礼拝宣教 列王記下5章9-19節a
①「不思議な導き」
本日のこの箇所にはイスラエルの預言者エリシャとアラムの軍司令官ナアマンの物語が記されています。アラム(シリア)の軍司令官ナアマンは重い皮膚病を患っていました。ある時妻に仕えていた召し使いの少女が、「サマリアの預言者のところに行けば、ご主人様のその重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と妻に話します。この少女はイスラエルから捕えられてきた捕虜でありました。サマリアの預言者、すなわちエリシャのなした奇跡の数々を知っていたのでしょう。あのエリシャさまならきっとご主人をいやすことができるに違いないと、少女は考えたのであります。
ナアマンがその少女の話をシリアの王に伝えると、王はイスラエルの王に手紙を書きました。ナアマンはアラムの王に重んじられ気に入られていました。それは主がかつてこのナアマンを用いてアラムに勝利を与えられたからだ、と聖書は伝えています。ナアマンはその手紙と贈り物の金や銀、さらに晴れ着をもってイスラエルの王を訪ねるのであります。ところが、その手紙を見たイスラエルの王は、アラムの王の政治的な策略と見て取り、衣を裂くほどに憤慨しました。エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして、「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と伝えます。イスラエルの王はエリシャの言うとおり、ナアマンがエリシャのもとに向かうことを許します。
②「柔らかな信仰」
ここからが本日の箇所ですが。
ナアマンはエリシャの家に来て、その入り口に立ってエリシャを待ちますがそこに出て来たのはエリシャ本人ではなく使いのものが家から出て来てこう言うのです。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」。ナアマンはそれに対してこう言います。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上に手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流の水よりもきれいなダマスコの川で洗って清くなれないというのか」。彼は身をひるがえして憤慨しながら去っていった、とあります。まあナアマンにしてみればわざわざ遙々訪ねて来たというのにあまりに非礼ではないのか、エリシャは自分に会おうともせず、又皮膚を診ようともしない。「何だこの態度は」と、その期待が大きかっただけに落胆も又大きかったのでありましょう。人間的に見ればナアマンの気持ちは分かる気がいたします。
このナアマンが腹を立て帰っていくその途中で、彼の家来たちが近づいて来ていさめます。
「あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」。
すると家来たちにいさめられたナアマンは再び下って行き、エリシャの言葉どおりヨルダン川に七度身を浸します。するとどうでしょう。「彼の体は元に戻り、皮膚がですね、小さい子供の体のようになり、清くなった」というのです。ヨルダン川に身を浸す。それはバプテスマを受ける者の姿のようであります。そしてまた、小さい子供の体のようにされたナアマン。それは彼が新しい人として生まれ変わったことを象徴しているかのようにも思えます。事実ナアマンは川から上がった時、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」という信仰告白を言い表しています。
ナアマンは初めエリシャを通して示された神の言葉をまともに受け入れることができません。それはヨルダン川に行って七度身を洗いなさいといういとも簡単な指示が、それが逆にあまりにも簡単なことであるために、ナアマンはそんなことで治るものか、人を馬鹿にしている、と思ったんじゃないでしょうか。ナアマンの心の内には神の言葉を素直に受け入れて、その言葉を実行することができない自我、頑固で頑な自分がいたのです。
それは神がエリシャを通してこのナアマンの信仰を試されたということではないでしょうか。ナアマンの体を元に戻し、清くされるのはエリシャではなく、生ける神、主ご自身であります。その主の言葉を信じ、単純に受け入れて、その通りに行なう。その信仰を主は求められたのではないでしょうか。
一旦は憤慨しつつその場を立ち去り帰ろうとしたナアマンでしたが。家来たちの言葉に耳を傾け、聞き入れる事ができたのは幸いでした。イエスさまは、「だれでも子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)とおっしゃいました。
信仰とは何か難しい事柄でしょうか。特別な知識や教養、学問が必要でしょうか。むろん誤った解釈を避けるためそれもあった方がよいでしょうが。何より大切なこと、それは主の言葉、福音の言葉を「聞いて受け入れ、信じて行なっていく」。そのことに尽きるのであります。
③「ナアマンの信仰告白と不安」
さて、こうして主なる神と出会い、清くされたナアマンはエリシャのもとへ戻り、15節「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と信仰を口で言い表し、17節「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはいたしません」と約束します。彼は主こそ生ける真の神であることを口で告白し、今後この主に従って生きる決意を表明します。
ローマ10章9節10節にはこう記されてあります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じ義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。
