礼拝宣教 マタイ5:13~16
本日の宣教はマタイ福音書5章の「山上の説教」としてよく知られている箇所であります。大勢の群衆の前で語られた印象が強いのですが、実はそうではなくイエスさまと共に山の上まで登り、近くに寄って来た弟子たちに向けて、イエスさまが御教えを説かれたのであります。
イエスさまは、神の前に幸いな人とはどのような人であるかを述べられた後、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、さらに「あなたがたは世の光である」と、言われました。この「地の塩」の地とは「地上」のことであり、弟子たちが遣わされるその所を指します。私たちにとってはこの大阪、そして住んでいる町ですね。「世の光」の世とは、この「世の中」のことであります。
イエスさまは、弟子たちがこの地上、そして世の中において、神の国の味わい深い出来事を、又真の希望をあかししていくように願われたのです。今日は、イエスさまが弟子たちに語られた御言葉を、私たちに向けられたメッセージとして聞いていきましょう。
まず、始めの「あなたがたは地の塩です」との御言葉でありますが。
塩はユダヤ、パレスチナ社会において塩は大変貴重なものであり、日常欠かすことのできないものです。昼夜の寒暖の差が激しく日中は大変な暑さです。今のように冷蔵庫などないわけですから、塩は食物を腐らせないためにも用いられていたそうです。また、旧約聖書には、ささげものに塩をふって献げるというような「塩の律法」が記されており、清めを表すものでありました。
私たちの身近な生活においても塩は欠かす事のできない命に係る大切なものです。人間の体内の血液にほんの僅かな塩分が含まれていることで、生命が保たれています。もしその塩分が必要量に満たなければ命の危険にさらされるということです。例えばハードな運動をするスポーツ選手やアスリートたちが、その競技中に塩をなめたり、塩分の入ったスポーツドリンクを携帯し、定期的に補給したりしています。皆さんも熱が出た時や暑さの厳しい時は気をつけて摂るようになさっていることでしょう。又、私どもの食生活を見渡しましても、いろんな料理がありますが、料理に塩気がなかったらほんとに味気なく、気抜けしたものになってしまいます。私はおぜんざいが大好きなんですが、甘いものって結構塩が入っています。塩気が甘味を引き出しているから、うまいんですよね。まあ、このように塩そのものは決して美味しいものとは言えませんが、ほんの僅か、微量を他の物に加えたり、含ませることで、命が守られたり、保たれたり、料理がきりっとインパクトのある仕上がりになったり、素材の本来持っているよいものを引き出したり、といった様々な働きや役割をなすもので、これは人間の営みに欠かせない存在、それが塩なのです。
この山上の説教で、イエスさまは「幸いなるかな、心の貧しい人々」から始まる御言葉を語られました。神に依らなければ霊的に満たされないことを知っている心の貧しい人々。神の慰めを知る人。神の平安、救いの義を得た人。神の憐れみを知り、御言葉による清めに生きる人。神の国の平和の実現に参与する人。神の義、福音のために困難や迫害をもいとわず努める人。そのような主の御目に幸いな人々。実はこのような人々こそ「地の塩」である、と宣言いたします。それはキリストの弟子であり、地上にあってほんの僅かの、一握りの「地の塩なる人びと」です。
イエスさまが、今日のところで「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」とおっしゃいましたが。塩の塩気がなくなったりするのだろうか、と思ったりもしますが。今日の精製された塩とは違い天然のものは時間の経過と共に不味く、使いものにならなくなったそうです。そうなると役に立たず、捨てられるだけでした。
現代の技術で化学添加物を使えば確かに塩味をつけることはできるでしょうが、それは本当の塩とは別物でしょう。本当に塩としての存在感、存在意義をもつキリストの弟子とはどのような者であるのか考えさせられます。
イエスさまは、弟子たちは「地の塩」だと語られました。私たちもまたイエスさまに救われ、イエスさまに従って生きるものとされました。その役割を果たしていくためには、塩気を失ってはならないのです。この地上にあって、神にどこまでも訴え求めていくハングリーな心と義への渇きを絶えず持ち、キリストの平和を追い求めて生きる、そこに主の弟子としての地の塩たる役割、働きがあります。どんなに小さき群れであっても、私たち一人ひとりであっても、地の塩クリスチャンとしての務めを、地道になし続けていきたいものです。
さて、イエスさまはまた、弟子たちに「あなたがたは世の光である」と言われました。
光、これも人が生き、生活していくうえで欠かすことのできないものであります。ここでは「ともし火」とあるように、それは暗いところ、闇路を明るく照らし出す光のことです。
