日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

祝福を巡って

2024-07-21 14:07:21 | メッセージ
礼拝宣教 創世記27章1節-29節 

「お帰りなさい。」七日の旅路を守られ導かれ、週の始めの礼拝に招かれました恵みを感謝します。梅雨が開けましたが、猛暑日が今後も続くようです。熱中症にはご注意いただき、お身体をお大事ください。主がどうかお一人おひとりを見守って下さいますように心よりお祈りいたします。                        

さて、先週は創世記25章の「長子の権利を巡る」物語でした。そこには「長子の特権」に対するヤコブの思いの強さがよく表われていました。
エサウは煮物と引き換えに、長子の権利をヤコブに渡します。ヤコブは長子の特権を知っており、それを重んじました。エサウはその特権を当座の腹を満たすための煮物と交換してしまうのです。兄エサウは長子の権利を軽んじました。その長子の特権とは単に財産や地位でなく、信仰の父祖アブラハム、そして父イサクへと引継がれて来た信仰の遺産、特別な神からの賜物でした。
ヤコブはおだやかな人でいつも天幕の周りで働いていたのでありますから、おそらく父イサクの礼拝する姿、母リベカの言葉等なからそのことを知っていたので、それを重んじ強く求めていたのでありましょう。
今日もこうして主の天幕である教会にとどまり、御言葉に聞き、礼拝を捧げる私たちも又、キリストにあって、神が約束された祝福を受け継ぐ者となるよう招かれています。Ⅱコリント4章18節「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないモノは永遠に存続するからです。」この御言葉に生きるものとされてまいりましょう。

さて、本日は先ほど読まれました創世記27章のところから「祝福を巡って」と題し、御言葉に聞いていきます。
先週の「長子の権利を巡る」物語と本日の「祝福を巡る」物語は似てはいますが。前回の兄弟間の取引とは異なり、ここでは父イサク、母リベカ、兄息子エサウ、弟息子ヤコブと、四人の家族全員が登場し、今度は家族の中で生じた事件として伝えられています。                                  しかも今回は、「祝福」を巡り、まず母リベカが策略を企て、それをヤコブに情愛をもって強く働きかけたことが発端となっているのです。                         ヤコブはリベカに言います。11-12節「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れば、だましているのがわかります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」ヤコブは当初から父をだますことについて躊躇したのです。それに対して母リベカはヤコブに言います。13節「わたしの子よ。その時にはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりにしなさい。」
ヤコブはこの母の溺愛ともいえる言葉のままに従い、父イサクに提供する料理の子山羊を引いて来てリベカに渡すと、リベカはそれを料理し、その毛皮を取って兄のように毛深くみせるためにヤコブの腕や滑らかな首に巻きつけます。そうして母リベカは自分が作った父イサクの好物の料理とパンをヤコブに渡すのです。
18節~23節は、ヤコブが父イサクから祝福をだまし取る場面です。             ここには、策略を企てたリベカと同様、ヤコブも父イサクの前で偽りの言葉を何度も重ね、祝福を奪い取ろうとする姿が描かれています。                                        20節には「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」とイサクが尋ねると、ヤコブは「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」と答えたとあります。これは嘘ではありません。母リベカに示された主の御計画により神が計らってくださった。そうとも言えるでしょう。けれども、人の策略と偽装であることには変わりありません。
さらにここを読みますと、ヤコブは祝福を自分のものにするために、目が良く見えない父の前で、エサウのようにふるまい、リベカの作った料理を自分が作ったように偽り、父の前に持って行きました。又、兄エサウの服を着て、毛皮で毛深く装い、体の体臭までも偽装し、兄エサウに違いありませんと偽り通して父から祝福を奪い取ったのです。ヤコブが父イサクの前でなしたことすべてが偽りで、真実がありませんでした。                                 父イサクがはじめに祝福の条件として兄エサウに提示したのは、3-4節「獲物を取ってきてわたしのために自ら料理を作って持って来るように」と命じたことでした。それは祝福を慕い求め、感謝を表す心備えを意味していたのです。それは又、兄エサウ自身が誠意を示し、心を備えて祝福を受けなければならないことを教えていたのです。                              しかし、真に残念なことに、持って来られた煮物は祝福を譲り渡す場にふさわしい誠意あるものとは到底言えなかったということです。そうして、ヤコブにまんまとだまされたイサクは、弟ヤコブに対して祝福の宣言をしたのです。                
30節以降のところには、この事態が判明した後、激しく体を震わせるイサク、悲痛な叫び声をあげるエサウの姿が描かれています。そこでエサウは「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん」と、泣き叫びます。                     それに対して父イサクは「今となってはお前に何をしてやれようか」と言う外ありませんでした。父イサクから祝福を譲り受ける事ができなかった兄エサウが、なんだか気の毒な気がいたします。けれども、この兄エサウ、さらに彼から出るその子孫であるエドムの民が神から見放された、祝福から切り離されたということとは違うのです。エサウも、そのエドムの子孫も繁栄を得ますし、祝福のもとにある兄弟として恵みを受けていくことになるのです。
先週は弟ヤコブが煮物と引き換えに、兄エサウから長子の権利を手に入れたというお話でしたが。本日の箇所はそれと明らかに異なる内容であります。それはヤコブが父イサクをだまし続け、父からの祝福を奪ったからです。先にも申しましたが、それは身内、家族内から起りました。聖書はここを四人の家族の祝福を巡る愛憎劇として伝えているのです。信仰の父祖と言われたアブラハムとその家族にも赤裸々な愛憎劇、偽り事や争い事のあったことが記されていますが。本日の四人の家族に起こった事は、その時に起ったということではなく、すでに母リベカの胎内で双子の胎児たちが押し合い争っていたところから、すでに始まっていたのです。               その事について尋ねた母リベカに主は、創世記25章23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている」と言われました。そのことが予め主によって告知されていたのです。                                 四人の家族の愛憎劇から、ヤコブは父をだまし、裏切り、深く悲しませました。それは仇となってエサウからは恨みと憎しみを買い、父亡き後には逃亡の日々を送らなければならなくなるのです。ちなみにヤコブは故郷の帰還の折、主によって「イスラエル」と新たに命名されますが。その子孫たちもまた、エサウの子孫たちのアマレク人(イドマイ人)による敵意の脅威にさらされることになるのです。                   
聖書はこの家族内に生じた争いが民族、国民(くにたみ)の争いに、更には世界的規模の争いと係わり、連動していることを伝えています。イスラエルとパレスチナはもとより、ロシアとウクライナの戦争もその実例ではないでしょうか。                         私たちの社会、身近なところ、又思いがけず自分自身に家族を巡る争いや愛憎劇が起こってまいります。これはともすれば、神の家族であるはずの教会でも起こり得るのです。人はそれぞれに様々な思いや願いを持ち生きています。それぞれの立場、状況、考え方があります。そういった社会に私たちは生きているのです。
先週の祈祷会で、本日の聖書箇所から出席者それぞれに受けた思いが分かち合われましたが。  ある方は「事の発端と原因は、母リベカさんがヤコブが祝福されるための策略を立て、それを溺愛するヤコブに情で訴え強いたこところにある。この祝福については家族四人が話し合いの場を設けて決めることができなかったのか」と言われました。確かにご尤もです。ただ問題は、それぞれの思惑に全く譲れないものがあったということでしょう。何しろ父イサクは長男エサウを祝福することが当然と考え、しかもそのエサウは力強く、生活能力も有りお気に入りでした。一方の母リベカはおだやかでいつも側にいる次男ヤコブを溺愛していました。さらに長子の権利を巡り何かとぎくしゃくしていた兄と弟。どちらが祝福を受けるか、四人の家族が一つのテーブルを囲んで家族会議を仮に持ったとしても、それぞれが自分の思うままを主張するばかりで何も解決されることはなかったように思えます。そうなると結局は家長のイサクがエサウを祝福したいという思いが通っていくことになりかねないと、リベカはそのことを見通した上で、ヤコブがイサクの祝福を受けられるようにと画策したのです。しかし、ここでのリベカは主に依り頼み、主のみ心が行われるようにということではなく、人間的な情愛も入り交じり、偽りと不義によって願望を実現しようとするものでした。それにヤコブは乗っかって偽装し、祝福を奪い取るのです。そうしたものには憎悪と争いが生じていきます。ヤコブのその後とその子孫であるイスラエルの民の歩みには争いごとがつきまといます。それは何と今もって続けられています。
イサクの祝福はヤコブに与えられましたが、それは予め定められており、主なる神が予告された通りでした。人には様々な感情、様々な思惑が働きます。そして不平や不満・・・。その根っこには主なる神とその御心を思わず、尋ね求めず、自我を押し通そうとする人の罪がはびこっています。
箴言19章21節には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」このように記されています。この家族の物語の後、ヤコブからイスラエルの民に祝福が受け継がれていくのでありますが。それから長い年月を経て時至り、その民の中から約束されたメシア、救い主、イエス・キリストがお生まれになります。                             新約聖書の第二コリント5章19節には次のように記されています。             「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」「人の心には多くの計らいがある。しかし主の御旨のみが実現する。」イエス・キリストはその和解の福音が全世界の人々に告げ知らされ、それから主の日が来ると、言われました。それは主の御旨のみが実現する日であります。私たちの内外に様々な惑い、惑わし、思惑が生じ、働くような事が起こりましても、主の御前にとどまり、その御心がどこにあるのかを祈り、尋ね求め、御言葉に聞き従ってゆくものにされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長子の権利を巡って

2024-07-14 13:01:32 | メッセージ
礼拝宣教     創世記25章27~34節 

聖書には「千日は一日のようで、一日は千日のよう」という御言葉がございますが、ほんとうに主にあって、二度と繰り返されることのない人生の一日一日を、悔いなく歩んでいくものでありたいと願います。
先週は創世記25章19-26節のところから「信じて祈る」と題し、御言葉に聞きました。アブラハムの子孫であったイサク、そのイサクの子孫としてエサウとヤコブの兄弟が生まれます。この双子の兄弟が母リベカの胎内に宿っていた時から押し合っていたため、彼女は「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と不安になり、主のみ心を尋ねて祈ったのです。                                 そうすると主は御心を尋ね求める彼女にこう言われました。                      25章23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」これが主のご計画でありました。そうして先ほど本日の25章27-34節が読まれましたが。それは、アブラハム、イサクに続く、「長子の権利を巡る」やりとりです。       
長子の権利ということで思い浮かびますことは、家督や遺産の相続権でありますが。古今東西そこにはやっかいな問題が起こってくることが多々あります。                  イエスさまも群衆の1人から相続争いの調停をもちかけられましたが。その時唯一言、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」ルカ福音書12章のところでこのように言われました。本日の話もそうですが、聖書は世間一般の「長子の権利云々」について語っているのではありません。今日のところの小見出しにありますとおり「特権」、単に財産を受けるということではなく、それは神の国に係わるお話なのです。今日はその問題の本質を聖書から聞いていきたいと思います。
私たちがこのエサウとヤコブの箇所を読みますと、ヤコブが、長子としての権利をエサウからだまし取ったと思うと、ヤコブが悪賢い悪人であるかのように感じるのではないでしょうか。な思いを持つのではないでしょうか。
 しかし、ヤコブがエサウから長子の権利をだまし取ったから、ヤコブが長子の権利を得たのではありません。先にありましたように、この兄弟が母の胎内にいる時からすでに、兄が弟に仕えるようになることが、主のご計画として約束されていたという事です。
さて、「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。              
兄弟でも随分性格が異なるものです。同じような環境で生まれ育っても性質や性格、趣味嗜好はそれぞれです。まあ、えてして父親は活発で自分に利益をもたらしてくれそうな男子を目にかけることは多いかも知れません。           
信仰の人イサクであってもそうした肉的な思いは例外ではなかたようで、彼は「兄息子を愛したが、それは狩の獲物が好物だった」からであると、聖書は赤裸々に伝えます。                     
一方、「リベカは弟息子のヤコブを愛した」とあります。その理由については何も書かれていませんが。ただ先にも申しあげましたように、双子の兄弟が自分の胎内にいた時に、主なる神さまから示されたご計画とその約束を彼女は知っていたのです。リベカは天幕の周りで働くヤコブを愛していたのであります。

