礼拝宣教 創世記15章1~6節
先週は民間の旅客機がウクライナの上空で地対空ミサイルに撃墜されるという傷ましい惨事が起り、中東ではイスラエルが遂に地上戦となるガザへの侵攻を開始しましたが、武器や武力によって憎しみの連鎖が拡大するばかりです。昨今の社会情勢を見渡す時、どこもかしこも紛争の火種がくすぶっており、世界的に不安と緊張の度合いが高まってきています。片や経済の回復や成長が叫ばれる中、益々貧富の差は大きくなり、それは私たちの日本も深刻な状況になっております。
今日に至りますまで、私たちの生活における安心というものは「信頼関係」のうえに成り立ち、保たれてきました。例えば、日常生活において、食品をはじめ様々な商品を買う時も、いちいち疑っていたら何も買うことができません。仕事をする上でもそのことは欠かせませんし、銀行にお金を預けることも、信用できなければ預金などできません。この新会堂建築においても最初に設工業者と私たち教会とで契約を結びましたが、それも信頼関係のうえにこうして建てられているのです。何ごとにしても「信頼」があって日常生活の様々な事象は始まり、この目には見えない信頼関係によってこの社会は成り立っているといっても過言ではないでしょう。
しかし、その信頼関係が様々なところで大きく揺すぶられ損なわれてきている昨今であります。私たちは何を確かなものとし、どこに希望をおいて生きてゆくことができるのでしょうか。
7月の礼拝から、信仰の父といわれるアブラムの記述より聖書を読んでおりますが。
ただ神の導きに信頼し、行き先も知らないで旅立ったアブラム。天幕を張るその先々に祭壇を築き、主の御名を呼んで神と1対1の信頼関係を築こうとするアブラムの姿を追ってまいりました。
本日は創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とのお言葉から、私たちの命の基である神さまとの信頼関係をさらに深めてゆきたいと願っております。
さて、本日の創世記15章1節の冒頭には、「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」と記されています。
これらのことの後というのは、前の14章の出来事を指すのですが。ソドムとゴモラの地の王を中心とする5カ国同盟と、カナンの地の4カ国同盟が戦い、結局カナンの地の4カ国同盟がソドムとゴモラの地にあった財産や食糧を奪ってゆくのですが、そこに住んでいた甥のロトも捕虜となり財産もろとも連れ去られてしまうのです。
その知らせを聞いたアブラムは訓練を受けた者318人を召集し、まったく奇跡的にもカナンの地の4国同盟を打ち破り、ロトとその財産、女性たちやそのほかの人々も取り戻すことができたのです。
このことを知ったソドムの王はアブラムを出迎え、神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒をもって来てアブラムを祝福し「いと高き神がたたえられますように」と宣言すると、アブラムはすべての物の10分の1を彼に贈ります。
一方ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言うのですが、アブラムは「あなたの物はたとえ糸一筋、靴ひも1本でも、決していただきません」と言って断ります。それは何もアブラムが遠慮したわけではなく、「アブラムを裕福したのは、このわたしだ」とソドムの王に言われたくなかったというのが、その理由でした。アブラムにとって祝福はソドムの王から来るのではなく、主なる神から来るものであり、アブラム自身国や自分の利益のため戦ったのではなく、ただ甥のロトとその家族らを救出するための行動でしたから、ここで借りを作ったり、しがらみに縛られて国々の争いに巻き込まれたくなかったのでしょう。主はこの地を与えるといわれたにも拘わらず、そこには先住民の力関係や争い事が渦巻いており、アブラムの目に映った現実はあまりにもほど遠いものであり、それら一連の出来事のゆえにアブラムは恐れを抱いていたのであります。
15章の冒頭において、主はそのようなアブラムに「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と語られるのです。
あなたの盾とはあなたを守る盾となる重い約束です。犠牲をいとわないという意味です。
アブラムは不安でした。この先どうなるのか。どこに祝福を見出せばよいのか。未だ目に見える保証は何もありません。
彼は、「わが神、主よ。わたしに何をくださるのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」。アブラムは言葉をついで「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」と、主に訴えます。
ここに来て初めてアブラムは、「あなたのおっしゃることのどこに信頼したらいのですか」と、半ば主に詰寄るように問うているのです。主の導きにすべてをかけて旅立った。そして「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたの子孫にこの土地を与える。」
さらに「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」との御声を聞いた。ところが、未だそれが現実となるような兆しすらない、そのことへの焦りや不満が一度に噴き出すのです。
そのようなアブラムの訴えに主は答えられます。
「ダマスコのエリエゼルが跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
そして主はアブラムを外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」