都会では体験できませんが、ひとりで夜道を歩く時に街灯があると本当にホッとします。このイエスさまの時代も、電気など勿論ありませんでしたから、真っ暗な家の中で燭台
の上に照らし出されるともし火はどれだけ心に安らぎを得させるものであったでしょう。
たとえ小さなともし火であっても暗闇の中で最大の効力を発揮するものです。
イエスさまはここで、「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」と言われました。それは弟子たちに、「あなたの光は自分だけのために使うものではなく、暗い世を照らし出すために用いられるものである、と言っておられるのです。
けれども、「あなたの光を人々の前に照らし出せ」などと言われても困る、私は輝かしいものなど何も持っていない、と思われるかも知れません。
確かに、自分のうちに光を捜そうとするなら、引け目を感じることもありましょうし、ましてや輝かせるなどとプレッシャーを覚える方もいらっしゃるでしょう。当時の弟子たちの中にもそういう人がいた事でしょう。
その一方で、それとは真逆の人もいました。当時のユダヤ社会において、「自分たちこそ神に選ばれた清き者」と、排他的になりキリストの福音を退けた人たちです。かの使徒パウロもクリスチャンになる前迄はそういった人間でありました。彼は熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会とクリスチャンたちを激しく迫害していました。ところが、彼はシリアのダマスコ途上で主と出会い、回心するのであります。キリストの大きな愛の光に照らし出されたその時、彼はまさに「自分のうちには光がない」ことを思い知らされたのでした。そうです、自分の中に光をいくら探そうとしても見つけ出せるものではありません。いや、私は正しく間違ったことをしない、そんなに弱くはないと思っていても、いざ暗闇が襲って来た時、人の心の内にある自信や誇りはもろく崩れてしまうのであります。
しかし、そのように「自分の内には光がない」と打ち砕かれた心に真の光であられる主が臨み、その闇すべてを照らしてくださる。これが、イエス・キリストによる救いであるのです。
使徒パウロはこの救いの体験を、「土の器に納めた宝」にたとえました。自分は土くれからできたもろく、弱い土の器でしかないが、その中に神さまは救い主を送り、真の命の光となっておいでくださった、と彼はあかしするのです。私たちもまた土の器であります。しかしその中に神さまは命の光を宿して下さった。だから、主イエスはこう命じるのです。
「そのあなたの内に灯された光を人々の前に輝かせなさい。」
この光は私自身のものというより、弱く罪深い私に臨み、その存在すべてを照らし出す「真の光」。イエス・キリストであります。主イエスによって救われている人はだれでも、その人の内に暗闇を照らし出す光が与えられています。その「あなたに与えられた光を、人々の前に輝かせなさい」と、主はお命じになります。
先週の8日早朝、闘病中の愛する主にあるK姉が58年の地上のご生涯を終えられ天に召されました。私たち大阪教会と姉妹とは9年間のお交わりが与えられました。姉妹は本当に教会の祈祷会に出られては、兄弟姉妹をはじめ、ご家族ご親族、友人知人、仕事仲間のお名前をあげられて、それぞれのその救いのために、その抱えている課題のために、共に多くのお祈りをする機会が与えられたことでした。ほんとうにクリスチャンとして執り成しのお祈りを熱心になさっておられたことが、心に残っております。
そして、姉妹は毎週の礼拝の献金において、よくご家族ご親族の誕生記念やバプテスマ記念、入試合格感謝、入学卒業感謝、病の快復、仕事の感謝などなど、ほんとうに様々な出来事を覚えて数々のささげものをなさる方でした。これも姉妹の神さまとの親しいつながりをあかししていたといえるでしょう。
姉妹が13歳の時にバプテスマを受けられてから45年という信仰生活、私はその一部分、牧師として兄弟姉妹としてお交わりを戴きましたが、姉妹の地上での生活は、金太郎飴のように、どこをきってもイエスさまが出てくる、そのような「主のあかし」と「天に宝を積んでいく」生活であったといえます。地上における姉妹との出会い、お交わりを感謝します。また、やがて私たちが地上の生涯を終え、天の御国に帰って行く時、姉妹と再会できる日が来ることを信じ、楽しみにしています。
今日、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」と、宣言なさり、「あなたがたの光を人々に輝かせなさい」と、お命じになります。
神の御独り子を通して与えられた救いと永遠の命の光を、自分だけのもとに置いているのではなく、私たちのまだ救われていない家族、友人知人、地域や職場の人々を照らしていく光となるよう、それぞれのあり方でキリストの福音をかかげてまいりましょう。
地上における限られた人生です。だからこそ主をあかしする者、天に宝を積んでいく者となっていきましょう、「地の塩、世の光」として、ご一緒に主を讃美しつつ、進んでまいりましょう。
