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神を畏れて生きる

2012-09-09 21:22:30 | メッセージ
宣教 列王記上21章1~24節 

本日は列王記上21章に記されています「ナボトのぶどう畑」の物語から、「神を畏れて生きる」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
この物語には4人の登場人物が出て参ります。農夫のナボト。彼はイズレエルの地におけるぶどう畑の所有者でありました。それから北イスラエルの王であったアハズ。その妻のイゼベル。そして預言者エリヤであります。
アハズ王はイスラエル人であり当然主の掟である律法を知っていました。しかしアハズの妻イゼベルはシドンの国王の娘であったのでイスラエルの神とその掟を知りませんでした。それどころか異教の神バアルを崇拝し、アシュラ像をイスラエルに建て、偶像崇拝を持ち込んだのです。イスラエルの救いと導き、そしてその教えを知らないイゼベルには主なる神への畏れなど毛頭なかったのでした。それは又、イスラエルの人々にまで偶像を崇拝させ、真の神の愛から引き離すような力として働いた、ということは先々週もお話したとおりであります。

①「ナボトのぶどう畑を巡る問題」
さて、アハズ王はサマリヤを夏の都にしていましたが、冬の宮廷をイズレエルに持っていたと言われています。そこでイズレエルに住むナボトのぶどう畑に王は目をつけます。王はナボトに、「お前のぶどう畑を譲ってくれ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」と話を持ちかけます。それに対してナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と答えます。
嗣業の土地とは、神の約束として与えられた地であり、神から代々に亘って守り治めるように託された土地のことであります。
神の律法には「嗣業の土地を売り渡すことはできない」と定められていました。それゆえナボトはたとえ王であろうと嗣業の土地を引き渡すことはできないと、はっきりと断るのです。アハブ王はそのナボトの「言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった」と記されてあります。まあ駄々子のようですが、ここには王ですら神の戒めである律法に従わなければならない、ということが示されています。

②「神の律法を知らなかったイゼベル」
ところが、事態は王女イゼベルの介入によって一変いたします。アハブ王から事情を聴いたその妻イゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と王に言います。イゼベルの郷里シドンでは王の権威は絶対的でしたので、彼女はこの事態に大変憤慨したのでしょう。彼女にしてみればイスラエルの律法など固苦しい決まりに過ぎず、自分には関係のないことでした。ですから、「ナボトからぶどう畑を取り上げること」に対して何の抵抗もなかったのです。神ならざる偶像をすら拝し、物質的繁栄を追い求めていくような国で育ったイゼベルでした。彼女にはすべてを治めたもう生ける神への畏れの念などありません。彼女は王の権力を笠に着て、無実のナボトを罪に陥れ、抹殺して、そのぶどう畑を奪い取るという恐ろしい策略を立て、実行したのです。アハズ王は全面には出てきませんが、しかし彼はイゼベルの策略を後方から支持したという点において、罪を免れ得るものではありません。そうしてアハブはイゼベルによって、自ら直接関与することなくナボトのぶどう畑を手にします。イゼベルもまたアハブに借りを作り、彼の心を手中にしていくのです。
生ける神を知ろうとしない、神を畏れて生きることを学ぼうとしない、というのは本当に恐ろしいことであります。目に見えるものだけを信じ、偶像とし、その欲望は留まることを知りません。

③「罪は裁かれる」
さて、ここでいよいよ預言者エリヤが登場します。
「ナボトが死んだとの知らせを聞いたアハブ王は直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下っていきます。その時、主はエリヤに臨み、アハブ王に主の裁きを告げよ、と命じます。エリヤは主の言葉どおりアハブに、「あなたは人を殺したうえに、その所有物を自分のものにしようとするのか」「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」と、告げるのです。

主はすべてをご存じでした。アハブはイスラエルの主を知り、律法の何たるかを知らされていながら、20節にあるように「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」。そのことが厳しく裁かれます。イゼベルにそそのかされたといえばそうかも知れませんが。彼は主の目に悪とされるその恐ろしい策略が実行されることを知っていながら、それに身をゆだねたのであります。そのことについて主は非常に厳しい裁きでもって臨まれます。なぜならそれはアハブ王のみならず、一国の王の命によってイスラエルの人々はこぞって「偽証」に加担し、罪を犯すことになったからです。律法では偽りの証言をして冤罪を作り出すことに対して、厳格に戒め、それを禁じています。イスラエルの人々も又、それを知っていながら、「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねてしまった」と言えるでしょう。その罪は大変重いということであります。

④「神を畏れて生きる」
最後にイスラエルの主の掟を知っていたもう一人の人ナボトについて見ていきましょう。
彼のぶどう畑の土地は、先祖から引き継がれたものでありました。そこには彼の先祖たちの眠るお墓があったかも知れません。けれどもそれ以前に、神から約束の地として代々に亘って守り、治めるよう託された土地であったのです。
彼はアハズ王に対して「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」ときっぱりと断りました。
たとえ相手が王であろうとも売り渡すことはできない、ダメなものはダメ。ナボトの信仰はほんとうに骨太なものでした。

