宣教 列王記上19章1~18節
先週は預言者エリヤが生ける真の神の栄光を現すためにバアルの偶像を拝む450人の預言者と対決するエピソードを読みました。主の火が降りその御力が顕わされるとイスラエルの民は「主こそ神です。主こそ神です」と真の神にひれ伏したのでした。
この19章1節には「アハブ王は、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた」とありますが。それは先週読みました18章40節に記されているとおり、エリヤが「バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃してはならない」と民に命じて、彼らをキション川に連れて行って殺した」ということであります。それを聞いた王女イゼベルは、エリヤに使者を送り、エリヤを殺す決意を告げるのです。この時北イスラエルの実権はアハブ王よりも女王イゼベルが掌握し、イゼベルの勢力は脅威となっていたようであります。その言葉を聞いたエリヤは「恐れ、直ちに逃げた」とありますね。あの御名のために勇ましく戦ったエリヤはどこに行ったのでしょう。刺客が自分を追って来ていつこの命が奪われるかという恐れ。敗北したバアルの預言者たち全員を虐殺したことが報復を招き、自分のもとに跳ね返ってきたのです。
敗北したバアルの預言者を皆殺しにしたエリヤの行為は主のもとから出たものかどうかここでは明らかになっていませんが、生ける神の預言者たち、いわば同胞を殺された恨みといいましょうか、そういったエリヤの感情的判断が入り混じっていたと言えなくはないでしょう。ですから、彼はイゼベルから恐れ逃げたのでありますが、実はそれは主の御前から逃げていることであったのです。
古今東西、宗教戦争が何度も歴史上繰り返され、争いが絶えませんが。こうした血で血を洗うような殺し合いによって何ら問題は解決せず、かえって報復の連鎖を生むだけであります。それは本日のところにありますように聖なる戦いだと虐殺をなしたエリヤ自身の心に禍根を残し、死への恐怖が絶えずつきまとい、どこにいても怯え、さいなまれ続けなければならなかったということであります。
さて、エリヤは逃げてベエル・シェバに行き、そこから熱く乾いた荒れ野に入り、一日の道のりを歩き続けて、一本のえにしだの木(日差しよけになる全長2メートル位の観葉植物・木)の下に座って、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と、神に自分の命が絶えることを願うのであります。
そこで彼は余りの疲れからか横になって寝入ってしまいますが、そこに主のみ使いがパンと水をエリヤの枕元に届けて下さいます。彼はその食べ物に力づけられたとありますね。
自分の命が絶えるのを願って「主よ、わたしの命を取ってください」と訴えたエリヤに対し、主は「生きよ」と、パンと水を与えられるのです。主は生ける者すべての神、すべての命をすべ治めておられるお方であります。殺すこと、又自ら命を絶つことは人の側の判断です。しかし命の主権は主にのみあるのです。
私たちもこの時のエリヤのように神を信じていながらも、「主よ、私はもうだめです」と訴えざるを得ないようなことがないでしょうか。もう私にはどうすることもできない、万策尽きた、疲れ果てた、もうお手上げだといったような時。しかしそのような時、不思議と向こうの方から出来事がやってきて、難を逃れることができた。あるいは思わぬところから助けや支えの手が与えられたという体験をされた事もおありでしょう。主はあらゆる手段で救いの手を差し伸べておられます。
もし身近に元気がないな、疲れているようだな、そんな方がおられたら、声をかけたり、食事を共にしてくださるといいと思います。一緒に祈ってくださることも大切です。
私たちは生身の人間ですからちょっと気にかけてもらったり、愛情と共に美味しいものを戴くとあんがい元気の出る者なのです。私たちも神の使いとして用いられましょう。
さて、そうしてエリヤは「四十日歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」とあります。
なぜ彼がそこに向かったのか分かりませんが、ついに着いたとありますから、恐らく彼は偉大なモーセがホレブの山で神とお会いしイスラエルと契約を結んだことを思い出し、かの地へ向かったのでしょう。