本日の宣教はマタイ福音書5章の「山上の説教」としてよく知られている箇所であります。大勢の群衆の前で語られた印象が強いのですが、実はそうではなくイエスさまと共に山の上まで登り、近くに寄って来た弟子たちに向けて、イエスさまが御教えを説かれたのであります。
イエスさまは、神の前に幸いな人とはどのような人であるかを述べられた後、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、さらに「あなたがたは世の光である」と、言われました。この「地の塩」の地とは「地上」のことであり、弟子たちが遣わされるその所を指します。私たちにとってはこの大阪、そして住んでいる町ですね。「世の光」の世とは、この「世の中」のことであります。
イエスさまは、弟子たちがこの地上、そして世の中において、神の国の味わい深い出来事を、又真の希望をあかししていくように願われたのです。今日は、イエスさまが弟子たちに語られた御言葉を、私たちに向けられたメッセージとして聞いていきましょう。
まず、始めの「あなたがたは地の塩です」との御言葉でありますが。
塩はユダヤ、パレスチナ社会において塩は大変貴重なものであり、日常欠かすことのできないものです。昼夜の寒暖の差が激しく日中は大変な暑さです。今のように冷蔵庫などないわけですから、塩は食物を腐らせないためにも用いられていたそうです。また、旧約聖書には、ささげものに塩をふって献げるというような「塩の律法」が記されており、清めを表すものでありました。
私たちの身近な生活においても塩は欠かす事のできない命に係る大切なものです。人間の体内の血液にほんの僅かな塩分が含まれていることで、生命が保たれています。もしその塩分が必要量に満たなければ命の危険にさらされるということです。例えばハードな運動をするスポーツ選手やアスリートたちが、その競技中に塩をなめたり、塩分の入ったスポーツドリンクを携帯し、定期的に補給したりしています。皆さんも熱が出た時や暑さの厳しい時は気をつけて摂るようになさっていることでしょう。又、私どもの食生活を見渡しましても、いろんな料理がありますが、料理に塩気がなかったらほんとに味気なく、気抜けしたものになってしまいます。私はおぜんざいが大好きなんですが、甘いものって結構塩が入っています。塩気が甘味を引き出しているから、うまいんですよね。まあ、このように塩そのものは決して美味しいものとは言えませんが、ほんの僅か、微量を他の物に加えたり、含ませることで、命が守られたり、保たれたり、料理がきりっとインパクトのある仕上がりになったり、素材の本来持っているよいものを引き出したり、といった様々な働きや役割をなすもので、これは人間の営みに欠かせない存在、それが塩なのです。
この山上の説教で、イエスさまは「幸いなるかな、心の貧しい人々」から始まる御言葉を語られました。神に依らなければ霊的に満たされないことを知っている心の貧しい人々。神の慰めを知る人。神の平安、救いの義を得た人。神の憐れみを知り、御言葉による清めに生きる人。神の国の平和の実現に参与する人。神の義、福音のために困難や迫害をもいとわず努める人。そのような主の御目に幸いな人々。実はこのような人々こそ「地の塩」である、と宣言いたします。それはキリストの弟子であり、地上にあってほんの僅かの、一握りの「地の塩なる人びと」です。
イエスさまが、今日のところで「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」とおっしゃいましたが。塩の塩気がなくなったりするのだろうか、と思ったりもしますが。今日の精製された塩とは違い天然のものは時間の経過と共に不味く、使いものにならなくなったそうです。そうなると役に立たず、捨てられるだけでした。
現代の技術で化学添加物を使えば確かに塩味をつけることはできるでしょうが、それは本当の塩とは別物でしょう。本当に塩としての存在感、存在意義をもつキリストの弟子とはどのような者であるのか考えさせられます。
イエスさまは、弟子たちは「地の塩」だと語られました。私たちもまたイエスさまに救われ、イエスさまに従って生きるものとされました。その役割を果たしていくためには、塩気を失ってはならないのです。この地上にあって、神にどこまでも訴え求めていくハングリーな心と義への渇きを絶えず持ち、キリストの平和を追い求めて生きる、そこに主の弟子としての地の塩たる役割、働きがあります。どんなに小さき群れであっても、私たち一人ひとりであっても、地の塩クリスチャンとしての務めを、地道になし続けていきたいものです。
さて、イエスさまはまた、弟子たちに「あなたがたは世の光である」と言われました。
光、これも人が生き、生活していくうえで欠かすことのできないものであります。ここでは「ともし火」とあるように、それは暗いところ、闇路を明るく照らし出す光のことです。
都会では体験できませんが、ひとりで夜道を歩く時に街灯があると本当にホッとします。このイエスさまの時代も、電気など勿論ありませんでしたから、真っ暗な家の中で燭台
