこの福音書を記したヨハネが教会の指導者として生きた時代、それはキリスト教会とその信徒への激しい迫害の最中でありました。
イエスさまの時代から2000年がたった今日の世界においても、混迷を深めるロシア・ウクライナ、中東、又中国やミャンマー、あるいは明るみにはなっていない様々な地域で、いまだに激しい思想統制や力による激しい弾圧や迫害が平和と正義を求めている人たちに向けられている現実がございます。今の日本では直接的に迫害や弾圧を受けることはめったにないでしょうが。戦時下にあって信条や信仰を貫こうとする時にバッシングを受けたり、脅されたり、職務を追われたりすることも実際に起こりました。家族、親族、又地域コミュニティーからの疎外も起こります。

イエスさまは「迫害の予告」の中で、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」とヨハネ5章18節以降のところで弟子たちにおっしゃったとおりです。
イエスさまご自身、迫害をお受けになり十字架の苦難と死を遂げられました、弾圧と攻撃の鉾先はキリストを証しし、福音を語り継いでいく弟子たちに向けられていくことになるのです。
イエスさまの存命中、弟子たちはイエスさまが一緒におられたので直接そういった危害が及ぶことはなかったのです。しかしイエスさまはご自分が去っていった後、弟子たちにそのような事態が起こって来ることを十分承知しておられました。
そうなった時に「慌てふためき、つまずくことがないように」と、弟子たちに語られたお言葉、それが今日16章なのです。
それは4節に「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしがそのように語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とあるとおりです。

この後必ずつまずきを覚えるようなことがある。迫害も起こってくる。しかしその折に、信じていたのに思いがけないことがふりかかって来たと、意気消沈するのではなく、「あの時、イエスさまがあのようにおっしゃったなぁ」と、思い出すようにということです。
このようにイエスさまは弟子たち、さらにイエスさまを信じるわたしたちすべての信徒の苦難の日、そこで起こって来る葛藤を予見なさって、危険や災難が間近に迫ってきた時にも、慌てふためき信仰を失うことのないようにと、語られたのです。

イエスさまが離れ去ることを聞いた弟子たちは、「本当にイエスさまが去って行かれるとしたら自分たちは一体どうなるのか」と、その心は悲しみと不安でいっぱいになりました。
そのような弟子たちにイエスさまは、「わたしが去って行くのは実を言うとあなたがたのためになる」と、思いがけないことを口になさるのです。
弟子たちは「なんでイエスさまが去って行かれることが、わたしたちのためになるのか」と、思っていたのではないでしょうか。
その弟子たちの思いを知っておられたイエスさまは、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者(助け主)をあなたがたに送る」(7)と約束されます。それは、イエスさまの弟子たち、さらに信徒たちを導いて真理をことごとく悟らせるお方、真理の霊、聖霊が来られるという約束であります。
そのとおり、イエスさま御自身が十字架におかかりになって死なれ、復活されて天に昇られた後、一同が一つとなって祈り求める中に聖霊が臨まれた出来事によって、イエスさまは生きておられ、永久までも共におられることを弟子たちは知るようになるのです。
しかし弟子たちは、この時が実現するまでまだイエスさまの言われた事がまったくわかりません。悲しみと先の見えない不安の中で一層頭は混乱するばかりであったのでしょう。  

そんな弟子たちに向けてイエスさまは希望の言葉を語られます。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変る」「今は、あなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない」。これは実体のない、安っぽいなぐさめではありません。
その日から2000年の間、今日の私たちもイエスさまを肉眼で見ることはできなくても、確かに弁護者、真理の霊、助け主なる聖霊が私たちのうちにも来られ、生きてお働きになっていることを私たちは知っています。
聖霊はキリストのからだなる教会をとおしてお働きになり、私たち一人ひとりにキリストが生きておられることを示し、その救いの御業を起し続けてくださるのです。
「悲しみは喜びに変る」。それは神からも見捨てられたと思った人生が、キリストを知って神の愛に生かされる人生に変わるその喜びです。「この喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。
聖霊に満たされるなら、どのような人もそのおかれた状況如何に関わらず、キリストにある喜びの人に変えられるのです。
「いや、自分は長く信仰生活を続けているが、そんな喜びなどない」と言う人もおられるかもしれません。そのようn神さまがまるで沈黙しておられるように感じられる時は、神さまはさらなる祈りと対話を待っておられるのかも知れません。ご一緒に祈り求めましょう。
それこそ、イエスさまが23-24節で「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われたことです。

ところで、弟子たちはこれまでも祈りについてイエスさまから学んできました。主の祈り、神さまと一対一での祈り、密室での祈り、野や山での祈りなど。しかし「イエスさまの御名によって」祈ったことはなかったのです。イエスさまが一緒におられたからそう祈る必要はなかったのです。
けれどもイエスさまはこの地上を去るにあたり、弟子たちに今後御自分の名によって父の神に祈ることを教えられます。
それは、父なる神さまと私たちの間を隔てていた壁が、イエスさまの十字架の死、すなわち罪の贖いによって取り除かる。聖霊がそのことをさとらせて下さり、イエスさまの御名で祈るとき直接父なる神さまが私たちの祈りを聞いてくださるのです。
本当に苦しい時、不安な時、もうどうしてよいかわからない時、心の内をさらけ出し、ヤコブのようにじっくりと相撲を取るように助けと祝福を主に求めて祈りましょう。主は生きておられます。

さて、弟子たちはイエスさまの言葉を聞き、30節「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と宣言します。それはその時の弟子たちなりの精一杯の信仰の表明でした。
しかし、イエスさまは「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と、おっしゃるのですね。
そして、こう言われます。
「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」。
その後イエスさまは捕えられて十字架に引き渡されます。この時肝心の弟子たちはイエスさまを置き去りにして逃げてしまうのです。イエスさまはひとりきりにされるのです。
しかし、イエスさまは「わたしはひとりでない。父が、共にいてくださる」という確信によって遂に十字架の苦難と死に向かわれるのです。
一方、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言った弟子たちは、自責の念にさいなまれることになります。
イエスさまはそのような弟子たちのことをお見通しでした。その弱さを十分ご存じでした。その弱さに泣き、落胆した時、そして苦難の時、まさに4節「その時が来たときに、わたしが語ったということを、あなたがたに思い出させるために」とイエスさまはこれらのことをお語りになりました。
弟子たちは、このイエスさまの深い愛を復活のイエスさまと出会うとき、さらに聖霊降臨を経験するとき、そして厳しい迫害に遭ったときにも思い出したことでしょう。

イエスさまはこうおっしゃいます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」。
つまり、イエスさまがもっておられた「わたしはひとりではない、父の神が共にいてくださる」という確信と平和。イエスさまはその確信と平和の中に弟子たちを、そして主イエスを信じる私たちを招いておられるのです。
「わたしはひとりではない」「神が共にいて下さる」。

人はだれも弱さを持っており、失敗はあります。人の決心もともすれば激しい風に遭えば飛んでいってしまうようなものです。にも拘らずイエスさまはそんな私たちの弱さを愛によってあるがまま包み込み、聖霊のお働きを通して、何度も立ち上がることができる「勇気」をくださいます。
それは人の努力やがんばりではなく、神の恵みであり、平安と喜びから生じる神の力なのです。

イエスさまは最後に言われます。
「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。
私たちも又、世の罪と死に勝利してくださった十字架のイエスさまを見上げつつ、神さまの愛と平和、聖霊に生かされて、救いの主、イエス・キリストの福音を分かち合ってまいりましょう。
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「わたしにつながっていなさい」

2024-03-03 20:10:33 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ15・1-17 レントⅢ

本日は「わたしはまことのぶどうの木」で始まる、よく知られるヨハネ15章の箇所から御言葉を聞いていきます。
旧約聖書のイザヤ書やエレミヤ書ではイスラエルがぶどう畑やぶどうの木にたとえられています。良いぶどうの木として植えられたはずのイスラエルの民が、良い実を結ばず悪い実、酸っぱすぎて口に入れる事もできないようなものになってしまいます。
そこで御父なる神は古いイスラエルに代わる新しい神の共同体を形づくるために、この世界に御子イエス・キリストを遣わされたのです。
ここで、イエスさまはぶどうの木のたとえを用いて、新しい神の民がイエスさまにつながって神の愛の共同体となるビジョンを示されます。そこには目的がありました。かつてイスラエルの民が陥った神の愛といつくしみを忘れ、人を裁き、分け隔てするような悪い実、腐ったような酸っぱい実ではなく、イエスさまにつながった一人ひとりが良い実を豊かに結ぶようにと教えられたのです。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。原文では「このわたしこそ、まことのぶどうの木である」、又は「まことのぶどうの木こそ、このわたしである」と訳せます。
神の御心に逆らう民の指導者たち、偽りのぶどうの木に対して、イエスさまは「わたしこそ、まことのぶどうの木である」と宣言なさったのです。
そこで、農夫である御父なる神さまは入念にその木の手入れをなさるのです。実を結ばない枝は取り除いて、良い実を結ばせるために注意深く選定をなさるのです。

