ほんとうのクリスマス(つづき)
①「貧しき・小さき者に臨んだクリスマス」
「マリアは初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と聖書は簡潔に記していますが、それはおよそあり得ないような出来事がベツレヘムで起きたのであります。史上最も偉大なメシアなるお方が、宮殿でも大邸宅でもない家畜小屋の岩屋にお生まれになったのです。当時、キリスト・救い主(ヘブライ語;メシア)
が誕生したのが他のどこでもないベツレヘムであったことは、ユダヤの人々にとって非常に重要な意味をもっていました。旧約聖書の時代から、その地においてメシア到来の預言の約束が成就すると、信じられていたからです。
ローマの属領として様々な束縛や制限を受けながら、苦しみあえいでいたユダヤの人々は、誰しも、「時来たりなば、神は必ず我々と共にいて、我々を救い出してくださる」という希望を絶やさずに持っていました。ところが、このルカ福音書は救い主メシアの誕生の知らせを最初に受け、降誕の場へと招かれたのは、名もない羊飼いたちであった、と伝えます。旧約聖書の時代とは異なり、彼らはユダヤ社会にあってとりわけ貧しく、ユダヤ人として認められていなかった小さき者たち、住民登録の対象外でした。社会にあって身分が保障されていません。そういう中で生きていく他ない人々であったのです。世にあって羊飼いらは、時代や社会に取り残された者のようでした。貧しき者、身分の低き者の代名詞のような存在でした。
その彼らのもとに天使は現れて、「恐れるな。わたしは、民全体に与える大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げたのです。
キリストのご降誕のその光景を思い浮かべてみてください。
古今東西を問わず、昔から子ども誕生は公的な出来事のようにみなされ、生まれた子どもはみんなに披露される、これが常であったようです。今日に時代のように、新生児室のガラス越しに赤ちゃんを覗いたり、消毒マスクをつけて入室するようなこともんかった時代。かつての日本もそうであったように、当時のユダヤの一般的な家庭では、子どもが生まれるとご近所がこぞって喜び合い、生まれた子を見ようと親族や友人が押し寄せ、祝福の宴が持たれたようであります。
けれども、このヨセフとマリアの場合、子どもが生まれたといっても、自分たちの郷里のナザレから遠く離れたベツレヘムのことであり、事情も甚だ異なっていました。しかしここには、その誕生を心から祝い喜ぶ人々のがありました。このベツレヘムで起きたクリスマスの出来事を真っ先に知らされ、飛ぶようにやってきた羊飼いたちがいたのです。もしこれが、日常雑多でせわしなく、社会的地位や物質的にも恵まれ、憂い無き人であったのなら、この羊飼いほどの思いに満たされただりましょうか。主イエスはおっしゃいました。「幸いなるかな、心の貧しい人々。天の国は、その人たちのものである。」主のお誕生は、まずこのような人々によって祝われたのです。
彼らが夜空のもと、草原でその知らせを聞いた時、天使の突然の出現と天の大軍に恐れを抱いたことでしょう。しかし、それは何か、野獣や強盗の出現にるような恐怖の恐れではありません。彼らは、ここでほんとうに恐るべき方を知るものとされていくのです。この事が、救い主を迎えていく、クリスマスを迎えていくために欠かせないことであります。あのマリアの受胎告知の折りも、彼女は畏れを持つ者とされたのであります。主の誕生を目の当たりにした羊飼いたちは名も無き人たちであります。しかし、この羊飼いたちは、天使の告げる約束。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」との言葉を握りしめ、まことの救い主を迎え、ほんとの「平安」、神との交わりに与る救いを得のであります。
ちなみに、ユダヤ人という言葉には、「夜勤の者」という意味があるということです。これは、ルカの記事から、人々が眠りこんでいる夜中に、目を覚ましてその勤めを果たし続けた羊飼いたとこそ、「夜勤の者」、真のユダヤ人であったということが言えるのかも知れません。しかし、これは単に眠らないということではなく、「いつも霊的な眼をもち、様々な事どもに眼を注いで生きる」。そういうことではないでしょうか。このことは、今日のめまぐるしく、うつり変わりゆく時代・暴力や武力によって平和や貴い命が脅かされている時代にあって、この小さき羊飼いたちのように、いつも目を覚まして生きる、神の時を見逃すことなく、その小さきみ声を聞き逃すことなく、主にある平安と交わりに与って生きる、そのことが如何に大切であるかということを、示しているようであります。
②「ほんとうのクリスマス」
最初に、クリスマスは何時ですか、と尋ねました。
聖書が主のご降誕のクリスマスの年月日を正確に記していないのには訳があるのです。それは確かに歴史上起こったことですけれども。しかし、わたしにとってそれが「ほんとうのクリスマス」となるのは、いつでしょうか。それは、この「わたし」が、このメッセージをお読み下さっている「あなた」が、あの名も無き羊飼いたちのように心から救い主イエス・キリストをお迎えする時、実現します。「わたしのクリスマス」になる時、「ほんとうのクリスマス」になるのであります。
そのメッセージが、初めに羊飼いたちのもとに届けられ、聖書を通して代々の信仰の先達によって、世界中の人々のもとに、そしてわたしたちにも、確かに今日届けられました。心からメリークリスマス。