エリヤはそのホレブの山で主と出会い、彼の信仰が刷新されるのでありますが、しかしそのことも実は主の導き、御取り計らいによるものであります。
私たちが人生のピンチだと考える時も、実は主が私たちを高い山に登らせご自身を示して下さる、そんな信仰の刷新のチャンスでもあるということです。
この聖書の個所から私たちが聞いていきたいのは、まず11節。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」とエリヤにおっしゃったみ言葉であります。「そこを出て」とは何を指しているのでしょうか。それは洞穴、人目を避けた隠れ場であります。それはまたエリヤ自身の心境でもあります。「脱出口のないエリヤ自身の心のトンネル」を意味しています。エリヤは主から二度「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問いかけられますが、彼は同じ事を2度も繰り返し答えますね。10節、14節ですが。それを要約すると、「わたしはこれまであなたに熱心に仕えてきたのに、どうしてこのような目に(命を奪われる)遭わなければならないのですか」との訴えであります。確かにエリヤの情熱や忠誠心は素晴らしいものです。けれども、その彼の心の中に自分はまったく正しく、間違った事はしていないと自己正当化するかたくなな思いがひそんでいました。彼は「主よ」といいながら、自分のことばかりに心が向いて、その暗いトンネルから出ることができないでいるのです。
私たちが主への奉仕をなすことは主の目に麗しいことです。しかし、主のため、主のためと言いながら自己満足に浸って、「ただ自分だけが一人残って」と文句や不平をいって自己正当化することに終始するなら、それは残念なことです。実際エリヤ以外にもバアルにひざまずかなかった者が7千人いたのですね。主はちゃんとその人たちのことを見て数えて知っておられるのです。教会も目立ちませんが小さい事に忠実に奉仕されておられる方の存在は実に尊いといえます。
主はそのエリヤにおっしゃいます。「そこを出て、主の前に立ちなさい」と。
自分の思いに囚われるというような暗い洞穴から出て、「主の前に立つ」。そこで、主のみ心が何であるかということを聞きわけていくことが、この時エリヤには不可欠であったのです。しかしエリヤはなかなか主の「そこを出て、主の前に立ちなさい」とのみ言葉を理解することができず、洞穴から出る事ができないでいるのです。
この事は私たちにとっても同じことです。私たちが自分の思い(自己正当化や、反対に自己憐憫など)に囚われている間は、闇の中から出ることは難しいのです。そんな闇の中では自分の立ち位置さえ見えません。自分の方からしか物事を見、考えようとしないなら、その囚われの洞穴から抜け出すことはできません。しかしそこにたとえば自分を映し出すことのできる鏡が前にあったとしたならどうでしょうか。人はその鏡の前に立つことによって自分の姿がよくわかります。そのように、私ども主によって生かされていると信じる者は、主の前に立つことによって初めて「自分とは何ものなのか」を知ることができますし、その置かれた状況を正しく判断する道も開かれてゆくのです。
わたしはこの19章から「静かにささやく声」(12節)という宣教題をつけさせて頂きました。エリヤは洞穴の中で「そこを出て、主の前に立ちなさい」とのみ声を聞きますが、それは何か「風」や「地震」「火」の中に主がおられてそのしるしをもってエリヤの前に現われるというようなものではなかったのです。反対に耳を澄まさなければ聴き逃してしまうような小さな細きみ声、「静かにささやく声」を聞くなかで、主の臨在を確信するのです。
エリヤが聞いたこの「静かにささやく声」とはどういうものだったのでしょうか。これは聖書教育の青年成人科テキストに書かれていたことですが、「私たちが例えば、人と対話をしたり、話し合いをするときに、自分のことばかりを主張し、無我夢中でしゃべっていると相手が語ろうとすることは聞こえないものです。同じように、祈りも、自分の要求ばかり並べ立てている時には、主のみ声が聞こえないのかも知れません。」
