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必要なことは唯一つ

2012-01-22 11:40:48 | メッセージ
宣教 ルカ10章38~42節 

本日もまた先週に引き続き、ルカ10章からこれもよく読まれています「マルタとマリア」の記事より、「必要なことは唯一つ」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は「善きサマリア人」のたとえ話を読みました。イエスさまは、永遠の命を受け継ぐ者とされてゆくため大切なこととして、律法の書に書かれてある「主なる神を愛する」こと、又「隣人を自分自身のように愛する」ことの実践を説かれました。これはこの二つの律法が、切っても切り離せない関係であることをお示しになられたのであります。主イエスは別の個所において、この2つにすべての律法と預言者とがかかっているともおっしゃいましたが、本日の「マルタとマリア」のお話も実は「主なる神を愛する」事と「隣人を自分のように愛する」事について語られており、その中で主は「必要なことは唯一つである」と語りかけておられるのです。

① マルタ
まず、本日の箇所の始めに、「マルタという女がイエスを家に迎え入れた」とあります。
マルタはイエスさまのことをとても大事なお方として、大切にもてなしていこうとするのです。先々週の「5000人に食べ物を与えられた」記事で、イエスさまはどこまでも後を追ってくる「人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」という記述がありました。そのイエスさまの人々を「迎える」お姿の中に、神と人とに仕える尊さを教えられます。
そしてこのマルタもまた、心からイエスさまを迎え入れ、もてなしをなしていくのです。
それは本当に尊い奉仕であり、働きであったといえるでしょう。何よりもマルタ自身、唯イエスさまに心を向け、唯イエスさまのために奉仕するということに喜びを感じていたのです。そしてイエスさまは彼女のその思いを快く受けてくださったのです。
ところが、です。マルタは自分がせわしなく立ち働いているにも拘わらず、「妹のマリアがイエスさまの足もとに座って、その話に聞き入っていた」ことに憤慨するのであります。
「聞き入っていた」というのですから、もうマリアはイエスさまの前にずっと座り込んでいたのでしょう。そして周りの事など全く気にするような気配すらなかったのでしょう。その間「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」というのですね。
私はマルタさんがさばけていた人でわりと忍耐強い人なのかという気がします。心の中で「マリアそろそろ手伝って」「ほら、こんなに忙しいの」「いい加減こっちに来て」と思いながらバタバタしているうちに心を乱し、遂に堪忍袋の緒が切れてしまったのか、という気がします。「忙しいなあ」と思った時に、そっとマリアのところに行って「ちょっと一人じゃ無理だから手をかして」と言えば、そんなにカッカとならなくて済んだのかも知れません。しかしもはや平静を保てなくなったマルタは、つかつかとイエスさまのそばに近寄って行き、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか?手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不平をいってしまうのであります。マルタは始め大切なお方としてイエスさまを迎え入れ、唯イエスさまのために奉仕する喜びの気持ちでいっぱいでした。ところが、次第に、じっと何も手伝おうともしないマリアの態度が許せなくなったのです。そして最後には、大切なお客様であるイエスさまに対して、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と裁きの言葉に同調させ、さらに、「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と、指図するのであります。喜びあふれて主を迎え入れ、奉仕していたマリアの姿は一体どこへいってしまったのでしょう。

②「必要なことはただ一つだけ」
イエスさまはそんなマルタにお答えになります。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。

ここで、イエスさまは頭ごなしにマルタを否定し、咎めるようなことはされていません。
「マルタ、マルタ」よ、と実に彼女に対して優しく丁寧に呼びかけ、彼女の陥っている現状について、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と明らかにされ、「必要なことはただ一つだけである」と、諭されるのです。そして、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われます。

このイエスさまのお言葉に想いを深め、味わってみましょう。
ここでイエスさまはマルタに「必要なことはただ一つだけである」と言われ、又「マリアは良い方を選んだ」とも言われています。本日の箇所でマリアは一言も発していませんので、その思いを計り知ることはできませんが。マリアにとっては、きっと今この時しかないというタイミングでイエスさまが来られたのではないしょうか。それまで真剣に、又必死に主の御救いを求め、このイエスさまに期待していたからこそ、唯ひたすらに彼女は主の足もとに座って、その話に聞き入ったのです。ですからイエスさまが弁護されたように、彼女にとって「主の御言葉に聞く」そのことが必要不可欠であり、何人もそれを彼女から取り上げてはならないものであったのです。

では、マルタの場合どうでしょう。
まあ、多くのことに思い悩み、心を乱しているマルタに対して主は、「マルタよ、あなたも主の御言葉をまず聞くことが必要です」と、読めなくもないでしょう。けれども、イエスさまはそのような事は一言もおっしゃらないで、「必要なことは唯一つだけ」とおっしゃるのです。
始めにも触れましたが、今日の箇所の最初のところで、「マルタが、イエスを迎え入れた」。このマルタが、主イエスを心から迎え入れ、主イエスのために喜んで奉仕していくその姿勢こそ、マルタなりの喜びや感謝の表現であり、ある意味礼拝であったのです。そういうマルタの「もてなし」や「給仕」の奉仕が、喜びと感謝をもってなされる事を、主もお喜びになられたのでありましょう。

では、彼女の何が「唯一つの大切なこと」からずれてしまったのでしょうか?
それはマルタの唯主のためにという奉仕が、いつの間にか自分の思い通り、願い通りのものとなってしまった、ということです。その結果、自分を手伝ってくれないマリアを責め、マリアの主の御言葉を聞くという「唯一つ必要なこと」をも取り上げようとしたのです。
唯主のために仕えていたマルタ。しかし彼女の心はいつしか、あれもこれもと、いろいろのもてなしのことでいっぱいになって、不平不満が頭をもたげ、遂にマリアを裁いてしまうのです。
奉仕も給仕も、自分はこれだけのことをやっているのに誰も動こうとしない、手伝ってもくれないという苦い思いが沸いて来たマルタは、自分のやり方が正しくて、自分のしていることこそが一番重要だという思いに陥ったのです。それを何とイエスさまに同調を求め、マリアに強要しようとしたのです。マルタはイエスさまの上に立って裁いているのです。もはや彼女は自分も自分のしていることも見失ってしまうのです。

しかしどうでしょう、このような過ちは私たちも犯し得るのです。主に奉仕しているのに不平や不満を言っている私たちがいないでしょうか。そして人を傷つけ、自分のしていることが正しく認識できない状態に陥ることがあります。
主とその御救いを愛し喜ぶ。喜びがあふれ隣人とそれを分かち合う思いへと招かれる。主に捧げる心で隣人をもてなす。それが奉仕の黄金律です。そのバランスが崩れる時、不平不満が起こってきます。もしそうなったなら、一呼吸置く必要があるかも知れません。なぜ、私は苛立っているのか?ある場合は奉仕の負担が大き過ぎるのかも知れません。体調のこともあるかも知れません。そんな時は「助けて」と声を発して可能な人に助けてもらえばよいのです。又、主への感謝や喜びが損なわれているなら、その時にこそイエスさまのお言葉どおり、「必要なことは唯一つ」と、どっしり構えて御言葉に聞くことが必要です。
何につけ、主はすべてをご存じであられるという信仰がそこにあれば、大抵のことは感謝を持ってお捧げできるものです。まず何よりも主に信頼し、事の大小によらず心を込めて主に相対する・相見えるということ、そのことがマルタに、そしていつも心揺れ動く私たちにも示されているのであります。

③「礼拝と奉仕」
私たちにとってこの礼拝は、生きていくためになくてはならない必要不可欠な時であります。もちろん家庭や個々人において祈り、御言葉を読むことも大切ですが。しかしこの主の御体である教会にあって共に主に向き合い、喜びと感謝をもって主のみ前に座り、私に語られる主のメッセージを聞き取り、受けとっていくことは、何ものにも替え難い必要なもの、なくてはならないものであります。その点において私たちも又、マリアのようでありたいと願います。同時に、この礼拝は宣教や司式をはじめ、奏楽、献金、朗読、受付、託児、清掃、会場の設営、又祈りの執り成しなどの奉仕者によって成り立っていることにも心を留めたいと思います。それらの奉仕に気づいたなら、「ありがとう」と労う一言も奉仕者の励みにもなるものです。見えない奉仕は主ご自身がお報いくだいます。
礼拝はワーシップ「主を賛美する」とサービス「奉仕する」という意味を持っております。この点においてマルタのもてなし(スチュワードシップ)の心を共有していきたいものです。本当に、私たちのこの礼拝が、心から主を賛美し、心から奉仕するものとなるよう共に造りあげ、喜びと感謝を主にささげるものとなりますように。そこに主の豊かな祝福が必ず伴うはずであります。
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