の上に照らし出されるともし火はどれだけ心に安らぎを得させるものであったでしょう。
たとえ小さなともし火であっても暗闇の中で最大の効力を発揮するものです。
イエスさまはここで、「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」と言われました。それは弟子たちに、「あなたの光は自分だけのために使うものではなく、暗い世を照らし出すために用いられるものである、と言っておられるのです。
けれども、「あなたの光を人々の前に照らし出せ」などと言われても困る、私は輝かしいものなど何も持っていない、と思われるかも知れません。
確かに、自分のうちに光を捜そうとするなら、引け目を感じることもありましょうし、ましてや輝かせるなどとプレッシャーを覚える方もいらっしゃるでしょう。当時の弟子たちの中にもそういう人がいた事でしょう。
その一方で、それとは真逆の人もいました。当時のユダヤ社会において、「自分たちこそ神に選ばれた清き者」と、排他的になりキリストの福音を退けた人たちです。かの使徒パウロもクリスチャンになる前迄はそういった人間でありました。彼は熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会とクリスチャンたちを激しく迫害していました。ところが、彼はシリアのダマスコ途上で主と出会い、回心するのであります。キリストの大きな愛の光に照らし出されたその時、彼はまさに「自分のうちには光がない」ことを思い知らされたのでした。そうです、自分の中に光をいくら探そうとしても見つけ出せるものではありません。いや、私は正しく間違ったことをしない、そんなに弱くはないと思っていても、いざ暗闇が襲って来た時、人の心の内にある自信や誇りはもろく崩れてしまうのであります。
しかし、そのように「自分の内には光がない」と打ち砕かれた心に真の光であられる主が臨み、その闇すべてを照らしてくださる。これが、イエス・キリストによる救いであるのです。
使徒パウロはこの救いの体験を、「土の器に納めた宝」にたとえました。自分は土くれからできたもろく、弱い土の器でしかないが、その中に神さまは救い主を送り、真の命の光となっておいでくださった、と彼はあかしするのです。私たちもまた土の器であります。しかしその中に神さまは命の光を宿して下さった。だから、主イエスはこう命じるのです。
「そのあなたの内に灯された光を人々の前に輝かせなさい。」
この光は私自身のものというより、弱く罪深い私に臨み、その存在すべてを照らし出す「真の光」。イエス・キリストであります。主イエスによって救われている人はだれでも、その人の内に暗闇を照らし出す光が与えられています。その「あなたに与えられた光を、人々の前に輝かせなさい」と、主はお命じになります。
先週の8日早朝、闘病中の愛する主にあるK姉が58年の地上のご生涯を終えられ天に召されました。私たち大阪教会と姉妹とは9年間のお交わりが与えられました。姉妹は本当に教会の祈祷会に出られては、兄弟姉妹をはじめ、ご家族ご親族、友人知人、仕事仲間のお名前をあげられて、それぞれのその救いのために、その抱えている課題のために、共に多くのお祈りをする機会が与えられたことでした。ほんとうにクリスチャンとして執り成しのお祈りを熱心になさっておられたことが、心に残っております。
そして、姉妹は毎週の礼拝の献金において、よくご家族ご親族の誕生記念やバプテスマ記念、入試合格感謝、入学卒業感謝、病の快復、仕事の感謝などなど、ほんとうに様々な出来事を覚えて数々のささげものをなさる方でした。これも姉妹の神さまとの親しいつながりをあかししていたといえるでしょう。
姉妹が13歳の時にバプテスマを受けられてから45年という信仰生活、私はその一部分、牧師として兄弟姉妹としてお交わりを戴きましたが、姉妹の地上での生活は、金太郎飴のように、どこをきってもイエスさまが出てくる、そのような「主のあかし」と「天に宝を積んでいく」生活であったといえます。地上における姉妹との出会い、お交わりを感謝します。また、やがて私たちが地上の生涯を終え、天の御国に帰って行く時、姉妹と再会できる日が来ることを信じ、楽しみにしています。
今日、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」と、宣言なさり、「あなたがたの光を人々に輝かせなさい」と、お命じになります。
神の御独り子を通して与えられた救いと永遠の命の光を、自分だけのもとに置いているのではなく、私たちのまだ救われていない家族、友人知人、地域や職場の人々を照らしていく光となるよう、それぞれのあり方でキリストの福音をかかげてまいりましょう。
地上における限られた人生です。だからこそ主をあかしする者、天に宝を積んでいく者となっていきましょう、「地の塩、世の光」として、ご一緒に主を讃美しつつ、進んでまいりましょう。