宣教 ルカ9章10~17節
本日はルカ9章の「5千人に食べ物を与えられた」記事より、「分け合う豊かさ」と題し、み言葉を聞いていきます。ちなみに、この物語はマタイ14章を見ますと、バプテスマのヨハネがヘロデに捕えられ殺されるという殉教の後、にわかに主イエスと弟子たちに迫害と危険が及ぶ緊張感の中で、この「5千人に食べ物を与える」という出来事が起こったことになっていますが。今日のルカ9章では、主イエスが12人のお弟子たちを神の国を宣べ伝えるために派遣するという大きなテーマの中で、本日のこの事柄が書き記されているのであります。ですから、主イエスの弟子として如何にあるべきか、主イエスに遣わされるとはどういうことか等を、私たちはこの記事から読みとることができるのです。
①「迎えるということ」
この「5千人に食べ物を与える」物語からまず示されていることは、「主イエスが切なる求めをもってどこまでも追ってくる人々を迎えられた」ということであります。イエスさまは10節にあるように「弟子たちを連れ、自分たちだけでベトサイダの町に退かれた」とありますから、かなりご自身もおつかれになられていたのでしょう。
にもかかわらず、自分たちの後を追って来た「人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」というのです。イエスさまがそこまでなさったことについて、マタイ14章には「彼らを深く憐れまれた」からだとあります。この憐れみとは単なる可哀そうというような同情ではなく、へブル語でヘセド、すなわち「断腸の思い」をするということであります。群衆一人ひとりの切なる求めと痛み、疲れたその姿に触れ、腸が引きちぎれるような思いで彼らを迎えられた主イエス。私たちの救い主がこのようなお方であられるというのは、大きな慰めであります。
さて、そのイエスさまと対照的なのはお弟子さんたちでした。彼らは日が傾きかけたので、「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう」とイエスさまに申します。きっと弟子たちも疲れのピークで、早く群衆との関わり事から解放されたかったんだろうと思います。まあ弟子たちは自分たちの食物や宿のこともあるのに、そこまで人の事など考えられず、もうそろそろ群衆を解散させて、ということであったでしょうが。しかしそのような思いは私たち自身のうちにも起こってくるものですし、よくわかる気がいたします。
このイエスさまが「人々を迎え入れた」ということを考えるとき、いろんな思いを私は抱きます。この天王寺という場所に住んでおりますと、いろいろな方が教会に訪ねて来られます。そして時々、「地方から来てお金を盗られ大変困っているので、当座を凌ぐためにお金を貸してほしい」という方もおみえになります。どのような方にも「金銭を渡すことはできないんです」とお断りする時に、心が痛むことが確かにあります。あの人は騙すためでなく、ほんとうに困ってここに来られたのかもしれないと。でもお金を渡す事はしてはいけないと、、、本当にすっきりしない気持ちになって悩むこともあります。イエスさまだったら、ほんとうにどうなさったんだろうか?と思わされます。
使徒言行録3章のところに、使徒となったペトロとヨハネが足の不自由な人に物乞いをされる場面があります。ペトロは「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。するとその人は「歩き回り、躍ったりして神を賛美した」ということです。
しかし私たちに出来ることは本当に小さなことです。目の前にいる群衆の前におかれた五つのパンと2匹の魚。それが一体何になるんでしょうか。お金が必要な人にわずかな食事とお話を聞いて祈ること。それが一体何になるのか?しかしそれでも主イエスはこの出会いの中におられる。必ずおられる。そこに私自身救いを得るのであります。
又、これは教会や礼拝において人を迎えるということについてでありますが。主の日の礼拝は私たちにとって最高の喜びの日であります。主の救いの恵みを新たにする日であり、神の民とされたことを感謝する日であります。礼拝への期待と喜びをもって主の家に集う時、そこに賛美と祈りに満ちた豊かなみ霊の交わりが起こります。それは主イエスの祝福により開かれる霊的食卓の場であります。そこに一人一人が小さな証しを持ち寄り、喜びをもってもてなし合います。新来者や求道者を迎え、祝福を分け合う豊かさ、喜びと楽しさがあります。