そうですね。祈りといえば何かお願いをすることと思いがちです。そして願いが叶ったらあたかも神に出会い特別な恵みに与ったように考えるかも知れません。しかしもし本当に神の御声を聴き、主の御心に生きることを願うならば、主の前にまず静まることが大事です。自らの状況や願いを主のみ前におくと共に、聖書を通して主が行われた事、又語られたみ言葉から聴きつつ、祈るのです。
つい先日、韓国のバプテスト教会の大学生・生年による4名の伝道チ―ムが大阪中央バプテスト教会のご紹介で大阪教会を訪問され、一泊してゆかれました。彼らとしばし主にある交わりの時が与えられました。翌日は大阪教会の教会案内500部をこの地域に配布してくださいました。その彼らを通して与えられた「祈りの恵みと力」を少しお証しして宣教を閉じます。
彼らは泊る所が与えられたという安心感もあってか、礼拝堂を案内するなり1番前のイスに座って、ある人はひざまずいて涙声で各々感謝の祈りを始めました。翌朝5時に早天祈祷をするというので私と連れ合いも参加したのですが、少人数で少しさみしそうでした。何しろ彼らの属する教会は1万人いるそうです。考えられますか。メガチャーチ。このような教会は韓国やアメリカには沢山あるのですよね。しかしそのチ―ムのリーダーでこの4月から牧師として巣立っていくという人が、「大阪教会の将来はさらに主に祝福されて大きな教会になります」と、そういう預言ともいえる言葉を戴きました。彼らには大阪教会の将来のビジョンを一切話していないのです。又、帰りがけに咳がひどくて体調がすぐれなかった連れ合いのために4人で本当に心を込めて祈ってくださったのが印象的でした。韓国のクリスチャンは本当によく祈られます。韓国においていまも信仰復興の火は消えることなく燃え続けていると言われていますが、教会で祈り、祈祷院で祈り、毎朝早天で祈り、断食までして祈る。それは「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」とおっしゃったとおりに祈り続けているからだと思いました。私たちも又、益々祈り続けていきましょう。その中で、主の静かなるみ声を確かに聴き分け、主に従いゆく者とされてまいりましょう。必ずそこに主のみ業、主のみ心が示されるはずです。そしてその主の恵みと祝福を自分のためだけでなく、他者と分かち合っていくものとされてまいりましょう。
先週は預言者エリヤが生ける真の神の栄光を現すためにバアルの偶像を拝む450人の預言者と対決するエピソードを読みました。主の火が降りその御力が顕わされるとイスラエルの民は「主こそ神です。主こそ神です」と真の神にひれ伏したのでした。
この19章1節には「アハブ王は、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた」とありますが。それは先週読みました18章40節に記されているとおり、エリヤが「バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃してはならない」と民に命じて、彼らをキション川に連れて行って殺した」ということであります。それを聞いた王女イゼベルは、エリヤに使者を送り、エリヤを殺す決意を告げるのです。この時北イスラエルの実権はアハブ王よりも女王イゼベルが掌握し、イゼベルの勢力は脅威となっていたようであります。その言葉を聞いたエリヤは「恐れ、直ちに逃げた」とありますね。あの御名のために勇ましく戦ったエリヤはどこに行ったのでしょう。刺客が自分を追って来ていつこの命が奪われるかという恐れ。敗北したバアルの預言者たち全員を虐殺したことが報復を招き、自分のもとに跳ね返ってきたのです。
敗北したバアルの預言者を皆殺しにしたエリヤの行為は主のもとから出たものかどうかここでは明らかになっていませんが、生ける神の預言者たち、いわば同胞を殺された恨みといいましょうか、そういったエリヤの感情的判断が入り混じっていたと言えなくはないでしょう。ですから、彼はイゼベルから恐れ逃げたのでありますが、実はそれは主の御前から逃げていることであったのです。
古今東西、宗教戦争が何度も歴史上繰り返され、争いが絶えませんが。こうした血で血を洗うような殺し合いによって何ら問題は解決せず、かえって報復の連鎖を生むだけであります。それは本日のところにありますように聖なる戦いだと虐殺をなしたエリヤ自身の心に禍根を残し、死への恐怖が絶えずつきまとい、どこにいても怯え、さいなまれ続けなければならなかったということであります。
