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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

祈りは聴かれている

2012-04-01 14:39:44 | メッセージ
宣教 使徒言行録12章1~17節 

受難週を迎えました。主イエスの十字架の苦難と死を今週は特に偲びつつ、イースターに向け、備えてまいりましょう。

①「受難週を迎えて」
本日は、使徒言行録12章より「祈りは聴かれている」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。先週読みましたように、福音は使徒たちや迫害によって各地に散らされた人々を通して人種を超え、多くの人にもたらされていきました。
一方エルサレムでは、1節以降「ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕えようとした」というのであります。
イエスが十字架で処刑され、弟子たちの集団も消滅したと思いきや、復活と聖霊降臨後、主イエスの教えと力強い福音宣教の業が繰り広げられていきます。自分たちこそ正当だと称するユダヤ教徒らは、こうした初代教会とその使徒や信徒たちを恐れ、自分たちの立ち所を揺るがしかねない危険因子だと排除しようとしていたのです。
このヘロデ王は、ヘロデ・アグリッパ一世といってヘロデ大王の孫にあたります。アグリッパ王は、ユダヤの民衆心理をテコにして確固な地位と支持を得るために、ヨハネの兄弟ヤコブを処刑するのです。そしてそれが、ユダヤ民衆に「喜ばれた」ことを知るや、使徒ペトロをも捕え、処刑しようと企てるのであります。それは除酵祭の時期であったと付け加えられていますが。イエスさまが捕えられ、裁かれて、十字架刑へ引き渡された時期と同じ、除酵祭(過越し祭)の時期であったと、伝えます。
かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷の状態にあった時、彼らを神の民として召し出し、解放したもう出エジプト(エクソドス)。神が小羊の血が塗られた民の家を災いから守り、救い出されたその大いなる恵みを思い起こし、心に刻んでいくそういう時期に、イエスさまの十字架の出来事も、このヤコブの殉教とペトロの捕縛の事件も起こったというのです。今まさに私たちは受難週を迎えましたが。この時、罪と世の力に囚われ、その奴隷のように生きていた私たちに、解放を与えるために尊い犠牲の血が流されたことを、忘れるわけにはまいりません。

②「教会の祈りと主の天使の救出」
さて、4節で「ヘロデはペトロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監禁させた」。さらに6節で「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた」とあります。
見張りの番兵が16人もつけられ、四人一組で、牢内に二人、さらに牢の外に二人が配備され、その見張りが昼夜四交替でなされていたというのは驚きです。これはペトロが如何に厳重かつ徹底的に監視されていたかということが強調されているわけですが。しかし、その厳重かつ徹底した監視下におかれていたペトロの無事を何よりも願って、4節「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」というのであります。この教会の祈りは、牢屋から救出されたペトロがヨハネの母マリアの家に行った時も、12節「大勢の人が集まって祈っていた」とありますように、ペトロのために熱心な祈りが神にささげ続けられていた、ということです。

そのような中で、7節以降に記されていますとおり、主の天使いがペトロを牢から救い出すのであります。その救出の場面でありますが、主の天使がペトロのわき腹をつついて起こし、ペトロが天使の言うとおり「急いで起き上がると」、どうしたことか鎖が彼の手から外れ落ちます。また天使の「帯を締め、履物を履き」「上着を着て、ついて来なさい」との言葉に従うと、どうやって牢を通り抜けたのでしょうか、「第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いた」というのですね。何か映画を観ているような感じですが。神の介入の御手は大胆、かつ速やかになされます。「ペトロは幻を見ているのだと思った」とありますが。彼は主の天使が去ってから、初めて「我に返ります」。そこで自分が経験したことの意味に気がつくのです。「今初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」。
主の救いとはそういうものです。主の御言葉に聴いて従っていく。幻を追うようなことですが、主に従っていく。そうしてふと我に返ってみた時、「確かに主は私と共におられた、私を導き、救い出して下さったのだ」と、確信するに至っていくのです。

さて、12節「こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた」と記されています。
ペトロがまっすぐそこへ向かったのは、その奇跡的な救出が、教会の祈りに対する神の答えであったことを、暗示しています。ペトロの見えないところで、又知らないところで、ずっと彼のために熱心な祈りが神にささげられていました。過酷な状況の中にあったペトロでしたが、彼は教会の祈りによって主に執り成され、守られていたのです。

③「祈りは聴かれている」
本日の箇所はこれで終ってもよいと思うでありますが、そうではありません。
ペトロがヨハネの母マリアの家の戸を叩くと、ロデという女中がペトロの声を聞き、喜びのあまり門を開けもしないまま中に駆け込み、人々にペトロが門の前に立っていることを告げます。しかし、家の中で祈っていた人々はロデの言うことを信じようとしません。彼女がなお言い張ると、彼らは彼女が「ペトロを守る天使でも幻で見たのだろうか」と言い出して、なかなか信じようとしないのです。その間ペトロはマリアの家の門の戸を叩き続けているわけですが、、、、。
まあ、ペトロが囚われていた牢の厳重かつ分厚い門はひとりでに開きましたが。このマリアの家の門は簡単には開かないという、何ともユーモラスな光景でありますね。
マリアの家に集まった信徒らは「ペトロを牢から救出してくださるように」と、熱心な祈りを神にささげていたのですが。ペトロが救い出されたことを信じることができませんでした。彼らは確かに祈っていたのです。けれども、神がこうも現実に答えくださるとは思いもしなかったのかも知れません。又、ペトロの前にはヤコブが捕えられ処刑されるというショッキングな出来事があったばかりでした。彼らの内に悲観的な思いが広がっていたのかも知れません。そういった事は私たちの中にも起こって来ることがあるでしょう。
あの時は祈ったけどだめだった。思い通りにいかなかった。そういった経験に囚われると、祈りつつも期待を持つことを恐れ、逆に神は聴いて下さるのだろうかと試み、懐疑心さえ起こって来ます。
マルコによる福音書11章24節で、イエスさまは「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と言われています。信じて疑わず、あの山へ海の中へ入れと言えば、その通りになるとまで言われました。しかし、すべての山がそう簡単に海の中へ入ってしまえば大変です。そこに神の最善のご計画と時があるということへの信頼が必要なのです。思い通りに行かないことに囚われてはいけません。あきらめず祈り続けることです。神さまだけが本当に必要なものや最善のかたち、又タイミングを知っておられることに信頼しましょう。私たちはこの神さまに期待をし、大胆に祈っていいのです。それは大きな希望であります。

先ほど、O姉より証しを戴きました。本当に神さまの大きな恵みと力を新に知ることができ、心から主の御名を崇めます。私の息子の鼻の腫瘍のかたまりがひとりでに取れて落ちた時もそうでした。神さまは私たちがあきらめず期待を持って祈り続ける時、その祈りに答えてくださるお方であることを、実体験させてくださるのです。「祈りは聴かれているのです」。
もっともっと私たちは主に祈ることに対して貪欲になり、信じ、期待していこうではありませんか。主がおしみなく与えてくださるすばらしい恵みと力とを証しする者とされてまいりましょう。主はそのことを通して、私たちと教会をさらに祝福してくださいます。
祈ること、執り成しの祈りもそうですが、それは「エネルギーがいる、労力がいること」と、ある方がおっしゃっていました。ほんとうに忍耐を要すことでもあります。けれども、そこで必要なのは「主の愛を信頼して祈る信仰」であります。主の愛をもって「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じて祈る」。そのことです。
主は私たちの力や思いを超えたお方です。この主に信頼と希望をおくのです。主に期待して祈る。祈り合うその時すでに、主の御手は働いています。今日はペトロが世の力に捕えられ、窮地に追い込まれていた中、教会の兄弟姉妹が心合わせて執り成し祈り、主の御手によって救い出される話でありました。主にある兄弟姉妹、教会に与えられた本当にすばらしい祈りの力、それは幾重にも閉ざされた状況さえ打ち破り、解き放つ天の力であります。そこに確かに主が共におられるのです。

最後に、本日のヤコブの殉教やペトロの捕縛の記事から考えさせられますのは、今日の時代も世界のいたるところで正しい者が迫害を受けている現実であります。真理と平和を待ち望み、築こうとする人たちを抑圧し、小さくされた人、弱い立場におかれた人たちが排除される現実です。
イエスさまは、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を知らせるためである」(ルカ4章18節)と、イザヤ書の言葉を引用され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(同21節)と、ご自身のことについてこのようにおっしゃいました。
初代教会の人々は、その主イエスの教えに従い、解放と救いの福音を語り伝えていったがゆえに排斥され、弾圧を受け、捕えられました。
時代は移りましたが。私たちも又、主を信じ、従い行く、福音に生きようと努めるがゆえにこの地上にあって様々な闘いがあり、課題を覚えています。そういう中にあって、主の御声に聴きつつ、祈っていくとき、キリストの平和、御国の到来と解放の御業をもたらす福音の使者とされるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7章7節)と、主イエスは言われました。
教会の祈りは重い牢の戸さえ開きます。世の権力や支配からの解放を与えます。「祈りは聴かれています」。主は昨日も今日も変わることがありません。生きておられます。信頼と期待をもって共に祈り合い、主の御言に聴き従う私たちとされてまいりましょう。
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