宣 教 マタイ7:21~29
この個所は山上の説教の最後の締めくくりの部分にあたります。
イエスさまは弟子たちに、当時、神のみ心から遠く離れてしまっていたファリサイ派の人々や律法の専門家たちを憂いつつ、あなたがたは「天の父のみ心を行う者」になりなさい。又「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者」になりなさいと勧めをされます。
ファリサイ派の人々はとても熱心に律法を厳守し、行動していたのでありますが、その思いは「天の父のみ心」とはかけ離れたところにありました。彼らは自らを聖い者、正しい者として思いあがり、人を裁いていました。
一方、律法の専門家たちは、律法についてよく聞き、学び、知識を豊富に持ってはいましたが、実際に「実行していない」、つまり知識ばかりで律法の精神に生きていないこと、又単なる自己満足でしかないことをイエスさまは見抜いておられました。
しかし、こういう事はキリストの弟子である者たちにも陥りやすいものであることを、イエスさまはご存じでした。私どもは、主のため、教会のためにと言って行なう奉仕や働きも「天の父のみ心を行うものであるかどうか」を吟味し、見極める必要があります。
又、例えば礼拝や集会でみ言葉が与えられても、その場だけで「ああよかった」「恵まれた」で終ってしまうのならそれは残念なことです。豊かな恵みは、聞いたみ言葉を自分の事として実践して行ってこそその意義が生じてきます。この宣教の後に、大阪教会では「応答のとき」を持っていますが、イエスさまのお言葉を互いに確認し合う、み言葉が生活や生き方に反映されていくため有意義な事と思っています。
イエスさまの教えそれは、「み言葉を如何に聴き、如何に行なうか」ということであります。それがすべての土台、基盤となるというのです。
では、私どもはそのみ言葉を如何に聴いていけばよいのでしょうか。
24節を見ますと「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者は」とあります。「これらの」というのは5章からの山上の教えです。これらを聞いてまっすぐに従うことが大切です。
その一方で、聖書に書いてあるとおりのことを、ただ嫡子定規に行えばそれでよいかというと、そうとは言い切れないでしょう。ファリサイ派の人々は律法の文言を過ちなくそのとおりに行なうことが正しいと信じていました。熱心にそのことを基準に行動していた人たちであったのです。が、彼らは律法を守らない人や守れない人たちを、神から裁かれた者、愚か者、穢れている者だと見下し、自分たちの清さや身分を誇り、そういう人たちと一切交わりを絶ってしまったのです。
しかしイエスさまは逆にそういう社会からドロップアウトしたような人、穢れていると見なされた人、罪人だとレッテルを貼られたような人たちと出会われ、神の赦しと解放を告げて、彼らの人生に回復をもたらされたのです。イエスさまはそのため、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちからは神を冒涜する者、律法違反者とみなされ、憎悪と非難にさらされるのでありますが。そのようにファリサイ派の人や律法学者たちが律法の精神を見失ってしまったように、私どもはイエスさまのお言葉の精神を見失わないようにしなければなりません。
イエスさまはこのところで、「天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」とおっしゃいました。イエスさまご自身、父なる神の御心を行う生涯を全うされたのです。
そうであれば、私どもはこのイエスさまをいつも仰ぎ見て、従っていくそのところに「天の父の御心」があるのです。
さて、イエスさまは「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」とおっしゃいました。
家を建てる場合土台がしっかりとしているなら、災害にも強いでしょう。そのようにみ言葉を聞いて、日々行なっていくなら、それはその人の人生を形づくっていく堅固な土台となるということです。
逆にイエスさまは、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行なわない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」ともおっしゃっていますよね。もし聞くだけで終ってしまう薄っぺらな信仰であるなら、人生の嵐の日に大きく揺さぶられ、押し流されてしまうことになりかねないということです。
