礼拝宣教 マタイ6:5~15
先週はイエスさまが弟子たちに語られた山上の説教から「地の塩、世の光としての使命」と題し、御言葉を聞きましたが。今日もその山上においてイエスさまが弟子たちに「祈り」について教えられたものです。本日はその「主の祈り」から御言葉を聞いていきたいと思います。
まずこの6章には、「施し」「祈り」「断食」についての記述があります。これらは旧約時代のユダヤ教において律法として重視されてきたものでした。けれども、その律法の精神が失われ、単なる形式だけのものとなり、それを行うことが一種の徳目のように、又宗教者としてのステータスのようにもなっていたのです。一部のユダヤ教徒たちは、神にではなく人からの評価や称賛を得るため、又自らを誇るためにわざわざ人々の目につくように断食や施し、又祈りをしていたのです。イエスさまは、「彼らはすでに報いを受けている。むしろ人目につかないところで行なうことで、隠れたことを見ておられるあなたの父なる神が報いてくださる」と教えられます。天の神さまはいつも、私たちの行いと心をすべて見ておられるのです。
イエスさまは「祈り」について、他の「施し」や「断食」の教えに比べ大変詳しく丁寧に教えておられます。それだけ「祈ること」を大切にしておられたのです。
イエスさまは、「父なる神さまが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とおっしゃっていますが、この「必要」と訳された原語 Χρεία;クレイアは、単に必要ということだけでなく、欠乏や不足、さらに事情や状況、理由とも訳されるそうです。
それは「父なる神さまが、私たちの欠乏や不足しているもの、その事情や状況をもすべてご存じであられる」ということですね。祈りは、まず神さまが私たちの人生、又生活の最善と必要とをすべてご存じであり、私たちもその神さまへの信頼をもって祈りと願いとを捧げていくものであることをお示しになるのです。まさにこのことが「主の祈り」の大きな土台としてあるのですね。この大前提のもとで、「だから、こう祈りなさい」と、イエスさまは「主の祈り」を教えられているのです。
ここで、水野源三さんの「キリストのみ愛に触れたその時に」という詩をご紹介したいと思いますが。水野さんについてはすでにご存じの方もいらっしゃることでしょうが。
長野県に生まれる。9歳の時赤痢に罹りその高熱によって脳性麻痺を起こし、やがて目と耳の機能以外のすべてを失いました。話すことも書くことも出来なくなったけれども、母親が何とか彼と意思の疎通をしようと五十音順を指で指し示したところ、目の動きで応答できるようになられました。これが47歳で天に召されるまでの彼の唯一のコミュニケーション能力となるのです。「瞬きの詩人」と呼ばれるようになったのはそのゆえです。12歳の時母親がおいた聖書を読み、やがてクリスチャンとなるのです。18歳の時からは詩作を開始し多くの作品を生み出します。その詩風は「神への喜びを表す純粋な詩」であったのです。彼のその姿はクリスチャンはもとより多くの人々の感動を呼んだのです。(ウィキペディア参照)
その水野さんが描かれた一つの詩をお読みします。
「キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。憎しみも恨みも、霧のように消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。悲しみも不安も、霧のように消え去りました。
キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。喜びと希望の朝の光がさして来ました。」
この水野源三さんが詠まれたように、主キリストと私個人との信頼の関係が築かれ、神さまの愛でいっぱいに満たされたその時に、私たちの心は変えられます。
イエスさまはここで、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言っておられますが。このように私たちを子として、願う前からわたしの必要も、欠乏も不足も、事情も状況までもすべてご存じであられるのだから、このように祈りなさい、と「主の祈り」を教えて下さったのであります。
この主の祈りのですが。公の礼拝でも大事にされているように、それは「わたし」という個人の祈りにとどまらず、「私たちという共同体の祈り」、さらに「あらゆる関係性においての祈り」という拡がりをもっています。
まあこの日本で「一般的に祈り」といえば、家内安全、入試合格、縁結びや安産などの祈願を指す事が多いのではないでしょうか。個々人が心の願いを神仏に求める。無論それも祈りであります。
しかし、教会では個々人や家族という枠を超えた人たち、血縁関係のない人たちも一同に会し、礼拝の中で「主の祈り」を共に祈るのであります。又、祈祷会では個人個人の祈りの課題を出して、それを共有し祈り合います。その祈りはある時には海を越え、又ある時は世に忘れ去られたような処にまで及びます。
