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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

発見された生きた神の言

2011-03-25 16:33:27 | メッセージ
宣教 列王記下22章14~20節 

先日ある方から聖書の時代に女性祭司はいたのですか?という質問を受けました。又、祈祷会でも女性預言者について身分保障があったのですかというような質問がありましたので、少し調べましたところ。旧約の古い時代より女性祭司は確かに存在していました。
それが後期ユダヤ教時代、さらに新約聖書時代になりますと祭司は男性に限定されるようになっていきました。一方、預言者はどうかといいますと、このフルダよりも前の時代デボラ(士師4・4)という女性預言者がいました。女性祭司は旧約時代に限定されていますが、新約聖書ルカ2章で「女性預言者アンナ」が登場していますように、女性預言者は女性祭司とは異なり旧新約時代を通じて存在し活動していたということがわかります。
又、祭司の職はその立場や身分が保障されるものですが、預言者は神の一方的な選びによって立てられたゆえに社会的地位などは祭司を兼ねた預言者やいわゆる宮廷お抱えの預言者でない限り特別な保障はなかったのでしょう。それどころか逆に真実に主の言葉を伝える預言者はイエスさまもおっしゃっていますように、その民から迫害され排斥される場合も多かったのです。

さて、ヨシヤ王が「この見つかった書の言葉について・・・・主の御旨を尋ねに行け」と祭司ヒルキヤらに命じたとき、彼らが宮廷のお抱え預言者や男性預言者にではなく、女性預言者フルダのもとにわざわざ行ったというのですね。これには恐らく、そこまで国内にいた宮廷のお抱えの預言者(神殿付属の職業的預言者)たちへの不信感があったのではないかと思われます。この当時、神の教えではなく、自らの保身のために教を説くようないわゆる偽預言者が多くいたようであります。それに対して今回登場する女性預言者のフルダは宮廷のお抱え預言者ではなく、何からも束縛されていなかったゆえに、彼女は神から受けた言葉をまっすぐに語る務めを忠実になしていたと思われます。彼女も又、「国の民」の一人ではないか、とも言われています。祭司ヒルキヤや「国の民」たちが、彼女のもとに「見つかった書の言葉について主の御旨を尋ねに行った」のはそういう理由からであったのでしょう。

神殿で見つかったみ言葉について、旧約の申命記の原型とも言われ、神とイスラエルの民との契約について記された律法の骨格となるものでした。そこには神の律法を守る者に与えられる祝福とともに、律法の教えを捨てる者への恐ろしい神の怒りも記されていたのです。ヨシヤは幼少の頃から「国の民」らによって宗教教育を受けてきました。が、それを文字をとった言葉、み言葉として目の当たりにし、読み聞かされた時、彼は胸を突かれたのです。「主への強い畏れ」の念に打ち砕かれたのであります。

ヨシヤは、み言葉をまっすぐに受けとめました。み言葉に捕えられた彼は、主に立ち帰る機会・時を逃しませんでした。この後23章以降、彼は王として出来る最大限の力を発揮して民全体を悔い改めへと導くのです。これが、後に語り伝えられる「ヨシヤ王の宗教改革」となるのであります。それはすべて、「み言葉の発見」が彼のうちに起こったことによります。彼がもし、見つかった書の言葉について、ああこれは先祖が犯したことなんだから先祖が悪い、自分には関係ないといって済ませていたとしたなら、又畏敬の念をもって主の御旨を尋ね求めることをしなかったなら、歴史上この重大な「み言葉の発見」も単なる形式的なものに終っていたことでしょう。彼の最大の務めは、主の御旨が何であるのかを把握することにあったのです。

主はそのようなヨシヤ王に、預言者フルダを通して次のように語られました。
18節「主の心を尋ねるためにあなたたちを遣わしたユダの王にこう言いなさい。あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる。19節「わたしがこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる」。
主は、ヨシヤが主に対して罪を犯したことに心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、主の前で泣いたことごとすべてを知っておられたということです。

今日のテーマは「み言葉の発見」です。
この神殿で見つかったみ言葉には神の怒りと呪いが含まれていました。が、そのみ言葉の根本は「神は民を知っておられる」というメッセージが込められていたのです。ヨシヤはこの神の御心をみ言葉から発見したのです。このことによってヨシヤ王と南ユダは再び主の御旨を知り、主に立ち返って生きることが赦されるのです。

この「み言葉の発見」は何もヨシヤ王や南ユダに限られたことではありません。
実は今や私たちもイエス・キリストによってヨシヤのように「み言葉の発見」を日々の生活の中で、又礼拝や祈祷会の中ですることができるのです。たとえば、独自に聖書に関する知識や聖書研究をすることは、み言葉を知り、学ぶために有効な助けになるでしょう。しかし、それがそのまま「み言葉の発見」になるものではありません。礼拝や祈祷会で分かち合い、祈られつつ、自分のこと、私たちのこととして聞いていく時に初めてそれが生きたみ言葉として響いてくるのです。ヨシヤ王がよいお手本です。彼は律法の書を単なる学習のため、あるいは評論的なものや、第三者的なものとして読んだのではなく、それを主が自分に語られたみ言葉として受けとったのです。それが「み言葉の発見」です。そこには広がりと豊かさがあります。主の言葉に真摯に向き合っていた人物として女預言者フルダもまた同様であったと言えましょう。彼女は、王や役人を怖れることなく、又自分の保身のためにでもなく、ただ主から預ったみ言葉をまっすぐに伝えたのです。その点で女預言者フルダもヨシヤ王も共に、本当に畏れ敬うべき方が、どなたであるのかをよくわきまえていた。彼らはその騒がしい罪の世の時代にあって、主をのみ畏れ敬いつつ、主を仰ぎ見て生きたのです。私どももそのようにみ言葉に誠実に生きる者でありたいものです。
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ヨシヤ王の礼拝改革

2011-03-25 15:57:23 | メッセージ
み言葉の発見によって主との正しい関係を見出したヨシヤ王が次になしたこと、それはユダの民全体に与えられた「主なる神との契約の更新」であります。そして、その具体的表明としての「礼拝の改革」であったのです。

1節「そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集めた」。
この長老は地方にそれぞれいた首長のような働きを担っていた役人でもあったようで、重要な事態の折、王に召集されたということです。

2節「王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた」。

「王がすべての民と共に主の神殿に上った」。ここに「すべての」人々、住民、民にという言葉が出てきます。ヨシヤ王は「発見したみ言葉」(契約の書)が自分一人だけのもの、又特別な一部の祭司や預言者だけのものとせず、ユダの民全体に与えられたものとして、そのみ言葉をユダのすべての人々に伝えるべく、読み聞かせました。
ここにヨシヤ王の礼拝改革の要がありました。

このところを読んだ時に、あのマルチン・ルターの宗教改革が思い浮かんできました。
彼の宗教改革はよく知られておりますが。その大きな功績の一つは、一部の人しか手にして読むことができなかった聖書、神の言葉を万民が読めるようになしたということです。
「すべての人が知るべきみ言葉」。その重要性をヨシヤ王はルターよりもずっと昔の時代に見出したのです。彼は単なる政治的王ではなく、霊的な指導者でもあったのです。
私どものプロテスタント教会は御言、宣教を重んじます。主の言葉にこそ、人を生かす命の言、真理の道であると知り、大事にしているからです。又、すべての人々に命のみ言葉を知らせること。証しを立てていくことを託された使命として捉え、努めています。
たとえ小さな者でも、ヨシヤ王のようにみ言葉を受け、伝える者として召されているのです。このヨシヤ王の時代もそうでしたが、不安と動揺の広がる時だからこそ、ここに私どもも立ち続けなければなりません。主イエスの内にとどまり続けなければなりません。

さて、そのようにすべての民を呼び集めてどのようなことがなされたのかと言いますと、
3節「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった」とあります。ここに契約という言葉が出てまいります。そもそも旧新約の聖書は、神と人との間に結ばれた、契りを交わした契約の書なのです。旧約において元々、イスラエルの民と主なる神の間にはシナイ山の契約があり、すべての民は律法を守ることを誓いました。ところが民はその契約を破って主を裏切り続けてきたのです。ヨシヤ王はみ言葉の発見によって、如何にこれまでイスラエルの民が主に逆らい続け、主を悲しませ、怒らせてきたかを知ったのであります。ヨシヤ王だけでなく、又祭司や預言者だけでなく、ユダとエルサレムのすべての人々が、主の御前に立って、今一度、主との契約を確認し、更新する必要がありました。この事はとても大事なメッセージであります。話は変わりますが。今回の震災を天罰だとか、神罰だとか言われた某都長や某牧師がいますが。それを言った方は一体どこに立っているのか正に問われています。天や神のせいにしてはならないのです。この震災は私たち一人ひとりに問いかけられたものであり、警告でもあります。

ユダのすべての民が契約を更新していく柱となったのが、申命記6:4,5の次のみ言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の神である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
私どもは今新約つまり新しい契約に生きています。それは主イエス・キリストによる救いの契約であります。この主イエスによる契約を日々更新しつつ、恵みに応えて、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛する」生涯へと招かれているのです。3節をもう一度読みます。「王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った」とあります。

み言葉を単に知っているだけでは意味がないということであります。「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、・・・み言葉を実行する」。歩み、守り、実行するという言葉に表されますように、歩むこと。み言葉を守り、実行して生きてゆくところに実りある信仰生活がもたらされるということです。ここが本日の礼拝改革の重要なポイントであります。ヨシヤ王は、ユダとエルサレムのすべての人々がみ言葉を知ることができるように努めましたが。それだけで終わらず、み言葉を守り、実行することを主の前で、そのすべての人々と共に誓い、行動に移していった。礼拝においても、み言葉をすべての人に伝え、知らせる働きがあります。しかしそれだけでなく、礼拝する者自らが、み言葉をただ聞くだけで終わらせるのではなく、心を尽くし、魂を尽くしてみ言葉を守り、実行して生きていくところに礼拝の真の意義があります。それこそが証しとなっていくのです。

4節以降を読みますと、まず手始めにバアルやアシュラへの偶像礼拝の禁止とエルサレムからの偶像撤去、焼却がなされました。又、ユダの町々から祭司のすべてをエルサレムに呼び寄せたとあります。これを今日的にどのように受けとっていけばよいのでしょうか。世の中にはたとえば拝金主義という偶像が満ちています。文明や科学技術の進歩、経済発展を遂げて来た日本でありますが、その恩恵を私どもは確かに受けているのでありますが。一方でそれらの影の部分として、自然破壊、CO2の排出、温暖化を引き起こし、異常気象、大地震、大津波、ハリケーンとつながっていると言われています。今回の大震災や原発事故(安全神話)から、私たちの立ち処やライフスタイルが本当に問われている事は確かな事であります。まず礼拝から、各々の立ち位置を整えられていく必要があります。
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