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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

生きる時間

2012-09-23 11:53:10 | メッセージ
宣教 列王記下20章1-11節  

先週は関西地方連合の信徒大会が行われました。講演では震災と原発事故の被災地である福島県の郡山コスモス通り教会の鈴木牧師を通して、御言葉を聴き、又、震災と原発事故の現地報告、教会の被災者支援の活動、仮設住宅での暮らしを余儀なくされている方々の近況が報告されました。放射能汚染被害の重大さと、今にも再び起こり得る可能性のある原発事故の恐ろしさを突きつけられた思いでした。このような結果と不安を招き起こしたのは、人間のおごり、無関心と無責任の罪のゆえであり、今悔い改めなければ、さらに深刻な状況になることもあり得ると本当に考えさせられました。被災者の方々、又被災者でありながらも支援活動されている方々、そして教会のお働きのために祈り、私たちにできる小さな支援を続けてまいりたいと思います

①「祈りの力」
今日のこの箇所は南ユダの王であったヒゼキヤに関するエピソードであります。参考記事として、歴代誌下32章、又イザヤ書38~39章がありますので、読み比べてみるのもよいかと思います。
ヒゼキヤは多くの悪王の中にあって、主を畏れ敬う善王でありました。しかしその彼が大病に罹ってしまうのです。彼はこの時39歳であったと言われています。まだ年若く、忠実な王であり、祈りの人でした。その彼が大病になるのです。
その王のいる宮廷へ、王の顧問であり神の預言者でもあったイザヤが訪ねて来て主の言葉を伝えました。1節「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言しなさい』」。その言葉にヒゼキヤはどれほど衝撃を受け、驚いた事でしょう。2節「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください』。こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」といいます。
彼は全身全霊をこめてただ神に祈ります。一国の王でありながらも、一人の限りある人間としての姿をさらけ出して神に祈るのです。
すると、イザヤを通して主なる神さまはヒゼキヤにお語りになられます。
5節「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。」わたしはあなたの寿命を15年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く」。
ヒゼキヤは自分の手に負えない事に直面するたびに、神に依り頼み、祈りました。ここのところでもヒゼキヤの真心を込め一途に捧げる祈りに、主は即答してくださいます。否、いつも、いつも主を頼みとし、主に訴え続けて国を守り治めるという大変な務めを誠実に果たしてきたからこそ、主は直ちにその祈りと涙に応えて下さったのではないでしょうか。
ここを読む時、「祈りの力」について学ぶことができます。どんなに厳しい状況におかれようとも、真心込めて主に訴える祈りを主はしっかりと聞いていてくださり、その涙を見、その想いを知っていてくださる。祈りを捧げる時、私どもはこの主がご聖霊をとおして生きて働いておられることを知ることができます。私どもにとって何よりも大きな力は、このヒゼキヤのごとく、己の無力さ、弱さを知る時にこそ、その祈りに耳を傾け、その涙と呻きを聞き、力と計画を与えて下さる生ける主が共におられるということであります。
そのところに真の平安と希望があることを知っているということです。

②「いやしと新生」
さて、そのヒゼキヤですが。イザヤの「干しいちじくを取って来るように」との指示に従い、それを患部に当てると、回復したとあります。今も干しいちじくが売られていたり、生いちじくも勿論おいしいですが。いちじくは聖書の一番最初に出て来る植物名で、アダムとエバがその大きな葉で腰巻を作ったとされ、実に70回以上も記されており、古来よりその膏薬は医術に用いられていました。
患部が回復したヒゼキヤは、そこで主が「三日目に神殿に上れるだろうと」約束されたことについてイザヤに尋ねます。「わたしが三日目に主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか」。この「神殿に上る」というのは、神のいやしの業に感謝をささげるためでありました。神殿に上れるようになるためには体力が回復していないと無理でしたが、もう一つ重要なことがありました。それは彼が完全に主にいやされたことを確信することでした。ヒゼキヤは神にいやされたことを確認したかったのです。
するとイザヤは答えます。「ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって主は約束なさったことを実現されることが分かります。日時計の影が十度進むか、十度戻るかです」。何とも不思議なことをイザヤは言います。
それに対しヒゼキヤは答えます。「日時計の影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ影を十度後戻りさせてください」。彼は神のいやしを確信するために「日時計の影を十度後戻りさせてください」と願うのです。まあ一日も早く体調がよくなるために日時計の影を先に進めたいと望んでもよさそうですが。しかしヒゼキヤはそれとは逆のことを言います。なぜでしょうか。
その真意についてはイザヤ書38章17節のところにこう書かれています。これは死の病がいやされて命を得たヒゼキヤの神への感謝と賛美の歌の中の一節ですが。お読みします。
「見よ、わたしの受けた苦痛は平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて、あなたの後ろに投げ捨ててくださった」。
死を目前にするような大病に罹った時、人は自らの人生と共に、神の御前におけるいかんともし難い罪の問題に直面するものではないでしょうか。この「あなたはわたしの罪をすべて、あなたの後ろに投げ捨ててくださった」というヒゼキヤの言葉から分かりますように、ヒゼキヤは日時計の影を十度後戻りして戴くことによって、「主が自分の罪すべてを、その後ろに投げ捨ててくださった」。すなわち罪の赦しを得させて下さったと告白したのです。ヒゼキヤは身体のいやしだけでなく、罪の赦し、つまり主との交わり、霊的回復を得て、新生させられるのです。
このヒゼキヤの賛歌は、私どもが大事にしている主の晩餐の精神とも相通じます。主の晩餐において、私どもは主イエスの十字架のみ業を思い起こし、その信仰の原点にもう一度引きもどされ、悔い改めを戴き、新生の恵みを感謝をもって確認させて戴くのです。
まさに主イエスは十字架において「私どもの罪すべてを、その後ろに投げ捨ててくださった」。そのことを心に留めて生きる時、いつも新しく生き直すことが与えられている恵みを再確認するのです。

