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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

幸いを運ぶ人

2014-07-06 12:58:05 | メッセージ
礼拝宣教 創世記12章1~9節 

「アブラムの召命」
アブラムの生まれ故郷はメソポタミヤのカルデア地方のウルという町でしたが、父のテラは商業中心地であったハランに移住いたします。恐らく生活の豊かさを求めてハランに移住したのでありましょうが。しかしこのハランもウルと同様、偶像の街であり父のテラやその家族も偶像を礼拝していたようです。(ヨシュア24:2)
都会は田舎のように神社仏閣は少なくそういったしがらみはありませんが、逆に拝金主義や欲望をあおる様々な虚像、偶像に多くの人が惑わされ、捕らわれているというのは今も昔も同様かも知れません。
さておき、そういう状況において1節にありますように、アブラムは生きておられる真の神、主の御声を聞くのであります。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」
主は、アブラムに生まれ故郷から、さらに父の家から離れ、旅立つようにお命じになります。それはアブラムにとっては大変辛い決断を強いられることでありました。さらに主は、アブラムに「わたしが示す地に行きなさい」とだけ命じ、それが実際どこなのか具体的に伝えられていなかったのです。アブラムにとってそれはまさに行き先もわからない旅であったのであります。
そのような突然の主の招きに恐らくは戸惑ったであろうアブラムに主は2節以降でこう言われます。
「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

「信仰の旅路」
このアブラムの祝福については後程お話するとして、これらの主の招き、召命のお言葉をアブラムはどう感じ、どう考えたでありましょうか。ここには何も書かれていませんが。ただ4節に「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とだけ記されています。
「主の言葉に従って」安住の地から旅立っていったアブラム。その決断へ導かれるにはいろんな葛藤があったことでしょう。父とその家との別れ。大いなる国民と言われてもアブラムは75歳という高齢であり、妻のサライも子を産む齢をとうに過ぎていました。見知らぬ地を旅すること自体無謀に思われます。しかし聖書はただ、「アブラムが、主の言葉に従って旅立った」とだけ伝えるのですね。
それはアブラムが自分の考えや思い、又、現実や世の常識によらず、主のお言葉によって立つものとされた、という事であります。これを私たちは「信仰」といいます。

先ほど読みました1節以降には、主自らアブラムに対して「わたしが」と何度も呼びかけられていますよね。それはあたかも、「わたしに信頼し、任せなさい。あとはわたしが責任を負う」とおっしゃっているかのようです。アブラムにとって生まれ故郷や父の家を離れるというのは容易いことではなかったはずです。けれども彼はただ、あなたと私という1対1で関わろうとなさる神さまの「約束の言葉」に自分の全存在をかけ、ハランを出発するのであります。聖書は生ける神さまの約束の言葉に従った人々とその実現の歴史です。主の約束を信じ、立つ者とされる時、私たちも又、アブラムの子孫なのであります。

そして、主の約束の言葉を信じて決断したアブラムは、妻のサライ、甥のロト、さらにアブラムの信仰的決意に賛同した信仰の同志を加え、一緒にカナンの地へ向かいます。
決して一人で旅立ったわけではないのですね。アブラムは主の祝福を自分一人だけのものとは考えていませんでした。祝福に与るため共に労苦する人たち、祝福を分かち合う人たちと共に旅立ったのであります。
私たちもそうですね。クリスチャンとして救いに与り、こうして教会に連なって礼拝を捧げますのは、祝福を互いに分かち合うためであります。

さて、そうしてアブラムは旅を続け、カナンのシケムの聖所、モレの樫の木まで来ると、7節「主はアブラムに現れて、『あなたの子孫にこの土地を与える』」と言われます。

主はそこに来て初めてアブラムにここが約束した地であると、はっきりと告げられます。実にこのカナンの地こそ、1節で、神さまが示された地であったことが明らかになるのです。
アブラムは信仰の長い旅路を経て、遂に神の真実な約束を確認できたのですね。彼は主の約束の言葉に聞くだけでなく、それを信じて実際に行動を起こすことによって、主の約束の言葉が真実であったことを経験するのであります。                  
主なる神の祝福や幸いは、知識や学問で獲得できるのではありません。それはアブラムのように、主の言葉に従ってゆく信仰の実践を通して体験し、経験することができるのです。

「礼拝を捧げる」
さて、主はそのところで「アブラムの子孫にカナンの地を与える」と約束してくださいました。すると「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」とあります。あのノアが箱舟から出て来た時もそうしたように(創世記8章20節)、アブラムもまず主なる神に礼拝を捧げたのであります。

けれどもアブラムはそのカナンの地に定住するのではなく、そこからベテルの地へ、さらにネゲブの地へと移っていきます。カナンの地にはカナンの先住民族が住んでおりましたから、いろんな困難や問題があったのでしょう。13章によれば、ネゲブでは飢饉が起こったのでエジプトまで行ったとあります。しかしそこも安住の地ではありませんでした。そして最終的に再びかつて祭壇が築かれた礼拝の場所へとアブラムは帰ってくるのであります。
困難があり、紆余曲折ありながらも、ついには主が「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束なさったその場所で、そのお言葉が実現されてゆくのです。
アブラムにとって現実の旅路は様々な問題や困難と苦悩の連続でした。しかし彼は、その行く所行く所に祭壇を築き、主なる神さまを礼拝しました。それは「ここに、この現実の今ここに、主はおられる」という信仰の確認でした。

私たち一人ひとりも問題のただ中にありながら、又、悩みを抱えながら、あるいは病を負いながらも、今日このところで礼拝と祈りの祭壇を築くために集まってまいりました。主はここに、私の重い現実の今ここにおられ、祈りと願いとに耳を傾けて下さることを私たちは信じています。

本日は、「幸いを運ぶ人」と題し、アブラムの召命と移住の旅の記事から御言葉を聞いてきました。
一体アブラムの祝福とは何であったのでしょう。2節と3節には「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」というものでした。アブラムに与えられた祝福、それはアブラムから星の数程多くの子孫が出るという約束でした。確かにその子イサク、そして孫のヤコブから、イスラエルの12部族が誕生していくのでありますが。そして遂に時至って新約の地代にお生まれになったイエス・キリストを通して、今、私たちもまたアブラムの霊的な子孫とされ、その大いなる祝福に与るものとされているのであります。
主はアブラムに「あなたは祝福の源となるように」と言われていますが。それは「あなたは幸いの根っこになりなさい」という意味であります。

今わたしが置かれている状況、生活の場。そこには煩わしい問題も横たわっているかも知れません。地味なこれといって変わり映えのしない毎日かも知れません。けれども主は、そこに私たちが身を置いて祝福の源となること、祝福を分かつ者として生きるようにと、招いておられるのです。「あなたは祝福の源だ、幸いな人だ。幸いの根っこになりなさい。」

私たちにとって幸いは、「主のお言葉に聞き、そこに身をおいて生きてゆく時、やがて主の約束の言葉が真実なものであるということを確信できる日が訪れる」ということです。信仰は聞くことから始まりますが。それはさらに御言葉を信じ実践し、生きてゆくことを通して、主の祝福、幸いを体感することができるのであります。
私たちはその幸いに与りつつ、この一度限りの人生の旅路においてそれを持ち運ぶ者とされているのです。今週の一日一日において恵み豊かな神さまを信じ、祝福を受けとってゆく方が起こされていきますよう祈り続け、主のご用に勤しんでまいりましょう。
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