2月に教会玄関先のバラの剪定が有志の奉仕者によって行われました。剪定の時期を逃しますと、バラの花がきれいには咲かないのだそうです。良い花がたくさん咲きそうな枝、柔軟に誘引することができる枝を残し、ゴロゴロして堅い枝は取り除く外ないそうです。そうしないと柔らかい枝の芽の成長を妨げ、花も傷めてしまう。ぶどうの木を剪定する場合もそうですが。良い実をみのらせるには手入れが欠かせません。実がついたぶどうを収穫したら、枝を支えていたつっかえを外し、良くない枝を取り除く選定をします。冬は幹とわずかな枝だけになりますが、そうする事で土からの養分やエネルギーを十分蓄えることができ、枝も力強く伸びて豊かに実をみのらせる事になるのです。又、ぶどうの苗木の場合は植えられてから3年は実を結ぶことはないそうですが。石の上にも3年、その間徹底した剪定で刈り込まれることによって生命を貯え、良き実を結ぶために備えられるそうです。まあそうやって手入れをされながら実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝はなお手入れがなされるというのですが。これってどこで実を結ぶか実を結ばないかを農夫である神さまは見分けられるかということですが。人にはわかりません。
唯ここで救われますのは、イエスさまが弟子たちに「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」とおっしゃっていることです。
教会の玄関前のバラも土を消毒し、葉がつながってくればこまめに消毒しないと根も葉も病気になり害虫がついて花は美しく咲きません。ぶどうも良い実をつけるためそういう手入れが大事です。
私たちも良い実を結ぶ者となるため「主のお言葉によって清くされる」のです。
私たち人間は自分でいくら洗っても、拭ってもなかなか消えない頑固でしつこい罪の性質というものがあります。
全き聖なるお方の前に立つと、「わたしはきよい者です」などとは決して言える者ではないでしょう。そのような私たちにとって本当にありがたいのは、イエスさまが「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃっている事です。
御父なる神さまは「イエスさまの話した言葉によって私たちをきよく」し、私たちが良い実を結ぶものとなることを何より望んでおられるのです。

まさにそのために、4節でイエスさまが「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃっている事が最も重要です。
「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない。」
ぶどうの枝だけでは実を生み出す生命力を持ち合わせていません。当然枝を土に差し込んでも実はつきません。同じようにイエスさまのお姿に倣う弟子たち、又私たちイエスさまを信じる者も、イエスさまにしっかりとつながり、結びついていかなければ実を結ぶことができません。どんなに良いように思える業を行っても、イエスさまとそのお言葉につながって生きるのでなければ、神さまの喜ばれる実を結ぶことはできないのです。
私たちはぶどうの幹であるイエスさまにつながり続け、御言葉にとどまり、聞き続けることによって豊かに実を結ぶ枝とされるのです。

ブラジルのCさんがイースター礼拝でのバプテスマに向けた準備会を持っていますが。彼は大阪教会に初めて来られたのが8月の水曜祈祷会、それから日曜の主日礼拝にほぼ毎週欠かさず出席し続けて6ヶ月が経ちました。早いものですが、また主のお計らいとお導きも早いものです。先日の準備会で彼に問いかけたのは、「なぜ、バプテスマがあなたに必要か?」ということでした。彼は「大阪教会に来る前までは、自分は正しい人間だから、キリストも教会も必要ないと否定的な感情を持っていた。ところが、全ての事はキリストがお裁きになられるので、もう自分で他人を裁く必要がなくなり、心が軽くなっていった。それに伴い周りの世界も変わった。変わることで自分の中にあった否定的な感情が変わった。キリストと教会が自分には必要だと感じるようになり、大阪教会に来た。キリストを知るためにもっともっと聖書から聞き、知識を求める生き方をしたい」と話してくださったのです。
今日のところで、イエスさまが「わたしにつながっていなさい」とおっしゃっていること。又、イエスさまが「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既にきよくなっている」とおっしゃったことをこの6ヶ月の間に彼の経験してきた事がよく分かりました。それが彼の「バプテスマ」を受ける理由であることを知ることができました。

イエスさまはおっしゃいます。5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人はゆたかに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
では、イエスさまにつながる生活、実を結ぶ生き方とはどのようなものでしょう。
9節-10節において、イエスさまは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と言われます。それはイエスさまの愛にとどまり続けることです。
「イエスさまが御父の神さまに愛されているように、わたしはイエスさまから愛されている」と信じていますか。わたしのために十字架について下さったこのイエスさまの愛、皆さんお一人おひとりは一人残らずイエスさまから愛されている存在です。その愛にどんな時もとどまり続けましょう。
そして10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とおっしゃいました。
この、イエスさまが「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃる掟です。
「互いに愛し合う」ことが「イエスさまの愛にとどまっている」事の証となるのです。

かの12弟子といえどもイエスさまのこのお言葉なくして神の愛に生きることはできませんでした。シモン・ペトロはイエスさまに他の弟子の不義に対して、「何度までゆるすべきでしょうか。7回までですか」と尋ねると、イエスさまが「7の70倍、つまり際限のないほどゆるしなさい」といさめられたというエピソードもありますが。
イエスさまは又、マタイ5章46節以降で、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」とおっしゃっています。
イエスさまは、「隣人を愛し、敵を憎め」という昔ながらの価値観を、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言い換え、自らそれを十字架の最期の時まで生きられたのです。

どこか心地よい関係、自分にメリットのある関係ならその苦労は負えるかも知れません。けれどもイエスさまが背負われたのは、ご自身にとって何のメリットにもならないこの世では非常識な程の愛なのです。
イエスさまは私たちをしばるためにおっしゃったのではありません。むしろ11節にありますように、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃるのです。
イエスさまにつながり、その愛と救いの福音を知れば知るほど感謝と喜び満ち溢れるようになるでしょう。それはまた、私たちが神さまのご計画によって、キリストのからだなる教会につながり続ける中で、「互いに愛し合う」というイエスさまの御言葉の深さと広さを発見し、私たちの神さまへの愛はゆたかに育まれていくのです。
神さまの愛はあまりにも大きく、私たちが持ち得うるものではありません。ちょっとしたことが起こると落ち込み揺らぐような私たちでありますけれども。だからこそイエスさまにつながり、とどまり、倣い従っていく者のうちに神さまは確かに働かれ、豊かに実を結ぶものとならせてくださるのです。
今日の個所の前には、イエスさまが弟子たちの前に身をかがめて仕える人となられて、その一人ひとりの足を洗われた「洗足」の記事があります。
「愛し合う」という事は、具体的に「仕え合う」ことなのだと、イエスさま自ら示されたのです。お互いの汚れた足をもいとわず仕え合う。
それは8節で、「あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それが明らかになることによって(傍線原文)、わたしの父は栄光をお受けになる。」アーメン。

イエスさまは、弟子たちをもはやしもべとは呼ばず、「友」と呼ばれました。それは「御父から聞いたことをすべて隠すことなく、弟子たちに知らせた」からです。
随分前ですが、ある高校生に「友」と呼べる存在についてのアンケートをとった結果を見て知ったのですが。1番多かったのは、「心を開いて安心して話せる人」。2番目に多いかったのは「本気で叱ってくれる人」。3番目に多かったのは「一緒にいるだけで楽しい人」だということです。おそらく今の高校生もこれに近い回答がでるのかも知れませんが。なるほどなぁと思いましたが。果たして3つの愛すべてを満たす友がいるでしょうか。いる人は幸いですね。けれど多くの場合、いつ、いかなる時も、いつまでも、という関係性は見出せないのではないでしょうか。
しかしイエスさまはいかなる時も、私たちのまことの「友」となってくださったのです。
今日は「わたしにつながっていなさい」との御言葉から、まずイエスさまと私の関係を築いていくことの大切さを確認しました。それは、私たちがゆたかに実を結ぶためだと、約束をしてくだったことなのです。この豊かな実の最高の結実は、イエスさまが十字架を通して示された神の愛です。その愛によって私たちはイエスさまにつながることが赦されているのです。イエスさまと私たちがつながることによって、私たちも豊かに実を結ぶものとされるのです。それは「互いに愛し合う」ことです。それこそが、神が栄光をお受けになることです。神の国を求め、平和を造り出すようここからあゆみだしましょう
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