礼拝宣教 創世記27章1節-29節
「お帰りなさい。」七日の旅路を守られ導かれ、週の始めの礼拝に招かれました恵みを感謝します。梅雨が開けましたが、猛暑日が今後も続くようです。熱中症にはご注意いただき、お身体をお大事ください。主がどうかお一人おひとりを見守って下さいますように心よりお祈りいたします。
さて、先週は創世記25章の「長子の権利を巡る」物語でした。そこには「長子の特権」に対するヤコブの思いの強さがよく表われていました。
エサウは煮物と引き換えに、長子の権利をヤコブに渡します。ヤコブは長子の特権を知っており、それを重んじました。エサウはその特権を当座の腹を満たすための煮物と交換してしまうのです。兄エサウは長子の権利を軽んじました。その長子の特権とは単に財産や地位でなく、信仰の父祖アブラハム、そして父イサクへと引継がれて来た信仰の遺産、特別な神からの賜物でした。
ヤコブはおだやかな人でいつも天幕の周りで働いていたのでありますから、おそらく父イサクの礼拝する姿、母リベカの言葉等なからそのことを知っていたので、それを重んじ強く求めていたのでありましょう。
今日もこうして主の天幕である教会にとどまり、御言葉に聞き、礼拝を捧げる私たちも又、キリストにあって、神が約束された祝福を受け継ぐ者となるよう招かれています。Ⅱコリント4章18節「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないモノは永遠に存続するからです。」この御言葉に生きるものとされてまいりましょう。
さて、本日は先ほど読まれました創世記27章のところから「祝福を巡って」と題し、御言葉に聞いていきます。
先週の「長子の権利を巡る」物語と本日の「祝福を巡る」物語は似てはいますが。前回の兄弟間の取引とは異なり、ここでは父イサク、母リベカ、兄息子エサウ、弟息子ヤコブと、四人の家族全員が登場し、今度は家族の中で生じた事件として伝えられています。 しかも今回は、「祝福」を巡り、まず母リベカが策略を企て、それをヤコブに情愛をもって強く働きかけたことが発端となっているのです。 ヤコブはリベカに言います。11-12節「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れば、だましているのがわかります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」ヤコブは当初から父をだますことについて躊躇したのです。それに対して母リベカはヤコブに言います。13節「わたしの子よ。その時にはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりにしなさい。」
ヤコブはこの母の溺愛ともいえる言葉のままに従い、父イサクに提供する料理の子山羊を引いて来てリベカに渡すと、リベカはそれを料理し、その毛皮を取って兄のように毛深くみせるためにヤコブの腕や滑らかな首に巻きつけます。そうして母リベカは自分が作った父イサクの好物の料理とパンをヤコブに渡すのです。
18節~23節は、ヤコブが父イサクから祝福をだまし取る場面です。 ここには、策略を企てたリベカと同様、ヤコブも父イサクの前で偽りの言葉を何度も重ね、祝福を奪い取ろうとする姿が描かれています。 20節には「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」とイサクが尋ねると、ヤコブは「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」と答えたとあります。これは嘘ではありません。母リベカに示された主の御計画により神が計らってくださった。そうとも言えるでしょう。けれども、人の策略と偽装であることには変わりありません。
さらにここを読みますと、ヤコブは祝福を自分のものにするために、目が良く見えない父の前で、エサウのようにふるまい、リベカの作った料理を自分が作ったように偽り、父の前に持って行きました。又、兄エサウの服を着て、毛皮で毛深く装い、体の体臭までも偽装し、兄エサウに違いありませんと偽り通して父から祝福を奪い取ったのです。ヤコブが父イサクの前でなしたことすべてが偽りで、真実がありませんでした。 父イサクがはじめに祝福の条件として兄エサウに提示したのは、3-4節「獲物を取ってきてわたしのために自ら料理を作って持って来るように」と命じたことでした。それは祝福を慕い求め、感謝を表す心備えを意味していたのです。それは又、兄エサウ自身が誠意を示し、心を備えて祝福を受けなければならないことを教えていたのです。 しかし、真に残念なことに、持って来られた煮物は祝福を譲り渡す場にふさわしい誠意あるものとは到底言えなかったということです。そうして、ヤコブにまんまとだまされたイサクは、弟ヤコブに対して祝福の宣言をしたのです。
30節以降のところには、この事態が判明した後、激しく体を震わせるイサク、悲痛な叫び声をあげるエサウの姿が描かれています。そこでエサウは「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん」と、泣き叫びます。 それに対して父イサクは「今となってはお前に何をしてやれようか」と言う外ありませんでした。父イサクから祝福を譲り受ける事ができなかった兄エサウが、なんだか気の毒な気がいたします。けれども、この兄エサウ、さらに彼から出るその子孫であるエドムの民が神から見放された、祝福から切り離されたということとは違うのです。エサウも、そのエドムの子孫も繁栄を得ますし、祝福のもとにある兄弟として恵みを受けていくことになるのです。
先週は弟ヤコブが煮物と引き換えに、兄エサウから長子の権利を手に入れたというお話でしたが。本日の箇所はそれと明らかに異なる内容であります。それはヤコブが父イサクをだまし続け、父からの祝福を奪ったからです。先にも申しましたが、それは身内、家族内から起りました。聖書はここを四人の家族の祝福を巡る愛憎劇として伝えているのです。信仰の父祖と言われたアブラハムとその家族にも赤裸々な愛憎劇、偽り事や争い事のあったことが記されていますが。本日の四人の家族に起こった事は、その時に起ったということではなく、すでに母リベカの胎内で双子の胎児たちが押し合い争っていたところから、すでに始まっていたのです。 その事について尋ねた母リベカに主は、創世記25章23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている」と言われました。そのことが予め主によって告知されていたのです。 四人の家族の愛憎劇から、ヤコブは父をだまし、裏切り、深く悲しませました。それは仇となってエサウからは恨みと憎しみを買い、父亡き後には逃亡の日々を送らなければならなくなるのです。ちなみにヤコブは故郷の帰還の折、主によって「イスラエル」と新たに命名されますが。その子孫たちもまた、エサウの子孫たちのアマレク人(イドマイ人)による敵意の脅威にさらされることになるのです。
聖書はこの家族内に生じた争いが民族、国民(くにたみ)の争いに、更には世界的規模の争いと係わり、連動していることを伝えています。イスラエルとパレスチナはもとより、ロシアとウクライナの戦争もその実例ではないでしょうか。 私たちの社会、身近なところ、又思いがけず自分自身に家族を巡る争いや愛憎劇が起こってまいります。これはともすれば、神の家族であるはずの教会でも起こり得るのです。人はそれぞれに様々な思いや願いを持ち生きています。それぞれの立場、状況、考え方があります。そういった社会に私たちは生きているのです。
先週の祈祷会で、本日の聖書箇所から出席者それぞれに受けた思いが分かち合われましたが。 ある方は「事の発端と原因は、母リベカさんがヤコブが祝福されるための策略を立て、それを溺愛するヤコブに情で訴え強いたこところにある。この祝福については家族四人が話し合いの場を設けて決めることができなかったのか」と言われました。確かにご尤もです。ただ問題は、それぞれの思惑に全く譲れないものがあったということでしょう。何しろ父イサクは長男エサウを祝福することが当然と考え、しかもそのエサウは力強く、生活能力も有りお気に入りでした。一方の母リベカはおだやかでいつも側にいる次男ヤコブを溺愛していました。さらに長子の権利を巡り何かとぎくしゃくしていた兄と弟。どちらが祝福を受けるか、四人の家族が一つのテーブルを囲んで家族会議を仮に持ったとしても、それぞれが自分の思うままを主張するばかりで何も解決されることはなかったように思えます。そうなると結局は家長のイサクがエサウを祝福したいという思いが通っていくことになりかねないと、リベカはそのことを見通した上で、ヤコブがイサクの祝福を受けられるようにと画策したのです。しかし、ここでのリベカは主に依り頼み、主のみ心が行われるようにということではなく、人間的な情愛も入り交じり、偽りと不義によって願望を実現しようとするものでした。それにヤコブは乗っかって偽装し、祝福を奪い取るのです。そうしたものには憎悪と争いが生じていきます。ヤコブのその後とその子孫であるイスラエルの民の歩みには争いごとがつきまといます。それは何と今もって続けられています。
イサクの祝福はヤコブに与えられましたが、それは予め定められており、主なる神が予告された通りでした。人には様々な感情、様々な思惑が働きます。そして不平や不満・・・。その根っこには主なる神とその御心を思わず、尋ね求めず、自我を押し通そうとする人の罪がはびこっています。
箴言19章21節には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」このように記されています。この家族の物語の後、ヤコブからイスラエルの民に祝福が受け継がれていくのでありますが。それから長い年月を経て時至り、その民の中から約束されたメシア、救い主、イエス・キリストがお生まれになります。 新約聖書の第二コリント5章19節には次のように記されています。 「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」「人の心には多くの計らいがある。しかし主の御旨のみが実現する。」イエス・キリストはその和解の福音が全世界の人々に告げ知らされ、それから主の日が来ると、言われました。それは主の御旨のみが実現する日であります。私たちの内外に様々な惑い、惑わし、思惑が生じ、働くような事が起こりましても、主の御前にとどまり、その御心がどこにあるのかを祈り、尋ね求め、御言葉に聞き従ってゆくものにされてまいりましょう。