宣教 エレミヤ18章1-10 バプテスト病院デ-
本日は、京都にございます日本バプテスト医療団のバプテスト病院と看護専門学校のことを祈りに覚える日、病院デ-であります。イエスさまは地上の歩みにおいて体と心、そして魂(霊的)の救いに尽力なさいました。そのキリストの愛を引き続き、全人的医療を理念として掲げ務めるバプテスト病院と看護専門学校の今後のあゆみのために祈り覚えていきたいと思います。
さて本日もエレミヤ書の18章から「神の作品として生きる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
ある日主の言葉がエレミヤに臨みます。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう」。エレミヤは主の言葉どおりに陶工の家に出て行くのでありますが、そこで彼が目にしたのは「陶工が粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを何度も作り直す」光景でありました。
そのとき主の言葉がエレミヤに臨みます。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか」。主はご自身とイスラエルとの関係を陶工とその作品にたとえ、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」とお語りになります。 皆さまの中で陶器を作るところを見学されたり、実際に作ってみたという方はいらっしゃいいますか?感想はどうでしたか?私も糸島にある自然(じねん)釜という釜を見学したことがありますが、ただのお皿とかカップというより一つの芸術作品ですね。陶工の良いものを作りたいという思いが伝わってきましたけれども。 陶工はろくろを使って仕事をするとき、まず粘土から砂や石などの不純物を取り除きます。そして何度も粘土は練られ、こねられながらろくろの上におかれるのであります。陶工の思いのままに、その手の中で粘土は形作られていくのでありますが。けれども、たとえどんなに気合を入れて作った物でも、もしそれが気に入らなければ陶工はそれを自分の手で壊し、今度こそはと良いものに仕上がるようにと再びそれをこね、作り直すのです。
そのように主は、イスラエルに対して陶工が良いものを作ろうと心を込めてそれを形作るように彼らを忍耐強く導かれました。しかし彼らは罪深く、悔い改めへの招きを拒みかたくなに主に立ち返ろうとしません。このような中でこの預言が語られたのであります。 彼らの罪の根底にイスラエルの選民思想があったということは押さえておく必要があるでしょう。イスラエルの家は神に特別に選ばれた民なのだから、自分たちは何をしても神はお見捨てにならない。神の選びと祝福は決して変わらず我々は奪われることはない。彼らはそのようにたがを括っていたのです。主はそのイスラエルの家に対して主は気づきと立ち返りを求められ、イスラエルの民がその御心に反する態度を取り続けるのなら、もはや断罪する、と言われるのです。
これはイエス・キリストの御救いに与る私たちにとりましても教訓となることです。私どもは主の御救いにより罪赦された者となりましたが、では罪が赦されるのだからということで自分の欲望のままに振る舞い、御心に沿わない生活を続けるのなら、いずれは主から与えられた祝福を失うことになってしまうでしょう。
9節~10節で主は、「わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」とはっきりと言っておられます。
ここで主が幸いを与えようという約束を「思い直される」ということが語られています。身の正される思いがいたしますが。しかし忘れてならないのは、陶工にたとえられる神さまは、ただ罪深き者を断罪し、滅ぼすことが目的なのではなく、立ち帰って神さまの御心に適う神の民・神の作品として形作られることを切に願っておられるということです。 そのために陶工が粘土を自らの手で何度もこね、自分の手で壊し、作り直すように、神さまは主の救いに与るクリスチャンに対しても、同様に扱われるということであります。
私たちは主を信じて生きていく中にも、時に「打ち砕かれる」という経験をいたします。もう、ぐうの音も出ない。言葉では言い表せない辛さ、苦しさを経験する時。それはもう神さまの前で降参するしかない時であります。「ああ、私の何がいけなかったのか」。 多くの人は考え込み、一層悩みを深くします。けれども考えてもわからない場合が多いのです。ただそこに「打ち砕かれる」という経験だけが確かに存在するのです。けれどもなお主に捕らわれた人は、そこから主の御手によって練り直され、新しい人に造り変えられるのです。 どんな時も主は断罪し、滅ぼすのが目的なのではなく、主の御心に聞き、心から主に立ち返って生きる者を新しく造り変えてくださるお方なのです。
今日のこの箇所からの陶工にたとえられる主は、御自分の御心に沿って愛する器、神の作品として生きる神の民が、立てられていくことを切に願っているということです。そこに練り直し、打ち砕き、作り直すことの目的があります。その過程に起されていくのは、「愛と恵みの主に気づき、その御心に聞き、心から悔改め、立ち返って生きる」。そこに主の豊かでくすしき御業が起こされていくのであります。
今日、エレミヤが見た陶工の姿と聞いた主のお言葉から、神さまが私たちをその御手で触れ、何度も練って、愛する器に作り直そうとされている御姿を示されました。それは又、神さまが人間を見捨てず、あきらめず、忍耐強く関わり続けるお姿であります。すべは神の御手のうちにおかれていると、心から信頼できる人は真に幸いです。
