宣教 エレミヤ28章1-17節
本日はエレミヤ書28章1-17節よりみ言葉を聞いていきます。
この箇所は前の27章とのつながりがありますので、そこをまず少しずつ読んでいきたいと思います。
2節で、主は、エレミヤに軛を作って自分の首にはめるようにお命じになります。軛というのは2頭の牛や馬、あるいやロバなどの家畜をその横木でつなぎ畑仕事などをさせる道具であります。エレミヤはその軛を作り、自ら首にはめて、エドムの王、モアブの王、アンモンの王、ティルスの王らの使者たちのもとに行きます。彼らはバビロンに対抗すべくユダと軍事同盟を結ぶためにエルサレムに集まっていたのでした。エレミヤは彼ら諸王への伝言として主の言葉を伝えます。
少し長いですが。5節~11節、「わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。今や主は、これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツェルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかし、彼の国にも終わりの時が来れば、多くの国々と大王たちが彼を奴隷にする。バビロンの王ネブカドネツェルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する。(中略)あなたたちは、預言者、占い師、夢占い、卜者、魔法使いたちに聞き従ってはならない。彼らは、バビロンの王に仕えるべきでないと言っているが、それは偽りの預言である。彼らに従えば、あなたたちは国土を遠く離れることになる。わたしはあなたたちを追い払い、滅ぼす。しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕えるならば、わたしはその国民を国土に残す」。
ここには、主が天地万物の造り主であり、あらゆる世界の王や権力を統治されるお方であることが示されています。そして主はそのような大国となったバビロンでさえ、やがては主の御手のうちに終わりの時が来ることを告げます。
エレミヤは又、ユダの王ゼデキヤにも同じような主の言葉を伝えます。
12節~15節、「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいであろうか。主がバビロンの王に仕えるな、と言っている預言者たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らはあなたたちに偽りの預言をしているのだ。主は言われる。わたしは彼らを派遣していないのに、彼らはわたしの名を使って偽りの預言をしている。彼らに従うならば、わたしはあなたたちを追い払い、あなたたちとあなたたちに預言している預言者を滅ぼす」。
これを読むと、主がユダの国を愛しておられ、「どうして滅びてよかろうか」と苦悩しておられるようなその思いが伝わってきます。それはユダの国と王が御声に聞き従って命を保つように、という警告であったのですね。
さらに、エレミヤはユダの祭司たちと、民のすべてにも次のように主の言葉を語ります。16節~17節、「彼らは偽りの預言をしているのだ。彼らに聞き従うな。バビロンの王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうしてこの都を廃虚と化してよいだろうか」。
ここにも、愛するユダの民らに向けた主の思いが語られています。主は「わたしが顧みる日まで」と言われるように、決してユダの民をあきらめず、見捨てるようなことはなさらないのです。民が主に立ち帰って生きることこそ、主の御心であり願いなのです。
このような「バビロン王の軛を負い、仕えなさい」というエレミヤの言動に対して、ユダの多くの指導者から民までも、「自国が負けることを語るなど、お前は売国人か」というような激しいののしりや排斥があったことでしょう。実際エレミヤと同じように主によって預言していたウリヤは、エレミヤの言葉と同じ預言をしたために王に惨殺されてしまいました。エレミヤも身の危険や殉教を覚悟で主の言葉をまっすぐに伝えていったのです。
ユダの国と民を心から愛していたからです。
さて、本日の28章でありますが。以上のようなエレミヤのなしたことが預言者ハナンヤのもとにも届きます。そうしてその同じ年、ハナンヤは主の神殿において祭司とすべての民の前でエレミヤと対決することとなるのです。ある注解者によれば、このハナンヤは国家主義派の預言者であったとも言われています。エルサレムとその神殿は永遠に不滅であるという不滅神話のもと、いかなるものからも侵されるべきものではないというかたくなな信念を彼はもち、さらにユダのゼデキヤ王の政策にも影響を与えるような従軍預言者であったとも言われています。
