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少年イエス

2012-01-04 08:27:34 | メッセージ
2012年新年宣教 ルカ2章41~51節 

今年は暦のうえで丁度2012年の初日が日曜日で、主の日から1年がスタートいたしました。一年の計は元旦にありという言葉にもありますように、この主日礼拝から一年の歩みを始められるのは幸いなことであります。

本日の冒頭に「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」とあります。過越祭とはユダヤ教の三大祭りの一つで中でも一番大事にされている行事であります。それはイスラエルの民が神によってエジプトから救い出されたことを祝う祭りであり、エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、小羊の血を鴨居に塗ったイスラエル人の家を過越したことにその名称の由来があります。モーセの律法の書において神は、この過越の儀式を世代に亘り守るようお命じになりました。そして子どもたちが「この儀式にはどういう意味があるのですか」と尋ねる時、「これが主の過越の儀式である。主がエジプト人を撃たれた時、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過越し、我々の家を救われたのである」と答えるようお命じになりました。救いとみ守りはまずこの「過越の犠牲」によって始められたことを代々に亘って思い起こす日。それが過越祭であります。
ユダヤの人々はそのように、新年の最初の祝祭日を(正月)として祝っているのです。キリストも受難の前夜これを祝われ、主の晩餐を持たれました。それはすべての人々の罪を贖うための犠牲としてご自身をおささげになることを表していました。私たちのキリスト教会も又、代々に亘ってこの神の小羊イエス・キリストによる救いの過越を覚え、主の日の礼拝、又主の晩餐において祝い、賛美しているのです。
こうして新年の最初が主の日であり、主日礼拝と主の晩餐をもって始められますこと、死から命へと移された神の民としての希望を抱いてスタートできますことは、真に感謝であります。

さて、先週はクリスマス・主イエスのご降誕の記事をルカ福音書より読みましたが。その後両親はユダヤの律法に従ってイエスをエルサレムの神殿に連れて行き主にささげます。親子は主の律法で定められたことをみな終えて自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰りました。それから本日のイエスが12歳になる迄のイエスと両親の事柄についてルカ福音書には何も書かれていませんので、伺い知ることはできないのですが。本日の冒頭に「両親は過ぎ越祭には毎年エルサレムへ旅をした」と毎年一度は定期的にエルサレムの都に行きユダヤの過越祭を祝っていたようです。そして「イエスが12歳になったときも、両親はユダヤの祭り(過越祭)の慣習に従って都に上った」とあります。ユダヤ教では今でも一般的には13歳で律法の子として、まずユダヤ教の宗教儀礼を行う義務が課せられるということです。ですから両親はわが子イエスにその少し前からそれらのことに慣れさせようという思いをもってエルサレムに上ったということも考えられます。
それらの記事から、イエスは幼児期から12歳までの間、神の民ユダヤ人の子として律法や祭りごとの慣習に忠実であった両親のもとに育てられ、成長していったというであります。
福音書でイエスさまが語られた話やたとえ話などは、そういった神の律法のもとに育ったというバックボーンがあったということです。家庭、又神殿や会堂での宗教教育とその体験を重ねながら少年イエスは育ち、成長していったということです。
私たちも、いくつになっても聖書のみ言葉を生きる基盤にすえ、祈りの生活をなし、礼拝と祈祷会をささげていくことは大切なことです。このところが崩れてしまいますと、生活も崩れてしまいます。地道にみえてもこれらのみ言葉と祈りの日々、礼拝と祈祷会をささげていく中で、私たちは養われ、成長させてくださる神さまの恵みを戴くのであります。

聖書記事に戻しますが。
その過越祭からの帰りに両親がイエスを見失い、それに気づかないといった事態が生じます。44節「両親はイエスが道連れ(過越祭から帰途に向かう巡礼の一行)の中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから親類や知人の間を探し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した」とあります。まあこの当時の巡礼は家族や町の人たちと共に連れだって旅をしていたともいわれますから、両親はわが子もきっとその巡礼の群のどこかにいると思い込んで1日分の道のりを行ってしまったということでしょう。ところがまる一日経って親類や知人の中にわが子がいない一大事に両親は気づくのであります。血相を変えた両親の姿が思い浮かんでくるようです。彼らは心当たりのあるところを次々と懸命に捜し歩きながらとうとうエルサレムにまで引き返します。

