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ヨシヤ王の神殿修復

2011-03-13 07:41:38 | メッセージ
宣教 列王記下22章1~13節より  

先週30代という若さで死の病を患ったヒゼキヤ王が主に切なる祈りをささげて、その寿命を15年延ばされたという記事を読みましたが。そのヒゼキヤ王も亡くなり南ユダ王国は彼の息子マナセが55年間王位を継承します。しかし21章に記されていますように、マナセが王位につくと、2-3「彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。彼はヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し、イスラエルの王アハブが行ったようにバアルの祭壇を築き、アシュラ像を造った。更に彼は天の万象の前にひれ伏し、これに仕えた」と記されています。又、そのマナセの後に息子アモンが2年間南ユダ王国の王位を継承しますが、20-22「彼は父マナセが行ったように、主の目に悪とされることを行った。父の歩んだ道をそのまま歩み、父が仕えた偶像に彼も仕え、その前にひれ伏し、先祖の神、主を捨て、主の道に歩まなかった」というのです。せっかくヒゼキヤ王を通して信仰の回復が起こされたのに、次の世代もその次の世代もと永きに亘り不信仰な時代が続くのであります。
しかし、そのような歴史の中においてもモーセの教えに忠実に生き、唯一の主なる神を礼拝しようという運動をずっと担ってきた政治的な指導者たちがいました。それが21章24節に出てくる「国の民」という集団であります。
結局、アモン王は家臣の謀反によって殺されるのでありますが、その謀反を起こした家臣を国の民が討って実権を握り、アモンに代えてその子ヨシヤをわずか8歳で王位に立てたのです。
ヨシヤは8歳から31年間ですから39才まで南ユダの王位にあったということでありますが、再来週読みます「宗教改革」を行った「偉大な善王」としてよく知られております。
本日の2節に「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」と述べられているとおりです。

けれども実は、この彼の宗教改革はヨシヤ独りの力によるものではなかったのであります。その陰には先ほどの「国の民」らの働きがあったのです。彼らは8歳で王となったヨシヤにモーセの教え・律法などの宗教的な教育を懇切丁寧に施してきたのです。この「国の民」の存在が王にとって如何に大きかったかということであります。家庭での親から子への信仰の継承や聖書の教育、礼拝の教育は本当に大事であります。しかしヨシヤの場合、父も祖父も「主の目に悪とされることを行った」とありますから、そうはいきませんでした。そのまま行けば「右にも左にもそれるような悪王」となっていたかもしれません。感性豊かな若き日にヨシヤが「国の民」と出会い、信実なる神への宗教的な教育を受けることがなかったなら、祖父や父のように彼もまた「主の目に悪とされることを行った」と聖書に記されるような生涯を送ったかも知れません。彼と関る人々の篤い信仰心こそが彼をそこまで育てたのだと知らされるとき、私たちも又、子どもたちや、若い感性に関る者としての務めが託されているということを思わされます。次世代への信仰の継承。それは神の民、教会に託された働きであるということです。今度の19日(土)連合教育委員会主催による「教会と青少年・若い人をどう生み育てるか」というテーマで一日研修会が大阪教会において開催されます。皆さまこぞってご参加くださり、この課題にみなで祈り取り組んでいきたいと願っております。

さて、ヨシヤがまず手がけたのは、神殿の修復でありました。ヨシヤ王26歳の時でした。それは国の民から教えられた、「唯一真の神を礼拝するため」になされたものです。
当時エルサレムの神殿には「聖なる高台」と称されるバアルの祭壇やアシュラの偶像がいくつも残存していたのです。まず、それらを取り除かねばなりませんでした。
この神殿の修復には、「取り除くことと、建て直すこと」の両面が必要であったのです。
ヨシヤ王は偶像や祭壇を取り除く一方、神殿をさらに強固にしました。それは、主の前に悪とされるものを捨て去ることによって、主の恵みの豊かさを確かなものとして築き直していく作業でした。このことは私たちの信仰生活においても大切な作業であります。
その神殿修復の真只中、大祭司ヒルキヤが「主の神殿で律法の書を見つけた」とシャハンにそれを託します。書記官シャハンからその書が読み上げられると、ヨシヤ王はそれを聞いて「衣を裂いた」というのです。それは強い悔い改めの思いを表す行為でした。ヨシヤ王は神とイスラエルの民との間に交わされた契約を思い起こし、その慈愛と恵みからあまりにもかけ離れてしまっているイスラエル・ユダの現実を思い、強く心を痛め、衣を裂いたのです。
ヨシヤ王は、大祭司ヒルキヤ、そして国の民であった、シャハン、アヒカム、アクボル、アサヤらに次のように命じます。13節「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向って燃え上がった主の怒りは激しいからだ」。(申命記29:24f)

ヨシヤ王の神殿の修復は、単なる建物の修復工事ではありませんでした。
ヨシヤ王は律法の書の発見を通して、まずイスラエルの先祖の犯した罪を自分自身のこととして主の御前に悔い改め、立ち返るべき者であることを心痛の思いで知らされます。
その中でこれまで主の契約をないがしろにしてきたユダの民の罪を告白し、主に立ち帰って新たに生きる決意を表します。それは過去のあゆみの検証と主に立ち帰って罪の過ちを二度と繰り返さないという表明であります。

ヒゼキヤ王の改革は聖なる高き所を取り除き、異教の祭壇や偶像を取り除く改革を行いましたが、しかしそれは後の時代に継承されず、エルサレムに再び偶像と祭壇が置かれ南ユダ王国は遂に荒廃してしまいますが、真の改革がそのヒゼキヤの曾孫に当たるヨシヤから起こります。それは「国の民」という、いつの時代にあっても唯一真の神への愛と信仰を貫く伴走者・サポーターたちよって改革がなされていったのです。それは、これまでの歩みを悔い改め、主に立ち帰って、唯一真の神を礼拝することこそ重要だという信仰復興運動であったのです。極めてシンプルなことではありますが、そこが私どものライフワークの要であることを再確認してまいりましょう。
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