まあ、その穏やかな人、原語では「無垢な人」であるはずのヤコブが、兄から長子の権利を奪った、悪く言えばくすね取ったのは意外に思えます。「なぜ、兄を立ててあげないのか。」「兄のエサウが可哀そう。」「兄が空腹であるならば、なぜただ気前よく煮物を食べさせてあげないのか。」ヤコブは兄弟愛を軽んじた、と彼の人間性が問題視されるかもしれません。
しかし確かなのは、ヤコブが長子の権利に伴う特権の重大さを認識し、重んじていたということです。それはヤコブが良い人だとか、どういう人だということを超えて、彼は本来自分が最も大切にすべき宝が何かを知っていたということです。
ですから、彼は兄エサウに対して、その長子の権利への思いとその求めの強さが際立っていたのです。
32節でエサウが、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とイサクにいっているわけですが。そりゃあ、狩りをして疲れ切ってお腹をすかせ帰ってきたところに、美味しそうな赤いレンズ豆の煮物がフツフツと煮えているのが目に映り、いい匂いが鼻に入ってきたなら、もうたまらないでしょう。料理をしていたヤコブに、「その赤いものを食べさせて欲しい」と頼み込んだのは無理なからぬことです。
しかし、その後がまずかった・・・。長子の権利を求めるヤコブに対して、エサウは本能の向くままに、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などもうどうでもよい」と、何も考えることなしに答えてしまうのです。
エサウに自分に与えられていた特権をいとも簡単に手放して、ただ目の前のこと、お腹を満たすことだけを最優先したのです。
それが、アブラハム、イサクに与えられた神の祝福と約束という驚くべき特権であるということを軽んじてしまっていたのです。それは、彼が長子として託されるであろう財産、豊作、そして土地を相続するという権利に勝る、継承されるべく権利と祝福の約束を自ら手放すことを意味していたのです。
それは、エサウが心から神に信頼し、期待していなかったということです。      聖書はそれをして、エサウは「長子の権利」を軽んじた、といっているのです。エサウの取った態度を見るとき、生まれたままの性質、それを聖書で肉といいますが。肉は、神、霊のことに価値を認めません。その肉の性質は、神を知らない、又知ろうとしないゆえに、神の約束は曖昧で、価値のない、力のないものでしかないのです。
エサウをしてこの肉の思いは、ただ今のこと、現在のことが自分の中で最も大きな比重を占め、強い影響力をもっているのです。                    
そのような肉の思いによって生きる人は、信仰によらず、ただ目に見えるものによって支配されていますから、今の目に映るモノ、見えているモノだけを重んじます。その人にとって今がすべてであり、神の導きによる将来や未来は不確実なものでしかないのです。不安と恐れに日々振り回されて生きる外ないのです。
エサウが、ただ1食たべたいために、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」との投げやりともとれる言葉を発した中に、それらのことを読みとることができます。

一方のヤコブは、目に見えるものによらず、神の計画とその約束に自分をかけ、そこに人生の価値を見出そうとしていた。つまり霊的な目をもっていた。そのことに聖書は着眼しているのです。それはアブラハム、イサクが受け継いできた「信仰」でした。
ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」とあります。エサウは見えているものに心奪われ貪欲になりましたが、ヤコブはまだ見ていない神の祝福を待ち望んだのです。

アブラハム、イサク、そして本日のヤコブと、彼らは偉大な信仰の父祖、族長となりましたが。しかし彼らが完全無欠であったかというと、決してそうとはいえない一面もありました。聖書はそれを包み隠さず記します。
如何に偉大な信仰の先達にも人生の悩みがあった。又、弱さや欠点をもっていたし、過ちともとられるような事があったのです。そういう生身の人間としての営みの中で、主の大いなる恵みと憐れみを受け、神との関係性を築いて生きた。唯、信仰によって、彼らは神の祝福を求め、望み、受け取っていったのです。

今日のメッセージは、この「神への信仰」を私たちも敬承していくように、キリストを通して受け継いでいくようにと、聖書は私たちに語りかけているのであります。
確かに、目に見えることがらに日々翻弄され、不安や恐れを感じて生きているような私たちでもあります。
そうした中ですぐに答えを欲しがり、スマホを手に取ってその場限りの必要を満たしたり、目に見えるモノを頼みとし、安っぽい安心感でその場をしのいでいないだろうか?聖書は問いかけています。
ローマ8章28節以降にはこう記されています。口語訳聖書でお読みします。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となさるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」
そうです、唯、私たちが依り頼むべきお方は、この神です。
キリストにより、神が約束された祝福を受け継ぐ者となるよう招かれています。

最後にⅡコリント4章16~18節のお言葉をお読みして本日の宣教をとじます。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
さあ、ここから新たな週の歩みを踏み出してまいりましょう。いかなる時も、「主への信仰」をもって、来たるべき日を待ち望みつつ、歩んでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信じて祈る

2024-07-07 13:34:57 | メッセージ
主日礼拝宣教     創世記25章19-26節 

先週はコリント第二の手紙12章から御言葉を聞きましたが。この7月から9月末までは旧約聖書の創世記より、ヤコブとエサウの誕生物語、そしてヤコブの物語、さらにその息子ヨセフの物語を軸に御言葉に聞いていきます。
ところで先週は生まれる命に優劣をつける「旧優生保護法」に伴い、かつて国策として行われていた強制不妊処置が憲法違反であるとの最高裁判決が出されました。憲法13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、 公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。また、14条第1項には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、 政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、文字通りすべての国民の命の尊厳が重要視にされたといえるでしょう。そうした優生思想が今日の日本社会に未だにはびこっていることを、最高裁判決ははっきりと指摘したものです。殊に長い間耐え難い痛みと悲しみを背負わされて来られた多くの方々とご遺族の名誉と尊厳の回復を決するにはあまりにも歳月を要しましたが、その方々のお心がいやされますよう願い祈ります。人の命の重さを計ることなどできません。生まれた赤ちゃんの命を利己のために遺棄するという痛ましい事件が起こり続けています。決して正当化でないでしょう。創造主なる神がすべての命の主であり、生かしておられます。そこにすべての人の存在の意義があります。
本日は25章19-26節が読まれました。この箇所は信仰の父祖アブラハムの子イサクと妻リベカの間にその子エサウとヤコブが誕生する記事ですが。もし血統を受継ぐだけであるなら、何も双子でなくてもよかったわけです。しかし、エサウとヤコブの2人が生まれた。そこに神の御計画があったからです。それは神の御計画でした。                                    
イサクは40歳の時にリベカと結婚するのでありますが、2人にはその後ずっと子供ができませんでした。父アブラハムと母サラにも長年こどもが授からなかったのです。主なる神の呼びかけに応えて行き先も分からないまま旅に出た彼らは、唯、神の力に頼るほかありませんでした。そうして2人に待望の子、イサクが与えられました、その時彼らは100歳近い時でした。
そういう両親のことを知っていたイサクは、妻リベカのことを思いやり、妻のために主に祈り続けました。長い年月の後、リベカは60歳にして子どもをみごもります。
ところが、リベカに悩みが生じます。臨月に近づいて来ると胎内の子はよく動くそうですが。リベカは双子を宿しており、その胎内で双子の子供たちが押し合っていたのです。彼女は「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、「主の御心を尋ねるために出かる」のであります。
このエサウとヤコブの誕生に際しての父イサクと母リベカの役回り、役割は、唯、「信じて祈る」ことでした。二人は唯、主に依り頼む以外なく、そうして実際祈り続けたのです。これが彼らのなした大切な事でした。

詩編55編22節で次のようにうたわれております。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らっていてくださる。」
リベカには「ここに来れば主と一対一で向き合える。」そう思えるような場があったのです。
ここに来れば主は耳を傾けてくださり。御心をお尋ねすることができる。そんな心許せる居場所があったのです。私たちはそうした居場所があるでしょうか。この礼拝も、神さまが用意してくださる場であるとの思いがあるからこそ、こうして時間を聖別して集っておられることでしょう。仕事で疲れが残る中にも、主によって安息を得るため。また、命の源である方に依り頼むため。私たち一人ひとりが救いの感謝とそれぞれの願いをもってここに集ってまいります。
中にはご高齢で、お一人でも電車を乗り継いで、このところまで来られる方々もいらっしゃいますが。主を信じて、主に祈るお一人おひとりのお顔は、呼べばお答えになり、生きてお働きくださる神を仰ぎ見る喜びで満ちておられます。それは唯、主のお力と恵みのほかありません。

さて、リベカは祈りました。どのように祈ったのでしょう。
彼女は「胎内で子供たちが押し合うので、これでは、わたしはどうなるのでしょう」と、「主の御心を尋ねて祈った」のです。彼女は自分のしんどい状況、その心に抱えていた不安と恐れを、「ただ、主よ、助けて下さい」と祈るのではなく、「主の御心を尋ね求めた」のです。これこそが聖書の祈りの本質であります。
それは主を信じていなければ、又主に信頼していなければ、主への信仰によらなければこのように祈ることはできません。リベカは自分の主となられたお方を信じて祈るのです。

多くの人は「祈り」「祈願」を日常でも行っています。自分のための祈り、祈願をするだけでなく、家族、友人知人、社会や世界のために祈り、祈願されている方は世の中にはたくさんおられます。それはまことに尊いことです。けれども、そこには自分の願望、このようにあるべきだ、これがあたりまえだという、言わば自己中心的な押しつけが入り混じってもいます。
しかし聖書の祈りの本質は、「神さまの御心を尋ね求める」ということです。神こそが万物を治め、司っておられる主であることを認めなければなりません。

ところで、聖書には不妊という事情の中で、神さまの選びの器が生まれていくという不思議なエピソードが繰り返し伝えられています。先にも申しましたイサクの母サラの場合がそうでした。その後には、サムエルが誕生する時も、その母ハンナが不妊という事情を抱えていました。新約聖書ではバプテスマのヨハネが生まれる時、母エリサベトの胎は閉ざされる年齢になっていたにも拘わらず、その子が誕生しました。それだけではありません。神の御独り子、救いの主、イエスの誕生は、人の事情や状況があてはまらない、人としては困惑でしかない中で、唯、神の御心により起こった聖霊による出来事でありました。
マリアが天の使いによって受胎告知を告げられた時、当然戸惑いと畏れが生じました。しかしその中で彼女は、「お言葉どおり、この身になりますように」との祈りへと導かれていくのです。
それは今日の箇所で、リベカが主の御心を尋ねるために出かけて祈ったのと同様であります。マリアも、このリベカもまた、「信じて祈る」のです。