先々週の水曜日夜の祈祷会に出席されているHさんから、「私はイエス・キリストを私の救い主として信じ、バプテスマを受ける決心ができました」と、ほんとうにうれしい言葉を戴きました。初めて仮会堂にお電話くださってから、それからほぼ毎週の祈祷会、主の日の礼拝に出席なさっておられますが。御自分や周囲に様々な出来事が起こっていく中で、不思議なかたちで幾度も「主が生きておられる」ということに驚き、気づかされたと、お証しくださいました。さらに病気で苦しんでおられる知人にも近くにキリスト教会があればお勧めしたいので、推薦できる教会を教えてくださいという御依頼を受けました。その方も福音に触れ、御救に与ることができるといいですね、とそういうお話もできました。 今仮会堂ですので、すぐに「バプテスマ」式は難しいので、12月の新会堂が出来あがった時にバプテスマができればと御本人ともお話をしながら、約半年かけて祈り、学びの準備を進めていくことにいたしました。私どもにとりましても、主にある兄弟が加えられるということはほんとうにうれしい、主のプレゼントであります。
このHさんからお話しを伺った後で、私は今日の礼拝の始めに招詞として読まれましたⅡコリント5章17~18節が思い起こされました。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神はキリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
本日はエレミヤ18章から、陶工と粘土のたとえを通して「主が愛する器を作るために私たちを練り、こね、良いものをと願いつつ、作り直される」という記事を読みました。 陶工にたとえられる主の愛と忍耐によって私たちは神の作品として日々御手の中で造られているのです。さらに、新しい契約の時代に生きる私たちにとっては、「神の比類なき愛」「御独り子イエス・キリストの尊い恵み」「聖霊の豊かな交わり」のもと、人は新しく作られるのです。そうして、新しく作られた者は、神と人の「和解のために奉仕する」器として主がお用いになられるということであります。
本日宣教題を「神の作品として」とつけましたが。クリスチャンの世にあって託されている務めは、神と人の和解のために奉えることであります。私たちはそれぞれに性格や好みは違いますけれど、主イエスと出会い、そのご愛によって御救い与ることがゆるされた者であるという点ではみな同じであります。それぞれのかたち、ありかた、持ち味を持って、神の作品としてキリストに倣って生き、神と人の和解のために仕えていくことを主は喜びとしてくださいます。何事も義務感や強いられるかたちではなく、神のご愛、十字架の主イエスの御恵みと感謝に押し出され、受けた恵みによって仕えてゆけばよいのです。陶器師主は、あなたのすべてを知っておられ、神の民として取り扱っておられます。主の御声に聞き従い、その御手の業に信頼して今週も歩んでまいりましょう。
本日は、京都にございます日本バプテスト医療団のバプテスト病院と看護専門学校のことを祈りに覚える日、病院デ-であります。イエスさまは地上の歩みにおいて体と心、そして魂(霊的)の救いに尽力なさいました。そのキリストの愛を引き続き、全人的医療を理念として掲げ務めるバプテスト病院と看護専門学校の今後のあゆみのために祈り覚えていきたいと思います。
さて本日もエレミヤ書の18章から「神の作品として生きる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
ある日主の言葉がエレミヤに臨みます。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう」。エレミヤは主の言葉どおりに陶工の家に出て行くのでありますが、そこで彼が目にしたのは「陶工が粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを何度も作り直す」光景でありました。
そのとき主の言葉がエレミヤに臨みます。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか」。主はご自身とイスラエルとの関係を陶工とその作品にたとえ、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」とお語りになります。 皆さまの中で陶器を作るところを見学されたり、実際に作ってみたという方はいらっしゃいいますか?感想はどうでしたか?私も糸島にある自然(じねん)釜という釜を見学したことがありますが、ただのお皿とかカップというより一つの芸術作品ですね。陶工の良いものを作りたいという思いが伝わってきましたけれども。 陶工はろくろを使って仕事をするとき、まず粘土から砂や石などの不純物を取り除きます。そして何度も粘土は練られ、こねられながらろくろの上におかれるのであります。陶工の思いのままに、その手の中で粘土は形作られていくのでありますが。けれども、たとえどんなに気合を入れて作った物でも、もしそれが気に入らなければ陶工はそれを自分の手で壊し、今度こそはと良いものに仕上がるようにと再びそれをこね、作り直すのです。
そのように主は、イスラエルに対して陶工が良いものを作ろうと心を込めてそれを形作るように彼らを忍耐強く導かれました。しかし彼らは罪深く、悔い改めへの招きを拒みかたくなに主に立ち返ろうとしません。このような中でこの預言が語られたのであります。 彼らの罪の根底にイスラエルの選民思想があったということは押さえておく必要があるでしょう。イスラエルの家は神に特別に選ばれた民なのだから、自分たちは何をしても神はお見捨てにならない。神の選びと祝福は決して変わらず我々は奪われることはない。彼らはそのようにたがを括っていたのです。主はそのイスラエルの家に対して主は気づきと立ち返りを求められ、イスラエルの民がその御心に反する態度を取り続けるのなら、もはや断罪する、と言われるのです。