これまで、主はアブラムを祝福の源となる、子孫と土地を与えられることによって現実のものとなるとの約束を繰り返されてきました。それは主なる神さまから一方的に語られる言葉でありました。ところが、今日の箇所の6節において「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあるように、神さまとアブラムの間に信頼の関係が築かれるのですね。力関係の中でただ従うというのとは違う1対1の信頼関係。その中で主なる神さまとアブラムは大いなる約束、契約を結んでゆくのであります。
本日の箇所を読んで心に留まりますのは、主なる神とアブラムとの直接的な対話であります。あの信仰の父として称賛されるアブラムであっても、恐れを抱えながらの日々と
先行きに対する不安から、神さまに焦りや不満を口にしたというのは、私たちにはどこか遠い存在であったアブラムが少し近しい存在として感じられもいたしますが。しかし、アブラムはそこで不信に陥るのではなく、神さまに対する強いこだわりや関心をもって神さまと向き合い、その祈りと黙想の中で神さまとの信頼関係を見出してゆくのです。
最後にローマの信徒への手紙4章18節を読んでみましょう。新約聖書p279上段18節。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」
跳んで20節~22節。「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」
人は自分の力で、神の前に義を得ることはできません。では私たちはどうしたら神の義、神の救いに与ることができるのでしょうか。
続けてローマ4章23節以降を読んでみましょう。
「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」
神が御独り子イエス・キリストを私の罪のために、その罪を贖うために与えてくださったその一方的な愛と恵みを、アブラムがなしたように祈りと黙想、神さまとの対話のうちに、神との信頼関係を見出し、信仰をもってそれを受け取り続けてゆくとき、私たちも又、その信仰によって義とされ、主の救いのうちにあって生きていくことが、恵みとして与えられるのです。私たちにとって神の義とは、その信仰による救いそのものであります。
私たちは日常の様々な出来事に右往左往したり、上がったり下がったりする中で、神さまのことを忘れてしまうようなことがありますけれども、神さまは私たちになさった救いの約束を決してお忘れになることはありません。
ヨハネによる福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれているとおりです。御独り子を与え尽くすほどに私たち一人ひとりのことを愛してやまず、覚えてくださる神さま。アブラムに「恐れるな、わたしはあなたの盾、あなたの受ける報いは非常に大きい」と約束したもう神さまは、今日私たちにも又、「恐れるな、わたしはあなたの盾、あなたの受ける報いは非常に大きい」と語りかけておられます。この尊い信仰による神の義に与って、約束の祝福を受ける者とされてまいりましょう。
先週は民間の旅客機がウクライナの上空で地対空ミサイルに撃墜されるという傷ましい惨事が起り、中東ではイスラエルが遂に地上戦となるガザへの侵攻を開始しましたが、武器や武力によって憎しみの連鎖が拡大するばかりです。昨今の社会情勢を見渡す時、どこもかしこも紛争の火種がくすぶっており、世界的に不安と緊張の度合いが高まってきています。片や経済の回復や成長が叫ばれる中、益々貧富の差は大きくなり、それは私たちの日本も深刻な状況になっております。
今日に至りますまで、私たちの生活における安心というものは「信頼関係」のうえに成り立ち、保たれてきました。例えば、日常生活において、食品をはじめ様々な商品を買う時も、いちいち疑っていたら何も買うことができません。仕事をする上でもそのことは欠かせませんし、銀行にお金を預けることも、信用できなければ預金などできません。この新会堂建築においても最初に設工業者と私たち教会とで契約を結びましたが、それも信頼関係のうえにこうして建てられているのです。何ごとにしても「信頼」があって日常生活の様々な事象は始まり、この目には見えない信頼関係によってこの社会は成り立っているといっても過言ではないでしょう。
しかし、その信頼関係が様々なところで大きく揺すぶられ損なわれてきている昨今であります。私たちは何を確かなものとし、どこに希望をおいて生きてゆくことができるのでしょうか。
7月の礼拝から、信仰の父といわれるアブラムの記述より聖書を読んでおりますが。
ただ神の導きに信頼し、行き先も知らないで旅立ったアブラム。天幕を張るその先々に祭壇を築き、主の御名を呼んで神と1対1の信頼関係を築こうとするアブラムの姿を追ってまいりました。
本日は創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とのお言葉から、私たちの命の基である神さまとの信頼関係をさらに深めてゆきたいと願っております。
さて、本日の創世記15章1節の冒頭には、「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」と記されています。
これらのことの後というのは、前の14章の出来事を指すのですが。ソドムとゴモラの地の王を中心とする5カ国同盟と、カナンの地の4カ国同盟が戦い、結局カナンの地の4カ国同盟がソドムとゴモラの地にあった財産や食糧を奪ってゆくのですが、そこに住んでいた甥のロトも捕虜となり財産もろとも連れ去られてしまうのです。
その知らせを聞いたアブラムは訓練を受けた者318人を召集し、まったく奇跡的にもカナンの地の4国同盟を打ち破り、ロトとその財産、女性たちやそのほかの人々も取り戻すことができたのです。
このことを知ったソドムの王はアブラムを出迎え、神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒をもって来てアブラムを祝福し「いと高き神がたたえられますように」と宣言すると、アブラムはすべての物の10分の1を彼に贈ります。
