「ほんとうのクリスマス」 ルカによる福音書2章1節~20節
一体「ほんとうのクリスマス」は何時なのでしょうか。先の巻頭言でM・Yさんが「イエスの誕生の日付について」、歴史的事実だが、12月25日に歴史的根拠はないと記してくださいました。私もクリスマスの日付よりも、むしろクリスマスという言葉のもつ意味が大事であると思います。クリスマス、その語源は「キリストのミサ・祝い」であります。それは、キリスト(ヘブライ語でメシア)が、世界の救い主としてお生まれくださった、そのご降誕をお祝いする日です。
師走になり、今年も日本の世相を最も映した一文字が披露されました。今年は「偽」という字でした。耐震偽装、食品の銘柄・製造日付偽装云々、生活者としては、何を信じてよいのか分からない、そのような不安と憤りを覚えます。クリスマスについても、「偽クリスマス」といえば語弊があるでしょうが、騒ぎ楽しむだけに終始するような、イエス・キリストの降誕と関係のないクリスマスが持たれているのも確かです。
ルカ2章1~20節、これがクリスマス・救い主イエスのご降誕についての記事の全容であります。
「序説~与えられている恵みの発見」
ヨセフと身重のマリアが住民登録のために、ベツレヘムに到着したのは夕刻だったようであります。もう少し早い時間帯に到着していたら、ベツレヘム近辺がいくらごったがえしていたとはいえ、これほど宿探しに苦労することもなかったのかも知れません。映画「マリア」の中で、二人が住民登録するために旅に出る場面が見事に描かれていました。郷里のナザレからベツレヘムまでは200キロもあり、その道のりも険しい荒れ野を、ヨセフと身重のマリアは越えていかねばなりません。何とも過酷な旅であったことでしょう。けれどもそのような中で、二人の信頼関係や愛の絆が、み言葉を基にして強く、揺るぎのないものへと変えられていくのです。
ヨセフは陣痛の始まったマリアに寄り添いながら、戸口から戸口へと必死に宿を訪ねて廻ります。喜びあふれるクリスマスの記事の中で、大変緊張に包まれる場面であります。ここで二人は、三人の宿屋の主人に断られるという教会学校のぺージェントの一幕が思い浮かんできます。名も知れぬ宿屋の主人は、ある意味憎まれ役になってしまいます。けれども、「宿の裏に動物を囲うための岩屋(洞窟)でいいなら」と声をかけてくれたのも、その一人の主人でありました。当時のベツレヘム周辺の丘には、そうした岩屋があったそうです。けれども、産みの苦しみの中にある妻のことを思えば、「とにかく、どんな場所でも雨露しのぎ、備える場所さえあればありがたい」と二人は思ったことではないでしょうか。ここに、クリスマスの一つのメッセージがあるように思います。
今、この年の瀬に向かう中で、私たちは自分と周囲を比べ、これだけしかない、ということを嘆いたり、呟いたり、不平不満をぶつぶつぶつけてしまう、そんなことはないでしょうか。けれどもクリスマスは、その「これだけしかない」が「これだけもある」「ありがたい」という思いへ変えられていく、そういう日ではないでしょうか。(つづく)
一体「ほんとうのクリスマス」は何時なのでしょうか。先の巻頭言でM・Yさんが「イエスの誕生の日付について」、歴史的事実だが、12月25日に歴史的根拠はないと記してくださいました。私もクリスマスの日付よりも、むしろクリスマスという言葉のもつ意味が大事であると思います。クリスマス、その語源は「キリストのミサ・祝い」であります。それは、キリスト(ヘブライ語でメシア)が、世界の救い主としてお生まれくださった、そのご降誕をお祝いする日です。
師走になり、今年も日本の世相を最も映した一文字が披露されました。今年は「偽」という字でした。耐震偽装、食品の銘柄・製造日付偽装云々、生活者としては、何を信じてよいのか分からない、そのような不安と憤りを覚えます。クリスマスについても、「偽クリスマス」といえば語弊があるでしょうが、騒ぎ楽しむだけに終始するような、イエス・キリストの降誕と関係のないクリスマスが持たれているのも確かです。
ルカ2章1~20節、これがクリスマス・救い主イエスのご降誕についての記事の全容であります。
「序説~与えられている恵みの発見」
ヨセフと身重のマリアが住民登録のために、ベツレヘムに到着したのは夕刻だったようであります。もう少し早い時間帯に到着していたら、ベツレヘム近辺がいくらごったがえしていたとはいえ、これほど宿探しに苦労することもなかったのかも知れません。映画「マリア」の中で、二人が住民登録するために旅に出る場面が見事に描かれていました。郷里のナザレからベツレヘムまでは200キロもあり、その道のりも険しい荒れ野を、ヨセフと身重のマリアは越えていかねばなりません。何とも過酷な旅であったことでしょう。けれどもそのような中で、二人の信頼関係や愛の絆が、み言葉を基にして強く、揺るぎのないものへと変えられていくのです。
ヨセフは陣痛の始まったマリアに寄り添いながら、戸口から戸口へと必死に宿を訪ねて廻ります。喜びあふれるクリスマスの記事の中で、大変緊張に包まれる場面であります。ここで二人は、三人の宿屋の主人に断られるという教会学校のぺージェントの一幕が思い浮かんできます。名も知れぬ宿屋の主人は、ある意味憎まれ役になってしまいます。けれども、「宿の裏に動物を囲うための岩屋(洞窟)でいいなら」と声をかけてくれたのも、その一人の主人でありました。当時のベツレヘム周辺の丘には、そうした岩屋があったそうです。けれども、産みの苦しみの中にある妻のことを思えば、「とにかく、どんな場所でも雨露しのぎ、備える場所さえあればありがたい」と二人は思ったことではないでしょうか。ここに、クリスマスの一つのメッセージがあるように思います。
今、この年の瀬に向かう中で、私たちは自分と周囲を比べ、これだけしかない、ということを嘆いたり、呟いたり、不平不満をぶつぶつぶつけてしまう、そんなことはないでしょうか。けれどもクリスマスは、その「これだけしかない」が「これだけもある」「ありがたい」という思いへ変えられていく、そういう日ではないでしょうか。(つづく)