これはイエス・キリストの御救いに与る私たちにとりましても教訓となることです。私どもは主の御救いにより罪赦された者となりましたが、では罪が赦されるのだからということで自分の欲望のままに振る舞い、御心に沿わない生活を続けるのなら、いずれは主から与えられた祝福を失うことになってしまうでしょう。
9節~10節で主は、「わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」とはっきりと言っておられます。
ここで主が幸いを与えようという約束を「思い直される」ということが語られています。身の正される思いがいたしますが。しかし忘れてならないのは、陶工にたとえられる神さまは、ただ罪深き者を断罪し、滅ぼすことが目的なのではなく、立ち帰って神さまの御心に適う神の民・神の作品として形作られることを切に願っておられるということです。 そのために陶工が粘土を自らの手で何度もこね、自分の手で壊し、作り直すように、神さまは主の救いに与るクリスチャンに対しても、同様に扱われるということであります。
私たちは主を信じて生きていく中にも、時に「打ち砕かれる」という経験をいたします。もう、ぐうの音も出ない。言葉では言い表せない辛さ、苦しさを経験する時。それはもう神さまの前で降参するしかない時であります。「ああ、私の何がいけなかったのか」。 多くの人は考え込み、一層悩みを深くします。けれども考えてもわからない場合が多いのです。ただそこに「打ち砕かれる」という経験だけが確かに存在するのです。けれどもなお主に捕らわれた人は、そこから主の御手によって練り直され、新しい人に造り変えられるのです。 どんな時も主は断罪し、滅ぼすのが目的なのではなく、主の御心に聞き、心から主に立ち返って生きる者を新しく造り変えてくださるお方なのです。
今日のこの箇所からの陶工にたとえられる主は、御自分の御心に沿って愛する器、神の作品として生きる神の民が、立てられていくことを切に願っているということです。そこに練り直し、打ち砕き、作り直すことの目的があります。その過程に起されていくのは、「愛と恵みの主に気づき、その御心に聞き、心から悔改め、立ち返って生きる」。そこに主の豊かでくすしき御業が起こされていくのであります。
今日、エレミヤが見た陶工の姿と聞いた主のお言葉から、神さまが私たちをその御手で触れ、何度も練って、愛する器に作り直そうとされている御姿を示されました。それは又、神さまが人間を見捨てず、あきらめず、忍耐強く関わり続けるお姿であります。すべは神の御手のうちにおかれていると、心から信頼できる人は真に幸いです。
先々週の水曜日夜の祈祷会に出席されているHさんから、「私はイエス・キリストを私の救い主として信じ、バプテスマを受ける決心ができました」と、ほんとうにうれしい言葉を戴きました。初めて仮会堂にお電話くださってから、それからほぼ毎週の祈祷会、主の日の礼拝に出席なさっておられますが。御自分や周囲に様々な出来事が起こっていく中で、不思議なかたちで幾度も「主が生きておられる」ということに驚き、気づかされたと、お証しくださいました。さらに病気で苦しんでおられる知人にも近くにキリスト教会があればお勧めしたいので、推薦できる教会を教えてくださいという御依頼を受けました。その方も福音に触れ、御救に与ることができるといいですね、とそういうお話もできました。 今仮会堂ですので、すぐに「バプテスマ」式は難しいので、12月の新会堂が出来あがった時にバプテスマができればと御本人ともお話をしながら、約半年かけて祈り、学びの準備を進めていくことにいたしました。私どもにとりましても、主にある兄弟が加えられるということはほんとうにうれしい、主のプレゼントであります。
このHさんからお話しを伺った後で、私は今日の礼拝の始めに招詞として読まれましたⅡコリント5章17~18節が思い起こされました。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神はキリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
本日はエレミヤ18章から、陶工と粘土のたとえを通して「主が愛する器を作るために私たちを練り、こね、良いものをと願いつつ、作り直される」という記事を読みました。 陶工にたとえられる主の愛と忍耐によって私たちは神の作品として日々御手の中で造られているのです。さらに、新しい契約の時代に生きる私たちにとっては、「神の比類なき愛」「御独り子イエス・キリストの尊い恵み」「聖霊の豊かな交わり」のもと、人は新しく作られるのです。そうして、新しく作られた者は、神と人の「和解のために奉仕する」器として主がお用いになられるということであります。
本日宣教題を「神の作品として」とつけましたが。クリスチャンの世にあって託されている務めは、神と人の和解のために奉えることであります。私たちはそれぞれに性格や好みは違いますけれど、主イエスと出会い、そのご愛によって御救い与ることがゆるされた者であるという点ではみな同じであります。それぞれのかたち、ありかた、持ち味を持って、神の作品としてキリストに倣って生き、神と人の和解のために仕えていくことを主は喜びとしてくださいます。何事も義務感や強いられるかたちではなく、神のご愛、十字架の主イエスの御恵みと感謝に押し出され、受けた恵みによって仕えてゆけばよいのです。陶器師主は、あなたのすべてを知っておられ、神の民として取り扱っておられます。主の御声に聞き従い、その御手の業に信頼して今週も歩んでまいりましょう。