先週の祈祷会の日。息子が病院に行っていまして、その帰りしなに母親が、「このまま町に行く?」と聞くと、息子が「いや、みんながいるから教会がいい」と言ったそうです。美味しいものなら外で食べられますが、まあ病院で心細くもあったのか、教会のみなさんのお顔を見て祈るって、子どもながらにホッとしたかったのでしょう。主の食卓を分かち合う喜びは私たちに平安を与えてくれます。今年はさらにそういった賛美と祈りに溢れ、祝福を分け合う豊かさに満ちた教会、礼拝とされますよう心から祈ります。
②「信仰をもってことをなす」
さて、イエスさまは、お弟子たちに対して、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。これにはさすがの弟子たちも驚いたことでしょう。なぜなら「弟子たちにはパン5つと魚2匹しかなかった」からです。弟子たちは「このすべての人たちのために、大金をもって食べ物を買いに行かない限りムリ」と、まあ常識的なことを言っているのです。イエスさまが望まれること、おっしゃることは、時に私たちの常識で計れないことがあります。それは世間では考えられない、私の能力では難しい、私はやりたくないというようなことも含めてです。
しかしこの記事をよく読みますと、イエスさまは弟子たちに、そんな難しいことをおっしゃってはいないのです。まず、持っているそのわずかな「5つのパンと2匹の魚」をご自分のところに持ってくるようにと言われます。そして「群衆を50人ぐらいずつ組にして座らせるように」とお命じになります。「弟子たちもそのようにして皆を座らせた」と記されています。ここで弟子たちがしたことは、自分たちの持てるものをイエスさまに差し出し、イエスさまのお言葉どおり、人々を50人の組にして座らせたということです。
弟子たちが何か特別な事をしたとか、自分たちに出来ないようなことを無理になしたということではないのです。イエスさまは弟子たちに、「出来ないことではなく、彼らに出来ること」をお命じになっているのです。お弟子さんたちが「イエスさまのお言葉どおりに聞いたことをただ行った」ということが大事なのです。
そうした時、何が起こったでしょうか。すべての人が食べて満腹したというのですね。
主ご自身が栄光を顕わし、恵みのみ業を起こして下さったのです。
それはムリ、できないと否定的なことを言った弟子たち。しかし彼らが自分の考えをひとまずおいて、その彼らがイエスさまのお言葉に聞いてただ従った時、主の霊のお働きがなされるのであります。
私たちも、自分の出来ないことをつぶやき、否定的になるのではなく、自分の出来得るる限りのものを、まず主の御前に捧げていくとき、主は豊かにそれを用いてくださるのです。そういった「主への信仰をもって」事にあたっていきたいものです。
③「痛みを伴ったささげもの」
「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらに賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、12籠もあった」。
弟子たちが「これしかありません」といった5つのパンと魚2匹。それが「弟子たちのすべての食べ物」でした。これだけで12人が食事をしなければならなかったのです。弟子たちはそれをまずイエスさまに差し出したのです。
もしそのような場面に自分が出くわしたとしたらどうでしょうか?どうするでしょうか?まず自分たちの食べ物を確保したうえで、その余裕のある中から自分に痛みが伴わない分をとって、「これしかありません」と、普通はそうするのではないでしょうか。
イエスさまの弟子たちの「これしかありません」と、私たちの「これしかありません」という間には随分大きな開きというか、違いがあるといえないでしょうか。
ここでイエスさまが望まれたのは、「痛みを伴ったささげもの」であります。イエスさまは弟子たちが差し出したパンを「裂いて渡した」とあります。私たちの教会で持たれる主の晩餐では、予めパンが一つ一つに切られ、きれいに分けられたものを受けとっていますが。この当時のパンはふわふわとしたコッペパンや食パンのようなものではなく、平ぺったいせんべいのようなものでした。それをペリペリと裂いて食べていたのです。
