宣教 エレミヤ1章1~10節
預言者エレミヤの召命について、いくつか特徴的な面を見ることができます。
それはまず4節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と記されていますように、エレミヤの預言者としての使命観や召命観というのは、彼が自分からやりたくって求めたものではなく、又人から与えられたり、勧められたりしたものでもなく、まさに主ご自身が彼を召し出されたということです。
しかもそれは、昨日今日決まったというものではなく、5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」とありますように、エレミヤが預言者として立てられることは、生れる前から主がむしろその事のためにエレミヤは生れて来たとも言えるでしょう。
現代、この日本では実に多くの人が自分の存在意義を見出すことができず苦しんでいます。お金があるかないか。仕事や学問の成績が良いか悪いか。周囲の見た目や、地位や肩書きによって計り計られてきた現代人は、それらがあたかも存在の意義であるかのように錯覚してしまっていることが、往々にあるのではないでしょうか。
けれども本日の箇所にありますように、母の胎内に人をかたち造るお方は、実に私たちをかたち造られる前からずっと私のことを知っておられ、母の胎から生れる前かにその人にしかできない役割、存在の意義をもって命を与えておられるのです。
私たちクリスチャンは、それぞれのタイミングで主イエスと出会い、御救い与り、新しい命に生きる者とされたのでありますが。このことも聖書には各々が、「神のご計画に従って召された」と書かれています。私たち一人ひとりも、神に知られそのご計画の中にあって万事相働きて益となるように、存在の意義をもつ者とされているのであります。
主はエレミヤに「わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と語られます。「聖別する」というのは、ある特別な目的のために取りわけておくということです。エレミヤが清いとか、聖なる者であったからというのではなく、主がエレミヤを諸国民の預言者としてお立てになるために、主自らエレミヤをその使命のために聖別されたのです。
その主の言葉に対してエレミヤはどう応えたか言いますと、6節「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから」と、ためらい自分には相応しくありませんと、何とか逃れようとするのですね。ちなみにエレミヤは「若者に過ぎないので、語る言葉を知りません」と言っていますが。彼は当時少なくとも20歳にはなっていただろうということですから、単に年齢的に若いということではなく、自分のような若輩者にはあまりに重く大きすぎる使命で到底なしうるものではない、ということでありましょう。前回の預言者イザヤもその召命にあたり、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇」といっています。又、出エジプトのためにモーセを主が立てられた時も、モーセは「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕に言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」と答えています。
共通するのは、彼らが聖なる主への畏れをもち、自分の力や能力により頼むことによって主の働きを担うことができない弱い存在であることを知っていた、自ら知っていたということであります。私の力でそれができるという人は、すべてを自分の栄光のためになし、高慢になり、滅びを招くことになるので、主がお用いになることができないのです。
使徒パウロはⅠコリントの信徒への手紙1章のところで、「あなた方が召された時のことを思い起してみなさい。人間的に見て知恵あるものは多かったわけではなく、能力のある者や家柄のよい者が多かったわけでもありません。それは誰一人神の前で誇ることがないためである」と書いています。働きのうちに、又事が成し遂げられていく時に、「これは私ではなく、主がなしてくださったこと」と、主に栄光を帰していくものでありたいです。
新会堂建築の業も、主が小さな私たちを通して必ずその栄光を顕される出来事を起してくださる、と期待するものであります。
さて、エレミヤは次のような主の言葉を聴きます。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」。
大切なのはこの「主が共におられる」ということです。「主が共におられる」ことを頼みとし、杖として立ち上がる人を主は大きくお用いになられるのです。エレミヤはイスラエルだけでなく、諸国民の預言者として立つよう任命されました。エレミヤにとってそれは恐れと不安でしかなかったでしょう。けれども主はエレミヤに、「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」とおっしゃるのです。私たちはすぐに計算を始めてしまいます。これだけあるから大丈夫、逆にこれだけしかないから無理だろうと、しかし計算することよりも主の御心を尋ね求めて決断することが大切なのです。
