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生涯の日を正しく数えて生きる

2012-09-02 22:19:00 | メッセージ
宣教 詩編90編 

本日は召天者記念礼拝として詩編90編より「生涯の日を正しく数えて生きる」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。この詩編90編はイスラエルを導いてきた偉大な指導者モーセの祈りに思いを馳せつつ、詩編の中の一編として綴られたものです。
詩編はイスラエルの国が捕囚となり、そこから解放された後に編集されました。ですからこの90編も捕囚後のイスラエルの民が、自分たちを襲った苦難を重ね合わせながら、この詩編に綴ったのでしょう。

 主なる神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、その指導者としてモーセを立てられました。モーセは神の御心に聴き従いつつ、民のリーダーとして40年の荒野を旅しました。しかしモーセはイスラエルの民が罪を犯したために、約束の地に入ることがゆるされず、荒野で死んだのです。
このモーセの生涯は神と民との狭間に立ち、苦労の多い歩みでありました。神の御声を聴き、それを民に伝える使命を負っていました。それは耳障りのよいものというよりは、むしろ神の厳しい裁きの言葉を民に告げなければならない時の方が多かったといえましょう。また時には、民の側に立って自分の存在をかけて神に憐れみとゆるしを執り成し、嘆願することもありました。それにも拘わらず、民の理解を得られずにいわれのない誹謗中傷を受けることもあったのです。まさにモーセの荒野での40年は苦難や苦悩の連続であったといえます。彼はカナンの地に一度も足を踏み入れることができずその生涯は幕を閉じたのです。

①「あなたは代々にわたしたちの宿るところ」
本日の15節に「あなたがわたしたちを苦しめた日々と苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください」と、強く主に訴えている言葉があります。
「あなたがわたしを苦しめた、苦難に遭わせた」というのは、一見すると不満や怒りを顕わしているようにも思えます。また「喜びを返してください」というのも、その責任を問うような感じがします。
それはたとえば詩編22編にも「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という一節がございます。これは、私どもが救いの主とあがめるイエス・キリストが、十字架上において苦しみの極みに絶叫された言葉でもあります
しかしこれらの神に訴えかける叫びは、決して神に対する不信や恨みを示したものではありません。それは、如何に絶望的な極みにおかれようとも、すべてのことを御手のうちに治めておられる生ける主がおられる。そのギリギリのところにおいても、「主よ」と叫び、訴えることができる、ゆるされている。その主への信頼のもとに訴え得る魂の叫びを記述しているのです。
私どもも、時として「どうしてこんなに苦しまなければならないのか」「なぜこんなに苦難ばかり続くのか」と、思うことがあるのではないでしょうか。
そのような時、この詩編のように「主よ、いつまで捨ておかれるのですか」と、その苦悩や苦難を嘆き、訴える私どもです。しかしながら、そこで訴えることができるお方がいるかいないかでは大違いです。1節に「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と謳われておりますが。それは主なる神が、私どもの人生のすべてを知り、その運命を司られ、その御手のうちに私どもは生かされている、ということであります。そして何よりも、イエス・キリストはこの世のすべての苦悩、不合理や理解し難い苦難と死を身に負って、罪の贖いを果たされた、と信じ、そこに望みをつなぐことがゆるされています。

②「絶望か救いか」
さて、この90編は私たち人間の存在について深い洞察を与えてくれます。
私どもはどんなに丈夫な人であっても、健康であったとしても、やがては老い、死にゆく有限的な者であります。6節に「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れていきます」とあるように、人は草花のように人生において美しい花を咲かせても、移ろいゆく者であり、やがては枯れゆくに過ぎない存在だというのです。そのように読みますと、人間の存在や人生ってほんとうに空しく、はかないように思えます。
また10節には、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません」とあります。まあ現代の世界の最たる長寿国である日本では人生の平均的年月はさらに10年以上伸びているようですが。
けれども3節では次のように謳われています。「あなたは人(正確には人間・エノシュ)を塵に返し、『人(アダム)の子よ、帰れ』と仰せになります。」実はこの3節の御言葉があるかないかで、この詩編90編は「絶望か救いか」が決まるのです。
なぜなら、ここで人間を塵に返すのは神さまであり、「人の子よ、帰れ」とおっしゃるのも神さまであられるのですね。言うならば、人の生も死も実に神さまが与えられたものであり、そして何よりも心に留めたいのは、人は造り主のみもとにやがて「帰る」存在だということであります。「人間が塵に返る」ことは、確かに肉体が朽ち果てる死を表すものですが、それはまた、朽ち果てる(砕かれる)ことを通して「人の子よ、帰れ」と言ってくださるお方のもとへ行くことができる、ということであります。 ここで大切なことは、人の生と死は神さまが与えられたものであるということです。そして、人の究極のゴールは死ではないということです。死がゴールだとしたらそれは絶望でしかありません。すべての人は神から造られ、又御もとに帰ってゆく存在なのです。

7節を見てみましょう。「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」
すべての人の業を神はご存じであり、人はみなその人生の歩みを問われる日が必ずやってまいります。
12節には、「生涯の日を正しく数えるように教えてください」と謳われています。
これは先ほど言いましたように、私ども人間はもろく、弱い存在でありますが。それだからこそ、そこで何を基とし、何に聴いてゆくかということが本当に大事であります。
私どもが、すべての命の源であられる主なる神さまに日々立ち返って生きるところに、まさに永遠の神さまが私どもの住まいとなっていてくださるのであります。そのように神の御前で生きる者とされるために、私どもクリスチャンは罪のゆるしを得させるキリストの救いのバプテスマに与った者です。私ども一人ひとりが本当に、生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ることができますよう、祈り求めてまいりたいと願います。そのことがきっと、先に天に召された信仰の先達の遺志を受け継ぐことになると、そう信じております。

最後に16節、17節を読んで終わります。「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びが、あたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものとしてください。」
私どもはもろく、弱い存在でありますが、しかしその土くれのような器が主イエスの救いの御業によって聖よめられて、真に価値ある器とされたのです。私どもはもはや虚しい生涯を送るのではなく、神の作品として生きる、変わりゆくことのない主とその栄光を指し示して生きるように新しく創られた人であるのです。そこに「主よ、あなたは永遠にわたしたちの住まいであられる」との希望があるのです。
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