私たちにも答えが与えられないような長い祈りの時があります。
聖書教育の「毎日の言葉」ローマ8章25-26節より、綴られた言葉を引用させていただきます。
「まだ見ぬことを忍耐して待ち望む人々のことを、神は言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださいます。わたしたちの不安や恐れをとりなしてくださる神がおられます。様々な不安や恐れの中におられる方々のそばに、主がたえず共にいてくださいますように。」そのとおりです。
そのローマ8章21節―23節には次のように記されています。
「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
そうです。霊の初穂、すなわちイエス・キリストの救いを受け、その再創造の命の約束受けた私たちも又、被造物と同様、神の子とされること、からだが贖われる日のために、共に産みの苦しみを忍耐しつつ、待ち望んで、この地上の日々を生きているのです。そこには希望があるからです。
不妊のリベカが胎内にエサウとヤコブを宿すということは生物学的な出来事でありますけれども。ここで肝心なのは、その神の選びの器が、人間の力や業によらず、唯天から、神によって、つまり霊的に生まれる、ということであります。

リベカの祈り対して、主の答えがありました。
23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」
神のご計画です。
この意味については来週以降の礼拝宣教においてお話させていただきたいと思いますが。そこには兄と弟の運命と役割とでも言いましょうか。しかしそれは、この二人にとどまる事柄ではなく、後に続く歴史、民族史、あらゆる出来事につながっていく神のご計画です。それがリベカの胎内に宿っていたのです。

24節「月が満ちて出産の時が来ると、胎内にまさしく双子がいた。」
そうしてリベカはその双子の子を産むのです。
25-26節「先に出た子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その子はエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」とあります。
ここには双子の兄弟のそれぞれの特徴が描かれています。ヤコブは兄エサウのかかとをつかんで出て来たと、母の胎内にいた時から兄と押し合い争っていたのです。それはその誕生後の神のご計画を物語っていました。

本日は「信じて祈る」というテーマのもと御言葉に聞いてきました。
今日の箇所にはイサクの祈り、リベカの祈りがありましたが。私たちも又主に祈ることに対して貪欲になり、信じ、期待して祈っていこうではありませんか。
祈ること、執り成しの祈りもそうですが、それは実にエネルギーがいる、労力がいることです。
ある人は「祈りは労働だ」と言います。祈り続けるには忍耐が必要です。けれどももっと重要なことは、主を信じて祈る信仰であります。リベカが「主の御心を尋ねるために出かけた」ように。
私たちは心の底から主に望みをおいて祈っているでしょうか。主は私たちの願望や状況を遥かに超えたあり方でもって、その御心を示して答えくださいます。
「信じて祈る」。私たちの歩みであり続けてまいりましょう。お祈りします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弱さの中でこそ完全に働く力

2024-06-30 13:26:02 | メッセージ
礼拝宣教    Ⅱコリント12章1-10節 神学校週間 

本日より当教会では来週まで「神学校週間」を覚えます。バプテストの連盟、関西地方教会連合のつながりの中で、西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校と、そこに学ぶ献身者を覚え、福音宣教が豊かに今後も続けられていくよう祈り、支援するものであります。
39年前になりますが、私はこの日本バプテスト大阪教会の推薦を受けて西南学院大学神学部に入学が許されました。4年間の西南学院大学神学部での学び、又諸教会での貴重な研修等を経て、卒業。初任地の粕屋バプテスト教会篠栗伝道所に赴任し、4年後教会組織を経た篠栗キリスト教会の牧師として併せて14年間務めさせて頂きました。そして2005年4月、当大阪教会からの牧師招聘にお応えしてからもうすぐ20年になろうとしています。
あらためて思いますのは、主の深い憐みによって今日がある、ということです。そこには神学校の教師、諸先輩や仲間たち、寮母さん、又私を神学校に送り出してくださった教会と主にある兄弟姉妹、さらにバプテストの連盟諸教会のお祈りとご支援があったことを忘れることはできません
神学校卒業してから34年目になりますが、未だに私は自分の至らなさや弱さを感じることがあります。そのような自分を神さまはいつも助け支えてくださいました。又、多くの主にある同信の仲間たちにも助けられ、支えられて来ました。神学校週間が来る度にそのことを思わされ、心新たにされています。

先ほどⅡコリント12章1-10節の御言葉が読まれました。
今日の箇所は、10章から始まるの文脈で、パウロはコリントの教会の一部の人たちと対立することとなった主な理由について述べています。それは11章にありますように、パウロが皮肉を込めて「あの大使徒」と呼ぶ者たちのことでした。
彼らの目的は自分を売り込むためであり、「我こそは神の使い、キリストの正しい理解を語ることが出来るものだ」ということを、人に認めて貰おうとコリントの教会にやって来たのです。
彼らはパウロを出来の悪い指導者だとしきりに悪口を言ったり、誹謗中傷していました。パウロの同労者も同様に非難されていました。それだけではなく、その悪口を言う者たちの口調に惑わされた人と一緒になって、自分たちに同調しない信徒に酷い嫌がらせを行っていたのです。
パウロが言うように、彼らは「肉に従って自分たちのことを誇っていた」のです。

本日の12章1-10節の中には、ざっと見ただけで「誇り」という言葉が7回も出てきます。
ここで大事なのは、パウロが何を誇りとしているか、という事です。この12章は前の11章30節「誇る必要があるなら、わたしは弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言っているその事に注目しながら読む必要があるのです。
その11章では、コリントの教会の中でパウロを非難中傷し、おごり高ぶっていた反対者たちに対してパウロはあえて、自分は生粋の「ヘブライ人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」(11:22)であると言います。
又、実際パウロはコリント教会の開拓者で、創始者のような実績をもった人でもあったわけです。
パウロは自分を誇ろうとしてそう言ったのではなく、反対者たちによって自らの信頼と、伝えてきた福音までもがないがしろにされる中で、そうした事を口にしないわけにはいかなかったのです。
彼は「愚か者になったつもりで言いますが」と前置きしながら、加えてキリストの福音を伝え、証していく中で受けた数々の苦難と人としても弱さを列挙します。
このように反対者たちが自己主張し、自分を誇る態度とパウロの態度には大きな違いがありました。

さらに、28節で、パウロは日々起こってくる様々なトラブルの対応、コリントの教会だけでなくあらゆる教会についての心配ごとが日々あると言います。
29節「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。その心はいつも彼らを思うがゆえに、弱さを覚えるほどでした。

はじめにのところで、「パウロの誇り」というものがどのようなものであるかを知るには、この「弱さ」ということがキーワードとしてあることを申しましたが。パウロが30節で言う「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と、この弱さに関わる事柄。それはまさに、パウロがコリントの教会と信徒たちのことをいつも思いやり、心配するがゆえにその身に負った弱さであったということです。その愛するがゆえの弱さを誇ろうと、パウロは言うのです。

この弱さとは単に消極的な弱さではありません。
確かにパウロは、キリストの僕として福音を伝える中で起る苦難の数々に、自分の弱さを痛感したでしょう。しかしそれだけでなく、主の御救いに与る者となった教会の信徒たちの心配事で心を痛め、平静でいられなくなってしまう自分の状態を、「弱さ」と表現したのですね。それは愛すればこその弱さです。
パウロが言うように、数えきれないほどの困難と苦難の中でもたらされていった福音の実りが、決して損なわれてはならないというその思い。それをたとえるとするなら、農夫が長いこと大変な苦労をしてやっと結実した実を台風の季節に案じるような弱さと言えるでしょう。あるいは、こどもを案じる親の弱さに近いのかも知れません。
パウロの弱さとは、そのように共に福音に与るために生じる、いわば積極的な弱さとでもいうことができるかと思います。
まあそのように言いますと、何かパウロが元々大変情が厚く、責任感があって面倒みのよい私たちとはかけ離れた存在だと思う人もいるかもしれませんが、そういう事ではありません。何度も言いましたように、パウロはキリストと出会う前は、自らの知識や律法を遵守する生き方を誇り、我こそは、と教会とクリスチャンを激しく迫害して回るような人物だったのです。
それが、キリスト、生ける救い主との出会いによって徹底的に打ち砕かれてしまうのです。
そうして自分の弱さと罪を徹底的に思い知った彼は、そこで神の弱さ、すなわち十字架につけられたキリストだけが自分の滅びの根底まで来られて、救うことがおできになる唯一のお方であることをさとるのであります。
パウロの教会と信徒への愛。その源泉は、キリストの十字架の救いにあるのです。
それは罪に滅ぶ以外ない私たち一人ひとりのため、主が肉をとってこの地上に来られ、共に生き、十字架の苦難と死に至るまで、私たち罪深い者を愛し通してくださったその神の愛です。
主イエスの十字架の苦難と死の有様は、世の人々の目からすれば自分を救うこともできない弱い敗北者でありましょう。しかし、主イエスが負われたその弱さは、まさに私たちの弱さと共にあって、共に泣き、痛みと絶望さえ共にする神の愛なのです。この愛は、神のいつくしみであり、自らも痛む合い、人の苦しみを我が身に負う愛であります。
この弱さをまとったキリストのお姿によってパウロは救いを見出し、神の愛に生きる者とされたのです。人の正義感や同情は偏りと偏見がつきまといます。弱さの中で救いを与えられた私たちだからこそ、神のいつくしみの愛に生きる者とされていきたいと、切に願うものです。

さて、続く本日の12章のところを読みますと、パウロ自ら、第三の天、楽園にまで引き上げられたという体験をあたかも他人ごとのように語り、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と述べます。
パウロがあえてそう言ったのは、肉を誇りとする反対者たちの中には与えられた神秘的体験を誇り、売りものにするような人々もいたからです。
けれどもパウロ自身はこのような鮮烈な体験をしたにも拘わらず、「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と述べます。
ここでも「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇る」というのですね。
パウロはその「第三の天、楽園にまで引き上げられた体験」が自分を誇ることとなって、思い上がるようなことがないために、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(8節)と述べます。
この「とげ」とは、人につまずきを与えるのではと思われるほど目立つものであったとか、パウロの体に耐え難い痛みを与えるような病気のことだと言われておりますが。ガラテヤ書2章からは、ある種の眼病発作を抱えていたと推測されています。
いずれにせよ、パウロはそのとげを何とか取り去って下さるようにと主に3度願ったとあります。
この3度とは、単に3回という事ではなく、再三にわたって徹底的にという意味です。それほどまでにパウロは主に祈ったのです。
けれどパウロの祈りに対する主のお答えは意外なものでした。
9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」十分は英語で訳せばGreatest。以前使用していた口語訳聖書には「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と訳されていますが。この完全、Perfectの方がインパクトは強いですね。いずれしましても、その力は私のうちにあるのではなく、主の力であり、主から来るその力はまさに、私のその弱さの中でこそ完全に発揮されるのだということであります。

「弱さの中でこそ完全に発揮される」この神の力の力は、ギリシャ語でデュナミス、英語でダイナマイトの意味です。それは無から有を生じさせる、そんな爆発的な力なのです。また原語の「弱さ」は「無力」という意味があります。私の無力の中に完全に発揮される神の爆発的な力。
パウロは、とげが自分の身から取り去られる事を徹底的に祈ったにも拘わらず、その思い通りになりませんでした。
これさえなければ。これさえなおればもっとよい生き方ができるのに。もっと働けるのに。さらに認められて用いられるはずなのに。人はそう考えますけれども。主はそうはおっしゃいません。
むしろ、主はパウロに、そのとげがあるという弱さの中でこそ、人の力ではなく、神の力が完全に発揮される、とおっしゃるのです。