主はエレミヤに「手を伸ばして、その口に触れ、『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける』と約束してくださいました。主自らそのことをなそうとされ、そのために必要な力と守りを与えてくださるのです。それは信仰者を勇敢にします。
このエレミヤの召命に並べる事などできませんが、昨年の関西地方教会連合の役員改選総会で、思いもかけず私が次期会長に選出されてしまって、何よりも自分が驚き一体どうしたものか、という不安を抱えなが大阪に帰ってきたのですが。それから、ちょっと荷が重すぎる。何も会堂建築という大きな事業が始まったばかりのこんな時に、と何度も考えました。そして役員会や教会にそのことを報告しますと、「どうか会長の役を担ってください。私たちも精一杯祈って支え、サポートいたしますよ」といって下さったのです。それは他ならぬ主ご自身が「わたしがあなたと共にいるから」と言われているように思えました。私は皆さまの励ましと主のお言葉に押し出されて御役目をお引き受けする決心ができたのです。自分の力や状況を思えば難しいことではありましても、主が導き共におられますなら、人の能力を超えて主の栄光が顕されるため用いられることができると信じます。
それは私のように教会関係の働きに限ったことではありません。神さまはすべてのクリスチャンに、それぞれ役割を与えておられます。御救いに与った光の子としてそれぞれ遣わされた場、その人間関係の中で、「ここに御国が来ますように、御心がなりますように」と信仰をもってチャレンジしていく時、不思議と力が与えられ、助け手が現われ、後々振り返った時、証しとなっていくような出来事が起されていくのです。
さて、さらに主はエレミヤに言われます。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸国王に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
主はエレミヤに諸国民、さらに諸国王に対する権威をもゆだねられたのです。それは、世のいう権力や軍事力ではありません。御言葉にある権威、御言葉の力による神の国の再建のためのものであります。
23章29節には、「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」と主は言われています。このように御言葉は神の御心に沿わないものを焼き尽くす火であったのです。
新約聖書ヘブライ4章12節にも、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」とあります。御言葉はすべてのものを明らかにし、正しい審きと再建をもたらすのです。
エレミヤの使命は「御言葉による神の国とその民の再建」でありました。
「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」というのは、これから起こるであろうエルサレムの崩壊と捕囚を示しています。それは避けられなかったのでしょうか?主はエレミヤ以前にも幾度も預言者を遣わし、立ち返るようにと忍耐強くさとし、促されたのです。
けれども民と王たちは主に逆らい、主に罪を犯し続け、その心は実にかたくなであったのです。そのままでは神の民としての都も人々の信仰も腐り朽ち果てるしかなかったのです。
神の国とその民の再建、「建て」「植える」ためには地を焼き払い、荒地を耕して、そこに将来の種子を蒔く必要があったのです。
大阪教会の新会堂建築に先立ち、旧会堂は完全に解体されました。旧会堂が粉々になっていくのは少し寂しく心が痛みましたが。「古いものは過ぎ去り、見よ、新しいものが生じた」という実体が今の大阪教会には必要なのだ、と思いました。
又、その基礎地盤となる地中からあらゆるガレキや障害物もほぼ取り除かれました。
それは新しい大阪教会のあゆみを始めるため取り除かれるべき過去の遺物を象徴しているようにも思えました。そこに今、基礎地盤が据えられています。私たちは唯キリストとその御言葉を土台にしていくことを、心新たに確認し、神の国とその民としての再建を共に志してまいりたいと切に願います。
最後に、今日は「預言者エレミヤの召命」の箇所を読みましたが。エレミヤは「悲しみの預言者」とも言われています。神の審判を告げ、悔い改めるよう語り続けますが、民らは一向に耳を貸そうとしないばかりか排斥し、迫害します。エレミヤはそんな民のために深く嘆き悲しみとりなし続けるのです。エレミヤは主とその言葉に従うがゆえに多くの苦難と悲しみ、さらに危機に遭遇いたしますが。その度に何度も、何十回、いやもしかすると何百回以上も、主の召命の言葉を思い起こしたことではないでしょうか。その預言者として主に立てられた時の「召命の言葉」を幾度も反芻する中で、慰めと力を得、その働きを担い続けることができたのでありましょう。主なる神さまは、エレミヤ(神が立てられるの意)というその名の通り、神の国とその民の再建のために彼を建て、用いられました。
主の御救に与っている私たちも又、主の福音を伝え、証しするためにそれぞれが主に立てられ、用いられます。小さなことを忠実に、心を込めて主に従ってまいりましょう。主は共におられます。
預言者エレミヤの召命について、いくつか特徴的な面を見ることができます。
それはまず4節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と記されていますように、エレミヤの預言者としての使命観や召命観というのは、彼が自分からやりたくって求めたものではなく、又人から与えられたり、勧められたりしたものでもなく、まさに主ご自身が彼を召し出されたということです。
しかもそれは、昨日今日決まったというものではなく、5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」とありますように、エレミヤが預言者として立てられることは、生れる前から主がむしろその事のためにエレミヤは生れて来たとも言えるでしょう。
現代、この日本では実に多くの人が自分の存在意義を見出すことができず苦しんでいます。お金があるかないか。仕事や学問の成績が良いか悪いか。周囲の見た目や、地位や肩書きによって計り計られてきた現代人は、それらがあたかも存在の意義であるかのように錯覚してしまっていることが、往々にあるのではないでしょうか。
けれども本日の箇所にありますように、母の胎内に人をかたち造るお方は、実に私たちをかたち造られる前からずっと私のことを知っておられ、母の胎から生れる前かにその人にしかできない役割、存在の意義をもって命を与えておられるのです。
私たちクリスチャンは、それぞれのタイミングで主イエスと出会い、御救い与り、新しい命に生きる者とされたのでありますが。このことも聖書には各々が、「神のご計画に従って召された」と書かれています。私たち一人ひとりも、神に知られそのご計画の中にあって万事相働きて益となるように、存在の意義をもつ者とされているのであります。
主はエレミヤに「わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と語られます。「聖別する」というのは、ある特別な目的のために取りわけておくということです。エレミヤが清いとか、聖なる者であったからというのではなく、主がエレミヤを諸国民の預言者としてお立てになるために、主自らエレミヤをその使命のために聖別されたのです。
その主の言葉に対してエレミヤはどう応えたか言いますと、6節「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから」と、ためらい自分には相応しくありませんと、何とか逃れようとするのですね。ちなみにエレミヤは「若者に過ぎないので、語る言葉を知りません」と言っていますが。彼は当時少なくとも20歳にはなっていただろうということですから、単に年齢的に若いということではなく、自分のような若輩者にはあまりに重く大きすぎる使命で到底なしうるものではない、ということでありましょう。前回の預言者イザヤもその召命にあたり、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇」といっています。又、出エジプトのためにモーセを主が立てられた時も、モーセは「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕に言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」と答えています。
共通するのは、彼らが聖なる主への畏れをもち、自分の力や能力により頼むことによって主の働きを担うことができない弱い存在であることを知っていた、自ら知っていたということであります。私の力でそれができるという人は、すべてを自分の栄光のためになし、高慢になり、滅びを招くことになるので、主がお用いになることができないのです。
使徒パウロはⅠコリントの信徒への手紙1章のところで、「あなた方が召された時のことを思い起してみなさい。人間的に見て知恵あるものは多かったわけではなく、能力のある者や家柄のよい者が多かったわけでもありません。それは誰一人神の前で誇ることがないためである」と書いています。働きのうちに、又事が成し遂げられていく時に、「これは私ではなく、主がなしてくださったこと」と、主に栄光を帰していくものでありたいです。
新会堂建築の業も、主が小さな私たちを通して必ずその栄光を顕される出来事を起してくださる、と期待するものであります。
さて、エレミヤは次のような主の言葉を聴きます。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」。
大切なのはこの「主が共におられる」ということです。「主が共におられる」ことを頼みとし、杖として立ち上がる人を主は大きくお用いになられるのです。エレミヤはイスラエルだけでなく、諸国民の預言者として立つよう任命されました。エレミヤにとってそれは恐れと不安でしかなかったでしょう。けれども主はエレミヤに、「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」とおっしゃるのです。私たちはすぐに計算を始めてしまいます。これだけあるから大丈夫、逆にこれだけしかないから無理だろうと、しかし計算することよりも主の御心を尋ね求めて決断することが大切なのです。
主はエレミヤに「手を伸ばして、その口に触れ、『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける』と約束してくださいました。主自らそのことをなそうとされ、そのために必要な力と守りを与えてくださるのです。それは信仰者を勇敢にします。
このエレミヤの召命に並べる事などできませんが、昨年の関西地方教会連合の役員改選総会で、思いもかけず私が次期会長に選出されてしまって、何よりも自分が驚き一体どうしたものか、という不安を抱えなが大阪に帰ってきたのですが。それから、ちょっと荷が重すぎる。何も会堂建築という大きな事業が始まったばかりのこんな時に、と何度も考えました。そして役員会や教会にそのことを報告しますと、「どうか会長の役を担ってください。私たちも精一杯祈って支え、サポートいたしますよ」といって下さったのです。それは他ならぬ主ご自身が「わたしがあなたと共にいるから」と言われているように思えました。私は皆さまの励ましと主のお言葉に押し出されて御役目をお引き受けする決心ができたのです。自分の力や状況を思えば難しいことではありましても、主が導き共におられますなら、人の能力を超えて主の栄光が顕されるため用いられることができると信じます。
それは私のように教会関係の働きに限ったことではありません。神さまはすべてのクリスチャンに、それぞれ役割を与えておられます。御救いに与った光の子としてそれぞれ遣わされた場、その人間関係の中で、「ここに御国が来ますように、御心がなりますように」と信仰をもってチャレンジしていく時、不思議と力が与えられ、助け手が現われ、後々振り返った時、証しとなっていくような出来事が起されていくのです。
さて、さらに主はエレミヤに言われます。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸国王に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
主はエレミヤに諸国民、さらに諸国王に対する権威をもゆだねられたのです。それは、世のいう権力や軍事力ではありません。御言葉にある権威、御言葉の力による神の国の再建のためのものであります。
23章29節には、「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」と主は言われています。このように御言葉は神の御心に沿わないものを焼き尽くす火であったのです。
新約聖書ヘブライ4章12節にも、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」とあります。御言葉はすべてのものを明らかにし、正しい審きと再建をもたらすのです。
エレミヤの使命は「御言葉による神の国とその民の再建」でありました。
「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」というのは、これから起こるであろうエルサレムの崩壊と捕囚を示しています。それは避けられなかったのでしょうか?主はエレミヤ以前にも幾度も預言者を遣わし、立ち返るようにと忍耐強くさとし、促されたのです。
けれども民と王たちは主に逆らい、主に罪を犯し続け、その心は実にかたくなであったのです。そのままでは神の民としての都も人々の信仰も腐り朽ち果てるしかなかったのです。
神の国とその民の再建、「建て」「植える」ためには地を焼き払い、荒地を耕して、そこに将来の種子を蒔く必要があったのです。
大阪教会の新会堂建築に先立ち、旧会堂は完全に解体されました。旧会堂が粉々になっていくのは少し寂しく心が痛みましたが。「古いものは過ぎ去り、見よ、新しいものが生じた」という実体が今の大阪教会には必要なのだ、と思いました。
又、その基礎地盤となる地中からあらゆるガレキや障害物もほぼ取り除かれました。
それは新しい大阪教会のあゆみを始めるため取り除かれるべき過去の遺物を象徴しているようにも思えました。そこに今、基礎地盤が据えられています。私たちは唯キリストとその御言葉を土台にしていくことを、心新たに確認し、神の国とその民としての再建を共に志してまいりたいと切に願います。
最後に、今日は「預言者エレミヤの召命」の箇所を読みましたが。エレミヤは「悲しみの預言者」とも言われています。神の審判を告げ、悔い改めるよう語り続けますが、民らは一向に耳を貸そうとしないばかりか排斥し、迫害します。エレミヤはそんな民のために深く嘆き悲しみとりなし続けるのです。エレミヤは主とその言葉に従うがゆえに多くの苦難と悲しみ、さらに危機に遭遇いたしますが。その度に何度も、何十回、いやもしかすると何百回以上も、主の召命の言葉を思い起こしたことではないでしょうか。その預言者として主に立てられた時の「召命の言葉」を幾度も反芻する中で、慰めと力を得、その働きを担い続けることができたのでありましょう。主なる神さまは、エレミヤ(神が立てられるの意)というその名の通り、神の国とその民の再建のために彼を建て、用いられました。
主の御救に与っている私たちも又、主の福音を伝え、証しするためにそれぞれが主に立てられ、用いられます。小さなことを忠実に、心を込めて主に従ってまいりましょう。主は共におられます。