ハナンヤは、エレミヤとは真逆に、「主はバビロン王のくびきを打ち砕く」とエレサレム中に触れまわって語ります。すなわちそれは、ユダが近隣諸国と軍事同盟を組んでバビロンと交戦することを推奨し、バビロンを打ち砕くことが平和の道だ、と説いたのです。
エレミヤはそのハナンヤに対して答えます。
「アーメン、主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように」。それはある面ハナンヤの預言を受け入れ肯定しているかのようです。実際エレミヤは遠い将来バビロン王の軛もいずれは打ち砕かれる時が来ること。やがて民はバビロンの捕囚から解放されてエルサレムに帰還できることを主から聞かされていたからです。
エレミヤはハナンヤの預言の誤っている点について次のように指摘するのであります。
8節~9節、「あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、巨大な大国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」。
それはつまり、「あなたは口先だけの耳触りのよい言葉でユダの祭司やすべての民に繁栄を語っているが。それが本当に主から遣わされた者の言葉かどうかは、実際事が起こった時に明らかになる。歴史が証明する」のです。真の主の預言者たちは、これまでも主に逆らい罪を犯し続ける国と民に向け、主の審きである戦いと災い、飢饉や疫病を預言し続けてきました。しかし民がその預言を受け入れ、悔い改めることなく、いつの時代も真の預言者は排斥と迫害に遭い、審きは現実のものとなったのです。もしハナンヤも主の教えと御心から離れ罪を犯し続けるユダの王や民の現状を直視し、真実に主に執り成し、悔い改めをもって立ち帰る道を説く者であったなら、そんな簡単に「主がバビロンの軛を打ち砕く」などと軽々しく言えはしなかったでしょう。
私たちは安心を与えてくれる言葉や存在を求め、何とか肯定的に生きていこうとします。それは生きる力にもなるでしょう。一方で、自分に都合のよい言葉を聞きたがり、手軽で有利な解決策を提示してくれる人を好み、支持し、真実な声、真に愛情や配慮をもってなされる忠告がわからない、聞くことができない、ということはないでしょうか。
エレミヤの言葉を聞いたハナンヤは、「エレミヤの首から軛をはずして、打ち砕き」、次のように言います。
11節、「主は言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王の軛を打ち砕く」。ようするに、「何を言うか、ユダの国はバビロンなど、この軛のように打ち破ることできる。ユダは神の国なのだから決して負けない、滅びることなどない」と、豪語して見せたんですね。
これはまさにハナンヤの劇場型パフォーマンス、一人舞台ともいえる光景ですが。それは主からの預言ではありません。ハナンヤはユダの民の耳に心地よく、人々から人気を博するような口先だけの回復の預言をなしました。それは又、暴力的なものでもありました。周りにいたユダの民たちは、「バビロンの王の軛が打ち砕かれた、ああすっきりした。自分たちのうっぷんをハナンヤは晴らしてくれた」と、きっとハナンヤを称賛し、ハナンヤはヒーローさながらの好評を得たことでしょう。しかしそれは平和と共存を訴えるエレミヤの預言とは真逆なものであり、暴力を肯定し、大衆に戦闘的意識を持たせていくような方向へといざなう行為であったといえます。
あのナチス・ドイツのヒトラーはその独裁性ゆえに人びとからただ恐れられたように思いがちですが、実は大衆はおおむねヒトラーに好意を持っていたということです。彼はマスメディアを巧みに利用し、あのパフォーマンスともいえる独特の話術スタイルでインパクトを与え、民衆を国粋主義者に、狂気の集団殺戮へと煽動していったのです。このようなことは過去のことでしょうか。否、いつでも、どの国においても、あるいは身近にも起こり得ることです。目を覚まして、祈り続けなければなりません。
さて、エレミヤはこのハナンヤの言葉を聞き「立ち去った」とあります。彼はどのような思いで、立ち去ったのでしょうか。その事について何も記されていませんので想像の域を超えませんが。エレミヤは敢えて売り言葉に買い言葉というような議論をしませんでした。
それは感情的になってハナンヤと対決すれば、相手の思う壺にはまる危険性があったという事かも知れません。エレミヤの周囲にはハナンヤを称賛し、その言葉とパフォーマンスに陶酔していた大衆がいました。エレミヤも言い返したい事の一つや二つはあった事でしょう。けれども彼はそんな自分の考えや感情より優先させるべき事柄があったのです。