パウロは遂にこの主のお言葉によって、「それだから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と、宣言するに至ります。
キリストの十字架の苦難と死、その神の弱さを通してもたらされた完全な救いのみ業の体験。
それは、今まさに弱っている教会とその兄弟姉妹への力強い励ましとなりました。
自らの苦しみ、弱さの中から、同じように弱さに悩み、泣く者を叱咤激励し、コリントの教会は神の前にしっかりと立ち返ります。その後大きな福音の実りがコリントの街、さらにヨーロッパ全土に結実してゆくことになるのです。
まさしく、パウロのとげ、その弱さの中で働かれる神の力によって、人知を超えた救いの御業が爆発的な力をもって起こされていくのです。

今日のところをパウロはこう結びます。
10節「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
自分は弱くて力がなくて何もできないと無力さを感じる時、十字架にかけられる無力さによってすべての人に救いをもたらされたキリストが共におられます。十字架のキリストからあふれ出る神の救いの愛は、私たちの弱さや無力さを完全に補い、充たします。さらにその弱さにこそ働いて神の栄光は顕わされされるのです。
「弱さの中でこそ完全に発揮される力」を信じ、「私たちは弱い時にこそ強い」と宣言しつつ、今週もここからそれぞれの場へ遣わされていきましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の恵みによって

2024-06-23 18:26:27 | メッセージ
礼拝宣教 Ⅱコリント8章1-9節、9章6-8節 

本日の6月23日は「沖縄慰霊の日」、私たちはこの日を「命どぅ宝の日」として覚えております。その主旨については週報の巻頭言に書いております。
沖縄戦の惨禍を心に刻みつつ、今の現状のことを心に留め、沖縄をはじめ、世界各地で起こっている戦争と紛争の即時停戦のために続けてお祈りください。
さて、私たちの日本バプテスト大阪教会は日本バプテスト連盟に加盟しています。全国には315のバプテスト連盟の諸教会と伝道所があります。その中で関西地方には36の関西地方教会連合に連なる教会と伝道所が協力関係をもっています。この関係は何か教団教派から指示を受けるというトップダウン方式ではなく、それぞれの教会がバプテスト連盟とつながりながら、互いに覚え合い、祈り合う関係を大切にしているのです。それは教会が風通しよく健全な信仰が保たれるため、また課題や問題が生じた時の助けともなります。また1つの教会では世界伝道や献身者を世に送りだす働きは難しいことですし、災害等に対応した慈善の活動も大きなことはできません。それが連盟や連合のつながり、ネットワークを活かして実現され、継続されていることも、うれしいことです。

本日は久しぶりにスティブン・クンケルさんが来会されました。現在は正式に宣教師となって日本の地に再び遣わされて、東京を中心にそのお働きなさっておられます。今日は何とご両親と共にこの礼拝にご出席くださいました。心から歓迎いたします。お父様は南部バプテスト宣教団の派遣宣教師として40年間以上南米の3カ国において尊いお働きをなしてこられました。私たちのこの大阪教会は、1950年、今から74年前、アメリカ南部バプテスト宣教連盟のギレスピー宣教師はじめ、貴連盟の諸教会からの尊い献げものによってこの天王寺の地における伝道が開始されました。そうしてこの地に初代の教会堂が献堂されたのです。ました。まさに、その南部バプテスト連盟の方々によると祈り、その尊いご支援と献金によって、今があるということを感謝しています。

本日読まれました箇所は、当時貧しかったエルサレム教会のことを覚えて、異邦人の諸教会が自主的に献げ物を募り、支援して来たその報告と、その献げものについてのお勧めの記事です。
こうした教会相互の支援は、申しましたように私たちの教会が受けて来たものであり、私たち教会の信仰の先達はじめ、私たちも献げてきたものであります。福音の恵みはこのように多くの人の祈りと献身、奉仕や献げものを通して受け継がれてきたのです。
パウロはまず、コリント教会の信徒たちに対して、この働きをどのように励むべきかを示すために、マケドニア地方のフィリピやテサロニケの諸教会がエルサレム教会に行っていた支援を紹介します。
その8章1-6節で、パウロはその働きを「神の恵み」「神の業」なのだと言っています。慈善の業と訳されているのは、正しくは恵みの業です。
2節には、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」とありますが。
この「貧しさがあふれ出る」とはどういうことでしょう。
このマケドニアの地方は、肥沃な土地に豊かな天然資源に恵まれた地域であったのですが。当時ローマ帝国の支配下にあったため、人々はすべての資源を採取する権利が奪われるなど搾取され、貧しい生活を余儀なくされていました。又、政治的な迫害を受け、過大に税をかけられていました。さらに、キリスト教会の信者たちはそれらに加えてユダヤ教徒たちからの迫害を受けていたのです。
それにも拘わらず、彼らは「満ち満ちた喜び」が「あふれ出て」、「惜しまず施す豊かさとなった」。そこには、試練や極度の貧しさの只中でこそ、共におられるキリストを見出した人たち、「神の国」に属する人たちがいたということです。
豊かな中から溢れ出てというのは、誰でもわかります。けれども、困難や貧しさを知るからこそ、、あふれ出る。これが「神の恵みによる」豊かさであります。
その豊かさによって、同じく激しい苦しみと貧しさの中にあったエルサレムの教会と神の恵みを分かち合おうとするマケドニアの諸教会。常識的に考えますと、貧しく困難もあれば他者のために、何ができるとは思えません。けれども彼らは神の恵みによる福音の力に満たされて、同胞の痛みや苦しみにも思を寄せることが出来た。彼らは真の豊かさを見出す者となったのです。
彼らの豊かさについてパウロはこう述べます。
9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
イエス・キリスト御自身が私のために貧しくなられた。この恵みを覚えるたびに、私たちは豊かな者とされていることを思い起します。

ここに、マケドニアの諸教会の献げものは、「人に惜しまず施す豊かさとなった」とありますが。
この「豊かさ」も献金の額が大きいとか、多額であったということを意味するものではありません。
マルコ福音書12章で、レプタ2枚を献げた貧しい女性に対して、イエスさまは「他の誰よりもたくさん献げた」と言われました。それは、自らを献げるその心をご覧になったからです。
フィリピ2章には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と記されています。
キリストは、しもべ(僕)となって神と人とに仕え、最期は人の罪をすべてその身に背負い十字架で死なれたのです。主が自らを献げ尽くされたので、神の前にすべての人間の罪は赦され、贖われたのです。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
この神の御子、イエス・キリストのお姿こそ、本物の尊い献げもののであり、大いなる恵みの豊かさそのものです。
マケドニアの諸教会の献げもの、その豊かさはまさにこのキリストが十字架を通して与えて下さったはかりがたい大きな愛から溢れ出たものであったのです。感謝と喜びは尽きることなくあふれ、欠乏している兄弟姉妹や諸教会に分かち合われていきます。

また、マケドニアの諸教会の信徒たちは3節にありますように、「自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願った」と、パウロは述べます。
それは強いられてそうしたのではなく、むしろ自ら進んで、願い出たのです。
そこで重要なことは、5節にあるとおり、「彼らはまず主に、献げた」ということです。
ローマ12章でパウロは「自分の体を神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と述べたように、その基盤となるのは、主なる神を礼拝するということです。旧約聖書のネヘミヤ記8章には「主を喜び祝うことこと、あなたたちの力の源である」と記されてありますが。
まず、神への礼拝から、マケドニアの信徒たちは、「神の御心にそって」、苦しみと貧しさの中にあったエルサレム教会と同信の友のために自分自身を献げたのであります。

さて、パウロはそのマケドニアの諸教会の献げものを例にして、コリント教会の信徒たちに勧めしました。
実はコリントの教会も貧しいエルサレム教会を支えるための献げものについては、8章10節にあるように、願いつつも、どうもそれが途中で頓挫していたようです。
そこで、パウロはコリントの教会に、同労者であったテトスを派遣し、それを「やり遂げるように」と勧めをなしたのです。
それは先に読まれました9章にまで続きます。
パウロはコリント教会の信徒たちに次のように語ります。
9章6-8節「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。
この刈り入れとは福音の実りであり、救いの収穫です。キリストは神の国の収穫のため、1粒の種として地に落ち、死なれました。
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆるよい業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。アーメン。
この「わずか」とか「豊か」というのは、分量の多い少ないかを言っているのではありません。
献げものが少ないのはいけないとか、それが多いから良いということではありません。ここで戒められているのは、額の事ではなく、物惜しみする心です。
「豊かに」というのは、多額の献げものを勧めているのではなく、物惜しみしないで神が喜ばれる出来事につながるようにと、心から献げる勧めです。
8章4節によれば、具体的には福音の拡がりとそのための働き、人の支援や活動のためであることが4節に記されています。その献げものは慈善の業や奉仕でもあります。バプテスト連盟、またバプテスト女性連合、バプテスト壮年会連合、そして関西地方教会連合ではそのような協力伝道や献身者の支援、また海外への宣教師の支援、また震災支援の活動などもそうした働きであります。
それらすべては、「受けるよりは与える方が幸いである」との御言葉の豊かさに、私たちが共に与る喜びを見出しているからにほかなりません。
マタイ6章21節には、「あなたの富みのあるところに、あなたの心もある」ともイエスさまは語られています。私たちの心と富はどこにあるのでしょうか。主が語られた豊かさ、祝福に与る者とされたいと願います。
今日の9章8節に、「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
神さまは、私たちに必要なものをご存じであり、その必要を備え与えてくださいます。私たちを豊かに祝福し、あらゆる善い業に満ちあふれさせて下さる方を賛美します。

本日は、神の恵みに与った人たちの自発的献げもについて聖書から聞いてきました。
私たちのこの尊い命をはじめ、からだ、持てるもの、すべては創造主なる神さまから与っているものです。何よりも罪に死んで与えられた新しいいのち、ニューライフは、救い主なるイエス・キリストから賜ったものです。それは私たちが自我のため、私利私欲のために生きることから、自分たちのために死んで復活して下さった方の御心に生きる人生です。
神を愛し、他者を自分のように大事にするために戴いている「神の恵み」に感謝しつつ、日々励んでまいりましょう。
お祈りします。
「天の父よ、今日もこうして主を礼拝できます幸いを感謝します。私たちバプテストの群れは協力伝道とそのつながりを通して起される相互の主にある交わりを大切にしてきました。本日は沖縄の人々がうめきをもって願う、命と平和の祈りを共にしています。差別や偏見、誹謗中傷がどれほど命と社会をむしばんでいるでしょうか。かつては琉球王国であった沖縄の歴史から、それを顕著に知らされます。それは沖縄にのみならず、天地創造の神であられるあなたがお造りになった世界、そのすべての人の大きな課題です。すべてを統治しておられる主であるあなたを畏れ、あなたに立ち返り、その教えと戒めに聞き、従い、命と平和、和解に努める世界となりますように祈り願います。
また、聖書から「神の恵みによて」共に生きる豊かさを覚えました。今在る恵みは、あなたの救いとともに、その救いに与る方々の祈りと献身、奉仕や献げものを通して与えられていることを忘れることなく、不平や不満を退け、感謝をもって自らも分かち合う喜びで満たしてください。
救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しく創られた者として生きる

