宣教より ローマ2章1~11節
パウロはイエスさまと出会い救われる前までは、自分がしている事に間違いがいはない、と信じ疑いませんでした。パウロは神様の教えである律法を熱心に学び、守ることに一生懸命でした。新興宗教のように現れたキリストの教会が大嫌いで、イエスさまを信じている人たちを憎み、捕まえてはひどい目にあわせていました。でもそれがパウロには正しいことだと思われたのです。けれどもイエスさまはそのパウロに出会い声をかけられました。「サウロ、サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。生きて呼びかけるイエス・キリストとの出会いによってパウロは、自分の間違いに気づかされました。こうして、それからはすっかり神の赦しと愛に満たされた者へと変えられて、イエスさまのために精一杯働く人、福音を伝えずにはいられない人になりました。
パウロはイエスさまに当然裁かれてもおかしくなかったのですが、イエスさまはパウロを赦されました。それで、パウロがその赦しを受け取った時、彼はやり直すことができたのです。それが悔い改めです。
外側からどれだけ裁いても人の心は変わりません。ただ神の愛と赦しだけが人の内側から変える力を持つのです。そうして本当に自分が赦されていると知った人は、もはや神の裁きより先走って人を裁こうとは思いません。神が自分さえ赦し受け入れてくださったことを知っているからです。
パウロはイエスさまと出会い救われる前までは、自分がしている事に間違いがいはない、と信じ疑いませんでした。パウロは神様の教えである律法を熱心に学び、守ることに一生懸命でした。新興宗教のように現れたキリストの教会が大嫌いで、イエスさまを信じている人たちを憎み、捕まえてはひどい目にあわせていました。でもそれがパウロには正しいことだと思われたのです。けれどもイエスさまはそのパウロに出会い声をかけられました。「サウロ、サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。生きて呼びかけるイエス・キリストとの出会いによってパウロは、自分の間違いに気づかされました。こうして、それからはすっかり神の赦しと愛に満たされた者へと変えられて、イエスさまのために精一杯働く人、福音を伝えずにはいられない人になりました。
パウロはイエスさまに当然裁かれてもおかしくなかったのですが、イエスさまはパウロを赦されました。それで、パウロがその赦しを受け取った時、彼はやり直すことができたのです。それが悔い改めです。
外側からどれだけ裁いても人の心は変わりません。ただ神の愛と赦しだけが人の内側から変える力を持つのです。そうして本当に自分が赦されていると知った人は、もはや神の裁きより先走って人を裁こうとは思いません。神が自分さえ赦し受け入れてくださったことを知っているからです。