この「立ち去る」という言葉は、ヘブライ語の原語で「自分の道を行く(帰る)」という意味があるそうです。エレミヤの行くべき道、使命は「主の言葉と御心を伝える」、その一事にあったのです。エレミヤは一旦その場所から離れることによって、もう一度霊性に基づいて事態を見つめ直し、主に祈ってハナンヤと再度向き合う時に備えたのではないでしょうか。
その後、エレミヤに主の言葉が次のように臨みました。
13節~14節、「行ってハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツェルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた」。
ここには、御心を尋ね求めることなく語り行う事への厳格な審きが語られます。それは単なる罰というのではなく、主が命を得させようとなさったのに、国と民が自ら選び取った審きの道でありました。
エレミヤは続けて次のように言います。
15節~16節、「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ主はこう言われる。『わたしはお前をこの地から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったのだから」。
そして事実そのエレミヤの預言の言葉どおりの事が起こるのであります。偽りの預言をなす者、又それに従う者に、主の審きと滅びが返って来るのです。これは又、現代に生きる私たちに対する警告であり、教訓です。
本日の箇所でエレミヤが首にはめた軛には、バビロンと軛を共にするように、バビロンの王に仕えるように、という意味あいが込められていました。しかしその本来の主の御心は、ユダの王や民が罪を悔い改め、主ご自身と共に軛を負う者となることにあったのです。
主イエスは、マタイ11章28節~30節にあるように、「真の平安、真の安息は主と軛を共にする」ことだと語られています。主の教えに学び、信頼をもって従うことによってそれを得ることができるのです。
本日は、預言者エレミヤとハナンヤの対決の場面から御言葉を聞きました。私たちも又、様々な情報が飛び交う中で、何を信じ従うべきか。そう言う時に真の神のみ声を聞き分け、従うことが出来るか否か。その判断と選びとりは、日毎の主との交わり、対話、御言葉に聞き、祈ること、愛を持って執り成すことによって養われます。そういった判断と見分ける目を、信仰と御言葉の学び、共なる祈りを通して培ってまいりましょう。
最後にフィリピ1章9節~11節をお読みします。
本日はエレミヤ書28章1-17節よりみ言葉を聞いていきます。
この箇所は前の27章とのつながりがありますので、そこをまず少しずつ読んでいきたいと思います。
2節で、主は、エレミヤに軛を作って自分の首にはめるようにお命じになります。軛というのは2頭の牛や馬、あるいやロバなどの家畜をその横木でつなぎ畑仕事などをさせる道具であります。エレミヤはその軛を作り、自ら首にはめて、エドムの王、モアブの王、アンモンの王、ティルスの王らの使者たちのもとに行きます。彼らはバビロンに対抗すべくユダと軍事同盟を結ぶためにエルサレムに集まっていたのでした。エレミヤは彼ら諸王への伝言として主の言葉を伝えます。
少し長いですが。5節~11節、「わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。今や主は、これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツェルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかし、彼の国にも終わりの時が来れば、多くの国々と大王たちが彼を奴隷にする。バビロンの王ネブカドネツェルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する。(中略)あなたたちは、預言者、占い師、夢占い、卜者、魔法使いたちに聞き従ってはならない。彼らは、バビロンの王に仕えるべきでないと言っているが、それは偽りの預言である。彼らに従えば、あなたたちは国土を遠く離れることになる。わたしはあなたたちを追い払い、滅ぼす。しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕えるならば、わたしはその国民を国土に残す」。
ここには、主が天地万物の造り主であり、あらゆる世界の王や権力を統治されるお方であることが示されています。そして主はそのような大国となったバビロンでさえ、やがては主の御手のうちに終わりの時が来ることを告げます。
エレミヤは又、ユダの王ゼデキヤにも同じような主の言葉を伝えます。