2024-06-16 19:11:17 | メッセージ
礼拝宣教  Ⅱコリントの信徒への手紙5:16-21 
                                                    高田ゆかり(平野バプテスト教会派遣伝道者)

私は平野区にあります、平野バプテスト教会の会員で高田ゆかりといいます。私の夫は3月まで平野教会の牧師でありましたが、体の不調の理由から3月いっぱいで牧師を引退しました。私は38年間牧師の連れ合いとして過ごしてきましたが、この4月から派遣伝道者として用いていただいています。派遣伝道者って何?と思われると思いますが、今日のように牧師がご用で不在だったり、ご病気だったり、休暇だったり、また無牧師の教会などに派遣されメッセージを語るという働きです。まだなりたての新米のほやほやです。今から約40年前に神学校を卒業し、長い長いブランクを経ての働きになりますので、いろいろ不十分な点はあるかとは思いますが精一杯務めたいと思います。
新しい年度が始まって2か月と少し経ちました。私の在籍する平野教会では先月やっと総会も終わり、もうすぐ新しく赴任される牧師を迎えようとしています。そして今年は創立50周年を迎える年なのです。50周年というだけで何かソワソワするようですし、新しく牧師先生をお迎えするという事も重なって、周囲の全てが新しくなったような気もします。が、しかしそういう気がするだけで、実は昨日と今日とでは何も違ってはいないのです。私たちが生きる現実はあまり変わることはありません。私たちが日ごろ背負っている重荷、苦しみ、悲しみは無くなる事もなく日常は続いているのです。
「古いものが過ぎ去り新しいものが生じた」今日の聖書の個所のように、こんな風に声高らかに言えたらどんなにいいでしょうか。しかし、パウロがこのように言っているのは、彼を取り巻く周囲の状況がすべて順調だったからではないのです。何かが一新されて変わったからでもありません。それどころか、パウロを取り巻く状況はとても厳しいものでした。パウロに大変批判的だった人もいましたし、陰口をいう人もいましたし、散々な目にあうことも多く大変に苦労したようです。

今日の聖書の個所、16節前半をお読みします。「それで私たちは今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」
それで、とありますように16節は、前の文章を受けて記されています。16節の前、14-15節で、パウロはこう記しています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」とあります。私たちは自分自身のためだけではなく、私たちに代わって死んで復活された方のために生きるものとされた、このように考えると、今後は誰をも肉に従って知ろうとはしない、このようにパウロは記しているのです。自分のためではなく、自分に代わって死んで復活された方のために生きるキリスト者は、人を評価する基準も変わってくるということです。肉に従ってとは、人間的な基準によってということです。パウロは今後だれをも肉に従って知ろうとはしないと記しましたが、これは積極的に言えば今後はだれをも霊に従って知ろうということであります。このことは、パウロがコリントの信徒たちをどのような者として知っていたかを考えるとわかります。肉に従ってコリントの信徒たちを判断するならば、彼らは決して聖なる者たちとは言えませんでした。
コリントの信徒への手紙の第一を読むとよくわかるのですが、イエス様が世を去ってから20年以上もの月日が経った頃の教会は様々な主張が入り乱れ、派閥ができ優劣を競いあっていました。パウロを中傷する者もおりましたし、信仰の弱い人につまずきを与えるような人たちもおりました。十字架の言葉ではなく人間の能力や知恵を誇り、そして崇拝するようになっていったのです。そのような問題だらけのコリントの信徒たちに、パウロはなんと言ったでしょうか。「あなたたちはそれでもキリスト者か、キリスト者失格だ」などとはいいませんでした。パウロはコリントの教会にこのように書き記したのです。
コリントの信徒への手紙第一1章4節-9節まで少し長いですがお読みします。
「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証があなたがたの間で確かなものとなったので、その結果あなたがたは賜物に何一つ欠けることころがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招きいれられたのです。」とあります。
なぜ、パウロは問題だらけのコリントの信徒たちにこのような言葉を書き送ったのでしょうか。それは、パウロがコリントの信徒たちを肉によってではなく霊によって知ったからなのです。パウロはイエス・キリストを信じない人たちを肉に従ってではなく、霊に従って知ろうとしていたからです。パウロはイエス・キリストを信じない人たちの行き着くところは滅びであることを知っていました。ですからパウロはだれよりも熱心に福音を宣べ伝えたのです。

今日の聖書の個所に戻ります。「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」パウロのこの言葉は先ほどもお話したようにパウロの取り巻く状態が改善されたので言ったわけではありません。17節に「だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。キリストと結ばれる、そのことによってわたしたちは新しく創造された者となる、そこにパウロのいう新しさがあるのです。キリストと結ばれる、以前の口語訳聖書では「だれでもキリストにあるならば」となっていました。キリストにある、キリストに結ばれる、これはどういうことでしょうか。キリストにある、これは英語で言うと、「イン クライスト」キリストの中にあるという言葉です。キリストの中に包まれる、すっぽり入ってしまう、こんな感じでしょうか。パウロは今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。パウロはキリストの中にあって、中からキリストを知るというのです。反対に外から知るというのは、それが「肉に従って知る」ということです。人間としての、目に見える外面的なところにおいてのみキリストを知ることです。パウロ自身も以前はそのように肉に従って外からキリストを知っていたのです。それは、ダマスコへ向かう途中で復活された主イエスとの出会いがある前のことです。それまでパウロは救い主メシアとは、昔のダビデ王のようなイメージ、イスラエルの民のために勇敢で異邦人である敵を打ち破る、イスラエルに繁栄をもたらす英雄としてのキリストのイメージでしょうか。
そして人間の基準でキリストを評価し、その弟子たちを迫害していたのです。そして、それはまたイエス・キリストを信じない多くのユダヤ人たちもそうでありました。イエス様は最高法院によって神を冒涜する者と判断され、ポンテオ・ピラトの手に引き渡され十字架にかかり死なれました。十字架につけられた者は神に呪われた者と考えられていました。旧約聖書の申命記21章22節にこう記されています。
「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」とあります。パウロは、神様に呪われて死んだ者が、約束のメシア・救い主であるはずがないと判断して、十字架につけられたイエスは、救い主メシア、キリストであると主張する人たちを、パウロはそんなことは救い主キリストの栄光を汚し、神様を冒涜する教えで許しがたいと思い、そのように信じて宣べ伝えている教会やキリスト者たちを迫害していたのです。つまり、パウロはサウロと言われていた当時、キリストのことを自分は知っていると思っていた、キリストはこんな方だというイメージを抱いていたのです。少なくても木の十字架にかかって死んだ、こんな方ではあり得ないという確信を持っていたのです。しかし、その知り方がまさに、肉に従っての、外からの知り方だったのです。しかし、そのパウロが肉に従ってではなく、霊に従ってイエス・キリストを知ることになるのです。
そのことが使徒言行録の9章に記されています。1節-9節までをお読みします。「さてサウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら男女問わず縛り上げエルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然天からの光が彼の周辺を照らした。サウロは地に倒れ「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」呼ばれる声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。」「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 このように彼は、ダマスコの途上において、復活された主イエスと出会いました。そしてその後パウロは肉に従ってではなく、霊に従ってキリストを知るものとされ、そしてキリストを宣べ伝える使徒として召されていくのです。キリスト者を迫害していた者が一転してキリストの伝道者となったのです。十字架にかけられた主イエスこそまことのキリスト、救い主であられる事を示していったのです。その時彼は、キリストについて、救い主について、全く新しい知り方を与えられました。自分の思いによって、自分の考えや、期待や、望みによってキリストを理解し、判断し、知るのではなく、むしろ神様ご自身の思いによって、そのみ心を内側からキリストを知るようになったのです。その時パウロに何が見えてきたでしょうか。それをパウロは14、15節で語っているのです。「わたしたちはこう考えます。一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んで下さった。その目的は生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
「一人の方がすべての人のために死んで下さった」主イエスは私たちすべての者のために死んで下さった救い主であられる。そのことが見えてきたのです。そして、主イエスが私たちのために死んで下さったことによって、私たちも死んだ、それは、私たちももう生きられないのだということではなくて、古い自分が死んで、主イエスが復活されたその復活の命にあずかる新しい自分を生きるということです。そのために主イエスは死んで下さったのです。この主イエスの十字架と復活によって、私たちは「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」者とされている。それが新しい自分です。つまり、私たちは、私たちのために死んで下さったキリストによって新しく生きる者とされたのです。このキリストを知ること、それが肉に従ってではなく、キリストと結ばれる者として、キリストの中にある者としてキリストを知ることです。それによって、私たちは新しく創造された者となる。古いものは過ぎ去り新しいものが生じたというのは、このことを言っているのです。このことにおいて働いているのはキリストの私たちへの愛であり、キリストを遣わして下さった神様の愛であります。
私たちは、この神様の愛に包まれていて、その中で生かされている、それがキリストと結ばれる、キリストの中にあるということです。このキリストの愛に包まれることによって私たちは、新しくなるのです。自分のために死んで復活して下さった方のために生きる者となるのです。それは具体的にどういうことか、それが18節にこのように語られています。
「これらはすべて神から出ることであって」これら、とは私たちが霊に従ってキリストを知る者とされたこと、また私たちがキリストに結ばれて新しく創造されたことをさしています。これらはすべて神様がして下さったことであるのです。その神様がキリストを通して私たちをご自分と和解させ、和解のために奉仕する任務を私たちに授けられたのです。
神様が示してくださった和解は、神様の側からの一方的な行為、十字架の死という形でなされました。私たちの罪のために破れてしまっていた関係を回復して下さったのです。神様が和解の手を差し伸べて下さっているので、私たちはそれを感謝して受け取ることができるのです。和解という言葉でここで大切なのは、先ほども言いましたように、神様が人間の罪を何ら問うことなく示されているものであるということです。お互いに争いやもめごとがあった時に、歩み寄ったとか、譲り合ったとか、妥協しあったとかいうものではありません。神様と人間がお互いに非を認めて歩みよるこういうことではありません。全くの神様からの一方的な行いなのです。パウロは「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられた」と記しています。私たちはイエス・キリストによって新しくされ、神様との和解を与えられたことによって、その和解の言葉を携えてそれぞれの生活へと、そこで出会う人々のもとへと遣わされていくのです。「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」とはこのことです。新しいものが生じたといっても、最初にも少し申し上げたように、私たちが生きている現実は大きく何か変わるわけではありません。負っている苦しみはなかなか無くなるわけではないし、急に豊かにされる訳でもありません。しかし、その中でも私たちは確実に新しくされていくのです。和解の使者として遣わされる私たちができることは、一所懸命に良い行いをするように努力するとか、勉強して資格を得るとか、そういうことではありません。ただ、主イエス・キリストが私のために死んで復活して下さったことを信じて、この方のために生きる、そのことです。和解の言葉を委ねられて、和解の使者として生きるなんて難しそうに聞こえるかもしれませんが、キリストの中にあるものとして、その愛に生かされている事を知るものとして、他の人々のことを見つめていくこと、キリストがこの人のためにも死んで下さった、そしてこの人のためにも復活して新しい命に生かそうとしておられる、そのことを常に覚えて人と接していく、そのことです。そして、それが誰をも肉に従って知ろうとしないということです。
そして和解のために奉仕するとは、この和解の言葉が公に語られるこの礼拝こそが和解のための最もたると言えるのではないでしょうか。ですから、今日こうして礼拝をご一緒しているみなさん、またここに来ることは出来なかったかもしれませんが、礼拝を覚えて祈り支えて下さる方々、お一人お一人が和解の言葉を委ねられたキリストの使者として、それぞれの生活の場に派遣されていくのです。
どうぞ、この新しい一週間が主によって愛されていることを実感する時がありますように。誰かとの出会いの中でその方を思う時、この方のためにもイエス様の十字架の出来事があったことを思い出せますように。何も良いことはなかった、体や心の不調があった、その時にその苦しみの中であなたのその苦しみを一緒に味わって下さった主の存在を知る時がありますようにと心から願います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不安な道から勝利の道へ