さて、エリヤは逃げてベエル・シェバに行き、そこから熱く乾いた荒れ野に入り、一日の道のりを歩き続けて、一本のえにしだの木(日差しよけになる全長2メートル位の観葉植物・木)の下に座って、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と、神に自分の命が絶えることを願うのであります。
そこで彼は余りの疲れからか横になって寝入ってしまいますが、そこに主のみ使いがパンと水をエリヤの枕元に届けて下さいます。彼はその食べ物に力づけられたとありますね。
自分の命が絶えるのを願って「主よ、わたしの命を取ってください」と訴えたエリヤに対し、主は「生きよ」と、パンと水を与えられるのです。主は生ける者すべての神、すべての命をすべ治めておられるお方であります。殺すこと、又自ら命を絶つことは人の側の判断です。しかし命の主権は主にのみあるのです。
私たちもこの時のエリヤのように神を信じていながらも、「主よ、私はもうだめです」と訴えざるを得ないようなことがないでしょうか。もう私にはどうすることもできない、万策尽きた、疲れ果てた、もうお手上げだといったような時。しかしそのような時、不思議と向こうの方から出来事がやってきて、難を逃れることができた。あるいは思わぬところから助けや支えの手が与えられたという体験をされた事もおありでしょう。主はあらゆる手段で救いの手を差し伸べておられます。
もし身近に元気がないな、疲れているようだな、そんな方がおられたら、声をかけたり、食事を共にしてくださるといいと思います。一緒に祈ってくださることも大切です。
私たちは生身の人間ですからちょっと気にかけてもらったり、愛情と共に美味しいものを戴くとあんがい元気の出る者なのです。私たちも神の使いとして用いられましょう。
さて、そうしてエリヤは「四十日歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」とあります。
なぜ彼がそこに向かったのか分かりませんが、ついに着いたとありますから、恐らく彼は偉大なモーセがホレブの山で神とお会いしイスラエルと契約を結んだことを思い出し、かの地へ向かったのでしょう。
エリヤはそのホレブの山で主と出会い、彼の信仰が刷新されるのでありますが、しかしそのことも実は主の導き、御取り計らいによるものであります。
私たちが人生のピンチだと考える時も、実は主が私たちを高い山に登らせご自身を示して下さる、そんな信仰の刷新のチャンスでもあるということです。
この聖書の個所から私たちが聞いていきたいのは、まず11節。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」とエリヤにおっしゃったみ言葉であります。「そこを出て」とは何を指しているのでしょうか。それは洞穴、人目を避けた隠れ場であります。それはまたエリヤ自身の心境でもあります。「脱出口のないエリヤ自身の心のトンネル」を意味しています。エリヤは主から二度「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問いかけられますが、彼は同じ事を2度も繰り返し答えますね。10節、14節ですが。それを要約すると、「わたしはこれまであなたに熱心に仕えてきたのに、どうしてこのような目に(命を奪われる)遭わなければならないのですか」との訴えであります。確かにエリヤの情熱や忠誠心は素晴らしいものです。けれども、その彼の心の中に自分はまったく正しく、間違った事はしていないと自己正当化するかたくなな思いがひそんでいました。彼は「主よ」といいながら、自分のことばかりに心が向いて、その暗いトンネルから出ることができないでいるのです。
私たちが主への奉仕をなすことは主の目に麗しいことです。しかし、主のため、主のためと言いながら自己満足に浸って、「ただ自分だけが一人残って」と文句や不平をいって自己正当化することに終始するなら、それは残念なことです。実際エリヤ以外にもバアルにひざまずかなかった者が7千人いたのですね。主はちゃんとその人たちのことを見て数えて知っておられるのです。教会も目立ちませんが小さい事に忠実に奉仕されておられる方の存在は実に尊いといえます。
主はそのエリヤにおっしゃいます。「そこを出て、主の前に立ちなさい」と。