12節~15節、「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいであろうか。主がバビロンの王に仕えるな、と言っている預言者たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らはあなたたちに偽りの預言をしているのだ。主は言われる。わたしは彼らを派遣していないのに、彼らはわたしの名を使って偽りの預言をしている。彼らに従うならば、わたしはあなたたちを追い払い、あなたたちとあなたたちに預言している預言者を滅ぼす」。
これを読むと、主がユダの国を愛しておられ、「どうして滅びてよかろうか」と苦悩しておられるようなその思いが伝わってきます。それはユダの国と王が御声に聞き従って命を保つように、という警告であったのですね。
さらに、エレミヤはユダの祭司たちと、民のすべてにも次のように主の言葉を語ります。16節~17節、「彼らは偽りの預言をしているのだ。彼らに聞き従うな。バビロンの王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうしてこの都を廃虚と化してよいだろうか」。
ここにも、愛するユダの民らに向けた主の思いが語られています。主は「わたしが顧みる日まで」と言われるように、決してユダの民をあきらめず、見捨てるようなことはなさらないのです。民が主に立ち帰って生きることこそ、主の御心であり願いなのです。
このような「バビロン王の軛を負い、仕えなさい」というエレミヤの言動に対して、ユダの多くの指導者から民までも、「自国が負けることを語るなど、お前は売国人か」というような激しいののしりや排斥があったことでしょう。実際エレミヤと同じように主によって預言していたウリヤは、エレミヤの言葉と同じ預言をしたために王に惨殺されてしまいました。エレミヤも身の危険や殉教を覚悟で主の言葉をまっすぐに伝えていったのです。
ユダの国と民を心から愛していたからです。
さて、本日の28章でありますが。以上のようなエレミヤのなしたことが預言者ハナンヤのもとにも届きます。そうしてその同じ年、ハナンヤは主の神殿において祭司とすべての民の前でエレミヤと対決することとなるのです。ある注解者によれば、このハナンヤは国家主義派の預言者であったとも言われています。エルサレムとその神殿は永遠に不滅であるという不滅神話のもと、いかなるものからも侵されるべきものではないというかたくなな信念を彼はもち、さらにユダのゼデキヤ王の政策にも影響を与えるような従軍預言者であったとも言われています。
ハナンヤは、エレミヤとは真逆に、「主はバビロン王のくびきを打ち砕く」とエレサレム中に触れまわって語ります。すなわちそれは、ユダが近隣諸国と軍事同盟を組んでバビロンと交戦することを推奨し、バビロンを打ち砕くことが平和の道だ、と説いたのです。
エレミヤはそのハナンヤに対して答えます。
「アーメン、主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように」。それはある面ハナンヤの預言を受け入れ肯定しているかのようです。実際エレミヤは遠い将来バビロン王の軛もいずれは打ち砕かれる時が来ること。やがて民はバビロンの捕囚から解放されてエルサレムに帰還できることを主から聞かされていたからです。
エレミヤはハナンヤの預言の誤っている点について次のように指摘するのであります。
8節~9節、「あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、巨大な大国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」。
それはつまり、「あなたは口先だけの耳触りのよい言葉でユダの祭司やすべての民に繁栄を語っているが。それが本当に主から遣わされた者の言葉かどうかは、実際事が起こった時に明らかになる。歴史が証明する」のです。真の主の預言者たちは、これまでも主に逆らい罪を犯し続ける国と民に向け、主の審きである戦いと災い、飢饉や疫病を預言し続けてきました。しかし民がその預言を受け入れ、悔い改めることなく、いつの時代も真の預言者は排斥と迫害に遭い、審きは現実のものとなったのです。もしハナンヤも主の教えと御心から離れ罪を犯し続けるユダの王や民の現状を直視し、真実に主に執り成し、悔い改めをもって立ち帰る道を説く者であったなら、そんな簡単に「主がバビロンの軛を打ち砕く」などと軽々しく言えはしなかったでしょう。
私たちは安心を与えてくれる言葉や存在を求め、何とか肯定的に生きていこうとします。それは生きる力にもなるでしょう。一方で、自分に都合のよい言葉を聞きたがり、手軽で有利な解決策を提示してくれる人を好み、支持し、真実な声、真に愛情や配慮をもってなされる忠告がわからない、聞くことができない、ということはないでしょうか。
エレミヤの言葉を聞いたハナンヤは、「エレミヤの首から軛をはずして、打ち砕き」、次のように言います。