以前にもお話しましたが。私が青年の時に、当時通っていた教会の祈祷会に初めていらっしゃった方が、「キリスト教会の祈りって、自分のことばかりでなく、こんなにも真剣に、人のことを祈り合われるのですね」と、その祈祷会の感想を述べてくださったことが新鮮な思い出として残っています。自分の願いだけでなく、「私たち」という関係性の中で主をあがめ、主にあって共に祈りをささげられるというのは、何とも豊かで尊い事ではないでしょうか。そこに愛なるご聖霊が深く働いて下さることが実感できるのです。
私たちが神に呼びかける「私たちの父よという言葉」。それはどこか遠い存在としではなく、「わが子よ」と呼びかけて下さる絶対的愛に応える呼びかけから、主の祈りは始まります。主の祈りは「私たちの父よ」、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行なわれますようにと、まず父なる神の栄光を讃美し、神の国の到来と御心が行なわれることへの期待を祈ります。ここはいわば、私たちと神さまとの関係、交わりによる祈りがあります。
その後には、私たち人と人との関係における祈りが続きます。
その始めは、「私たちに必要な糧を今日与えてください」との祈りであります。
この祈りは、食前の時などにも祈られますね。例えばそれは大地の実りや、海の産物への感謝の祈祷でもあるでしょうし、文字通り私の日々の食事の必要に対して、生物の命を戴いていることへ感謝の祈りでもあるでしょう。又、それは肉の飢え渇きに限らず、魂の糧という霊的な糧をも含んでいます。「人はパンだけで生きるものでなく神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」からです。そしてこの祈りは、それら「今日の糧が今私に与えられていますように、この同じ時に、世界中に飢え渇いて肉の糧、霊の糧を必要としているすべての人たちが、私に必要な糧が与えられたように、そのお一人おひとりにも必要な糧をお与えください」と、主に執り成す祈りでもあるのです。これが「私たち人と人との関係における祈り」でありますね。
8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とおっしゃったように、父なる神さまは私だけの必要をご存じであられるだけでなく、今飢えと渇き、欠乏と不足の中で苦しむすべての人の必要もすべてご存じであられるのです。
「わたしに」ではなく、「私たちにお与え下さいと祈る」。これが主の祈りの豊かさであります。
また、イエスさまは、12節「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、赦しについての祈りを教えられます。
この祈りの強調ポイントは、「まず、わたしたちの負い目を赦してください」と祈る点にあります。しかしこの祈りは、私たちにはなかなか祈れない祈りでもあるのではないでしょうか。
皆さんは誰かに対して貸し借りがおありでしょうか。物やお金の貸し借りがあり、それが何かの事情や理由で返って来なかった経験や、逆に借りた物が返済できなかったというような経験はないでしょうか。
ユダヤ教の教典タルムードの中にこういう小話があります。
ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれと」と言うと、その男は「お前は鎌を貸してくれなかったから、俺は馬を貸さない」と断って来た。これは復讐である。
また同じように、ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれ」と言うと、その男は馬を貸したが、貸す時に「あなたは鎌を貸してくれなかったが、わたしはあなたに貸してやる」と言った。これは憎悪である。そういう話です。まあ馬を貸しても、嫌みを言いながら貸すということは、本当には赦していない憎悪の心の表れというのです。
つまり、人間には何の見返りも報いもない赦しというのはなかなか考えられない。そこで本心から人はどうすれば人を赦すことが出来るのかを考えさせる、タルムードの教えであります。そうですよね、実際私たちは人から被害に遭ったことや人から非難中傷されたことについては、ずっと憶えており、忘れることができません。が、一方で私が人に危害を与え、人を傷つけていることについては何と鈍感な者でしょうか。
しかし、聖書はそんな私たち人間の抱える膨大な罪の代価を、御独り子イエスさまの尊い命と引き換えに贖ってくださった。いわば神の独り子イエスさまがその罪の代価を肩代わりしてくださったのです。その尊い犠牲によって、私たちの罪は赦されたのであります。
主の祈りを祈る毎に、「わたしたちの負い目を赦してください」とその十字架の救いを覚えつつ、主に立ち帰っていくことがまず大事なことです。そのことを通して、主は地上における人と人の間における和解の業を始めてくださいます。
父なる神さまから戴いた尊い赦しの恵み、御救いへの感謝の応答として、私たちも又、「わたしに負い目のある人を赦します」と、祈ってまいりましょう。
「主の祈り」をして、主は「私たち」という祈り合う真ん中に居まし、働かれます。わたちは「主の祈り」を祈るとき、実はわたしも又、主にある兄弟姉妹の間にあって執り成され、祈られているのです。これからも父なる神、救い主キリストの御業を讃美し、期待して祈る主の祈りをご一緒に捧げてまいりましょう。
