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試みの中で共におられる主

2013-01-06 20:35:01 | メッセージ
新年宣教 「試みの中で共におられる主」 マタイ4章1~11節

今日は2013年最初の主日礼拝となります。

イエスさまは「神の国」(天の国)を宣べ伝える働きを開始するにあたり、「霊に導かれて荒れ野へ行かれた」と記されています。興味深いことに、イエスさまを荒れ野に導いたのは悪魔(サタン)ではなく、「霊」であったのです。この霊とはご聖霊であり、神さまご自身でありました。
申命記8章を見ますと、イスラエルの民が同様に主のご意志によって荒れ野に導かれた記述が出てまいります。少し長いですが読んでみます。
「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
そこには「主が導かれたこの40年の荒れ野の旅」とあります。神の導きによって出エジプトした民は葦の海を渡り荒れ野に着きました。その荒れ野の40年において、彼らは神の民とされるべく主から試みを受けたのです。
しかし民は主に不平不満をぶつけ、偶像礼拝を行い、罪を繰り返しました。それにも拘らず主は、その罪深い民に天からのマナを降らせて与え、彼らの旅路に先立って進み、昼は雲の柱をもって照らし、夜は火の柱をもって彼らを照らし、民は昼も夜も行進することができました。(出エジプト13:21以降)そのように彼らは神の民とされるための試みを荒れ野で受けたのです。
 
本日のイエスさまが試みに会われるために着いた荒れ野もまた、主の導きのもと、御手のうちにおかれている事柄であったのです。そしてイエスさまは、「神の子」であるため、すなわち神のご意志にのみ従って生きるための試みを受けられたのであります。
最初の試みは、試みる者(サタン)がイエスさまに石でパンを作れというもの、「物質的な試み」でありました。
この問題は極めて日常的なことと関わっています。パンは象徴的なもので、地上で生活するためのすべての必要物を表しています。それはまた、人が生きるための肉的な糧ということができましょう。
ここでサタンはパンを「神に求めよ」とは言っておりませんで、「イエス自身の力」で石に命じて変えてみせろ、と言うのです。それは、神に願い求めることなく、神の子であるなら「あなた自身の力でそれがなせるだろう」という挑発です。
それに対してイエスさまは答えて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、先程の申命記8章の御言葉をもってお答えになられたのです。
イエスさまだって空腹であられたに違いありません。けれどもイエスさまは「神の御言葉への信頼を糧として生きるということ」をお示しになられたのです。神の子であられるイエスさまは、「神」を信じ、「神」の栄光のために、「神」の言葉に従われます。

パンの問題は私たちにとってもリアルに日常的な事柄であります。
私どもは「人はパンだけで生きるものではない」と思いながらも、その一方で生身の人間であるがゆえに、「人が、パンなしで生きられない」現実を知っています。
しかし重要なのは、「神さまの祝福なしには、すべて物質的なもの、パンも、パンによって支えられる身体も虚しいものである」ということです。
神の口から出るその時々における、一つひとつの言葉。この霊の糧によって人はその魂が健やかに、平安に、いのちを得て生きることができるのです。その霊的な糧が欠乏した社会がいくら物質的に豊かであっても、実に貧弱で乏しい世界といえるのではないでしょうか。どんなに多くの物を持って満ち足りているように見えても、魂の飢え渇いている人々が世の中に沢山いるのではないでしょうか。主は今日も私たちに霊的命の糧、天からのマナをあらゆる人たちと分ち合うようにと、願っておられます。

サタンの次なる誘惑は、「イエスさまが神殿の屋根の上から飛び降りて、神が救いにくるかどうかを試してみたらどうか」という挑戦的なものでした。
この試みはまさに「神を試す」という高慢の罪へといざなう誘惑であります。サタンは実に巧妙に誘ってきます。それは旧約聖書の詩編91編の御言葉です。「主の使いがあなたの足が石に当らぬように守ってくださる」と書いてあるじゃないかと言うんですね。実にこのような御言葉を使ってうまく誘惑しようとするのですね。
使徒パウロがⅡコリント11章14節で、「サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません」と述べているように、サタンは如何にも信仰的に思える表現で巧みに誘惑してきます。
「あなたが神の子であるのなら、、、そのしるしを見せて欲しい」と。

