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主が共におられる心強さ

2012-02-12 16:31:54 | メッセージ
宣教 ルカ17章11~19節 

もうすぐ3・11東日本大震災と福島の原発事故から1年になろうとしていますが、いまだに問題は解決されず、辛い痛みの中におかれている多くの被災者がおられます。主の御慰めと支えを祈ります。あの1・17阪神淡路大震災が起こった時、震災後は被災地において被災された方々は、みなそれぞれに大変な中、必死にみな手を取り合い一つになって支え合っていかれたということでしたが。仮設住宅ができやがて復興が進んでいきますと、それまで支え合い、協力し合っていたコミ二ティーがなくなり、一部で孤独死される方やさまざまの問題がまた生じております。そういった問題がまた繰り返されないよう本当に願うものであります。

本日はルカ17章より「主が共におられる力強さ」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

①「サマリアとガリラヤの間」
まず、今日の箇所のところで、「イエスさまはエルサレムへ上る途上、サマリアとガリラヤの間を通られた」とあります。エルサレムへ向かうルートならサマリアを通らずに行くこともできたはずですが。ユダヤ人であられたイエスさまはユダヤ人たちの忌み嫌っていたサマリア人がいるところをあえてそこを通っていかれたということであります。
そうしてイエスさまが、12節「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」というのです。
そこにいたのは重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が混在する集団でした。
当時ユダヤ人とサマリア人が集団を作り生活を共にすることは通常考えられないことでありました。ユダヤ人はサマリア人を異邦人と見なし、関わることを拒絶していたからです。ところが重い皮膚病という共通の痛みを負う彼らは助け合い寄り添い合っていたのです。
重い皮膚病を患った人たちが社会において普通の生活が許されず、偏見と差別にあい、疎外されていたという厳しい現実が垣間見えてくるようです。そういう中で、ユダヤ人とサマリア人とが共存していたということです。
彼らはイエスさまに、「どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げ訴えました。「私を」ではなく「私たちを」と叫んだ。そのところに、病と闘う彼らの共通の意識を読みとることができます。病を負うことは本当に辛いことです。その辛さはその病を負った者でなければわからないでしょう。差別や偏見、いじめやパワーハラスメント等の問題もそうでありましょう。それがどれほど人の心を傷つけるものであるか。最も知っているのはそれを実際に受けて来た人たちでしょう。
この重い皮膚病の人たちは共通の痛みの中で、イエスさまに「どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げ訴えました。今、私たちはそれぞれに異なる課題をそれぞれに担う中で、キリストの共同体として召されております。病、人間関係、家庭や仕事の問題と様々です。けれどもその中で痛みを、悩みを、課題を共に分かち合い一緒になって主に呼び求めていく。そこにキリストのいやしと救いがもたらされていくのです。

②「御言葉に信頼して行なう信仰」
14節、「イエスさまは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われます。ルカ5章のところでも「重い皮膚病を患っていた人をいやされる」記事がありますが。そこでは、イエスさま自らが手を差し伸べて直接その人に触れて、「よろしい。清くなれ」と言われました。すると、たちまち病が去った、とあります。それからしますと本日の箇所は、イエスさまが彼らに触ることも、「清くなれ」ともおっしゃることもなく、ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とだけ言われており、何だか素気ないようにも思えます。これは一体どういうことなのでしょうか?

この個所を読みますと、まずイエスさまはその十人の人たちを「見て」とあります。それはこの彼らの抱えている病、重荷、問題のすべてをまるでお医者さんのように、よく見られたということでありましょう。そのうえでイエスさまは、律法の清めの儀式(レビ記14章)に従うよう「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃっているのです。
福音書を読みますと、イエスさまがおいやしになる時、その関わりようがそれぞれに異なることに気づかされます。それは、その人その人の根幹に触れる問題が体のいやしと共に解放されて回復する事を望んでおられるからです。主は私を、一人の人としてあたかもお医者さんが診察するかのように知っていて下さり、私に合った最善の方法を通して全人的いやしと解放、回復を与えようとして下さるのです。

さて、重い皮膚病の人たちは、イエスさまから「祭司のところへ行って、体を見せなさい」と言われますが。それは、彼らが、イエスさまのお言葉に信頼し、聞き従うかどうか、その信仰を試された、ということであります。
そして「彼ら(十人の人たちはみなすべて)は、そこへ行く途中で清くされた」というのですね。つまり、十人全員、イエスさまのお言葉に信頼し、そのとおりに行ない行く途上において清くされたのです。いやしは見えるかたちでまだ実現されていなかったのですが、彼らはみなイエスさまのお言葉のもと、必ずいやされると信じて、あるいは大いなる期待をもって祭司たちのところへ向かった。そこに主の御業を見ることができたのであります。まさにヘブライ11章1節にあるように、見ずして御言葉に信頼する信仰。御言葉にかけていく者に、主は答えて下さるお方であることがここに示されているのです。