自分の思いに囚われるというような暗い洞穴から出て、「主の前に立つ」。そこで、主のみ心が何であるかということを聞きわけていくことが、この時エリヤには不可欠であったのです。しかしエリヤはなかなか主の「そこを出て、主の前に立ちなさい」とのみ言葉を理解することができず、洞穴から出る事ができないでいるのです。
この事は私たちにとっても同じことです。私たちが自分の思い(自己正当化や、反対に自己憐憫など)に囚われている間は、闇の中から出ることは難しいのです。そんな闇の中では自分の立ち位置さえ見えません。自分の方からしか物事を見、考えようとしないなら、その囚われの洞穴から抜け出すことはできません。しかしそこにたとえば自分を映し出すことのできる鏡が前にあったとしたならどうでしょうか。人はその鏡の前に立つことによって自分の姿がよくわかります。そのように、私ども主によって生かされていると信じる者は、主の前に立つことによって初めて「自分とは何ものなのか」を知ることができますし、その置かれた状況を正しく判断する道も開かれてゆくのです。
わたしはこの19章から「静かにささやく声」(12節)という宣教題をつけさせて頂きました。エリヤは洞穴の中で「そこを出て、主の前に立ちなさい」とのみ声を聞きますが、それは何か「風」や「地震」「火」の中に主がおられてそのしるしをもってエリヤの前に現われるというようなものではなかったのです。反対に耳を澄まさなければ聴き逃してしまうような小さな細きみ声、「静かにささやく声」を聞くなかで、主の臨在を確信するのです。
エリヤが聞いたこの「静かにささやく声」とはどういうものだったのでしょうか。これは聖書教育の青年成人科テキストに書かれていたことですが、「私たちが例えば、人と対話をしたり、話し合いをするときに、自分のことばかりを主張し、無我夢中でしゃべっていると相手が語ろうとすることは聞こえないものです。同じように、祈りも、自分の要求ばかり並べ立てている時には、主のみ声が聞こえないのかも知れません。」
そうですね。祈りといえば何かお願いをすることと思いがちです。そして願いが叶ったらあたかも神に出会い特別な恵みに与ったように考えるかも知れません。しかしもし本当に神の御声を聴き、主の御心に生きることを願うならば、主の前にまず静まることが大事です。自らの状況や願いを主のみ前におくと共に、聖書を通して主が行われた事、又語られたみ言葉から聴きつつ、祈るのです。
つい先日、韓国のバプテスト教会の大学生・生年による4名の伝道チ―ムが大阪中央バプテスト教会のご紹介で大阪教会を訪問され、一泊してゆかれました。彼らとしばし主にある交わりの時が与えられました。翌日は大阪教会の教会案内500部をこの地域に配布してくださいました。その彼らを通して与えられた「祈りの恵みと力」を少しお証しして宣教を閉じます。
彼らは泊る所が与えられたという安心感もあってか、礼拝堂を案内するなり1番前のイスに座って、ある人はひざまずいて涙声で各々感謝の祈りを始めました。翌朝5時に早天祈祷をするというので私と連れ合いも参加したのですが、少人数で少しさみしそうでした。何しろ彼らの属する教会は1万人いるそうです。考えられますか。メガチャーチ。このような教会は韓国やアメリカには沢山あるのですよね。しかしそのチ―ムのリーダーでこの4月から牧師として巣立っていくという人が、「大阪教会の将来はさらに主に祝福されて大きな教会になります」と、そういう預言ともいえる言葉を戴きました。彼らには大阪教会の将来のビジョンを一切話していないのです。又、帰りがけに咳がひどくて体調がすぐれなかった連れ合いのために4人で本当に心を込めて祈ってくださったのが印象的でした。韓国のクリスチャンは本当によく祈られます。韓国においていまも信仰復興の火は消えることなく燃え続けていると言われていますが、教会で祈り、祈祷院で祈り、毎朝早天で祈り、断食までして祈る。それは「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」とおっしゃったとおりに祈り続けているからだと思いました。私たちも又、益々祈り続けていきましょう。その中で、主の静かなるみ声を確かに聴き分け、主に従いゆく者とされてまいりましょう。必ずそこに主のみ業、主のみ心が示されるはずです。そしてその主の恵みと祝福を自分のためだけでなく、他者と分かち合っていくものとされてまいりましょう。