日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

あなたは誰を拝んでいるのか?

2011-01-16 07:40:29 | メッセージ
宣 教   列王記上18章20~40節

 20節以降はエリヤが一人でバアルの預言者450人と対決する場面であります。
その対決の前に、エリヤがカルメル山に集まったイスラエルのすべての民に近づいてこう言いました。21節「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」。すると民はひと言も答えなかったというのです。何かポカーンと口を開いたままのイスラエルの民たちの様相が思い浮かんでくるようですが。
宣教メッセージはこのエリヤの問いかけから、「あなたは誰を拝んでいるのか?」という題を敢えてつけさせて頂きました。かつて主なる神さまは、イスラエルをエジプトの奴隷のような状態から導き出し、親鳥がそのひなを抱くように慈しみをもってその民を守り、育くんで来られたのです。しかしここを見ますと、そのイスラエルの民らは、一体誰を神として拝んでいるのかということがもはや全くといっていいほど分かっていなかったということですね。

ちょっと話が跳びますが、お正月のテレビ番組で、「あなたは「誰を」だったか「何を」だったか忘れましたが、拝んでいるのか知っていますか?」というテーマでビートたけしさんが司会をなさっていましたが。「日本人が神社仏閣で拝んでいる神や仏は一つではなく、それぞれ違う神仏が祀られてあるということを解説していくんです。観られた方もおられるかも知れません。日本人の大概の方は、誰を拝んでいるのか分からないまま参拝しているんですよね。これはある意味においてこのイスラエルの民と共通していると言えなくもありません。イスラエルの民は主なる神もバアルの神も聖書の神も変わりなく同じようなものだとしか思っていなかったのではないでしょうか。まあ日本の場合は、確かに八百万の神々を拝むといった風習や慣習はありますけれども、その一方で誰を拝んでいるのか分からずに拝んでいる、逆に誰を拝んでも、何を拝んでも信心であって、その入り口は異なってはいても辿りつくところはみな同じだというような甚だあいまいなものであったのではないでしょうか。
イスラエルの民は誰を神として拝んでいるか分からないまでも、アハブ王、つまりお上の申しつけだと人の見よう見まねでバアル拝んでいたにすぎず、主なる神についても理解できていなかった。ですから、「バアルに従うか、主に従うか」と尋ねられてもピンとこないと言いますか、エリヤの言葉を理解できなかったのであります。

「エリヤとバアルの預言者のたたかい」
そこでいよいよエリヤは主の預言者として一人で、バアルの預言者450人と戦うのでありますが。それは犠牲の雄牛をエリヤとバアルの預言者双方の薪の上に載せておいて、そこに火が降った方が、真の神を拝んでいることを証明するというものでした。
旧約聖書では一方で、「あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16)と記されていますが。この「どちらが真の神であるか」という対決は、肉的な名誉や満足のためになすものではなく、真の神であられるお方が証明されていく点において異なっていました。

さて、バアルの預言者たち450名は朝から真昼まで、祭壇の周りを廻りながらバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈るのですが、声も無く答える者もなかったのです。エリヤが嘲笑って「神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう」と挑発すると、バアルの預言者たちはさらに大声を張り上げ、剣や槍で体を傷つけ、血を流してまで必死にバアルの神に叫んだというのです。が、薪には火はつきません。

次はエリヤの番です。まず彼がイスラエルの民に向かって「わたしの近くに来なさい」と呼びかけると、に、すべての民が彼に近寄って来ました。
エリヤがそこでまず何をなしたでしょうか。それは、壊された主の祭壇、バアルの神々を祀るため、さらに政治的策略のため壊された生ける主の祭壇を彼は修復したのです。
私どもは今新年を迎え、心新たにこの一年を歩み出しましたが。ここでまずなすべき事、それは心の内にある祭壇を築き直すという事であります。神ならざるもの拝んでいないか? 神のように奉られ、拝されているものはないか? 信仰の基なる主イエス・キリストを、その福音を確かに戴いているか否か。それはまず私どもが、主のみ前にその姿勢を整えられ、正されていくことはとても大事なことであります。身も心もそのようにありたいものであります。
それから、エリヤは先祖ヤコブの子孫の部族の数に従って12の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築いたということです。そこに献げものの雄牛を薪の上において、4つのカメの水を3回、合計これも12回という数ですが水を注いだというのです。
かつては同じ一つの民であった12の部族。それが北と南に分裂してしまったのですが、そのイスラエルの12の部族を主が再び集めて一つとされるという預言がここに示されているように思えます。この光景はその場に集まった人々にどう映ったことでしょう。生ける主なる神のみ恵みと慈しみを思い起こさせたのではないでしょうか。
 
「エリヤの祈り」
そしてエリヤは次のように祈りました。36節「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらのことをあなたの御言葉によって行なったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よわたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返した(立ちかえらせた)のは、あなたであることを知るでしょう」。
エリヤは騒々しく自虐的なバアルの預言者たちとは対照的に神によって与えられる知恵と理性、さらに霊性をもって、又イスラエルに働かれる主に対する確信をもって呼びかけ、祈ります。すると、そこに主の火が降って、牛と薪は焼き尽くされたのであります。
これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言ったというのです。もはやイスラエルの民らはそれぞれに、人に強いられてではなく、又人がしているからという事でもなく、主体的に「主こそ神、主こそ神です」と自らの信仰を言い表したのであります。自らのルーツ、依って立つ処、存在の源はアブラハム、イサク、イスラエル(ヤコブ)の神、囚われの地より導き出したる主であることを再び見出し、立ち返る者となったのです。

「主体的な信仰告白」
ここが今日のみ言葉のメッセージの締めくくりであります。彼らはもはや、あなたは誰を拝んでいるのか?と問われるようなことがあっても、確信をもって「生ける主こそ真の神です」と自分が信じている神についてはっきりと言い表せるようになったのですね。
新約聖書・ローマ10章10節に「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」とあるとおりです。

最後に、昨年来より60周年記念誌の作成段階で座談会が数回持たれました。大阪教会の宣教の歴史、収益事業ひかり駐車場のことについて、さらにこれからの大阪教会の将来・ヴィジョンについて語り合いました。その中で、わたしども日本バプテスト大阪教会としての「信仰告白」について、今一度確認をし、その信仰告白をもって教会を築いていくことの必要性に気づかされました。まず私たちクリスチャンは、主のみ前にあって一人ひとりの主体的な「信仰告白」がありますが、その個々人はまたキリストのからだなる教会の一部として礼拝を捧げ、奉仕や献金、伝道や教育の働きや交わりをもってその主のみ体を建てあげているのであります。そしてその主のからだの集大成が私たち教会の「信仰告白」であります。
今年は新年度の始まりにあたって、主にあって共に今一度、大阪教会の祭壇を築き直す、内なる祭壇の修復ことから始めたいと願っています。「あなたは誰を拝んでいるのか?」 もはやこの問いかけに、私どもははっきりと各々、そして教会の信仰告白を掲げてイエス・キリストなる神、生きて共に働きたもう主と、答えることができますように祈ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする