元旦礼拝 ヘブライ11章1~3節
主の御名を讃美し、2013年新春を迎えられたことを心よりお喜び申しあげます。
人生には実に様々な事が起こってまいりますが、それでも主イエスの御救いに与っている者は、「信仰にある希望によって」世には与えられない喜びが与えられています。それはどんなに幸いなことでしょうか。
元旦礼拝に際してヘブライ11章1~3節の御言葉が与えられました。
その1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と述べられています。
この御言葉を2013年の聖句とさせていただき、併せて「祈り、支え合う教会」という年間テーマを掲げていきたいと願っております。
11章4節以降には、旧約時代、唯神の約束以外、何の保証も得られらなかったにも拘わらず、御心に信頼し従ったも多くの信仰の先達がいたことが丁寧に紹介されています。それらの人々は、神が将来に約束なさったことを、必ず実現して下さると確信し、その約束が既に今起こっていることとして行動したのでした。
彼らはそれぞれ神の約束が実現することを示す目に見える証拠を全く持っていませんでした。しかし神の約束だけを頼りにしながら、唯神に従い、生きたのであります。その信仰のゆえに彼らは神に称賛された、というのですね。
私たちもまた、その信仰の先達の姿に倣いつつあゆむように、との奨めであります。
かつてそれら旧約の時代に神の約束として示された大いなる御救いの業は、今やイエス・キリストによってすべての人に現わされました。主イエスを信じ、受け入れる人々が分け隔てなく御救いに与れる時が遂に訪れたのであります。
私たち主イエスの救いに与る者は、「信仰にある希望によって生きる」者とされたのです。
それはまた、永遠の命に至る道であることを私たちもまた、唯神の約束に信頼していくという「信仰の眼」によってそれを仰ぎ見、すでに始まっているその命の道をあゆんでいるのであります。
主にあって、望んでいる事、まだ手にしていないもの、将来の事柄は、信仰によって現実のもの、実質のものとなる。その体験へとすでに私たちは踏み出しているのです。
「信仰とは、見えない事実を確認することである」とありますように、私たちがまだそれを見ないうちから、それは主によって成っている事柄なのだと確信し、信頼する。それが信仰なのであります。
11章6節「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」信仰とは唯漠然と信じるじゃないんですね。それは盲信です。文字通り主を仰ぎ見つつ、信頼して生きる。これが信仰であります。では私たちは何に信頼をおいてあゆむことができるでしょう。それは神さまの愛と真実ではないでしょうか。その独り子、御子なるイエスさまを十字架に引き渡されてまで救いの約束を実現された父なる神さまの愛。また罪深きすべての人のために十字架にかけられつつ、執り成して下さった主イエスの愛。私たちはその愛のゆえに感謝と信頼をもってその信仰のあゆみを続けることが可能なのです。
私たちの世界は目に見えるものによる基準により、如何に効果があったか。結果が出たかどうかでその評価や価値がくだされますが。神さまの愛と恵みは、目に見える基準によってはじき出された人、排除された人にも等しく注がれているんですね。否むしろ聖書はそういう弱く、小さくされた人々とイエスさまは出会われ、神の国の福音を分かち合われたのです。
3月~11月まで私たちの教会は仮会堂住まいとなる予定であります。が、その与えられた10ヶ月の期間を、新会堂での新しい大阪教会のあゆみに備える時、この天王寺の地においてそのような計り知れない主の愛と恵みを、そのイエスさまの福音を伝え、分かち合うために、今後どのように導かれるのかを「祈り、支え合う」中で得ていきたいと願っております。
元旦は日本各地の神社に初詣に行く人たちも多いかと思います。私たちは、生ける神、救いの主イエス・キリスト、すべての人間の罪を贖い復活の命を与えてくださる主、世界をすべおさめたもう神さまを礼拝することが許されていることは、何よりありがたいことではないでしょうか。
皆さまお一人お一人、そしてご家族のうえに神さまからの祝福と平安が今年豊かに臨みますように、祈願申しあげます。
最後にコリントの信徒への手紙二、4章18節のみ言葉を奨励を閉じます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
主の御名を讃美し、2013年新春を迎えられたことを心よりお喜び申しあげます。
人生には実に様々な事が起こってまいりますが、それでも主イエスの御救いに与っている者は、「信仰にある希望によって」世には与えられない喜びが与えられています。それはどんなに幸いなことでしょうか。
元旦礼拝に際してヘブライ11章1~3節の御言葉が与えられました。
その1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と述べられています。
この御言葉を2013年の聖句とさせていただき、併せて「祈り、支え合う教会」という年間テーマを掲げていきたいと願っております。
11章4節以降には、旧約時代、唯神の約束以外、何の保証も得られらなかったにも拘わらず、御心に信頼し従ったも多くの信仰の先達がいたことが丁寧に紹介されています。それらの人々は、神が将来に約束なさったことを、必ず実現して下さると確信し、その約束が既に今起こっていることとして行動したのでした。
彼らはそれぞれ神の約束が実現することを示す目に見える証拠を全く持っていませんでした。しかし神の約束だけを頼りにしながら、唯神に従い、生きたのであります。その信仰のゆえに彼らは神に称賛された、というのですね。
私たちもまた、その信仰の先達の姿に倣いつつあゆむように、との奨めであります。
かつてそれら旧約の時代に神の約束として示された大いなる御救いの業は、今やイエス・キリストによってすべての人に現わされました。主イエスを信じ、受け入れる人々が分け隔てなく御救いに与れる時が遂に訪れたのであります。
私たち主イエスの救いに与る者は、「信仰にある希望によって生きる」者とされたのです。
それはまた、永遠の命に至る道であることを私たちもまた、唯神の約束に信頼していくという「信仰の眼」によってそれを仰ぎ見、すでに始まっているその命の道をあゆんでいるのであります。
主にあって、望んでいる事、まだ手にしていないもの、将来の事柄は、信仰によって現実のもの、実質のものとなる。その体験へとすでに私たちは踏み出しているのです。
「信仰とは、見えない事実を確認することである」とありますように、私たちがまだそれを見ないうちから、それは主によって成っている事柄なのだと確信し、信頼する。それが信仰なのであります。
11章6節「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」信仰とは唯漠然と信じるじゃないんですね。それは盲信です。文字通り主を仰ぎ見つつ、信頼して生きる。これが信仰であります。では私たちは何に信頼をおいてあゆむことができるでしょう。それは神さまの愛と真実ではないでしょうか。その独り子、御子なるイエスさまを十字架に引き渡されてまで救いの約束を実現された父なる神さまの愛。また罪深きすべての人のために十字架にかけられつつ、執り成して下さった主イエスの愛。私たちはその愛のゆえに感謝と信頼をもってその信仰のあゆみを続けることが可能なのです。
私たちの世界は目に見えるものによる基準により、如何に効果があったか。結果が出たかどうかでその評価や価値がくだされますが。神さまの愛と恵みは、目に見える基準によってはじき出された人、排除された人にも等しく注がれているんですね。否むしろ聖書はそういう弱く、小さくされた人々とイエスさまは出会われ、神の国の福音を分かち合われたのです。
3月~11月まで私たちの教会は仮会堂住まいとなる予定であります。が、その与えられた10ヶ月の期間を、新会堂での新しい大阪教会のあゆみに備える時、この天王寺の地においてそのような計り知れない主の愛と恵みを、そのイエスさまの福音を伝え、分かち合うために、今後どのように導かれるのかを「祈り、支え合う」中で得ていきたいと願っております。
元旦は日本各地の神社に初詣に行く人たちも多いかと思います。私たちは、生ける神、救いの主イエス・キリスト、すべての人間の罪を贖い復活の命を与えてくださる主、世界をすべおさめたもう神さまを礼拝することが許されていることは、何よりありがたいことではないでしょうか。
皆さまお一人お一人、そしてご家族のうえに神さまからの祝福と平安が今年豊かに臨みますように、祈願申しあげます。
最後にコリントの信徒への手紙二、4章18節のみ言葉を奨励を閉じます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。