しかし、「主にかけてわたしにはできません」と断ったために、彼は嗣業の地だけでなく、自分の命までも失ってしまうのです。その主への信仰の態度はあまりにアハブ王とは対照的です。このナボトの最期は、人の目、又この世的に見れば実に悲惨極まりないものであったといえましょう。彼は神に対して忠実に生きようとしたのに、「イスラエルの王を呪った」という根も葉もない偽証により濡れ衣を着せられ、石で打ち殺されたうえ、嗣業の地まで奪われたのですから。彼は明らかに無実であり、冤罪でした。ナボトがもし、神でなく王を恐れて、「わたしの土地を譲りましょう」と言っていたのなら、彼は平穏無事で、その生活も補償されていたのです。けれどもナボトはそのような生き方になびかず、唯主なる神をこそ主としていったのです。
 王の権力に屈することなく、主の掟に忠実に生きたナボト。神の掟に従い、生きようとするとき、世の力との戦いが生じます。それは時に孤独な戦いです。ナボトはならず者らから不当に訴えられた時、誰からも擁護や弁護もされず、石で打ち殺されたのであります。 
それは、無実のイエス・キリストが十字架につけられて殺された、そのこととも重なります。イエス・キリストはユダヤ社会にあって弱い立場におかれていた人々、差別や偏見を受け苦しんでいた人々、罪人とよばれていた人々、外国人や病人の人々と、日夜出会われ、いやしと解放を携え、神の国を宣べ伝えられました。   
しかしそのことが、いわゆる自分たちこそ正当派だと主張するユダヤ人たちから恨みと妬みを買い、イエスは神を冒涜したという偽りの証言によって不当にも裁きの座に引き出されました。そしてユダヤ民衆までもがこぞって「イエスを十字架につけろ」と叫び出し、遂にイエスさまは十字架につけられて無残な最期を遂げられたのです。しかししれは人の罪が露わになり、神の義と愛、そして御救いが成し遂げられるためでした。そのイエスさまは三日目に復活された、と聖書は語り告げます。
ナボトは神の律法に忠実に生きましたが。私どもにとりましてこの神の律法とは何でしょうか。それはまさにイエス・キリストであります。神を愛し、隣人を自分のように愛することを示されたお方。そのご生涯は律法の真髄を全うするものでありました。私たちキリストを信じて生きる者は、この地上において主イエスが如何に歩まれたかを御言葉から聴きとっていくことこそ、私たちにとっての神の律法であります。今日のように問題が複雑化し、多岐に亘る悩み多き世にあって様々な障壁にぶちあたり、どうしたものかと行き詰るようなことが起こりますが。
そのような時も、イエスさまなら何とおっしゃるだろう、イエスさまならどうなさっただろう、と祈り、御心を尋ねていくことが大事であります。そういった霊想と御言葉と祈りを基に据えていくなら、必ず様々な問題や難題に対処していく知恵と術を得ることができるでしょう。それはまず、箴言1章7節「主を畏れることは知恵の初め」。「神を畏れて生きる」。この御言葉に聴いて生きることから始まります。

⑤「今日的な嗣業の地;教会」
最後になりますが、本日のこの物語の中で「ナボトが最後まで主にあって嗣業の土地を売り渡すことはできないとアハブ王に断った」という場面から、私はある事件のことが思い起こされました。
この事件というのは、去る5月27日の聖日(ペンテコステ)、神奈川県にある某カトリック教会の敷地内にK警察署の署員6名が同教会管理者である主任司祭の制止を無視して教会内に立ち入り、外国籍のカトリック信徒に職務質問を行い、旅券不携帯並びに常時携帯提示義務違反の罪により同人を現行犯逮捕したのです。その際、主任司祭が宗教活動の自由、信教の自由の観点より教会敷地内から立ち退くよう求めたにも拘わらず、警察署員はその制止を無視し、立入行意を継続、職務質問を威圧的にかけ続けました。またその行為に対して抗議した者らも、威圧的な態度で詰め寄られたというのです。
その事件を受けて、カトリックのY司教区と当該教会はK警察署に申し入れ書を提出しました。その内容は次の3点です。①今回の違法な立入行意に強く抗議し、謝罪を要求する。②今後、教会敷地内へ違法な立入及び職務質問を実施して、信教の自由という基本的人権を侵害することがないよう、強く要請する。③今後、教会施設付近において、教会に訪れる人を対象として、非正規滞在を目的とした職務質問は控えるよう要請する。
その後、K警察署長より、その立入行意が「不適切であったと認識」する旨の回答書が出され、警察庁長官も大司教宛に、「警察庁としまして、今後とも信教の自由をはじめとした憲法で保障された基本的人権を尊重した警察活動を全国警察に対して徹底してまいりたいと考えております」との回答があったということです。

教会は心から主を礼拝し、そこに魂の憩いと平安を求めて来ている者には如何なる区別も差別もなく門戸が開かれている聖なる場所です。私たちは、イエス・キリストが世において偏見や差別を受けている人をも招かれ、食卓を共にされた事。イエス・キリストが神の救いを分け隔てせずもたらされたお方であることを知らされました。誰もが神に受け入れられ、共に礼拝に与ることがゆるされ、牧会されるべき場所。それが教会であります。そこにイエスさまが自らお示しになられた神の国とその交わりの場が与えられていると信じます。 
本日は「神を畏れて生きる」というメッセージを聴きました。それは「神を神とし、その言葉に生きる」という事です。それは又、「隣人を自分のように愛し抜かれたイエスさまに倣って生きる」という事です。コヘレト9章10節の言葉をお読みして宣教を閉じます。
「神を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」
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