余談ですが、水曜日の祈祷会の時、そこで3匹の子ブタのお話を思い浮かんだという方がたがいました。なるほどと思わず吹きだしてしまいましたが。
ちょっと調べてみますと、これは英国の昔話が原作らしいですね。ストーリーにいろんなバージョンがあり様々のようですが。おおよそこんなお話です。3匹の兄弟は仲がよいというわけではなく、長男の子ブタは喧嘩が強くて頑固者。二男の子ブタは頭がよく自己中心的。三男の子ブタは何も取り柄がなく、そのためよくのけ者にされていました。長男は「わらで家を作り」、二男は「木で家を作り」ます。三男は、狼が来たら大変だと思い、来る日も来る日も「レンガで家を作り」続けました。そこへ狼が現れました。長男のわらの家は狼にあっという間にふっ飛ばされて壊れてしまい、二男の木の家に逃げ込むのですが、その家も狼に壊されてしまいます。二匹の兄は3男の弟に声をかけられレンガの家に入れてもらうのです。さすがの狼もこのレンガの家に壊すことができず、煙突から入ってくるも暖炉で沸かされた鍋の中に落ち、あちちと、いちもくさんに逃げ去っていきます。こうして3匹の子ブタは仲がよくなり楽しく暮らしたというお話です。
まあ、この3匹の子ブタのお話は、いざという時のために努力をおしまない、備えあれば憂いなし。兄弟仲良くなど教訓や訓話としては読めますけれども、「何を土台にして生きるのか」という問題について何も触れられていません。わらの家でも、木の家でも、レンガの家であっても、それはいずれ壊れ、朽ちるものであります。しかし壊れ、朽ちてもなくならないもの、それこそ、堅固な家の土台です。様々な人生の歩みがあります。そしてやがてはこの肉体は朽ちるものでありましょう。しかし地上にあって私たちがイエス・キリストとそのみ言葉を土台にして生きたことは、神の前で朽ちることなく残るのであります。
話は変わりますが。
以前、バプテスト誌にこのイエスさまのお話のところからタイのH派遣宣教師がメッセージを寄せておられ、とても新鮮な思いにされました。
ちょっとご紹介したいと思います。「作業に困難が伴うとしても岩という堅い地盤に土台を据える人は、いざという時には困らないのに対し、安易さにかまけて砂の上に土台を据えると、後に大雨が降ってきた時、大変な目に遭う」という説教の原稿を用意して、タイ語やタイの文化に詳しいタイバプテスト神学校の図書館司書の女性に助言を頼んだそうです。するとそのコメントは「タイ人はそのように考えないです」と。続けて「一般のタイ人は、いつ起こるか分からないようなリスクを恐れて、そんな準備はしない。また、仮に洪水が起こって家を失い困る人がいたとしても、それを「愚か者」とは呼ばない。困った時はお互いに助け合う、それがタイ人の生き方だ。また、タイ人は必ずしも洪水を悪いものとは考えない。私自身も近くの川が氾濫して泥水が家の中まで押し寄せて来た。するといろいろな川魚が家の中に入ってきたので、皆きゃあきゃあ言いながら手で捕まえたものだ」と話してくれたそうです。所変われば、ですね。H師は、最初、この女性の意見をどう受け止めてよいのかわからず、「この人たちはわけのわからない、聖書をよく理解できない人々だ。仕方ない」と無視を決めることもできたけれども。「しかし自分はその人たちと一緒に暮らし、彼らと聖書を読み、そしてそれを共に糧として生きていかなければならない。だとすれば、このアドバイスを通してもう一度この御言葉に向き直り、読み直さなければならないと思った」そうです。
私は、H師がそれまで持っていたご自分の先入観によらず、タイの人々と出会い、共に住み、その人たちと向き合うなかで、イエスさまのみ言葉の本質を今一度見つめ直してゆこうとされるその姿に感銘を受けました。それは、私の内側からでなく、向こう側から来る、いわば出会いによってみ言葉がひも解かれるわけです。生きること、生活すること、その人との関係性においてみ言葉が行なわれ、生きてこなければこれは虚しいことです。
さて、この個所の終わりのところに、「イエスさまがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28-29)と書かれてあります。
イエスさまのお言葉が権威をもっていたのは、ご自分が「天の父の御心を行って」おられたからであります。
私どもはイエスさまのご生涯とその行いに照らしながら、み言葉を聞いて行なうとはどういう事か、いつも見出し、従う者でありたいと願うものです。
イエスさまはどこに向かわれ、如何になさったかということを思い描きながら、そのイエスさまの心を自分の心として生きる。そのようにみ言葉を聞いて行なう。人生の土台は堅固なものとされていくでしょう。
この個所は山上の説教の最後の締めくくりの部分にあたります。
イエスさまは弟子たちに、当時、神のみ心から遠く離れてしまっていたファリサイ派の人々や律法の専門家たちを憂いつつ、あなたがたは「天の父のみ心を行う者」になりなさい。又「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者」になりなさいと勧めをされます。
ファリサイ派の人々はとても熱心に律法を厳守し、行動していたのでありますが、その思いは「天の父のみ心」とはかけ離れたところにありました。彼らは自らを聖い者、正しい者として思いあがり、人を裁いていました。
一方、律法の専門家たちは、律法についてよく聞き、学び、知識を豊富に持ってはいましたが、実際に「実行していない」、つまり知識ばかりで律法の精神に生きていないこと、又単なる自己満足でしかないことをイエスさまは見抜いておられました。
しかし、こういう事はキリストの弟子である者たちにも陥りやすいものであることを、イエスさまはご存じでした。私どもは、主のため、教会のためにと言って行なう奉仕や働きも「天の父のみ心を行うものであるかどうか」を吟味し、見極める必要があります。
又、例えば礼拝や集会でみ言葉が与えられても、その場だけで「ああよかった」「恵まれた」で終ってしまうのならそれは残念なことです。豊かな恵みは、聞いたみ言葉を自分の事として実践して行ってこそその意義が生じてきます。この宣教の後に、大阪教会では「応答のとき」を持っていますが、イエスさまのお言葉を互いに確認し合う、み言葉が生活や生き方に反映されていくため有意義な事と思っています。
イエスさまの教えそれは、「み言葉を如何に聴き、如何に行なうか」ということであります。それがすべての土台、基盤となるというのです。
では、私どもはそのみ言葉を如何に聴いていけばよいのでしょうか。
24節を見ますと「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者は」とあります。「これらの」というのは5章からの山上の教えです。これらを聞いてまっすぐに従うことが大切です。
その一方で、聖書に書いてあるとおりのことを、ただ嫡子定規に行えばそれでよいかというと、そうとは言い切れないでしょう。ファリサイ派の人々は律法の文言を過ちなくそのとおりに行なうことが正しいと信じていました。熱心にそのことを基準に行動していた人たちであったのです。が、彼らは律法を守らない人や守れない人たちを、神から裁かれた者、愚か者、穢れている者だと見下し、自分たちの清さや身分を誇り、そういう人たちと一切交わりを絶ってしまったのです。
しかしイエスさまは逆にそういう社会からドロップアウトしたような人、穢れていると見なされた人、罪人だとレッテルを貼られたような人たちと出会われ、神の赦しと解放を告げて、彼らの人生に回復をもたらされたのです。イエスさまはそのため、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちからは神を冒涜する者、律法違反者とみなされ、憎悪と非難にさらされるのでありますが。そのようにファリサイ派の人や律法学者たちが律法の精神を見失ってしまったように、私どもはイエスさまのお言葉の精神を見失わないようにしなければなりません。
イエスさまはこのところで、「天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」とおっしゃいました。イエスさまご自身、父なる神の御心を行う生涯を全うされたのです。
そうであれば、私どもはこのイエスさまをいつも仰ぎ見て、従っていくそのところに「天の父の御心」があるのです。
さて、イエスさまは「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」とおっしゃいました。
家を建てる場合土台がしっかりとしているなら、災害にも強いでしょう。そのようにみ言葉を聞いて、日々行なっていくなら、それはその人の人生を形づくっていく堅固な土台となるということです。
逆にイエスさまは、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行なわない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」ともおっしゃっていますよね。もし聞くだけで終ってしまう薄っぺらな信仰であるなら、人生の嵐の日に大きく揺さぶられ、押し流されてしまうことになりかねないということです。
余談ですが、水曜日の祈祷会の時、そこで3匹の子ブタのお話を思い浮かんだという方がたがいました。なるほどと思わず吹きだしてしまいましたが。
ちょっと調べてみますと、これは英国の昔話が原作らしいですね。ストーリーにいろんなバージョンがあり様々のようですが。おおよそこんなお話です。3匹の兄弟は仲がよいというわけではなく、長男の子ブタは喧嘩が強くて頑固者。二男の子ブタは頭がよく自己中心的。三男の子ブタは何も取り柄がなく、そのためよくのけ者にされていました。長男は「わらで家を作り」、二男は「木で家を作り」ます。三男は、狼が来たら大変だと思い、来る日も来る日も「レンガで家を作り」続けました。そこへ狼が現れました。長男のわらの家は狼にあっという間にふっ飛ばされて壊れてしまい、二男の木の家に逃げ込むのですが、その家も狼に壊されてしまいます。二匹の兄は3男の弟に声をかけられレンガの家に入れてもらうのです。さすがの狼もこのレンガの家に壊すことができず、煙突から入ってくるも暖炉で沸かされた鍋の中に落ち、あちちと、いちもくさんに逃げ去っていきます。こうして3匹の子ブタは仲がよくなり楽しく暮らしたというお話です。
まあ、この3匹の子ブタのお話は、いざという時のために努力をおしまない、備えあれば憂いなし。兄弟仲良くなど教訓や訓話としては読めますけれども、「何を土台にして生きるのか」という問題について何も触れられていません。わらの家でも、木の家でも、レンガの家であっても、それはいずれ壊れ、朽ちるものであります。しかし壊れ、朽ちてもなくならないもの、それこそ、堅固な家の土台です。様々な人生の歩みがあります。そしてやがてはこの肉体は朽ちるものでありましょう。しかし地上にあって私たちがイエス・キリストとそのみ言葉を土台にして生きたことは、神の前で朽ちることなく残るのであります。
話は変わりますが。
以前、バプテスト誌にこのイエスさまのお話のところからタイのH派遣宣教師がメッセージを寄せておられ、とても新鮮な思いにされました。
ちょっとご紹介したいと思います。「作業に困難が伴うとしても岩という堅い地盤に土台を据える人は、いざという時には困らないのに対し、安易さにかまけて砂の上に土台を据えると、後に大雨が降ってきた時、大変な目に遭う」という説教の原稿を用意して、タイ語やタイの文化に詳しいタイバプテスト神学校の図書館司書の女性に助言を頼んだそうです。するとそのコメントは「タイ人はそのように考えないです」と。続けて「一般のタイ人は、いつ起こるか分からないようなリスクを恐れて、そんな準備はしない。また、仮に洪水が起こって家を失い困る人がいたとしても、それを「愚か者」とは呼ばない。困った時はお互いに助け合う、それがタイ人の生き方だ。また、タイ人は必ずしも洪水を悪いものとは考えない。私自身も近くの川が氾濫して泥水が家の中まで押し寄せて来た。するといろいろな川魚が家の中に入ってきたので、皆きゃあきゃあ言いながら手で捕まえたものだ」と話してくれたそうです。所変われば、ですね。H師は、最初、この女性の意見をどう受け止めてよいのかわからず、「この人たちはわけのわからない、聖書をよく理解できない人々だ。仕方ない」と無視を決めることもできたけれども。「しかし自分はその人たちと一緒に暮らし、彼らと聖書を読み、そしてそれを共に糧として生きていかなければならない。だとすれば、このアドバイスを通してもう一度この御言葉に向き直り、読み直さなければならないと思った」そうです。
私は、H師がそれまで持っていたご自分の先入観によらず、タイの人々と出会い、共に住み、その人たちと向き合うなかで、イエスさまのみ言葉の本質を今一度見つめ直してゆこうとされるその姿に感銘を受けました。それは、私の内側からでなく、向こう側から来る、いわば出会いによってみ言葉がひも解かれるわけです。生きること、生活すること、その人との関係性においてみ言葉が行なわれ、生きてこなければこれは虚しいことです。
さて、この個所の終わりのところに、「イエスさまがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28-29)と書かれてあります。
イエスさまのお言葉が権威をもっていたのは、ご自分が「天の父の御心を行って」おられたからであります。
私どもはイエスさまのご生涯とその行いに照らしながら、み言葉を聞いて行なうとはどういう事か、いつも見出し、従う者でありたいと願うものです。
イエスさまはどこに向かわれ、如何になさったかということを思い描きながら、そのイエスさまの心を自分の心として生きる。そのようにみ言葉を聞いて行なう。人生の土台は堅固なものとされていくでしょう。