一方ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言うのですが、アブラムは「あなたの物はたとえ糸一筋、靴ひも1本でも、決していただきません」と言って断ります。それは何もアブラムが遠慮したわけではなく、「アブラムを裕福したのは、このわたしだ」とソドムの王に言われたくなかったというのが、その理由でした。アブラムにとって祝福はソドムの王から来るのではなく、主なる神から来るものであり、アブラム自身国や自分の利益のため戦ったのではなく、ただ甥のロトとその家族らを救出するための行動でしたから、ここで借りを作ったり、しがらみに縛られて国々の争いに巻き込まれたくなかったのでしょう。主はこの地を与えるといわれたにも拘わらず、そこには先住民の力関係や争い事が渦巻いており、アブラムの目に映った現実はあまりにもほど遠いものであり、それら一連の出来事のゆえにアブラムは恐れを抱いていたのであります。
15章の冒頭において、主はそのようなアブラムに「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と語られるのです。
あなたの盾とはあなたを守る盾となる重い約束です。犠牲をいとわないという意味です。
アブラムは不安でした。この先どうなるのか。どこに祝福を見出せばよいのか。未だ目に見える保証は何もありません。
彼は、「わが神、主よ。わたしに何をくださるのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」。アブラムは言葉をついで「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」と、主に訴えます。
ここに来て初めてアブラムは、「あなたのおっしゃることのどこに信頼したらいのですか」と、半ば主に詰寄るように問うているのです。主の導きにすべてをかけて旅立った。そして「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたの子孫にこの土地を与える。」
さらに「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」との御声を聞いた。ところが、未だそれが現実となるような兆しすらない、そのことへの焦りや不満が一度に噴き出すのです。
そのようなアブラムの訴えに主は答えられます。
「ダマスコのエリエゼルが跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
そして主はアブラムを外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」
これまで、主はアブラムを祝福の源となる、子孫と土地を与えられることによって現実のものとなるとの約束を繰り返されてきました。それは主なる神さまから一方的に語られる言葉でありました。ところが、今日の箇所の6節において「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあるように、神さまとアブラムの間に信頼の関係が築かれるのですね。力関係の中でただ従うというのとは違う1対1の信頼関係。その中で主なる神さまとアブラムは大いなる約束、契約を結んでゆくのであります。
本日の箇所を読んで心に留まりますのは、主なる神とアブラムとの直接的な対話であります。あの信仰の父として称賛されるアブラムであっても、恐れを抱えながらの日々と
先行きに対する不安から、神さまに焦りや不満を口にしたというのは、私たちにはどこか遠い存在であったアブラムが少し近しい存在として感じられもいたしますが。しかし、アブラムはそこで不信に陥るのではなく、神さまに対する強いこだわりや関心をもって神さまと向き合い、その祈りと黙想の中で神さまとの信頼関係を見出してゆくのです。
最後にローマの信徒への手紙4章18節を読んでみましょう。新約聖書p279上段18節。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」
跳んで20節~22節。「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」
人は自分の力で、神の前に義を得ることはできません。では私たちはどうしたら神の義、神の救いに与ることができるのでしょうか。
続けてローマ4章23節以降を読んでみましょう。
「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」
神が御独り子イエス・キリストを私の罪のために、その罪を贖うために与えてくださったその一方的な愛と恵みを、アブラムがなしたように祈りと黙想、神さまとの対話のうちに、神との信頼関係を見出し、信仰をもってそれを受け取り続けてゆくとき、私たちも又、その信仰によって義とされ、主の救いのうちにあって生きていくことが、恵みとして与えられるのです。私たちにとって神の義とは、その信仰による救いそのものであります。
私たちは日常の様々な出来事に右往左往したり、上がったり下がったりする中で、神さまのことを忘れてしまうようなことがありますけれども、神さまは私たちになさった救いの約束を決してお忘れになることはありません。
ヨハネによる福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれているとおりです。御独り子を与え尽くすほどに私たち一人ひとりのことを愛してやまず、覚えてくださる神さま。アブラムに「恐れるな、わたしはあなたの盾、あなたの受ける報いは非常に大きい」と約束したもう神さまは、今日私たちにも又、「恐れるな、わたしはあなたの盾、あなたの受ける報いは非常に大きい」と語りかけておられます。この尊い信仰による神の義に与って、約束の祝福を受ける者とされてまいりましょう。