そして見失ってから3日目にようやくわが子イエスを見つけるのであります。ところが心配して心配して捜しあてた当の本人、「イエスが何と神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つける」のであります。「両親はイエスを見て驚いた」。無理もないでしょう。親とはぐれてどんなにか不安で泣きべそをかいているかと思いきや、境内で律法の教師たちを相手に一人前の顔で参加し、それもど真ん中に座って議論するわが子イエス。彼を捜すのに懸命であった母の口から真先に出たのは、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのですよ」との言葉でありました。

その母の心配をよそに少年イエスはこう答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。
「捜すのは当たり前じゃないか。親の気持ちも知らないで」と逆に厳しく叱りつけたくもなるのではないでしょうか。
ところが、聖書の記者は次のように言うんですね。「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」。
このイエスの理解し難いような言葉。しかしそれが何に対してなされたかが問題なのであります。ここで母は、「何てことをしてくれたのです。お父さんもわたしも云々」と言っていますが、彼ら両親は確かにイエスの誕生の告知の時からその誕生に至るプロセスにおいて恐れ、悩み、不安の連続でした。しかしそのイエスを神より託され与った子として受け取っていきました。そしてそれが12年の歳月の中でいつしか自分たちの肉の子として見るように変わったのかも知れません。一般的に親は愛情がなければ子を育てることはできませんし、育てる、育てられるとは愛情を育むことでもあります。ただ、12歳。今で言えば中学生位になりますと多くの子どもたちは、自立心も芽生えてまいります。ひとり立ちの日が近づいてくるのです。12歳の少年イエスも又、この旅をきっかけに自分が何者であるかを考え模索していく年令に入っていかれたのではないでしょうか。

聖書教育の青年成人科のところにあった記述を読んでみます。
「自分の子どもが成長し変化していく過程のなかで、親が戸惑いや不安を感じるときに問われるのは、子どもの素行や言動とは限りません。親が子どもに対して「当たり前」と思い込んでいる『思い込み』こそが、そこで問われているのかも知れません。それはイエスさまや神に対して抱いている私たちの『当たり前』や『思い込み』についても言えることではないでしょうか?。」
そうですね。私たちはとかく自分の思い込みや世の常識や基準といったものに囚われがちです。そして自分よりも若い人や弱い立場の人に対して、自分の思い込みや観念でもって見たり、裁くことも起こり得るのです。

さて、母マリアの場合はどうだったでしょう。彼女は「これらのことをすべて心に納めていた」とルカ福音書の記者は記しています。マリアは自分が経験した戸惑いや不安の出来ごとの意味は分からないままに、その一切を「心に納めていた」のです。彼女はそこで自分の力や知恵でもって原因究明や解決をしようとはしなかったのですね。ただ、その出来事の一切を「心に納めた」のです。
ここには記されていませんが、マリアの神にみ心を尋ね求める祈りが、み言葉に聞き従う姿がそこに示されています。私ども信仰者も、このマリアの信仰に倣う者でありたいです。

最後に、イエスさまは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」とおっしゃっていますが。「自分の父の」というのは「天の父なる神さま」のことであります。それはマリアが母でヨセフが父であることを否定しているのではありません。現にイエスさまはこの後、「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」と記されているとおりです。  
ここでイエスさまが何よりもおっしゃりたかったこと。
それは血縁や民族を超えた「すべてを包括したところの天の父」の存在であり、「わたしがその天の父のことがらの中にあるのは当然なのだ」とおっしゃりたかったのです。
イエスさまは、天の父のみ心を行われるためにこの世界の来てくださったのです。
私たちがどこにいようと、どのような状況におかれようと、「わたしは天の父のことがらの中にあって御父に仕えて」いかれたイエスさまに倣って、あゆみゆく者とされてまいりましょう。イエスさまが神と人に愛されたように、神と人に仕えていく者とされてまいりましょう。

今年一年が本当に主と共に歩み続ける年。主のみ業に期待と希望をもってあゆみ、そしてはっきりとその恵みを仰ぎ見ることのできる年でありたいと願います。
「見よ、新しいことをわたしは行なう。今や、それは芽生えている。」イザヤ書43章19節
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