イエスさまは弟子たちから差し出されたそのような「パンと魚を取り、賛美と祈りを唱えて、ぺりぺりとパン裂いて弟子たちに渡して、そして群衆に配らせた」のです。まずイエスさまが祝福してパンを裂いて、そのパンが弟子たちに渡され、今度は弟子たちから群衆へと次々に裂かれていく。そうやって分け合ったということですよね。このイエスさまの裂かれたパンは、幾つにも裂かれ、そうして分け合われていくのです。
この裂かれたパン。それはまさに、あの十字架の上で、私たちの罪の贖いのために裂かれたイエスさまのみ体を表してはいないでしょうか。飼う者のいない羊のように弱り果て、痛み、疲れた者たちの救いのため、断腸の愛をもって十字架上でみ体を裂かれた主イエス。そこにどんなに深く大きな痛みが伴ったことでしょうか。私たちはこの主の痛みをもって裂かれた命のパンに与っているのです。
さて、このようにイエスさまが裂いたパンは、弟子たちに渡され、また群衆たちにも渡され、分け合えば分け合うだけ、その裂かれたパンに与る人々はみな、豊かに満たされていくのであります。分け合えば分け合うだけ少なくなったり、目減りするということを普通考えたりいたしますが。けれどもイエスさまにあってはそうじゃないんです。分け合えば分け合うだけそれに与り、満たされる人々が増え広がり、分ける人も受ける人も豊かに満たされていくということですね。人間の常識からしてはまったく逆のことが、イエスさまの祝福によって起こるのです。
主イエスは十字架上で血を流し、み体を裂いてまで私たちを愛し抜いてくださった。
私たちはその主イエスにお返しするものを何も持ち得ません。けれども、主イエスのその愛の痛みを日々感じて生きることが大切です。そして主イエスが裂かれたご愛を賜った私たちは、その痛みを感じながら主にまず自分自身を捧げて生きる者となります。礼拝、執り成しの祈り、ささげもの、奉仕の働きをとおして、主のご愛を分かち合うように招かれています。愛と痛みの伴ったすべてのささげものは、まず主が聖別し、祝福して、人と人の交わりの中で豊かに用いられていきます。それは分かつ者、受ける者相互の祝福となるものですこの「5千人に食べ物を与える」聖書の記述は、単なる象徴としてではなく、主の愛が及ぶあらゆる世界に起こされるものであることを信じ、希望を持ってこの2012年を歩んでいきたいものです。
本日はルカ9章の「5千人に食べ物を与えられた」記事より、「分け合う豊かさ」と題し、み言葉を聞いていきます。ちなみに、この物語はマタイ14章を見ますと、バプテスマのヨハネがヘロデに捕えられ殺されるという殉教の後、にわかに主イエスと弟子たちに迫害と危険が及ぶ緊張感の中で、この「5千人に食べ物を与える」という出来事が起こったことになっていますが。今日のルカ9章では、主イエスが12人のお弟子たちを神の国を宣べ伝えるために派遣するという大きなテーマの中で、本日のこの事柄が書き記されているのであります。ですから、主イエスの弟子として如何にあるべきか、主イエスに遣わされるとはどういうことか等を、私たちはこの記事から読みとることができるのです。
①「迎えるということ」
この「5千人に食べ物を与える」物語からまず示されていることは、「主イエスが切なる求めをもってどこまでも追ってくる人々を迎えられた」ということであります。イエスさまは10節にあるように「弟子たちを連れ、自分たちだけでベトサイダの町に退かれた」とありますから、かなりご自身もおつかれになられていたのでしょう。
にもかかわらず、自分たちの後を追って来た「人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」というのです。イエスさまがそこまでなさったことについて、マタイ14章には「彼らを深く憐れまれた」からだとあります。この憐れみとは単なる可哀そうというような同情ではなく、へブル語でヘセド、すなわち「断腸の思い」をするということであります。群衆一人ひとりの切なる求めと痛み、疲れたその姿に触れ、腸が引きちぎれるような思いで彼らを迎えられた主イエス。私たちの救い主がこのようなお方であられるというのは、大きな慰めであります。
さて、そのイエスさまと対照的なのはお弟子さんたちでした。彼らは日が傾きかけたので、「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう」とイエスさまに申します。きっと弟子たちも疲れのピークで、早く群衆との関わり事から解放されたかったんだろうと思います。まあ弟子たちは自分たちの食物や宿のこともあるのに、そこまで人の事など考えられず、もうそろそろ群衆を解散させて、ということであったでしょうが。しかしそのような思いは私たち自身のうちにも起こってくるものですし、よくわかる気がいたします。