③「生きる時間」
本日の聖書は、主がヒゼキヤの大病をいやし、その魂に恵みを注がれて、新生させられたことにつきるといえますが。しかしそれだけでは終わっていないのです。
聖書はその主の恵みによって死の病から回復され、新生した後に与えられた15年という時間をヒゼキヤは如何に生きたかということをも赤裸々に伝えているのです。
回復の後、彼は見舞いに来たバビロンの国の使者たちにユダの国が所有してある金、銀、香料、上等の油など宝物庫のすべて、武器庫、また、倉庫にある一切のものを見せました。 このような時代において国が大国にその豊かさと軍事力を開示するというのはとても危険なことでした。にも拘らずヒゼキヤは如何に自分に力があるかを誇示するために、それを全部見せて廻ったんですね。同様の記事が記された歴代誌下32章には、バビロンがこのユダの地に起こった奇跡(ユダの小さな国がアッシリアと言う大国の攻撃から守られたことや死の病に罹ったヒゼキヤが回復した出来事)について使節団を送って調べさせた時、「神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすため彼を捨て置かれた」とあります。そしてヒゼキヤは主ではなく、己とその力を誇示してしまうのです。
そのことによって主は、「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」と言われました。そして後の時代にその主の言葉は現実のものとなってゆきます。また、ヒゼキヤの後継として息子のマナセが王位を継承しますが、主を畏れることなく主の御目に悪とされることを行います。南ユダ国内は再びアハブ王の時代のように偶像崇拝が栄え、主なる神への背信が進んでいき、やがてユダの国は滅んでしまうのであります。

死の病が主のいやしによって回復され、新生の恵みを受けたヒゼキヤでありましたが。彼のその後のあゆみは、真に残念という他ないものでした。彼がそこで、主の救いの恵みを忘れず、謙虚にすべての栄光を主にお返して生きたなら、己の力を誇示して滅びを招くことはなかったはずです。また、与えられた15年の時間、子どもらに「主を畏れ敬う」という信仰のバトンを渡していたなら、どうでしょうか。このようなユダの結末を避けることができたのではないでしょうか。

信仰を持っているクリスチャンで、ヒゼキヤのように死の病がいやされたという経験を持つ人もおられましょう。また、今まさに病を抱えて祈りと信仰の戦いの最中にある方もいらっしゃいます。一日も早い癒しの回復が与えられますようにと、お祈りいたします。
すべての人は健やかに、そしていつまでも元気で生活していたいと望みます。けれども、すべての人には寿命があり、必ずこの人生を終える時が来ます。如何に強い人、健康な人であっても、財産を所有した人でも、地位や名声を博した人も、どのような人も死に勝つことはできません。死はだれにも平等にやって来るのであります。ヒゼキヤは死の宣告を受けた時、人の生も死も統べ治めておられる生ける主と向き合い、涙を流して祈りました。 
人はいのちの源であるお方を知っているか、知らないかでは、その人生、そしてその終りは大きく違ってきます。「主のみ業を信じ、主を受け入れる」。それこそ、人をほんとうに生かす力なのです。主は生涯において信じる者を豊かに恵み、祝してくださいます。その人の人生を豊かなものとし、確かな道をあゆませてくださる。それこそが大事なのです。
私ども主を信じて生きるクリスチャンは、救い主イエスさまによって新しい命に生きる時間を与えられました。この救いの恵みに喜びと賛美と献身をもって応えて行く時、私どもは生きている、生かされている真の意義を見出すことができるでしょう。

今日私どもは、「祈りの力」について、又「いやしと新生」についての御言葉を戴きました。これらの主が与えて下さった恵みを豊かに受け、又主の恵みの御業がさらに拡がりゆくことに期待をし、進んでまいりましょう。
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