2024-06-09 13:12:10 | メッセージ
礼拝宣教   Ⅱコリント2・12-17 

先週も申しましたが、パウロはコリントの教会との間に様々な問題を抱えていました。その後もコリント教会の状況は改善されず、パウロ不在の中、さらに大きな問題をコリントの教会は抱え深刻な事態になっていました。パウロはコリント教会への訪問を願いました。しかし自分がそこに行くことによって、さらにコリントの教会との関係が悪化するかも知れないと悩んだ末、苦渋の選択として彼はコリント教会への訪問を控えます。その代わりに「涙ながらに」書いた手紙を同労者のテトスに託し、彼をコリントの教会へ遣わすのです。
7章8節によれば、パウロは「コリントの教会の信徒たちを苦しめた」と、自ら認識していました。
その手紙はコリントの信徒たちには大変厳しいものであったからです。
パウロはコリントの教会の信徒たちの反応、その状況が気がかりでならなかったのです。
パウロはこの頃エフェソにおりましたが、キリストの福音を伝えるためにトロアスに向かったとあります。そのトロアスで、コリントから帰って来るテトスに会えるのではないかと考えたようです。しかしそこではテトスに会うことができませんでした。パウロは不安な心を抱えながらトロアスを後にして、マケドニアに向かうのです。コリントに近いマケドニアであれば、もっと早くテトスに会えると期待したからです。まあ、それだけこの時のパウロの心はコリントの教会の信徒たちのことでいっぱいであったことがわかります。

ところが次の14節では、そのパウロがまるで長いトンネルから脱け出たかのように「神に感謝します」と、主をほめたたえているのです。
一体何があったのでしょうか?
その経緯について今日ところには書かれていませんが、パウロはマケドニアで悲願のテトスと再会し、コリントの教会に関する大変うれしい報告をテトスから受けたのです。
そのことを記した7章5-9節をお読みします。

そのようにコリントの教会の信徒たちの多くがパウロの心意を受け取り、「悔い改め」(7:9)、パウロを慕い、パウロのために嘆き悲しんでいた(7:7)。
この報告を受けたパウロは、慰めと喜びに溢れるのです。パウロはテトスと手をとり合って喜び、コリントの信徒たちのことを思い浮かべつつ、共に神に感謝をささげ、主をほめたたえました。そのパウロの気持ちは、この第二の手紙を通して、きっとコリントの教会の信徒たちに伝わったことでしょう。
ずっと不安があった、苦しみがあった、悩みがあったパウロ。しかし、それが喜びと平安に変えられるのです。
苦難の中で体験した「神の慰め」については先週の1章に書かれていましたが。パウロはこの2章で、これまでの不安に対する「キリストの勝利」をほめたたえ、神に感謝します。神は慰めの神であるだけでなく、不安からの勝利をもたらされるお方なのです。その「勝利の行進の列にわたしたちをいつも連ならせてくださる」(14節)というのです。
それは世の戦勝パレードとは全く異なります。パウロは争って勝つことを勧めているのではありません。戦争にせよ人間関係にせよ、争いは勝っても負けても、双方に深い傷跡を残します。又憎悪が憎悪を生んで数え切れない悲劇が起こって来たことを、私たちは知っています。

では、私たちはどのように戦い、どのように勝利を得るのでしょうか。キリストはどのように戦われたのでしょうか。それは神に信頼し、従うことによってです。
この「キリストの勝利」は、十字架を通して実現されました。
パウロが書き送った第一の手紙1章18節にはこうあります。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
パウロは人の言葉の知恵によらず、「神の力、神の知恵」であるキリストの十字架の救いを伝えました。イエス・キリストの十字架の死は失敗だと考える人たちもいたでしょう。それはローマ帝国が奴隷の反乱を防ぐために長時間十字架に架け、苦しみながら衰弱死するのを見せしめにする、そんな残酷な刑具であったのです。
それを知る者にとっては、十字架刑による無残な死を遂げた者が「神の子」だというのは到底ありえないことであり、それが「神の救い」と言うのは実に愚かとしか思えないことであったのです。
殊に律法や行いによる救いを願い、それを守ってきたユダヤ人にとっては、旧約聖書の「木に架けられた者は呪われる」という言葉そのもののイエス・キリスト、十字架の死でありました。
しかし、そのイエス・キリストの十字架の死は、すべての人間の罪の代償であったのです。
そのあがないのため主は人の呪いをその身に負われました。これこそ神の救いの御業であったのです。パウロは「十字架の言葉は・・・わたしたち救われる者には神の力です」と言うのですね。
まさに2000年を経た私共も、そのキリストの十字架を通して救われているわけであります。

パウロは1章21節で「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と書いていますが。それもキリストの十字架を語ることが、多くの人にとって愚かに見えたからです。知恵を探す異邦人には愚か、しるしを求めるユダヤ人にはつまずき以外の何ものでもなかったからです。                         
それにしても彼はどうしてそこまで「十字架のイエス・キリスト」の宣教にこだわったのでしょうか。パウロ自身キリストと出会う前はユダヤ人の宗教・学問におけるエリートとしての人生をひたすら歩んでいました。選民としての自意識とともに、神のために働くという誇りと自負を強く持っていたのです。
しかしその自分の知恵や能力、誇りというものが、キリストの信徒に対する排除と激しい迫害行為に向かわせるのです。そういう中、彼はダマスコの途上で「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。わたしはあなたが迫害している主である」と、復活の主の御声を聞くのですね。
パウロは「神のため、神のために」と、その熱心さと強い誇りと使命感によってキリスト教会と信徒たちを激しく迫害してきたことが、実は彼が熱心に信じ従ってきた神の御子を迫害していたことを知る事になるのです。この自分こそが神の子イエス・キリストを十字架につけ、殺害した罪人なのだという認識にいたるのです。神の愛の前に彼は罪を深く悔い改め、回心し、180度方向転換したパウロは、この神の恵みに応えて生きるキリスト者となります。そしてユダヤ以外の異邦世界に福音を告げ広めていく使徒として、貴い働きをなしていくことになるのです。
実に、パウロは自らの罪とその救いを経験するのですが、その柱は「キリストの十字架」であり、この十字架を通して「神は勝利された」とパウロは証言するのです。

キリストの十字架は私たちの価値観や世界観に問いかけてきます。
人はどうしても目に見えるものばかりに重きをおいてしまいがちです。実績や富を築き、社会的成功を修めた者が勝利者だと考える人は多いでしょう。また、能力主義に陥って人の価値を決めていないでしょうか。
ところが、キリストは勇ましい軍馬にではなく、柔和なろばの子に乗って来られ、へりくだりと弱さによって勝利なさったのです。神の栄光は、イエス・キリストの苦しみと死を通して示されましたが、そのイエス・キリストに神は復活の勝利を与えられたのです、

ここでパウロは「神が、そのキリストの勝利の行進に、いつも私たちをも連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と書いています。
「キリストを知るという知識」とはキリストの十字架とその救いです。神はそのキリストの香りを私たち通して至るところに、漂うよう用いてくださるのです。
それはキリストを信じ、キリストに従って神の愛といつくしみに生きようとする人たちです。そのような信徒たちを神は用いて、キリストの香りを放ってくださるのです。逆に、相手の気持ちを考えず、自分の考えを押しつけようとしたり、自分の先走った思いで人を従わせようと、いわば上からの目線で力み意気込むことで、かえってキリストの香りではなく、人工的な臭いがふりまかれる事になりかねません。
香りといいますと、香水や体臭を消すオードトワレは思い浮かべますが、これは化学物質によるマスキングで一時的によい香りがするかも知れません。その香りは人によって好みがあります。また嫌な臭いが消せても一時しのぎに過ぎません。しかし「キリストの香り」は神の愛といつくしみによって心砕かれ、謙虚にされた者の中から漂うように溢れいで、それは尽きることがありません。そこには聖霊の豊かなお働きが伴ってくださいます。

コリントの教会の信徒たちは、パウロの厳しい進言と勧告を、自らの事として吟味しました。一時的な悲しみや痛みを伴いましたが、謙虚に受け入れて神の前に謙虚に悔い改めました。この出来事を通して聖霊が教会の中にキリストの香りをもって臨まれます。
信徒たちは神の慰めといつくしみに包まれたことでしょう。
確認ですが。パウロはキリストの香りがこのようなものであると語ります。
それは第1に「キリストを知るという知識の香り」(14節)だということ。第2に「神にささげられる良い香り」(15節)であるということ。そして第3に「救われる者には命から命に至らせる香り」(16節)であるということです。
私たちも又、キリストの十字架による勝利の行進に連なりつつ、このような主の愛といつくしみの香りが漂う道を歩み通してゆきたいと願います。

今日の箇所の最後に、パウロはこう書き記しました。
「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」。
先ほど7章の一部を読みました。さらに8節-13節をお読みしいたします。
パウロには大きな不安がありましたが、率直にコリントの信徒たちの間違いや過ち、その罪をまっすぐに伝えました。そこには救いに通じる悔い改めを願う祈りがありました。その結果どうでしょう。そのパウロの熱い思いは伝わるのです。彼らが今一度、救いの主と向き合い、立ち返った時、キリストの香りがコリントの教会の信徒たちのうちに満ち溢れ、漂うようになったのです。こうしてパウロが抱えていた不安もキリストの勝利に与る平安に変えられるのです。
私たちひとり一人も、キリストの香りを放つ福音の証し人とされてゆきたいものです。
主にあって、この礼拝から今週もキリストの香り漂う者として歩み出してまいりましょう。
お祈りします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦しみを共に、慰めを共に

2024-06-02 15:00:51 | メッセージ
礼拝宣教    Ⅱコリント1・1-11 

本日よりコリントの第二の手紙から御言葉に聞いていきます。
復活のキリストと出会い、救いに与ったパウロ。彼はユダヤ人以外のいわゆる異邦人に向けた福音の伝道者として神によってたてられ、キリストの使徒として働きます。聖書の後ろに付録として地図がいくつかありますが。その中に「パウロの宣教旅行の2、3」回目の旅程が記された地図がございます。パウロはその2回目の伝道旅行の際に、アテネを経由してコリントに着き、そこに約1年半滞在し、コリントの教会の基礎をつくりました。パウロはそこで教会が建てあげられていく上で重要な働きをなしたのです。
コリントは商業で栄え、種々な文化が入り混じり、繫栄しました。が同時に倫理的な心の荒廃を招き、諸々の問題を抱えていました。それはコリントの教会と信徒たちも決して例外ではなく、多くの問題を抱えていたのです。
先週まで第一の手紙を読みました。そこには教会の分派が生じ、分裂が起こっていたこと。偶像に供えた肉に対する論議で、弱い立場におかれていた人たちが痛んでいたこと。又、キリスト者として解放され自由になったことをはき違えて、放縦な生活をしていた人たちがいたこと。さらにそのような人たちは、パウロの教えに反発して言い逆らい、パウロを厳しく非難中傷しました。