③「戻って来たサマリア人」
さて15節、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」。
清くされたのは十人全員でした。しかしそのうちの一人のサマリア人だけがイエスさまのところに戻って来ました。他の九人はおそらくそのまま祭司のところに清められた体を見せに行ったのでしょう。この九人はユダヤ人であったのでしょう。彼らはユダヤ人でしたので、祭司に清められたことを認証してもらえば社会復帰することができたのです。愛する家族のもとに帰ることもできたのです。
しかしこの一人のサマリア人の事情はどうやらそれとは大きく異なっていたようです。彼がたとえ祭司のところに行って清められた体を見せても、ユダヤ社会での社会復帰はなお困難であり、閉ざされたままであろう現実があったのです。他の九人の営みや生活が回復された時、今や一人となったこのサマリア人は、イエスさまのところへ戻って来る以外に道がなかったのかも知れません。

けれどもこのサマリア人は、「大声で神を賛美しながらイエスさまのもとへ戻って来た」とここに書かれています。彼は孤独ではありませんでした。又、しかたなくイエスさまのもとに戻って来たのでもありません。その人は喜びと感謝に満ち溢れ、神を賛美していました。「主が共におられる」という確信を得ることができたからです。その恵みがどんなに力強いものかを体験したからであります。サマリア人と重い皮膚病という二重にも差別され、ずっと辛い痛みに打ちひしがれてきた彼の人生、帰るべき場を地上に持たないそのような彼が、主の御名を、救いの御業を喜び讃える者となったのです。

17節、「そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』
イエスさまは、ここで戻って来なかった九人について、どうして戻って来なかったのか?と尋ねていますが。すでにその九人の思いを主はご存じでした。
イエスさまは、「ほかに神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいます。確かに九人は重い皮膚病がいやされ、以後社会復帰への道も開かれていったであろうと考えられます。けれども、彼らは主を賛美し、主のもとに戻って来ることはなかったのであります。この一人のサマリア人のように、「救いの主が共におられる」との力強い確信を得る事はなかったのであります。ルカ福音書は「悔い改め」「主のもとに立ち返る出来事」を大事にしています。そこに神との交わりの回復、人と人との交わりの回復の「基」があるからです。
あれだけ、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と、声を張り上げ訴えていたのに、彼らはイエスさまへの恩恵と感謝、又その時みなで一つになってイエスさまへ向かっていた思いや連帯意識さえも、病が癒され日常生活が取り戻されることを境に、薄れ、忘れ去られてしまうことになっていったのでありましょう。主を賛美するため、常に主のもとに戻って来る私たちでありたいと願います。

④「救い」
さて9節、「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』」。
病を抱えている人にとってその病が深刻なほど、いやされるということは実に切実な問題であることに変わりありません。聖書にいやしについて多くの記事が割かれているのも、それが本当に切実な問題であるからです。イエスさまも地上の公生涯において、神の国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされました。聖書の語る「救い」は「いやし」を通してもたらされることもございますが、「いやし」そのもの、それ自体ではありません。たとえ病がいやされても、人は誰もいつか死んでいく限りある身であります。病気がいやされたとしても、やがては死にゆく者に変わりないのです。聖書はそういった限りある人間に対して「救い」を語ります。本日の箇所において、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と、サマリア人に宣言されています。
彼は重い皮膚病がいやされたことを通して、「生ける主が真の全人的な救いをお与え下さった」という力強い確信を得るのです。それは病がいやされるという現象を超えた大きな驚くべき出来事であります。それが彼の魂の底から湧き溢れ出る命の力となっていったのです。彼は目に見えるもの以上の尊く、かけがえのない安心と支えの保証を主から賜るのです。彼は文字通り「救いを得た」のです。
 イエスさまは、信仰の確信をもって「立ち上がって、行きなさい」とおっしゃいます。サマリア人である彼がこれから社会にあって生きていくには、多くの壁や障害があることでしょう。しかし、「あなたの信仰があなたを救った」という宣言によって、主は彼をその足で立たしめて、「その信仰をもって生きよ」と後押ししてくださっているのです。
私たちも又、この「救いの主が共におられるという心強い支え」、信仰の確信をもって、様々な困難や問題に対しても向き合い、祈りつつ、前進してまいりましょう。ここから。
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