このイエスさまが「人々を迎え入れた」ということを考えるとき、いろんな思いを私は抱きます。この天王寺という場所に住んでおりますと、いろいろな方が教会に訪ねて来られます。そして時々、「地方から来てお金を盗られ大変困っているので、当座を凌ぐためにお金を貸してほしい」という方もおみえになります。どのような方にも「金銭を渡すことはできないんです」とお断りする時に、心が痛むことが確かにあります。あの人は騙すためでなく、ほんとうに困ってここに来られたのかもしれないと。でもお金を渡す事はしてはいけないと、、、本当にすっきりしない気持ちになって悩むこともあります。イエスさまだったら、ほんとうにどうなさったんだろうか?と思わされます。
使徒言行録3章のところに、使徒となったペトロとヨハネが足の不自由な人に物乞いをされる場面があります。ペトロは「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。するとその人は「歩き回り、躍ったりして神を賛美した」ということです。
しかし私たちに出来ることは本当に小さなことです。目の前にいる群衆の前におかれた五つのパンと2匹の魚。それが一体何になるんでしょうか。お金が必要な人にわずかな食事とお話を聞いて祈ること。それが一体何になるのか?しかしそれでも主イエスはこの出会いの中におられる。必ずおられる。そこに私自身救いを得るのであります。
又、これは教会や礼拝において人を迎えるということについてでありますが。主の日の礼拝は私たちにとって最高の喜びの日であります。主の救いの恵みを新たにする日であり、神の民とされたことを感謝する日であります。礼拝への期待と喜びをもって主の家に集う時、そこに賛美と祈りに満ちた豊かなみ霊の交わりが起こります。それは主イエスの祝福により開かれる霊的食卓の場であります。そこに一人一人が小さな証しを持ち寄り、喜びをもってもてなし合います。新来者や求道者を迎え、祝福を分け合う豊かさ、喜びと楽しさがあります。
先週の祈祷会の日。息子が病院に行っていまして、その帰りしなに母親が、「このまま町に行く?」と聞くと、息子が「いや、みんながいるから教会がいい」と言ったそうです。美味しいものなら外で食べられますが、まあ病院で心細くもあったのか、教会のみなさんのお顔を見て祈るって、子どもながらにホッとしたかったのでしょう。主の食卓を分かち合う喜びは私たちに平安を与えてくれます。今年はさらにそういった賛美と祈りに溢れ、祝福を分け合う豊かさに満ちた教会、礼拝とされますよう心から祈ります。
②「信仰をもってことをなす」
さて、イエスさまは、お弟子たちに対して、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。これにはさすがの弟子たちも驚いたことでしょう。なぜなら「弟子たちにはパン5つと魚2匹しかなかった」からです。弟子たちは「このすべての人たちのために、大金をもって食べ物を買いに行かない限りムリ」と、まあ常識的なことを言っているのです。イエスさまが望まれること、おっしゃることは、時に私たちの常識で計れないことがあります。それは世間では考えられない、私の能力では難しい、私はやりたくないというようなことも含めてです。
しかしこの記事をよく読みますと、イエスさまは弟子たちに、そんな難しいことをおっしゃってはいないのです。まず、持っているそのわずかな「5つのパンと2匹の魚」をご自分のところに持ってくるようにと言われます。そして「群衆を50人ぐらいずつ組にして座らせるように」とお命じになります。「弟子たちもそのようにして皆を座らせた」と記されています。ここで弟子たちがしたことは、自分たちの持てるものをイエスさまに差し出し、イエスさまのお言葉どおり、人々を50人の組にして座らせたということです。
弟子たちが何か特別な事をしたとか、自分たちに出来ないようなことを無理になしたということではないのです。イエスさまは弟子たちに、「出来ないことではなく、彼らに出来ること」をお命じになっているのです。お弟子さんたちが「イエスさまのお言葉どおりに聞いたことをただ行った」ということが大事なのです。