先週はイエスさまが弟子たちに語られた山上の説教から「地の塩、世の光としての使命」と題し、御言葉を聞きましたが。今日もその山上においてイエスさまが弟子たちに「祈り」について教えられたものです。本日はその「主の祈り」から御言葉を聞いていきたいと思います。
まずこの6章には、「施し」「祈り」「断食」についての記述があります。これらは旧約時代のユダヤ教において律法として重視されてきたものでした。けれども、その律法の精神が失われ、単なる形式だけのものとなり、それを行うことが一種の徳目のように、又宗教者としてのステータスのようにもなっていたのです。一部のユダヤ教徒たちは、神にではなく人からの評価や称賛を得るため、又自らを誇るためにわざわざ人々の目につくように断食や施し、又祈りをしていたのです。イエスさまは、「彼らはすでに報いを受けている。むしろ人目につかないところで行なうことで、隠れたことを見ておられるあなたの父なる神が報いてくださる」と教えられます。天の神さまはいつも、私たちの行いと心をすべて見ておられるのです。
イエスさまは「祈り」について、他の「施し」や「断食」の教えに比べ大変詳しく丁寧に教えておられます。それだけ「祈ること」を大切にしておられたのです。
イエスさまは、「父なる神さまが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とおっしゃっていますが、この「必要」と訳された原語 Χρεία;クレイアは、単に必要ということだけでなく、欠乏や不足、さらに事情や状況、理由とも訳されるそうです。
それは「父なる神さまが、私たちの欠乏や不足しているもの、その事情や状況をもすべてご存じであられる」ということですね。祈りは、まず神さまが私たちの人生、又生活の最善と必要とをすべてご存じであり、私たちもその神さまへの信頼をもって祈りと願いとを捧げていくものであることをお示しになるのです。まさにこのことが「主の祈り」の大きな土台としてあるのですね。この大前提のもとで、「だから、こう祈りなさい」と、イエスさまは「主の祈り」を教えられているのです。
ここで、水野源三さんの「キリストのみ愛に触れたその時に」という詩をご紹介したいと思いますが。水野さんについてはすでにご存じの方もいらっしゃることでしょうが。
長野県に生まれる。9歳の時赤痢に罹りその高熱によって脳性麻痺を起こし、やがて目と耳の機能以外のすべてを失いました。話すことも書くことも出来なくなったけれども、母親が何とか彼と意思の疎通をしようと五十音順を指で指し示したところ、目の動きで応答できるようになられました。これが47歳で天に召されるまでの彼の唯一のコミュニケーション能力となるのです。「瞬きの詩人」と呼ばれるようになったのはそのゆえです。12歳の時母親がおいた聖書を読み、やがてクリスチャンとなるのです。18歳の時からは詩作を開始し多くの作品を生み出します。その詩風は「神への喜びを表す純粋な詩」であったのです。彼のその姿はクリスチャンはもとより多くの人々の感動を呼んだのです。(ウィキペディア参照)
その水野さんが描かれた一つの詩をお読みします。
「キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。憎しみも恨みも、霧のように消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。悲しみも不安も、霧のように消え去りました。
キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。喜びと希望の朝の光がさして来ました。」
この水野源三さんが詠まれたように、主キリストと私個人との信頼の関係が築かれ、神さまの愛でいっぱいに満たされたその時に、私たちの心は変えられます。
イエスさまはここで、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言っておられますが。このように私たちを子として、願う前からわたしの必要も、欠乏も不足も、事情も状況までもすべてご存じであられるのだから、このように祈りなさい、と「主の祈り」を教えて下さったのであります。
この主の祈りのですが。公の礼拝でも大事にされているように、それは「わたし」という個人の祈りにとどまらず、「私たちという共同体の祈り」、さらに「あらゆる関係性においての祈り」という拡がりをもっています。
まあこの日本で「一般的に祈り」といえば、家内安全、入試合格、縁結びや安産などの祈願を指す事が多いのではないでしょうか。個々人が心の願いを神仏に求める。無論それも祈りであります。
しかし、教会では個々人や家族という枠を超えた人たち、血縁関係のない人たちも一同に会し、礼拝の中で「主の祈り」を共に祈るのであります。又、祈祷会では個人個人の祈りの課題を出して、それを共有し祈り合います。その祈りはある時には海を越え、又ある時は世に忘れ去られたような処にまで及びます。
以前にもお話しましたが。私が青年の時に、当時通っていた教会の祈祷会に初めていらっしゃった方が、「キリスト教会の祈りって、自分のことばかりでなく、こんなにも真剣に、人のことを祈り合われるのですね」と、その祈祷会の感想を述べてくださったことが新鮮な思い出として残っています。自分の願いだけでなく、「私たち」という関係性の中で主をあがめ、主にあって共に祈りをささげられるというのは、何とも豊かで尊い事ではないでしょうか。そこに愛なるご聖霊が深く働いて下さることが実感できるのです。
私たちが神に呼びかける「私たちの父よという言葉」。それはどこか遠い存在としではなく、「わが子よ」と呼びかけて下さる絶対的愛に応える呼びかけから、主の祈りは始まります。主の祈りは「私たちの父よ」、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行なわれますようにと、まず父なる神の栄光を讃美し、神の国の到来と御心が行なわれることへの期待を祈ります。ここはいわば、私たちと神さまとの関係、交わりによる祈りがあります。
その後には、私たち人と人との関係における祈りが続きます。
その始めは、「私たちに必要な糧を今日与えてください」との祈りであります。
この祈りは、食前の時などにも祈られますね。例えばそれは大地の実りや、海の産物への感謝の祈祷でもあるでしょうし、文字通り私の日々の食事の必要に対して、生物の命を戴いていることへ感謝の祈りでもあるでしょう。又、それは肉の飢え渇きに限らず、魂の糧という霊的な糧をも含んでいます。「人はパンだけで生きるものでなく神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」からです。そしてこの祈りは、それら「今日の糧が今私に与えられていますように、この同じ時に、世界中に飢え渇いて肉の糧、霊の糧を必要としているすべての人たちが、私に必要な糧が与えられたように、そのお一人おひとりにも必要な糧をお与えください」と、主に執り成す祈りでもあるのです。これが「私たち人と人との関係における祈り」でありますね。
8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とおっしゃったように、父なる神さまは私だけの必要をご存じであられるだけでなく、今飢えと渇き、欠乏と不足の中で苦しむすべての人の必要もすべてご存じであられるのです。
「わたしに」ではなく、「私たちにお与え下さいと祈る」。これが主の祈りの豊かさであります。
また、イエスさまは、12節「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、赦しについての祈りを教えられます。
この祈りの強調ポイントは、「まず、わたしたちの負い目を赦してください」と祈る点にあります。しかしこの祈りは、私たちにはなかなか祈れない祈りでもあるのではないでしょうか。
皆さんは誰かに対して貸し借りがおありでしょうか。物やお金の貸し借りがあり、それが何かの事情や理由で返って来なかった経験や、逆に借りた物が返済できなかったというような経験はないでしょうか。
ユダヤ教の教典タルムードの中にこういう小話があります。
ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれと」と言うと、その男は「お前は鎌を貸してくれなかったから、俺は馬を貸さない」と断って来た。これは復讐である。
また同じように、ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれ」と言うと、その男は馬を貸したが、貸す時に「あなたは鎌を貸してくれなかったが、わたしはあなたに貸してやる」と言った。これは憎悪である。そういう話です。まあ馬を貸しても、嫌みを言いながら貸すということは、本当には赦していない憎悪の心の表れというのです。
つまり、人間には何の見返りも報いもない赦しというのはなかなか考えられない。そこで本心から人はどうすれば人を赦すことが出来るのかを考えさせる、タルムードの教えであります。そうですよね、実際私たちは人から被害に遭ったことや人から非難中傷されたことについては、ずっと憶えており、忘れることができません。が、一方で私が人に危害を与え、人を傷つけていることについては何と鈍感な者でしょうか。
しかし、聖書はそんな私たち人間の抱える膨大な罪の代価を、御独り子イエスさまの尊い命と引き換えに贖ってくださった。いわば神の独り子イエスさまがその罪の代価を肩代わりしてくださったのです。その尊い犠牲によって、私たちの罪は赦されたのであります。
主の祈りを祈る毎に、「わたしたちの負い目を赦してください」とその十字架の救いを覚えつつ、主に立ち帰っていくことがまず大事なことです。そのことを通して、主は地上における人と人の間における和解の業を始めてくださいます。
父なる神さまから戴いた尊い赦しの恵み、御救いへの感謝の応答として、私たちも又、「わたしに負い目のある人を赦します」と、祈ってまいりましょう。
「主の祈り」をして、主は「私たち」という祈り合う真ん中に居まし、働かれます。わたちは「主の祈り」を祈るとき、実はわたしも又、主にある兄弟姉妹の間にあって執り成され、祈られているのです。これからも父なる神、救い主キリストの御業を讃美し、期待して祈る主の祈りをご一緒に捧げてまいりましょう。