11節、「主は言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王の軛を打ち砕く」。ようするに、「何を言うか、ユダの国はバビロンなど、この軛のように打ち破ることできる。ユダは神の国なのだから決して負けない、滅びることなどない」と、豪語して見せたんですね。
これはまさにハナンヤの劇場型パフォーマンス、一人舞台ともいえる光景ですが。それは主からの預言ではありません。ハナンヤはユダの民の耳に心地よく、人々から人気を博するような口先だけの回復の預言をなしました。それは又、暴力的なものでもありました。周りにいたユダの民たちは、「バビロンの王の軛が打ち砕かれた、ああすっきりした。自分たちのうっぷんをハナンヤは晴らしてくれた」と、きっとハナンヤを称賛し、ハナンヤはヒーローさながらの好評を得たことでしょう。しかしそれは平和と共存を訴えるエレミヤの預言とは真逆なものであり、暴力を肯定し、大衆に戦闘的意識を持たせていくような方向へといざなう行為であったといえます。
あのナチス・ドイツのヒトラーはその独裁性ゆえに人びとからただ恐れられたように思いがちですが、実は大衆はおおむねヒトラーに好意を持っていたということです。彼はマスメディアを巧みに利用し、あのパフォーマンスともいえる独特の話術スタイルでインパクトを与え、民衆を国粋主義者に、狂気の集団殺戮へと煽動していったのです。このようなことは過去のことでしょうか。否、いつでも、どの国においても、あるいは身近にも起こり得ることです。目を覚まして、祈り続けなければなりません。
さて、エレミヤはこのハナンヤの言葉を聞き「立ち去った」とあります。彼はどのような思いで、立ち去ったのでしょうか。その事について何も記されていませんので想像の域を超えませんが。エレミヤは敢えて売り言葉に買い言葉というような議論をしませんでした。
それは感情的になってハナンヤと対決すれば、相手の思う壺にはまる危険性があったという事かも知れません。エレミヤの周囲にはハナンヤを称賛し、その言葉とパフォーマンスに陶酔していた大衆がいました。エレミヤも言い返したい事の一つや二つはあった事でしょう。けれども彼はそんな自分の考えや感情より優先させるべき事柄があったのです。
この「立ち去る」という言葉は、ヘブライ語の原語で「自分の道を行く(帰る)」という意味があるそうです。エレミヤの行くべき道、使命は「主の言葉と御心を伝える」、その一事にあったのです。エレミヤは一旦その場所から離れることによって、もう一度霊性に基づいて事態を見つめ直し、主に祈ってハナンヤと再度向き合う時に備えたのではないでしょうか。
その後、エレミヤに主の言葉が次のように臨みました。
13節~14節、「行ってハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツェルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた」。
ここには、御心を尋ね求めることなく語り行う事への厳格な審きが語られます。それは単なる罰というのではなく、主が命を得させようとなさったのに、国と民が自ら選び取った審きの道でありました。
エレミヤは続けて次のように言います。
15節~16節、「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ主はこう言われる。『わたしはお前をこの地から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったのだから」。
そして事実そのエレミヤの預言の言葉どおりの事が起こるのであります。偽りの預言をなす者、又それに従う者に、主の審きと滅びが返って来るのです。これは又、現代に生きる私たちに対する警告であり、教訓です。
本日の箇所でエレミヤが首にはめた軛には、バビロンと軛を共にするように、バビロンの王に仕えるように、という意味あいが込められていました。しかしその本来の主の御心は、ユダの王や民が罪を悔い改め、主ご自身と共に軛を負う者となることにあったのです。
主イエスは、マタイ11章28節~30節にあるように、「真の平安、真の安息は主と軛を共にする」ことだと語られています。主の教えに学び、信頼をもって従うことによってそれを得ることができるのです。
本日は、預言者エレミヤとハナンヤの対決の場面から御言葉を聞きました。私たちも又、様々な情報が飛び交う中で、何を信じ従うべきか。そう言う時に真の神のみ声を聞き分け、従うことが出来るか否か。その判断と選びとりは、日毎の主との交わり、対話、御言葉に聞き、祈ること、愛を持って執り成すことによって養われます。そういった判断と見分ける目を、信仰と御言葉の学び、共なる祈りを通して培ってまいりましょう。
最後にフィリピ1章9節~11節をお読みします。