そのようにパウロとコリントの教会との関係が悪化する中で、最初に書き送られたのが先の第一の手紙です。その後もコリント教会の状況は改善されず、パウロ派コリント教会への訪問を願うのですが。自らが行ってさらに関係が悪化するかも知れないと、苦渋の中で訪問を控えました。
それは第2の手紙2章4節にあるように、「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに書き」送ったと記されているおりです。
そうするうちにコリントの教会の信徒たちの多くは、パウロが書き送った手紙によって、自分たちがいかに傲慢であったかに気づき、神の前に深く悔い改めます。けれども、そこには痛みが伴っていました。何らかの処罰があったのです。
それらの出来事を伝え聞いたパウロは今日の第二の手紙をコリントの教会に書き送るのです。
その2章6-7節では、パウロとコリントの信徒との関係を損なわせた「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、許して、力づけるべきです。ぜひともその人を愛するようにしてください」と助言をしています。この言葉にはキリストの愛と赦しが溢れ出ている思いがいたします。パウロはコリントの信徒たちとの関係を愁いながらも、キリストの恵みと平和が満ち溢れるよう真心から願い祈っていたのです。
 本日は1章1-11節が読まれましたが。
パウロはここでまず、慈愛に満ちた神、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますようにと、「慈愛と慰めの神」を賛美しています。また2節では、「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、とりなしの祈りが記されています。
人間同士の分裂や不和の最中でさえ、「平安と和解」を与えて下さる「憐みと慰め」の神。
それは教会のみならず、昨今の戦争や紛争の火種がつきないこの時代の中でも、4-5節「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」アーメン。
私たちはだれも、世にあって様々な苦難の時があります。そこで神の慰めにあずかることが出来るというのはまことに幸いなことです。

先日、ある方が「私は苦しい時、神こう、なぜか」と、つっかかるように暴言を吐いた。けれどそれは、神が決して私を見捨てたりなさらないということを心の底の方で信じていたからだった。そこに神から戴く慰めがあった。今はその神さまの慰めによって兄弟姉妹たちを慰める思いでいる」と証ししてくださいました。
キリストは苦しみを通して、この私の苦しみを知ってくださっている。その共にある慰めを覚えるたびごとに、私たちの慰めもキリストを通して満ち溢れていくのです。いつくしみ深い主を賛美します。

さて、8節「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」。
彼は自分が受けたキリスト者であるが故の苦しみについて述べます。
使徒言行録の中には、パウロが経験した多くの試練が記されています。この第2の手紙の11章にも、それらが具体的に書かれております。それはパウロの信仰を圧迫し揺り動かすほどの経験であったことは確かです。
コリントの信徒も又、様々な苦しみがありました。しかし、それもキリストを信じ、キリストに望みをおいていたキリスト者であったからです。
新約聖書の他の箇所にも、初代教会のキリスト者が経験した苦しみについて、暴動による妨害(使徒17,19章)、法廷での偽証(Ⅰペトロ4章15-16)、投獄(ヘブライ13:3)、家庭の崩壊や仕事の妨害(ヘブライ10:32-24)等が書き記されています。
日本においてもキリスト教が伝えられるようになった16世紀以降、どれだけ多くのキリスト者が迫害に遭い、殉教を遂げてきたことでしょう。
神はすべてをご存じであり、歴史は証明します。そうしたキリスト者の苦難の中で、神は生きておられ、キリストの救い、その慰めと平安に満ちた福音が、聖霊の導きを通して私たちキリスト者を生み出していることを忘れてはなりません。
パウロが言ったように、キリスト者として苦しむ度に「神は慰めてくださる」。それは安っぽい口先だけのものではなく、「キリストの苦しみ」、その深い神の愛といつくしみによるのです。
この神の愛による慰めは先ほども申しましたように、私たちの内側から溢れ出て、5節「わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。まことに、まことに、アーメンです。
それは何か人が立派だからというのではなく。私たちの内に働く神の愛と慰めによるのです。

最初にも触れましたが。パウロはコリントの信徒のことで悩み苦しんでいたところから、彼らに向けて手紙を書き始めたと思われます。しかし、パウロ自身そのキリスト者としての苦しみや悩みを通って、苦難は感謝へと変えられる経験をしてきたのです。パウロはコリントの信徒たちにもこの苦難は感謝に変えることのおできになる慰め主なる、神を知って貰いたかったのです。

パウロも8-10節で、「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。死の宣告を受けた思いでした」と正直に心のうちをさらけ出します。使徒パウロほどの人物が、それほどまでの弱さや無力さに直面していたのです。
けれどパウロは記します。「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださいましたし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。
彼は自分を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださる神を頼みとするように導かれ、変えられるのです。彼は自分の受けた慰めが「キリストの死から得た命」だと、言い表します。
キリストの死と復活が私と共にある。それを真実として受けとめることができたのは、元気で、問題もない時よりも、むしろ苦しみや行き詰まりを覚える時ではないでしょうか。

最後に、本日は7節の「あなたがたについてわたしが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」という個所から、「苦しみを共に、慰めを共に」という題をつけさせて頂きました。苦しみは出来れば避けたものです。それは人として当然の思いです。
しかし、それは時に避けられないものとして起こってくることがあります。パウロと共に福音伝道に務め励んだ仲間たちも、そのような苦難の中にありました。しかし、パウロの痛みと苦しみを知って苦しみを共にしてくれたコリントの兄弟姉妹がいたのです。彼らもパウロと同様、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神に信頼し、神を頼りにして慰めを得る人たちでした。
苦難とその苦しみをすでにキリストが共に負い、共に苦しんでいて下さる。復活の命の希望によって生かして下さる。それはどんなに大きな慰めでしょうか。
そして、私たちも又、それぞれに苦難を経験する時、慰めを共にしてくださる主にある兄弟姉妹が与えられています。それはどれほど大きな恵みでしょうか。共に祈り、互いを祝福し、とりなし祈り合いましょう。共に神を礼拝し、2節「わたしたちに父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和」が、証しされていきますように。
祈ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キリスト復活の良き知らせ」

2024-05-26 15:29:14 | メッセージ
礼拝宣教  Ⅰコリント15・1-22,57-58 

今日は復活についてのお話でありますが。
キリストは死を通られました。それによって復活があらわされたのです。
3年以上にも及ぶコロナ禍が続き、葬儀の形態も近親者のみの一日葬で行われるところも増え、その形式も変わってきました。
私の母はコロナ禍の折、救急病院に搬送され亡くなりました。コロナ禍で面会もできず、最期の看取りができませんでした。母は北九州におりましたから、2年間、毎月一度は様子を見に行きました。その際母はキリスト教式の葬儀で送られることを望んでおりましたので、それが適ったことは感謝なことでした。だれしもこの肉の体は朽ちてゆきます。その時がいつなのかは誰にもわかりません。ただ全能の神さまだけがご存じなのです。
教会では今年1月にAさんが天に召されました。98年という地上でのご生涯でした。 
キリストを信じてクリスチャンになられたのは62歳の時であったそうです。それからの36年間、キリストの救いによって神の愛につながり、福音の喜びが滲み出るそのお姿を通して、証しを立ててゆかれました。歩けなくなる93歳まで電車を乗り継いで礼拝に出席なさるお姿には、私も大変励まされました。愛にあふれる姉妹との主にある霊的な交流を思い出される方も多いことでしょう。Aさんはそうして地上の歩みを全うされ、主のもとにご召天なさいました。私たちも復活の希望の中でお見送りいたしました。
命ある者はみな、生まれる時も、地上の生涯を終える時も、自分の力でその時を動かしたり延ばしたりすることはできません。唯、全能の神だけが命の時を司っておられるのです。
イエス・キリストはローマの支配下の動乱の世に生まれ、33歳ほどの若さで神の御心により死なれました。この苦い杯を取り除いてくださいと、血の汗を滴らせ願われましたが。神に従い神の時に生き、また死なれたのです。それは全身全霊をもって、神と人を愛し抜くご生涯でありました。
人は、自分も例外なく人生を終える時が来ることを覚えるとき、今をどう生きるかを問われます。キリストにある者にとって復活の命は、まさにそのところから始まっているのです。

「復活のキリストとの出会い」
さて、先ほど読まれましたⅠコリント15章1-8節までには、復活されたキリストが、そのお姿を表されたことが記されています。                                
その中で「最も大切なこと」として伝えられているのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとり、三日目に復活したこと」であります。この聖書というのは旧約聖書のイザヤ書を指し、パウロはキリストによって旧約聖書に記されたことが実現した、と言っているのです。
先に申しましたようにキリストも又、死を経験されました。その死は私たちの罪を贖うためでした。さらにキリストは黄泉(ハデス)にまで下られ、三日後に死よりよみがえられたのです。

その5節以降には、「復活されたキリストが、ケファ(シモン・ペトロ)に現れ、その後12人(弟子)に、次いで500人以上もの兄弟に同時に現れました」とあります。
さらに7節-8節には、「次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と記されているとおり、パウロにも復活のキリストが現れたのです。
ただ、彼は弟子たちのように生前のキリストとの出会いはなく、キリストがどのような人であったか知りませんでした。十字架に磔にされてキリストが死なれるのを見たわけでもありません。さらに、キリストが復活後40日間に亘って、そのお姿を人々に現わされた時も、パウロはそこにいませんでした。
にも拘わらず、パウロは「復活のキリストが自分にも現れた」と言っているのです。
パウロはどうして、そのように断言できたのでしょうか。

イエス・キリストと出会う前まで、パウロはユダヤ教徒として生きていました。神の選びの民としての誇り。神の律法の戒めに対する厳守と忠誠心。指導者としての強い使命感。彼はそれらによって熱心に神に仕えていたのです。
先週は聖霊降臨、ペンテコステの礼拝をおささげしましたが。パウロが熱心なユダヤ教徒であったその当時、キリストの内に働かれていた聖霊が降臨し、「イエスは主なり、救い主である」と、信仰告白へと導かれてクリスチャンとなる人たちが急激に増えていきました。
パウロは、イエスをキリスト、すなわち救い主、メシアと信じる信徒たちを激しく迫害します。
クリスチャンは神を冒涜する邪教だと考えたからです。
そのある日、ダマスコ(現シリア)へ向かう途上で、突然、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という天からの御声が彼に臨みます。これこそが、パウロの言う「復活のキリストが現れた」という出来事であったのです。
パウロは、神への忠誠心からクリスチャンたちを迫害していた事が、実はこれまで愛し敬って来た神ご自身を迫害することだったのだと茫然自失となり、心打ち砕かれ、復活のキリストとの出会うのです。
けれども復活のキリストは、ご自身に敵対し迫害するそのパウロの罪を完全に贖われました。
キリストはパウロの罪を担い、十字架の苦難と死をもってあがない、救いの道を拓いて下さった。パウロはその救いの恵みを、聖霊のお働きによって知る者とされるのです。
パウロは、その大いなる神の愛によって雷に打たれたように回心し、心の底から神に立ち返って、悔い改めたのです。
こうして彼は後に、異邦人のための福音の使徒としてすべてを献げ、良き知らせ、神の大いなる愛を伝えていくこととなるのです。そのパッションと原動力は、この自らの救いの体験と聖霊のお働きにありました。
バプテスマを受けた皆さまは、聖書のことばを通して、また救いに与った人の証しを通してキリストと出会われたことでしょう。
たとえ肉眼でそのお姿を見ることがなかったとしても、主が言われた「見たから信じるのか。見ないで信じる者は幸いである。」とのお言葉に信頼する人。日毎聖書のみことばに親しみ、主の呼びかけに応えつつ、救いの恵みを確認し、感謝をもって礼拝に与る人。そのようなお一人おひとりに聖霊はお働きくださるのです。また聖霊がお働き下さるからこそ私たちは主の救いの恵みを知って体験するものとされているのです。復活の主は今日も信じる者と共に生きておられます。