①「貧しき・小さき者に臨んだクリスマス」
「マリアは初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と聖書は簡潔に記していますが、それはおよそあり得ないような出来事がベツレヘムで起きたのであります。史上最も偉大なメシアなるお方が、宮殿でも大邸宅でもない家畜小屋の岩屋にお生まれになったのです。当時、キリスト・救い主(ヘブライ語;メシア)
が誕生したのが他のどこでもないベツレヘムであったことは、ユダヤの人々にとって非常に重要な意味をもっていました。旧約聖書の時代から、その地においてメシア到来の預言の約束が成就すると、信じられていたからです。
ローマの属領として様々な束縛や制限を受けながら、苦しみあえいでいたユダヤの人々は、誰しも、「時来たりなば、神は必ず我々と共にいて、我々を救い出してくださる」という希望を絶やさずに持っていました。ところが、このルカ福音書は救い主メシアの誕生の知らせを最初に受け、降誕の場へと招かれたのは、名もない羊飼いたちであった、と伝えます。旧約聖書の時代とは異なり、彼らはユダヤ社会にあってとりわけ貧しく、ユダヤ人として認められていなかった小さき者たち、住民登録の対象外でした。社会にあって身分が保障されていません。そういう中で生きていく他ない人々であったのです。世にあって羊飼いらは、時代や社会に取り残された者のようでした。貧しき者、身分の低き者の代名詞のような存在でした。
その彼らのもとに天使は現れて、「恐れるな。わたしは、民全体に与える大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げたのです。
キリストのご降誕のその光景を思い浮かべてみてください。
古今東西を問わず、昔から子ども誕生は公的な出来事のようにみなされ、生まれた子どもはみんなに披露される、これが常であったようです。今日に時代のように、新生児室のガラス越しに赤ちゃんを覗いたり、消毒マスクをつけて入室するようなこともんかった時代。かつての日本もそうであったように、当時のユダヤの一般的な家庭では、子どもが生まれるとご近所がこぞって喜び合い、生まれた子を見ようと親族や友人が押し寄せ、祝福の宴が持たれたようであります。
けれども、このヨセフとマリアの場合、子どもが生まれたといっても、自分たちの郷里のナザレから遠く離れたベツレヘムのことであり、事情も甚だ異なっていました。しかしここには、その誕生を心から祝い喜ぶ人々のがありました。このベツレヘムで起きたクリスマスの出来事を真っ先に知らされ、飛ぶようにやってきた羊飼いたちがいたのです。もしこれが、日常雑多でせわしなく、社会的地位や物質的にも恵まれ、憂い無き人であったのなら、この羊飼いほどの思いに満たされただりましょうか。主イエスはおっしゃいました。「幸いなるかな、心の貧しい人々。天の国は、その人たちのものである。」主のお誕生は、まずこのような人々によって祝われたのです。
彼らが夜空のもと、草原でその知らせを聞いた時、天使の突然の出現と天の大軍に恐れを抱いたことでしょう。しかし、それは何か、野獣や強盗の出現にるような恐怖の恐れではありません。彼らは、ここでほんとうに恐るべき方を知るものとされていくのです。この事が、救い主を迎えていく、クリスマスを迎えていくために欠かせないことであります。あのマリアの受胎告知の折りも、彼女は畏れを持つ者とされたのであります。主の誕生を目の当たりにした羊飼いたちは名も無き人たちであります。しかし、この羊飼いたちは、天使の告げる約束。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」との言葉を握りしめ、まことの救い主を迎え、ほんとの「平安」、神との交わりに与る救いを得のであります。
ちなみに、ユダヤ人という言葉には、「夜勤の者」という意味があるということです。これは、ルカの記事から、人々が眠りこんでいる夜中に、目を覚ましてその勤めを果たし続けた羊飼いたとこそ、「夜勤の者」、真のユダヤ人であったということが言えるのかも知れません。しかし、これは単に眠らないということではなく、「いつも霊的な眼をもち、様々な事どもに眼を注いで生きる」。そういうことではないでしょうか。このことは、今日のめまぐるしく、うつり変わりゆく時代・暴力や武力によって平和や貴い命が脅かされている時代にあって、この小さき羊飼いたちのように、いつも目を覚まして生きる、神の時を見逃すことなく、その小さきみ声を聞き逃すことなく、主にある平安と交わりに与って生きる、そのことが如何に大切であるかということを、示しているようであります。
②「ほんとうのクリスマス」
最初に、クリスマスは何時ですか、と尋ねました。
聖書が主のご降誕のクリスマスの年月日を正確に記していないのには訳があるのです。それは確かに歴史上起こったことですけれども。しかし、わたしにとってそれが「ほんとうのクリスマス」となるのは、いつでしょうか。それは、この「わたし」が、このメッセージをお読み下さっている「あなた」が、あの名も無き羊飼いたちのように心から救い主イエス・キリストをお迎えする時、実現します。「わたしのクリスマス」になる時、「ほんとうのクリスマス」になるのであります。
そのメッセージが、初めに羊飼いたちのもとに届けられ、聖書を通して代々の信仰の先達によって、世界中の人々のもとに、そしてわたしたちにも、確かに今日届けられました。心からメリークリスマス。