そうした時、何が起こったでしょうか。すべての人が食べて満腹したというのですね。
主ご自身が栄光を顕わし、恵みのみ業を起こして下さったのです。
それはムリ、できないと否定的なことを言った弟子たち。しかし彼らが自分の考えをひとまずおいて、その彼らがイエスさまのお言葉に聞いてただ従った時、主の霊のお働きがなされるのであります。
私たちも、自分の出来ないことをつぶやき、否定的になるのではなく、自分の出来得るる限りのものを、まず主の御前に捧げていくとき、主は豊かにそれを用いてくださるのです。そういった「主への信仰をもって」事にあたっていきたいものです。
③「痛みを伴ったささげもの」
「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらに賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、12籠もあった」。
弟子たちが「これしかありません」といった5つのパンと魚2匹。それが「弟子たちのすべての食べ物」でした。これだけで12人が食事をしなければならなかったのです。弟子たちはそれをまずイエスさまに差し出したのです。
もしそのような場面に自分が出くわしたとしたらどうでしょうか?どうするでしょうか?まず自分たちの食べ物を確保したうえで、その余裕のある中から自分に痛みが伴わない分をとって、「これしかありません」と、普通はそうするのではないでしょうか。
イエスさまの弟子たちの「これしかありません」と、私たちの「これしかありません」という間には随分大きな開きというか、違いがあるといえないでしょうか。
ここでイエスさまが望まれたのは、「痛みを伴ったささげもの」であります。イエスさまは弟子たちが差し出したパンを「裂いて渡した」とあります。私たちの教会で持たれる主の晩餐では、予めパンが一つ一つに切られ、きれいに分けられたものを受けとっていますが。この当時のパンはふわふわとしたコッペパンや食パンのようなものではなく、平ぺったいせんべいのようなものでした。それをペリペリと裂いて食べていたのです。
イエスさまは弟子たちから差し出されたそのような「パンと魚を取り、賛美と祈りを唱えて、ぺりぺりとパン裂いて弟子たちに渡して、そして群衆に配らせた」のです。まずイエスさまが祝福してパンを裂いて、そのパンが弟子たちに渡され、今度は弟子たちから群衆へと次々に裂かれていく。そうやって分け合ったということですよね。このイエスさまの裂かれたパンは、幾つにも裂かれ、そうして分け合われていくのです。
この裂かれたパン。それはまさに、あの十字架の上で、私たちの罪の贖いのために裂かれたイエスさまのみ体を表してはいないでしょうか。飼う者のいない羊のように弱り果て、痛み、疲れた者たちの救いのため、断腸の愛をもって十字架上でみ体を裂かれた主イエス。そこにどんなに深く大きな痛みが伴ったことでしょうか。私たちはこの主の痛みをもって裂かれた命のパンに与っているのです。
さて、このようにイエスさまが裂いたパンは、弟子たちに渡され、また群衆たちにも渡され、分け合えば分け合うだけ、その裂かれたパンに与る人々はみな、豊かに満たされていくのであります。分け合えば分け合うだけ少なくなったり、目減りするということを普通考えたりいたしますが。けれどもイエスさまにあってはそうじゃないんです。分け合えば分け合うだけそれに与り、満たされる人々が増え広がり、分ける人も受ける人も豊かに満たされていくということですね。人間の常識からしてはまったく逆のことが、イエスさまの祝福によって起こるのです。
主イエスは十字架上で血を流し、み体を裂いてまで私たちを愛し抜いてくださった。
私たちはその主イエスにお返しするものを何も持ち得ません。けれども、主イエスのその愛の痛みを日々感じて生きることが大切です。そして主イエスが裂かれたご愛を賜った私たちは、その痛みを感じながら主にまず自分自身を捧げて生きる者となります。礼拝、執り成しの祈り、ささげもの、奉仕の働きをとおして、主のご愛を分かち合うように招かれています。愛と痛みの伴ったすべてのささげものは、まず主が聖別し、祝福して、人と人の交わりの中で豊かに用いられていきます。それは分かつ者、受ける者相互の祝福となるものですこの「5千人に食べ物を与える」聖書の記述は、単なる象徴としてではなく、主の愛が及ぶあらゆる世界に起こされるものであることを信じ、希望を持ってこの2012年を歩んでいきたいものです。