イエスさまはサタンに答えます。「あなたの神である主を試みてはならない」。
イエスさまは神に信頼し最後まで従い続けていくことで、神の子の姿をお示しになられました。イエスさまは十字架刑に引き渡されていく最期の場面で、いろんな人たちから「あなたは神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう」(マタイ27:40f)などと罵声を浴びせられていくのであります。しかし、イエスさまは神の子として「目にみえるしるし」によらず、神に信頼し、従い続けていく道を最期まで貫かれたのであります。その神への信頼によってもたらされた尊い救いのご計画が、今私たち信じるすべての者の救いとなって実現しているのであります。この主イエスのお姿に倣いつつ、「神」の御心を求め、「神」に信頼してまいりたいと願います。

最後のサタンの誘惑は、「サタンがイエスさまを非常に高い所に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」というものであります。これは「神の国」に関する問題であります。

私たちの世界において国々が繁栄することや文明社会や経済産業が栄え豊かになることのみを追求し、その繁栄や富を極一部の人たちだけが独占所有している一方、極度の貧しい人たち、その日の糧に事欠くような人たちがどれだけいることでしょうか。拝金主義という偶像がのさばりあるき、貧富の差は益々拡大するばかりです。そういう繁栄とは一体何でありましょうか。サタンは人の欲望、願望を巧みに利用し、神の国の実現を妨げようとするのであります。

サタンはイエスさまに、わたしを拝めば世のすべての国々と繁栄をあなたにあげよう」といって誘います。それはイエスさまに、「十字架の道を経ずに、この世の栄誉と支配を得させよう」との誘惑であり、又「神でないものを神とする」偶像礼拝の罪を犯させようとするものです。かつてイスラエルの民は、シナイ山の下で金の子牛を拝み、偶像礼拝をもって神に背反しましたが。もしここでイエスさまが、誘惑にのり権力者となって莫大な富を蓄えたとしたなら、それは素晴らしい政治、素晴らしい統治がなされ、一時はよい時代が訪れたかもしれません。が、しかし神の国の到来という全世界に及ぶ霊的変革は、永遠に失われてしまう事になったでしょう。
イエスさまはそのサタンの魂胆を見抜いて言われました。
「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」そのように誘惑を退けられたのです。イエスさまは真の神の子として生きる道を選び取られました。それは唯、「神のみを神として拝し、自分の腹にではなく神のご意志に仕える」ことを通して、「神の国」を勝ち取って下さったのです。
私たちもまた、唯御神を拝し、心から神に仕え、「神の国」の拡大のために用いられるひとり一人、又教会となっていけるよう本年も共に努めてまいりましょう。

最後に、本日のイエスさまが荒れ野で試みに遭われた場面ですが。
その2節に「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。ここを読む時に何か40日という断食の期間の最中に誘惑が来たのかと思ってしまいますが、実はそうではないのです。よく読むと、イエスさまが試みに遭われたのは40日という断食中でなく、ある意味断食という一つの目的を果たした後に、空腹を覚えられた、その時に誘惑を受けられたということですね。
誘惑というのは、信仰をもって主に向き合い、祈りの戦いをもっている最中にはやって来ないものです。実はそういうものを経た後にやって来るのです。やり遂げたという達成感と身体的疲労で気が緩みやすくなった時。このような時に神の御心から引き離そうとさせる誘惑、又高慢にさせようとする誘惑、さらに神の国の実現を台無しにさせようとする誘惑がやってくるのです。そこから逃れる道を今日主は私たちに示して下さいました。

私たちは世にあって悩みや苦しみが尽きません、様々な誘惑や試みを経験いたします。
けれども、主イエスもまた、それらの私たちが経験する誘惑や試みをお受けになり、十字架における勝利の道を打ち拓いて下さったのです。そのことを覚え、「試みの中にも、主が共におられる」という確信をもって、この1年、主の豊かなみ業に期待し、共々にあゆんでまいりましょう。
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