「死者の復活」
今日のもう一つのお話は、「死者の復活」についてであります。
12節「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

当時コリントの教会には、死者の復活を否定する人たちがいました。彼らの中には32節にあるように、「死者が復活しないとしたら、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」などと考え、人があきれるほどの不道徳な行いをしていた人たちまでいたのです。
パウロはそのような状況が起こっていることを痛烈に批判しました。
救いに与り新しい命に生かされて、神の愛の楽園に立ち返ることができているはずの彼らは、早くもエデンの園を追放されたアダムとエバのように神との関係性を損なっていたのです。
彼らは今一度、最も重要なことを再確認しかければなりませんでした。
それが冒頭の、「キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと」であり、このことを通して与えられている「救いと復活の希望」です。
パウロはここで、「死者の復活」を信じないのであれば、あなたがたの信仰はむなしく、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったことになる。この世の生活で、キリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(17-19)と、彼らの不信仰を嘆きます。
そこで再確認しておかなければならないのは、20節「キリストが死者の中から復活し、眠りについた者の初穂となられた」ということです。
この「初穂」とは、果物や穀物のうちで、その年の最初に実ったものを指します。初穂は収穫の始まりであり、そこから次々と実りの収穫がなされていくのです。
死から復活されたキリストは、復活の命の初穂となられ、キリストにある者も、朽ちる体から「キリストに似たものとして」に復活するのです。
22節以降にはこう記されています。
「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべて人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
アダムは罪により神との関係性を損なって死をもたらしましたが、キリストは神との和解を私たちに与え、死と滅びから私たちを解放して下さったのです。

たとえ、この肉の体は朽ちるとしても、パウロはこう言います。
57-58節「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の御業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
そうです、キリストの死における贖いによって救われた私たちは、キリストの復活にも結ばれており、恵みに応えて生きる今、この時も、すでに復活の命に生かされているのです。
この驚くべきキリストの救いに、今日も喜びと感謝をささげつつ、与えられた一日一日を大いなる神に依り頼みながら、大切に歩んでまいりましょう。お祈りします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「多国語で伝えられた、神の偉大な業」

2024-05-19 13:04:29 | メッセージ
聖霊降臨宣教 使徒言行録2章1-13節 

本日は聖霊が降臨し、キリストの教会が誕生し、福音が世界中に伝えられてく神さまの偉大な業を記念するペンテコステの礼拝をお捧げしています
2000年前キリストが昇天された後、聖霊はまず使徒(弟子)たちに降り、語られました。そしてユダヤの人々から、次にユダヤにルーツをもち周辺世界に住んでいた人々、さらにはユダヤ以外の世界中の人々にもキリストの福音が伝えられ、偉大な神の救いのみ業が次々に起されていくことになるのです。それはこうして、今も私たちのもとでも日々実現され続けています。
使徒言行録2章はじめには、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎
のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。

旧約聖書の創世記のバベルの塔の記事を読みますと、「世界中は同じ言葉を使い、同じように話していた」と記されているように、人は同じ言語でコミュニケーションをとっていた事が伝えられています。
そういう中で「我々こそ優れた文明や思想をもつ民族である」と、権力を誇示し、自分たちと異なる民族を蔑すむ勢力が現れていきます。高くそびえるバベルの塔はその人間のおごりと高ぶりの象徴であります。それは排他主義的な統一の思想、偏狭な民族主義と相通じるものがあります。神はそれを憂い、バベルの塔の建設を中断させ、民を全地に散らされました。
天地の創り主なる神を忘れ、そのままバベルの塔の建設がなされていたなら、その傲慢さのゆえに民は滅びへと突き進んでいったでしょう。
現代はさらなる傲慢と背きが行われる混乱の時代ともいえますが。神はそれを見逃しておられるのではなく、忍耐しておられるのです。それはキリストによって顕わされたみ救いを一人でも多くの人が知って救われるためです。

そうして今日このように集う私たちでありますが。
まあ私たち人間にとりましては、主なる神が言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないよ
うになさったことは残念な気もいたします。私もできれば数多くの言語を使いこなせたらなあと思ったりしますが。神のご計画はゆたかです。神は様々な言語や文化が形づくられていくことを良し、となさったのです。
この世界には誰ひとり同じ人間はいない、一人ひとりの存在がオリジナルです。だれにでもその人だけの人生のストーリーがあり、存在の意義があります。しかし私たち人間というのは、その多様性、違いのゆたかさに気づけない。自分を守ろうとする思いや不安から世界では争いと分断が絶えまなく起こり、混沌とした状況が続いているわけですが。
神はキリストを通して和解と平和の道を拓いてくださいました。この神との和解を通して違いをもった他者の存在をも尊重し、その多様性を認め合い、共に生きるゆたかさを現して下さったのです。
それは神が具体的にキリストを通して顕わされた偉大なみ業です。
神の慈愛、いつくしみは、小さく貧しい姿でこの暗き世界に生まれ、人間の罪を担い、贖うため十字架にかかられました。底知れない闇に、救いの光として降られたキリストは、信じる者の希望として3日後に復活なさいました。そうして使徒(弟子)たち、又最後まで慕い仕えてきた女性たち、さらに多くの人々に復活のお姿を現わされてから天に昇っていかれた、と聖書に記されています。

復活のキリストは天に昇られる際、使徒言行録1章4節-5節で「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」と、お語りになります。聖霊の降臨の約束です。
さらに、8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と、お語りになるのです。そしてまさに、そのキリストが約束された通りの事が起こるのです。

それが本日2章の聖霊降臨の出来事であります。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と。

まず、聖霊は使徒や女性たちがキリストのお言葉に聞き従い、心を一つにして祈り続けていたところにお降りになるのです。
キリストの十字架の出来事からそれ程日が経っておりませんでしたから、彼らは身に危険を感じ、不安や恐れもあったに違いありません。
しかし彼らはキリストの御言葉をしっかり握って、心を合わせて一つになって祈り続けました。
そうして聖霊が降り、一人ひとりの上に炎のような舌がとどまるのです。
炎のような舌は、すぐさま語り始めます。
「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」注目すべきは、」この「ほかの国々の言葉で語りだした」という点です。
この時エルサレムには、古くは戦争、また迫害によってユダの地から散らされた人々の子孫が遠い地や周辺諸国に移り住んでいました。ちょうどこの時ユダヤの五旬節という祝祭が行われ、多くのそうした人々が巡礼のためにエルサレムに集まっていたのです。又、そこには様々な国の人たちもいたようですが。なんと、みな自分の生まれ育った国々や地域の言葉で、神さまの偉大な業について聞くことになったのです。
あのバベルの塔が象徴するような、散らされた人々が、聖霊によって共に神の救いを仰ぎ見る出来事がここで起こるのです。
この偉大な神の業とは、キリストの贖いの死と復活によって信じる者がみ救いに与るという経験です。聖霊に満たされた12弟子の一人ペトロは14節以降で、そのキリストのみ救いの証しを力強
く語るのでありますが。そこでも記されているように、聖霊がお働き下さる時、誰もが如何に神さまに対して背を向けてきた者であるか、自分本位に生きてきたかということに気づかされていくのです。
そして、そのような罪の滅びの中から私を救い導き出すために、キリストがこの世界に遣わされ、十字架の贖いの業を成し遂げてくださった神の愛を、聖霊は悟らせてくださるのです。これは神さ
まの唯一方的な恵みであります。先週もコリント13章の愛の賛歌の箇所を読みましたが。この愛にあって心一つとされ、共にその恵みに感謝して生きる。それは、「まず、神への礼拝から」始ります。

私たちの教会は日本語で行っていますが。不思議なことに様々な国から来られた方々と共に礼拝をお捧げしています。イースターにはサントスさんがキリストを信じてクリスチャンになられ、バプテスマを受けみなで神のみ名をほめたたえることができました。今は礼拝メッセージを翻訳した原稿をお配りすることぐらいしかできていないのですが。それにも拘わらず、みなさんそれぞれが共にここに集められている、まさに聖霊のお働きです。
又、4月より、青年有志の会に「はこぶねかふぇ」というネーミングがつけられ、年齢、性別、国籍を超えて福音を分かち合う場として新しい歩みが始まりました。その一環として例会の時に女性会や壮年会の方をお迎えし、証しに耳を傾けることになりました。その初回となった先週は、女性会の88歳になられる方をゲストにお迎えしました。この方はフィリピの信徒への手紙3章13節の「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とのみ言葉に生きてこられたこと。それによって「何か自分にできることはないかとチャレンジし続け、傾聴ボランティアなどを行ってひたすら走って来た。今はそれもできなくなったが、最近も近所の人に話しかけると、その方は1時間も話をなさり、何日間も人と話をしていなかったと言われた。そのような日々の出会いと、今も歩き続ける毎日にわくわくする。」ということでした。この例会が終わった後、事務室におりますと、「香港から参加された学生さんが礼拝堂で泣いている」というのを聞いて慌てて様子を見にいきました。
すると、その88歳の方と引き続きお話をして涙が止まらなかったということでした。国の違い、年齢の違い、言葉の違いを越えて、共に主のみ救いの恵みとそのゆたかさを覚える幸いを、キリストの教会にその聖霊のお働きによって与えられている事を心より感謝します。


聖霊を受けた使徒パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人には律法に支配されている人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のようになりました。福音のためならわたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9章20節以降)と、そのように生きたのです。それはがんばってそうしたのではなく、「神の愛と救い」という素晴らしいキリストの福音を伝えずにはいられなかったからです。
聖霊に満たされた人は実に愛のために豊かで自由であります。聖霊降臨は、新しい愛の言葉が降り、互いを理解し合える世界の訪れを告げます。

確かに私たちは、時に相手が理解できず手詰まり状態になることもしばしばございます。けれども聖霊はそうした困難な中においても、なお神の愛によって私たちを導こうとなさいます。
それは、ローマの信徒への手紙8章26節にあるように、私たちがどう祈ったらいいのかさえ分からなくなってもいる時も、「聖霊自らが、言葉で表せないうめきをもって執り成してくださる」のです。
聖霊降臨によって、今や世界中で神の偉大な業が伝えられ、証しとなる出来事が起こり続けています。それは神の愛であるキリストの福音によるのであり、キリストを通してお降りになった聖霊の力強いお働きです。今日も聖霊のお働きをとおして新しく神の子として生まれ変わる人たちが世界中のいたるところで起こされています。

今日ここに集われたお一人おひとりに、もれなく聖霊がとどまってくださり、イエス・キリストに顕される神の愛を悟らせてくださいますように。神の偉大な業を証しする者とされるよう、聖霊に満たされますよう祈ります。今週もここから遣わされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする