宣 教 マタイ16章13-20節より
①「異教の地での主告白」
本日のこの記事はイエス一行がフィリポ・カイザリア地方に行かれた時のことであります。かの異教の地にはローマ皇帝、バアルの神々、ギリシャの神話の神々など、実に様々な像が祀られていました。
ある意味、仏教をはじめ、神道、また様々の新興宗教、さらに八百万の神々がいると言われる日本の精神土壌や状況とも重なるようです。
イエスは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何ものだと言っているか」とお尋ねになります。それに対して弟子たちはそれぞれ「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人もいますと答えました。
皆さまの中には、ご家族がクリスチャンであったという方もおられるでしょう。しかし大半は家が無宗教であるとか、仏教や神道とか、又別の信仰をもっていて、わたしだけが教会に行きキリストを信じるようになったという方が多いのではないでしょうか。日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントと言われています。日本においてキリスト教と出会う場合、まあ殆どは異教的な文化の中でキリスト教と出会うのであります。
そういう中で、日本人はキリスト教への関心や興味を少なからず持っていると思うのでありますが、本当にイエス・キリストを信仰の対象として信じるに至るその道のりはまことに厳しいものといえましょう。「狭い門から入りなさい」というみ言葉が思い浮かびますが。
日本の社会において、或いは学校の教科書などに多く見られるイエス・キリストについての解説や認識は「預言者」「博愛主義者」「賢人」などとそれこそいろいろなことが言われているわけですが。まあキリスト教といえば悪い印象より良い印象をもたれる方が多いと思います。世間や人々はイエス・キリストについていろんなことを言いますが、では、「あなたはイエス・キリストを何者だと言うのか」という問いには答えていないというのが、未だクリスチャンが1パーセントという日本の現状といえるのでしょう。
いずれにしろ、そのような異教的な社会において、キリスト者となった私たちは、この「あなたがた(ひとり一人)は、わたしを何者だと言うのか」という主イエスと私という関係を明確にする「信仰告白」が重要であるのです。「わたしがイエスを何者と言うのか」。それが問われています。世間がどうこう言っているキリスト教。教科書や参考書に記されているような一般的な解説ではなく、「わたしの救い主、わたしにとって生ける神の子」とイエス・キリストを信じ、信仰の告白をする。それが、異教的な社会や文化の中で暮らす者にとって重要なことなのです。それは私が何に属する者であるかとの認識でもあり、異教の地にあってキリストをあかしすることになります。信仰告白の告白とは、公に言い表すということです。イエスさまは「あなた方の光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。
②「わたしはこの岩の上に教会を建てる」
シモン・ペトロは、このイエスの問いに対し、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。とても短く、シンプルな信仰告白ですが、彼は「イエスが自分の真の救い主、生ける神の子」と告白するのです。
バプテスト教会の精神的な起源は、中世のローマカトリック教会が行なっていた幼児洗礼を否定し、真にイエスを救い主、キリストと信じる者(公に言い表す者)に洗礼(バプテスマ)を施すことを聖書の教えとして大切に守り抜いてきたそのような信徒たちから起こりました。信仰はローマ帝国やローマカトリック教会によって自動的に与えられるようなものではなく、たとえ小さな子どもであっても、「イエスはわたしの救い主、わたしは主を信じます」という、主との一対一の関係が尊重されなければならないことを大事にしてきたのです。その信仰というものは決して国や教会であったとしても強要することはできないものです。「あなたはわたしを何者かと言うのか」との信仰がほんとうに主の前にささげられていくことが尊いのであります。
イエスは信仰の告白を言い表したペトロに対し答えます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」。ここでイエスもまたペトロのことをフルネーム・詳細な言い方で(シモンにはアルパヨの子シモンもおりましたから)個人的に呼びかけ、祝福されます。イエスをわたしの救い主、キリストと告白する一人ひとりの名前を呼び、あなたは幸いだと、私たちの主は祝福してくださるのです。
日本というある意味異教の地に住む私たちにとって、主イエスを告白していく道のりはなかなか険しいといえるかも知れません。家の宗教や様々な仏事など、あたかもそれらのものに縛られているように感じ、信仰告白に踏み出せない方も多いのです。又クリスチャンになってからも家長であるがゆえの問題等はつきないでありましょう。
しかし、そのような世のしがらみのただ中で、主は「では、あなたはわたしを何者だと言うのか」と個人的に、それは何々家の誰それでなく、直接、あなたという固有の名を呼ばれ、その信仰の告白を祝福してくださるのです。
イエスは主告白をしたぺトロに続けてこう言われます。「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの父なのだ」。実にこの信仰告白を導いたのは、ペトロの人間的な知恵や知識ではなく、天の父である神さまなのです。
ペトロといえば、確かにイエスの愛弟子であり、又弟子たちの筆頭格の存在でありました。
けれども、その彼のあゆみを福音書から辿って観ますと、彼の弱さや優柔不断さ、失敗や挫折が赤裸々に容赦なく記されていますよね。にもかかわらず、主の愛はどこまでもぺテロに伴っていました。あのイエスを3度否んだ時、十字架の前にペトロはほんとうに自分の無力さ、優柔不断さ、弱さを痛感したことでしょう。しかし、主イエスは彼が立ち直ったら他の弟子たちを力づけ福音のために力強く働く者となるように望み、信じ、祈られました。復活の主はこのペトロと出会い、「わたしの羊を飼いなさい」というみ言葉をもってペトロを招き、彼はその主の招きに応え、主のみ言葉どおり信徒らを導き、養う者となっていくのです。
ペトロの新しいあゆみは、主イエスの十字架上の執り成しとそのご愛から来る悔い改めと新生から始まりました。
イエスはこのペトロにこう言われます。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。
これはペトロに言ったから、個人的なペトロの上に教会を建てるという意味ではありません。カトリック教会ではペトロは特別な聖人とされていますが。しかし、この岩の上にとイエスが言われた「この」とは、「あなたこそまことの救い主メシヤ、生ける神の子です」
という信仰と、その信仰告白のことであります。主イエスはこの信仰と、告白の上に「わたしの教会を建てる」と宣言されます。
私どもの教会、又すべてのキリスト者は、「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と告白するペトロの信仰告白に続く者であります。
この主ご自身が教会を建てると言われたのであります。その信仰の告白をなさせたもうご聖霊が私たちの教会のうちに今も満ち溢れ、充満している。それが「キリスト教会」のあかしです。
さらにすごいことに、イエスさまはそのようなご聖霊に満ち溢れる主の教会は「陰府の力もこれに対抗できない」と宣言されます。死の力さえ対抗できない。それは主自らその死とよみがえりによって永遠のいのちを勝ち取ってくださったのです。そこに私たち主を信じ、主に従いゆく者の希望があります。
最後に、私たちのこの大阪教会は、これからの教会のビジョンをしっかりと持ち、様々な働きや役割をこの地にあって果たしていきたいと願っています。先日の信徒研修会で、教会堂は単なる建物ではなく、福音宣教のビジョンや教会が目指すこと(使命)とリンクさせながら、その機能が十分に果たされるために教会堂は建てられなければならないという話がありました。礼拝、教会教育、信仰の継承、祈り、伝道、連盟や連合のニーズ、地域のニーズなどを祈り合い、共同作業で模索しながら、希望と期待をもって、主の業に共にあずかり、恵みを分かち合っていけるとうれしいです。
最後に、教会は「祈りの家」であるということを恵みとして覚え、ますます祈り合い、互いにとりなし合う場とされていくようにと願うものです。
今日のみ言葉でいえば、19節「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあるとおりです。
「二三人、わが名によって集まるところに私もそこにいる」と約束してくださった主イエス。その主イエスの約束のもと、心を合わせ祈り合いながら、世に遣わされ共に主のみ業を仰ぎ見ていくものとされてまいりましょう。
①「異教の地での主告白」
本日のこの記事はイエス一行がフィリポ・カイザリア地方に行かれた時のことであります。かの異教の地にはローマ皇帝、バアルの神々、ギリシャの神話の神々など、実に様々な像が祀られていました。
ある意味、仏教をはじめ、神道、また様々の新興宗教、さらに八百万の神々がいると言われる日本の精神土壌や状況とも重なるようです。
イエスは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何ものだと言っているか」とお尋ねになります。それに対して弟子たちはそれぞれ「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人もいますと答えました。
皆さまの中には、ご家族がクリスチャンであったという方もおられるでしょう。しかし大半は家が無宗教であるとか、仏教や神道とか、又別の信仰をもっていて、わたしだけが教会に行きキリストを信じるようになったという方が多いのではないでしょうか。日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントと言われています。日本においてキリスト教と出会う場合、まあ殆どは異教的な文化の中でキリスト教と出会うのであります。
そういう中で、日本人はキリスト教への関心や興味を少なからず持っていると思うのでありますが、本当にイエス・キリストを信仰の対象として信じるに至るその道のりはまことに厳しいものといえましょう。「狭い門から入りなさい」というみ言葉が思い浮かびますが。
日本の社会において、或いは学校の教科書などに多く見られるイエス・キリストについての解説や認識は「預言者」「博愛主義者」「賢人」などとそれこそいろいろなことが言われているわけですが。まあキリスト教といえば悪い印象より良い印象をもたれる方が多いと思います。世間や人々はイエス・キリストについていろんなことを言いますが、では、「あなたはイエス・キリストを何者だと言うのか」という問いには答えていないというのが、未だクリスチャンが1パーセントという日本の現状といえるのでしょう。
いずれにしろ、そのような異教的な社会において、キリスト者となった私たちは、この「あなたがた(ひとり一人)は、わたしを何者だと言うのか」という主イエスと私という関係を明確にする「信仰告白」が重要であるのです。「わたしがイエスを何者と言うのか」。それが問われています。世間がどうこう言っているキリスト教。教科書や参考書に記されているような一般的な解説ではなく、「わたしの救い主、わたしにとって生ける神の子」とイエス・キリストを信じ、信仰の告白をする。それが、異教的な社会や文化の中で暮らす者にとって重要なことなのです。それは私が何に属する者であるかとの認識でもあり、異教の地にあってキリストをあかしすることになります。信仰告白の告白とは、公に言い表すということです。イエスさまは「あなた方の光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。
②「わたしはこの岩の上に教会を建てる」
シモン・ペトロは、このイエスの問いに対し、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。とても短く、シンプルな信仰告白ですが、彼は「イエスが自分の真の救い主、生ける神の子」と告白するのです。
バプテスト教会の精神的な起源は、中世のローマカトリック教会が行なっていた幼児洗礼を否定し、真にイエスを救い主、キリストと信じる者(公に言い表す者)に洗礼(バプテスマ)を施すことを聖書の教えとして大切に守り抜いてきたそのような信徒たちから起こりました。信仰はローマ帝国やローマカトリック教会によって自動的に与えられるようなものではなく、たとえ小さな子どもであっても、「イエスはわたしの救い主、わたしは主を信じます」という、主との一対一の関係が尊重されなければならないことを大事にしてきたのです。その信仰というものは決して国や教会であったとしても強要することはできないものです。「あなたはわたしを何者かと言うのか」との信仰がほんとうに主の前にささげられていくことが尊いのであります。
イエスは信仰の告白を言い表したペトロに対し答えます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」。ここでイエスもまたペトロのことをフルネーム・詳細な言い方で(シモンにはアルパヨの子シモンもおりましたから)個人的に呼びかけ、祝福されます。イエスをわたしの救い主、キリストと告白する一人ひとりの名前を呼び、あなたは幸いだと、私たちの主は祝福してくださるのです。
日本というある意味異教の地に住む私たちにとって、主イエスを告白していく道のりはなかなか険しいといえるかも知れません。家の宗教や様々な仏事など、あたかもそれらのものに縛られているように感じ、信仰告白に踏み出せない方も多いのです。又クリスチャンになってからも家長であるがゆえの問題等はつきないでありましょう。
しかし、そのような世のしがらみのただ中で、主は「では、あなたはわたしを何者だと言うのか」と個人的に、それは何々家の誰それでなく、直接、あなたという固有の名を呼ばれ、その信仰の告白を祝福してくださるのです。
イエスは主告白をしたぺトロに続けてこう言われます。「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの父なのだ」。実にこの信仰告白を導いたのは、ペトロの人間的な知恵や知識ではなく、天の父である神さまなのです。
ペトロといえば、確かにイエスの愛弟子であり、又弟子たちの筆頭格の存在でありました。
けれども、その彼のあゆみを福音書から辿って観ますと、彼の弱さや優柔不断さ、失敗や挫折が赤裸々に容赦なく記されていますよね。にもかかわらず、主の愛はどこまでもぺテロに伴っていました。あのイエスを3度否んだ時、十字架の前にペトロはほんとうに自分の無力さ、優柔不断さ、弱さを痛感したことでしょう。しかし、主イエスは彼が立ち直ったら他の弟子たちを力づけ福音のために力強く働く者となるように望み、信じ、祈られました。復活の主はこのペトロと出会い、「わたしの羊を飼いなさい」というみ言葉をもってペトロを招き、彼はその主の招きに応え、主のみ言葉どおり信徒らを導き、養う者となっていくのです。
ペトロの新しいあゆみは、主イエスの十字架上の執り成しとそのご愛から来る悔い改めと新生から始まりました。
イエスはこのペトロにこう言われます。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。
これはペトロに言ったから、個人的なペトロの上に教会を建てるという意味ではありません。カトリック教会ではペトロは特別な聖人とされていますが。しかし、この岩の上にとイエスが言われた「この」とは、「あなたこそまことの救い主メシヤ、生ける神の子です」
という信仰と、その信仰告白のことであります。主イエスはこの信仰と、告白の上に「わたしの教会を建てる」と宣言されます。
私どもの教会、又すべてのキリスト者は、「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と告白するペトロの信仰告白に続く者であります。
この主ご自身が教会を建てると言われたのであります。その信仰の告白をなさせたもうご聖霊が私たちの教会のうちに今も満ち溢れ、充満している。それが「キリスト教会」のあかしです。
さらにすごいことに、イエスさまはそのようなご聖霊に満ち溢れる主の教会は「陰府の力もこれに対抗できない」と宣言されます。死の力さえ対抗できない。それは主自らその死とよみがえりによって永遠のいのちを勝ち取ってくださったのです。そこに私たち主を信じ、主に従いゆく者の希望があります。
最後に、私たちのこの大阪教会は、これからの教会のビジョンをしっかりと持ち、様々な働きや役割をこの地にあって果たしていきたいと願っています。先日の信徒研修会で、教会堂は単なる建物ではなく、福音宣教のビジョンや教会が目指すこと(使命)とリンクさせながら、その機能が十分に果たされるために教会堂は建てられなければならないという話がありました。礼拝、教会教育、信仰の継承、祈り、伝道、連盟や連合のニーズ、地域のニーズなどを祈り合い、共同作業で模索しながら、希望と期待をもって、主の業に共にあずかり、恵みを分かち合っていけるとうれしいです。
最後に、教会は「祈りの家」であるということを恵みとして覚え、ますます祈り合い、互いにとりなし合う場とされていくようにと願うものです。
今日のみ言葉でいえば、19節「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあるとおりです。
「二三人、わが名によって集まるところに私もそこにいる」と約束してくださった主イエス。その主イエスの約束のもと、心を合わせ祈り合いながら、世に遣わされ共に主のみ業を仰ぎ見ていくものとされてまいりましょう。