宣教 列王記下20章1~20節
本日の聖書の使信・メッセージは、実は主の恵みによって死の病から回復を与えられたヒゼキヤの生き方、つまり寿命を延ばされた15年の「生き方」についての話であります。言い換えますなら、主から頂いた恩恵とその与えられた時を如何に活かし、用いて生きるか否かという話であります。
20章冒頭で、神の人・預言者イザヤは死の病にかかったヒゼキヤ王に、主の言葉として「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」と伝えました。まさにこのみ言葉は寿命を15年延ばされたヒゼキヤ王がその15年間絶えず求められていたことであったのです。
遺言といえば、一般的に財産や遺産相続などのために重要なものです。もちろん南ユダ王国の王としての財産の管理、王位継承問題とさまざま考えられることがあったでありましょう。しかしその根本に求められていますのは、「主の恵みに与った者として、何を伝え残していくか」ということであります。今を生きるキリスト者にとっても家族や又教会の兄弟姉妹、友人や知人らに何を伝え残してゆくのか、と考えることはとても大事なことであります。そしてそのことはひいては、自分に与えられている時、限りある命を、どのような姿勢で生きてゆくのかということに反映されていくわけであります。今年はそのような「生と死」の問題についての具体的な学び会を大阪教会で予定しています。
私たちはこの「家族に遺言をしなさい」という意味を一般的な遺言とは違う霊的観点から受けとらねばなりません。それは単に今ある財産や富を後世に残してあげるという事ではないでしょう。いくら財産や富を残しても、後世の人達がその残した人の遺志を受けとり、又それを相応しい形で活かし用いないのであれば、遺言の意味はないでありましょう。
ここで「家族に遺言しなさい」とは、単に遺産や財産を残すということではなく、主の恵みに与って生かされている者として、今与えられているものを最大限主のために捧げ、用いて生きるその姿勢を表しているのだと、そのように思いました。
又、この「家族」とはヒゼキヤ王にとって王位継承の家族のことでしょうが、普遍的な意味合いで読めば「神の家族」のことをも意味しているのでありましょう。主に導かれ、解放されて救われて来た神の民、神の家族への遺言であります。神は、「あなたが生かされている今この時を生かし用い、その信仰の姿勢を後に続く神の家族に示しなさい」と伝えているのであります。
12節以降に目を向けますと、バビロンの使者たちはヒゼキヤ王のお見舞いと称して、ユダ・エルサレムを偵察に来ます。13節「ヒゼキヤは使者たちを歓迎し、銀、金、香料、上等の油など宝物庫のすべて、武器庫、また、倉庫にある一切のものを彼らに見せた。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮中はもとより国中に一つもなかった」とあります。ヒゼキヤはバビロンの使者たちの前で「私はこのように偉大な王だ、これだけのことを成し遂げた」ということを自慢して見せたのでしょう。そこに大きな罪の罠があったのです。
歴代誌下32章31節には実にこのようなことが記されています。「バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた」。
如何でしょう。ヒゼキヤ王は偶像を倒し、祈りの人であり、その業績によって人々からも仰ぎ見られるようになったのです。しかし主は残る15年の恵みの内に彼のその心を知り尽くしたいと願われ、試みられたのであります。そのことを読みます時に、主の恵みに与る私どもにとっても背筋が正される思いがいたします。
そこで、神の人・預言者イザヤは主の言葉をヒゼキヤに次のように伝えます。
17.18節「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」。「あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある」。
この主の言葉に対してヒゼキヤ王はイザヤに、19節「あなたの告げる言葉はありがたいものです」と答えたと記されています。そして、「彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた」と記されています。
そこには、ヒゼキヤ王にとってはもはや自分の生きている時代のことしか考えが及んでいなかったということが明らかにされています。ここで問題なのは、その主の言葉を受けた時に、そこで自ら悔い改めることなく、今は大丈夫なのだ「ありがたいことです」と答えたということであります。若き日、イスラエル・ユダの王の誰も着手できなかった宗教改革をなし遂げ、困難な事あるごとに主の前に出て、祈り願って救われてきたヒゼキヤ王の姿はもはやここにはありません。もしここでヒゼキヤ王が、「主に、悔い改めの祈りをなし、主に立ち返って」15年の時を生きていたなら、これは分かりませんが、主は御心を変えられることも起こり得たかも知れません。
が、いずれにしろ、先にも触れましたように、20章冒頭で、主がヒゼキヤ王に対し「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」とのみ言葉に、ヒゼキヤ王は、15年間応えて生きることがなかったということではないでしょうか。
主が寿命を15年延ばしてくださったその恵みの時を、如何に生きるか否か、後の世代の人々や神の家族にその姿勢を示し続けるか否か、そのことを主は問い続けておられたのです。
私どもキリスト者は主の恵みのバプテスマにおいて、主と共に死に、主の新しい命に生かされている者であります。残されというよりも、与えられたこの地上の歩みの機会・チャンスを主の命に与る者として如何に生きてゆくか、何を伝え残してゆくかが問われている。そのことを今日のみ言葉から受け取っていきたいと願っています。
本日の聖書の使信・メッセージは、実は主の恵みによって死の病から回復を与えられたヒゼキヤの生き方、つまり寿命を延ばされた15年の「生き方」についての話であります。言い換えますなら、主から頂いた恩恵とその与えられた時を如何に活かし、用いて生きるか否かという話であります。
20章冒頭で、神の人・預言者イザヤは死の病にかかったヒゼキヤ王に、主の言葉として「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」と伝えました。まさにこのみ言葉は寿命を15年延ばされたヒゼキヤ王がその15年間絶えず求められていたことであったのです。
遺言といえば、一般的に財産や遺産相続などのために重要なものです。もちろん南ユダ王国の王としての財産の管理、王位継承問題とさまざま考えられることがあったでありましょう。しかしその根本に求められていますのは、「主の恵みに与った者として、何を伝え残していくか」ということであります。今を生きるキリスト者にとっても家族や又教会の兄弟姉妹、友人や知人らに何を伝え残してゆくのか、と考えることはとても大事なことであります。そしてそのことはひいては、自分に与えられている時、限りある命を、どのような姿勢で生きてゆくのかということに反映されていくわけであります。今年はそのような「生と死」の問題についての具体的な学び会を大阪教会で予定しています。
私たちはこの「家族に遺言をしなさい」という意味を一般的な遺言とは違う霊的観点から受けとらねばなりません。それは単に今ある財産や富を後世に残してあげるという事ではないでしょう。いくら財産や富を残しても、後世の人達がその残した人の遺志を受けとり、又それを相応しい形で活かし用いないのであれば、遺言の意味はないでありましょう。
ここで「家族に遺言しなさい」とは、単に遺産や財産を残すということではなく、主の恵みに与って生かされている者として、今与えられているものを最大限主のために捧げ、用いて生きるその姿勢を表しているのだと、そのように思いました。
又、この「家族」とはヒゼキヤ王にとって王位継承の家族のことでしょうが、普遍的な意味合いで読めば「神の家族」のことをも意味しているのでありましょう。主に導かれ、解放されて救われて来た神の民、神の家族への遺言であります。神は、「あなたが生かされている今この時を生かし用い、その信仰の姿勢を後に続く神の家族に示しなさい」と伝えているのであります。
12節以降に目を向けますと、バビロンの使者たちはヒゼキヤ王のお見舞いと称して、ユダ・エルサレムを偵察に来ます。13節「ヒゼキヤは使者たちを歓迎し、銀、金、香料、上等の油など宝物庫のすべて、武器庫、また、倉庫にある一切のものを彼らに見せた。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮中はもとより国中に一つもなかった」とあります。ヒゼキヤはバビロンの使者たちの前で「私はこのように偉大な王だ、これだけのことを成し遂げた」ということを自慢して見せたのでしょう。そこに大きな罪の罠があったのです。
歴代誌下32章31節には実にこのようなことが記されています。「バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた」。
如何でしょう。ヒゼキヤ王は偶像を倒し、祈りの人であり、その業績によって人々からも仰ぎ見られるようになったのです。しかし主は残る15年の恵みの内に彼のその心を知り尽くしたいと願われ、試みられたのであります。そのことを読みます時に、主の恵みに与る私どもにとっても背筋が正される思いがいたします。
そこで、神の人・預言者イザヤは主の言葉をヒゼキヤに次のように伝えます。
17.18節「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」。「あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある」。
この主の言葉に対してヒゼキヤ王はイザヤに、19節「あなたの告げる言葉はありがたいものです」と答えたと記されています。そして、「彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた」と記されています。
そこには、ヒゼキヤ王にとってはもはや自分の生きている時代のことしか考えが及んでいなかったということが明らかにされています。ここで問題なのは、その主の言葉を受けた時に、そこで自ら悔い改めることなく、今は大丈夫なのだ「ありがたいことです」と答えたということであります。若き日、イスラエル・ユダの王の誰も着手できなかった宗教改革をなし遂げ、困難な事あるごとに主の前に出て、祈り願って救われてきたヒゼキヤ王の姿はもはやここにはありません。もしここでヒゼキヤ王が、「主に、悔い改めの祈りをなし、主に立ち返って」15年の時を生きていたなら、これは分かりませんが、主は御心を変えられることも起こり得たかも知れません。
が、いずれにしろ、先にも触れましたように、20章冒頭で、主がヒゼキヤ王に対し「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」とのみ言葉に、ヒゼキヤ王は、15年間応えて生きることがなかったということではないでしょうか。
主が寿命を15年延ばしてくださったその恵みの時を、如何に生きるか否か、後の世代の人々や神の家族にその姿勢を示し続けるか否か、そのことを主は問い続けておられたのです。
私どもキリスト者は主の恵みのバプテスマにおいて、主と共に死に、主の新しい命に生かされている者であります。残されというよりも、与えられたこの地上の歩みの機会・チャンスを主の命に与る者として如何に生きてゆくか、何を伝え残してゆくかが問われている。そのことを今日のみ言葉から受け取っていきたいと願っています。