この自らの信仰について公に口で告白するということは、主に従って生きるということですから、それは一方で世の様々な神ならざる勢力や偶像崇拝などとの戦があるということです。主を信じて生きる者にとって、この世にある限りそういった戦いは尽きません。それは主の言葉に従う、主への従順の戦いであり、罪との戦い、祈りの戦いであります。もしそういった戦いがないという人がいるなら、それは主を信じて生きているとはいえないのかも知れません。
ナアマンは神の人エリシャにこう言っています。
17節「らばニ頭に負わせることできるほどの土をこの僕にください。ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」。
ナアマンの場合、異国のシリアの王に仕える軍司令官でした。一国の王がリモンの神殿(アッシリアの雷を祀った偶像神)にひれ伏すとき、彼は王の介添えをしなければならない立場でした。その際、彼も王と一緒に神ならざるものにひれ伏さなければならなかったのです。そういう信仰的な戦いが今後待ち受けている身の上のことを、神の人エリシャに打ち明け、神の赦しを乞うたのです。
彼は又、イスラエルの土をアラムに持って帰りたいと言っていますが。それはイスラエルでない土地で主なる神を礼拝するために必要だと考えたからです。しかし全地全能なる神は、すべて世界を統治しておられますので、どこにいても主を礼拝できるのでありますが。この時のナアマンの内には不安や心配の思いが強くありました。聖なるイスラエルの地の土を持っていけば、きっと信仰の一助になると考えたのでしょう。
④「安心して行きなさい」
異教の地、神ならざるものを神とあがめ、信奉するような世界に帰ってゆかねばならなかったナアマン。そういう不安を抱えていたナアマンに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と彼を送り出します。エリシャはナアマンの願いに対して、その信仰をあるがまま受けとめます。おそらくはらばニ頭にイスラエルの土をも積ませたことでしょう。ナアマンはまだ生まれたばかりの神の民でした。エリシャはアラムの地でナアマンが神の民として今後も信仰をしっかりともって生きることを願い、祈りつつ、生ける主のお導きに委ねたのでした。
私どもも主を信じてその民として生きる時、この世において不安や恐れが襲い、様々な戦いが生じます。けれども、どのような時も、どこにいようとも、私たちは生ける主が共におられ、導いてくださるとの確信を戴いてあゆんでまいりましょう。イエスさまは、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっています。
(マタイ28:20)
キリストによって新しく生まれ変わった私たちは今一度、「御言葉に聴き従う柔らかな幼子の信仰」を与えていただこうではありませんか。不安や恐れ、戦い多き世において生きる私たち一人ひとりに、「安心して行きなさい」と語りかけてくださる主によって力強くあゆんでいこうではありませんか。
①「不思議な導き」
本日のこの箇所にはイスラエルの預言者エリシャとアラムの軍司令官ナアマンの物語が記されています。アラム(シリア)の軍司令官ナアマンは重い皮膚病を患っていました。ある時妻に仕えていた召し使いの少女が、「サマリアの預言者のところに行けば、ご主人様のその重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と妻に話します。この少女はイスラエルから捕えられてきた捕虜でありました。サマリアの預言者、すなわちエリシャのなした奇跡の数々を知っていたのでしょう。あのエリシャさまならきっとご主人をいやすことができるに違いないと、少女は考えたのであります。
ナアマンがその少女の話をシリアの王に伝えると、王はイスラエルの王に手紙を書きました。ナアマンはアラムの王に重んじられ気に入られていました。それは主がかつてこのナアマンを用いてアラムに勝利を与えられたからだ、と聖書は伝えています。ナアマンはその手紙と贈り物の金や銀、さらに晴れ着をもってイスラエルの王を訪ねるのであります。ところが、その手紙を見たイスラエルの王は、アラムの王の政治的な策略と見て取り、衣を裂くほどに憤慨しました。エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして、「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と伝えます。イスラエルの王はエリシャの言うとおり、ナアマンがエリシャのもとに向かうことを許します。
②「柔らかな信仰」
ここからが本日の箇所ですが。
ナアマンはエリシャの家に来て、その入り口に立ってエリシャを待ちますがそこに出て来たのはエリシャ本人ではなく使いのものが家から出て来てこう言うのです。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」。ナアマンはそれに対してこう言います。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上に手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流の水よりもきれいなダマスコの川で洗って清くなれないというのか」。彼は身をひるがえして憤慨しながら去っていった、とあります。まあナアマンにしてみればわざわざ遙々訪ねて来たというのにあまりに非礼ではないのか、エリシャは自分に会おうともせず、又皮膚を診ようともしない。「何だこの態度は」と、その期待が大きかっただけに落胆も又大きかったのでありましょう。人間的に見ればナアマンの気持ちは分かる気がいたします。
このナアマンが腹を立て帰っていくその途中で、彼の家来たちが近づいて来ていさめます。
「あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」。
