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隣人となる

2012-01-16 17:41:03 | メッセージ
宣教 ルカ10章25~37節 

本日はルカ10章の「善きサマリア人のたとえ」話より、「隣人となる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

①「永遠の命」を巡る問答
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスさまを試そうとして「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけたとあります。それはイエスさまがどんな答えをされるか、ちょっと試してみてみよう。またその受け答えによっては自分の律法の知識で論破してやろうと考えていたのか。まあ定かではありませんが、とにかくイエスさまを試したというのです。
ところが、イエスさまは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返され、そこで律法の専門家は逆にイエスさまに試されることになってしまうのです。彼は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えます。
それはまさに神の律法の書に記された教えであり、それがたとえ律法学者でなくてもユダヤ人であれば答えられるような模範解答でした。イエスさまもユダヤ人として育ちその教えの重要さをよくご存じであられたことでしょう。

イエスさまはその律法の専門家の答えに対して、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃいます。イエスさまはここで、「正しい答えだ」と言われるのですが、「よくできた」といわれません。「それを実行しなさい」と言われます。
そのいのちの言葉を、知識としてではなく、実行ある行いとしてなせと、御言葉に自らをかけて生きるように促し、勧められます。

よく「言うは易く、行うは難い」と言われるように。教えを知っていることが、そのように生きることに繋がらなければ、又努めなければ虚しいという事でありましょう。イエスさまは、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか」との問いに対して、それを行うものとなるように勧められます。
このイエスさまの勧めに、彼はあげ足を取られたようで悔しかったのでしょう。自分の立場を正当化するために、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、イエスさまに問い返します。
彼には「隣人を愛することなど当然のことだ、言われなくともやっている」と、そういう思いがあったのでしょう。ちなみに、この隣人(プレシオン)とは、すぐそばの人、自分の身に感じる人、兄弟姉妹、同じ民族、同信の友などを表しています。

そこでイエスさまは、「わたしの隣人とはだれですか」との彼の問いかけに答える形で、「サマリア人のたとえ話」をなさるのです。

② なぜサマリア人か?
イエスさまはなぜ、この話にわざわざサマリア人を登場させたのでしょうか。
それはサマリア人がユダヤ人から忌み嫌われていた人々であったからです。律法の専門家がなした「わたしの隣人とは誰ですか」という質問の背景に、彼自身の思いや考え、好みで「あの人は隣人、あの人は隣人ではない」と線引きしたり、色分けしたり、優劣をつけていくような思い込みがあったことをイエスさまは見抜いておられたのです。だから、ここでわざわざサマリア人を登場させておられるのです。

では、このたとえ話を少し丁寧に見ていきたいと思います。
たとえに出てくるエリコは、エルサレムから下ってヨルダン川の西側にあり、谷沿いの殺伐とした荒れ地でありました。現在では道路も住居も整備され、アパートのようなレンガの住宅が建ち並んでいるパレスチナ地区となっております。まあ、イエスさまの時代にエリコといえば殺伐とした荒れ地で、そこを往来する旅人にとっては危険な道のりであり、追剥に襲われるようなこともあったということです。

たとえに出てくる追剥にあった人。これは律法の専門家と同じユダヤ人と考えてよいでしょう。その傷つき路上に倒れているユダヤ人を前に、同胞の祭司、さらにレビ人が通りかかりますが、彼らは道の向こう側を通って行きます。
彼らはそれぞれ神に仕える身でした。助けを必要とする同国人、又同信の隣人に手を差し伸べることは、わけても神に仕える者にとって律法に適う行動でした。「自分自身のように隣人を愛する」との律法を知らないはずありません。何て無関心で無情なのか。偽善者なのか。私は青年時代の頃はそう思っていました。
しかし後々分かったことは、追剥が行き倒れの旅人を装って人を襲うようなこともあるということ、又彼らは仮に旅人が亡くなっていても、もし死体に触れたとなれば、ある期間神殿での務めを行う資格を奪われることになりかねなかった、等。つまり関わろうとした彼ら自身が身の危険や厄介に巻き込まれるかも知れなかったということです。果たしてリスクを冒してまで関わることができるだろうか? そう考える時、彼らを責めることはできない自分自身の弱さと罪深さを思い知らされます。

③「善いサマリア人」との出会い
さて、そこに3人目の通行人、サマリア人が現れます。
このサマリア人とはどういう人々なのでしょう。かつてイスラエルが北王国と南王国とに分かれていた時代、サマリアは北イスラエル王国の主要都市であったのです。しかしその都市の崩壊後、多民族がそこに侵入し、偶像礼拝や倫理的堕落などが生じました。以来、ダビデの子孫といわれるユダヤ人から、サマリア人は神の名を汚した堕落の民、異教徒などと呼ばれ、罪人のように見なされてきたのです。ユダヤ人はサマリア人の先祖の犯した罪が子子孫孫にも及ぶものとして、彼らを見下し、交わりを絶ってきました。イエスさまのこの当時も、ユダヤ人とサマリア人の間には、もともとはイスラエルという一つの民、同胞の民であったにも拘わらず、その敵意と対立の壁、強い確執が続いていたのです。

そのような現状の中で、イエスさまはこのたとえ話に「サマリア人」を登場させ、こともあろうに傷つき倒れていたユダヤ人を助け、介抱させるのです。
このたとえ話が、律法の専門家にとって衝撃的だったのは、傷ついた同胞が同じユダヤ人から見捨てられるが、常日頃から「汚れた民」「異教徒」「罪人」と見下し、侮蔑していたサマリア人から助けられる、ということです。
常識的に見れば、サマリア人はこの傷つき倒れていたユダヤ人に対し、「ざまみろ。それみたものか」と憎悪の念をもって素通りしてもおかしくありません。けれどもこのサマリア人は、傷つき倒れたユダヤ人を見て、憐れに思い、自ら危険を侵し、又身銭を切り、時間を割き、出来得る限りのことを行って介抱するのです。
この「憐れに思う」とは、「お気のどくに」というような、上から目線のものではなく、「憐れみ」という原語の由来は、はらわたが引き裂かれるような痛みを持つ、ということです。先週礼拝の宣教聖書個所にも出てきましたね。ご自分の後を追って来る群衆を主イエスは断腸の思いで深く憐れみ、彼らをお迎えになった。このサマリア人は、もはや傷つき倒れた人が何人とか、誰であるとか関係なく、唯々、断腸の思いでその人の痛みを自分のものとして感じ、自らのリスクを顧みず介抱したということであります。
サマリア人はユダヤ人から汚れた者、異教徒と呼ばれ見下され、侮蔑されてきました。
いわばその屈辱や痛みをずっと持って生きてきたのではないでしょうか。しかしそれだからこそ、追剥に襲われ、さらに同胞からも見捨てられた惨めなその人の痛みを、まるで自分のことのように受け、はらわたが引き裂かれるほどの思いにされ、放っておくことができなかった。介抱せずにいられなかったのではないでしょうか。

さて、追剥に襲われたこのユダヤ人でありますが。彼にとって切なくいたたまれなかったのは、追剥に襲われた事も勿論そうでしょうが、これまで同胞・同信であった祭司やレビ人たちが、倒れている自分を避けるように通り過ぎていったということであったでしょう。
しかし、彼はそこでこのサマリア人と出会い助けられることで、今まで持っていた価値観や思い込みによる差別意識や憎悪の念が覆されたのではないでしょうか。彼はこのことを通して真の隣人を得るのです。

ここにはサマリア人が傷つき、倒れた人を介抱する様子が細やかに語られています。それらの一つひとつの行為は、具体的なものであり、配慮と献身とに満ちています。
それはまさに、主イエスがガリラヤでの伝道において、傷ついた人、病んだ人、差別や抑圧された人と出会い、いやしと解放の業をなし、神の国を伝えていかれたお姿、、、そして最期には十字架上でその尊い命の犠牲を払ってまで、罪深い人間一人ひとりをゆるし、愛し抜いて救おうとしてくださったイエスさまご自身のお姿がそこに示されています。

④ 終わりに
本日は「隣人となる」と題し、御言葉を聞いてきました。
これは、旧約聖書・レビ19章18節の「自分自身のように隣人を愛しなさい」との、律法からのお話であります。そしてこの教えは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申命記6章5節)との教えと共に最も重要な教えであり、永遠の命に通じる道であるとされています。神を愛すること、と隣人を愛することは切り離すことのできない教えであり、主によって救われている者すべてがここに招かれているのです。主イエスは「律法と預言者とがこの教えにかかっている」と言われました。
イエスさまの「誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか」との問いかけに、「その人を助けた人です」と答えた律法の専門家。「サマリア人です」と言わないところに、彼の頑なさが見え隠れします。イエスさまはそんな彼をさとすように言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

私たち自身、主と出会う前迄は、罪にさまよう者、又望みなくあの傷ついた者でした。
主はそのような私たち一人ひとりを、はらわたが引き裂かれる痛みを持って憐れまれ、寄り添って、いやしと真の救いを与えてくださるお方であります。主はその私に、「行って、あなたも同じようにしなさい」「隣人となりなさい」とおっしゃるのです。
自ら痛みを知る者だからこそ成し得る業があります。隣人となる。イエスさまは十字架の痛みをもって私たちの隣人となってくださった。
Ⅱコリント1章4節の使徒パウロの言葉を味わってみましょう。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めて下さるので、わたしたちも神から頂くこの慰めによってあらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます。」
この主の愛を携えてゆく豊かな人生の旅路を共々に歩んでまいりましょう。
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