すると家来たちにいさめられたナアマンは再び下って行き、エリシャの言葉どおりヨルダン川に七度身を浸します。するとどうでしょう。「彼の体は元に戻り、皮膚がですね、小さい子供の体のようになり、清くなった」というのです。ヨルダン川に身を浸す。それはバプテスマを受ける者の姿のようであります。そしてまた、小さい子供の体のようにされたナアマン。それは彼が新しい人として生まれ変わったことを象徴しているかのようにも思えます。事実ナアマンは川から上がった時、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」という信仰告白を言い表しています。
ナアマンは初めエリシャを通して示された神の言葉をまともに受け入れることができません。それはヨルダン川に行って七度身を洗いなさいといういとも簡単な指示が、それが逆にあまりにも簡単なことであるために、ナアマンはそんなことで治るものか、人を馬鹿にしている、と思ったんじゃないでしょうか。ナアマンの心の内には神の言葉を素直に受け入れて、その言葉を実行することができない自我、頑固で頑な自分がいたのです。
それは神がエリシャを通してこのナアマンの信仰を試されたということではないでしょうか。ナアマンの体を元に戻し、清くされるのはエリシャではなく、生ける神、主ご自身であります。その主の言葉を信じ、単純に受け入れて、その通りに行なう。その信仰を主は求められたのではないでしょうか。
一旦は憤慨しつつその場を立ち去り帰ろうとしたナアマンでしたが。家来たちの言葉に耳を傾け、聞き入れる事ができたのは幸いでした。イエスさまは、「だれでも子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)とおっしゃいました。
信仰とは何か難しい事柄でしょうか。特別な知識や教養、学問が必要でしょうか。むろん誤った解釈を避けるためそれもあった方がよいでしょうが。何より大切なこと、それは主の言葉、福音の言葉を「聞いて受け入れ、信じて行なっていく」。そのことに尽きるのであります。
③「ナアマンの信仰告白と不安」
さて、こうして主なる神と出会い、清くされたナアマンはエリシャのもとへ戻り、15節「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と信仰を口で言い表し、17節「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはいたしません」と約束します。彼は主こそ生ける真の神であることを口で告白し、今後この主に従って生きる決意を表明します。
ローマ10章9節10節にはこう記されてあります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じ義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。
この自らの信仰について公に口で告白するということは、主に従って生きるということですから、それは一方で世の様々な神ならざる勢力や偶像崇拝などとの戦があるということです。主を信じて生きる者にとって、この世にある限りそういった戦いは尽きません。それは主の言葉に従う、主への従順の戦いであり、罪との戦い、祈りの戦いであります。もしそういった戦いがないという人がいるなら、それは主を信じて生きているとはいえないのかも知れません。
ナアマンは神の人エリシャにこう言っています。
17節「らばニ頭に負わせることできるほどの土をこの僕にください。ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」。
ナアマンの場合、異国のシリアの王に仕える軍司令官でした。一国の王がリモンの神殿(アッシリアの雷を祀った偶像神)にひれ伏すとき、彼は王の介添えをしなければならない立場でした。その際、彼も王と一緒に神ならざるものにひれ伏さなければならなかったのです。そういう信仰的な戦いが今後待ち受けている身の上のことを、神の人エリシャに打ち明け、神の赦しを乞うたのです。
彼は又、イスラエルの土をアラムに持って帰りたいと言っていますが。それはイスラエルでない土地で主なる神を礼拝するために必要だと考えたからです。しかし全地全能なる神は、すべて世界を統治しておられますので、どこにいても主を礼拝できるのでありますが。この時のナアマンの内には不安や心配の思いが強くありました。聖なるイスラエルの地の土を持っていけば、きっと信仰の一助になると考えたのでしょう。
④「安心して行きなさい」
異教の地、神ならざるものを神とあがめ、信奉するような世界に帰ってゆかねばならなかったナアマン。そういう不安を抱えていたナアマンに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と彼を送り出します。エリシャはナアマンの願いに対して、その信仰をあるがまま受けとめます。おそらくはらばニ頭にイスラエルの土をも積ませたことでしょう。ナアマンはまだ生まれたばかりの神の民でした。エリシャはアラムの地でナアマンが神の民として今後も信仰をしっかりともって生きることを願い、祈りつつ、生ける主のお導きに委ねたのでした。
私どもも主を信じてその民として生きる時、この世において不安や恐れが襲い、様々な戦いが生じます。けれども、どのような時も、どこにいようとも、私たちは生ける主が共におられ、導いてくださるとの確信を戴いてあゆんでまいりましょう。イエスさまは、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっています。
(マタイ28:20)
キリストによって新しく生まれ変わった私たちは今一度、「御言葉に聴き従う柔らかな幼子の信仰」を与えていただこうではありませんか。不安や恐れ、戦い多き世において生きる私たち一人ひとりに、「安心して行きなさい」と語りかけてくださる主によって力強くあゆんでいこうではありませんか。