礼拝宣教 創世記12章10~13章18節
「あなたは祝福の源となるように」という神の約束の御言葉に従って旅立ったアブラム。カナンの地に入りますと、主はアブラムに現れて「あなたの子孫にこの土地を与える」と宣言なさいます。アブラムはそこに主の祭壇を築き、感謝を込めて礼拝をささげました。その後、幾多の理由からベテル、さらにネゲブ地方に向けての旅を続けますが、アブラムはその所その所において主の祭壇を築き礼拝を捧げていきます。
この先どうなっていくかわからない。問題や不安を抱え、願い未だ叶わず。しかし、そんな人生の旅路にあって、今日も主の祭壇を築くため、ここに集まってまいりました。
本日は「神の祝福とは」と題し、御言葉を聞いていきます。
「エジプトでのアブラム」
移り住んだネゲブ地方に激しい飢饉が起こったのでアブラム一行は肥沃なエジプトを目指して旅を続けます。12章10節以降には、エジプト滞在についてのエピソードが記されていますが。そこで何とアブラムは妻サライに自分の妹であると偽らせ、身の安全を図ろうとします。美しい妻を自分のものにしようとして夫である自分は殺されてしまうかも知れない、というのがその理由でした。アブラムは恐れと不安のゆえに何とか身の安全を図ろうと考え、万一に備えてのことだったのでしょうが。多くの聖書注解書では「利己的」で「自分本位」なもので、何より「神への信頼を欠いた態度」との見方が強いようです。
そして、事態はアブラムの予想を超えた展開となり、妻サライがエジプトのファラオに召し入れられ、12章16節にあるように「アブラムもサライのゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなど与えられた」というのです。
「不思議な神の取り扱い」
ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせます。主はそのような策を企てたアブラムにではなくファラオに対して災いを下すのです。まあファラオや宮廷の人たちはサライがアブラムの妻であることを知りもしなかったわけですから、神さまは何てアブラムをエコひいきされるのかと思いますけれども。実はそこには、たとえ我が身の安全のために策をこうじるような人間的なアブラムでありましても、なお、「あなたを祝福する」「あなたは祝福の源となるように」との神さまの約束は決して揺がずアブラムの生涯に亘って貫かれていることが、伝えられているのであります。
ここの場面を黙想していきます時に、ああ私もまた、主に信頼していると言いながら、次々に起こる様々な状況の中で、あれやこれやと安全を図るための策を巡らすことを最優先してはいないか、主の言葉によらず自分本位な判断に陥っていないかと、問われるものでありますが。
しかし、たとえそのように人生の課題の中で右往左往するような者でありましても、神さまの救いの選びは変わることがありません。私たちもまた、神さまの一方的な恵みといつくしみによって選ばれ導かれているのです。その神さまの選びは、私たちの行いによって得たものではありません。むしろ至らなさと罪に滅びゆくしかない私のために、神は御独り子のイエス・キリストが審きをその身に負ってくださった。否、今も負い続けてくださっています。その主イエスにつながり続け、そこに命を見出して生きていることこそが、私たちの選びそのものであるのです。
さて、ファラオはアブラムを呼び寄せて、「あなたはわたしに何ということをしたのか」「なぜ、あの婦人は自分(おまえ)の妻だと、言わなかったのか」「なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか」と問い詰めます。
そこでアブラムがファラオの問いにどう答えたかは聖書に記されておりませんが、このような出来事の後に記された今日の13章の箇所を読みますと、アブラムのうちに何らかの変化が生じているように思えます。
「初めに主の御名を呼んだ場所に」
その1つは、アブラムがもと来た道へ戻り、原点ともいえる約束の場に立ち返ったことです。エジプトから送り出されたアブラム一行は、再びネゲブ地方へ上り、そこからさらにべテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来ます。
そこは、彼が最初に主の祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝を捧げた所であり、彼は再びそこへ戻って来たのです。彼は「主の御名を呼ぶ」という必要に迫られていたのではないでしょうか。同時に彼は魂の底から主に立ち返って生きるほかない者であることに気づいたのではないでしょうか。この最初の祝福の地カナンへ戻って行く道のりは、まさに神に立ち返ってゆく巡礼の旅路であったといえるでしょう。
ここにアブラムをして、初めて祭壇を築いたときの信仰に立ち返って生きる、とのメッセージを聞くことができます。私たちクリスチャンはご聖霊の介在を通して救いの神と出会い、イエス・キリストの贖いの御業と復活の命を信じて、罪の赦しの恵みを受けました。その出来事は生ける神さまからの賜物にほかなりません。
しかし、時の経過とともにその神さまの計り難い恵みの重さを忘れ、心が鈍くなって世の習わしにのまれそうになってしまうことが起こり得るのであります。そのいわば信仰の危機から脱する道は、アブラムが「主の御名を呼んで」捧げた礼拝に立ち返って行ったように、救いの日、救いの原点である主イエス・キリストに立ち返ることであります。
恵みの主に立ち返って歩み出すところにあります。
さて、アブラムの「心の変化」の2つめは、「自己への執着からの解放」です。
アブラムも甥のロトも、多くの財産を持つようになり、限られた地ではもはや一緒に住み続けることができなくなるという問題が生じたこの時、アブラムは甥のロトに次のような提案をします。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
アブラムはこの時、かつて自分に約束された神の言葉に信頼をおき、ロトに好きな地を選ばせます。一般的な慣例に従うなら族長のアブラムにまず選択する優先権があったわけですが、彼はそれを放棄するのです。結局、ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移っていきます。それは目に麗しく「主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限り潤っていた」とあります。そういう水源豊かな地をロトは選んで移っていきました。
「見上げて、見渡しなさい」
この時アブラムは、下を向いてうつむいていたのではないでしょうか。 主に委ね、自分の思いを手放して、ロトに好きなように地を選ばせたけれども、心のどこかに「やっぱりロトは遠慮することなく潤い、水源豊かな地を選んだか」という寂しい思いや後悔を多少は抱いていたのかも知れません。
しかし、主はそのアブラムに声をかけられます。
「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。」
主なる神は、アブラムに「目をあげて、見渡しなさい」と言われ、見渡せる限りの土地と多くの子孫を与えることを約束されます。それは、主がかつてアブラムに与えた約束が今も生きていることの証しでありました。アブラムは伏せた目を上げ、神の示された土地を見渡します。彼は、そこでロトが見、自分も肉の目で見たようにではなく、今や信仰(霊の眼)によってその地を見渡し、主の祝福の約束を再確認するのであります。
私たちの信仰の歩みについても、主の御声に聞いていくこのアブラムの信仰を辿るものでありたいと願います。
「神の祝福とは」
今日の箇所から、偉大な信仰の父と称されてきた義人アブラハムですが。葛藤や弱さをもおぼえる人間的な人物であったことが分かります。けれども、主なる神はこのアブラハムに与えた祝福をどんなことがあろうとも彼から剥奪するようなことはなさいませんでした。アブラムも又、主の計り難い守りと賜物によって生かされていることを思い知らされ、その恵みの主に立ち返って生きるよう導かれるのです。
本日の箇所で、アブラムがロトに気前よく水源豊かな潤いの地を譲ってしまい落ち込む姿は、どこか人間味に溢れ身近に思えますが、聖書はアブラムのこの自己放棄によって神の約束された祝福がアブラムに注がれていく様を描き出します。それはカナンの地、見渡す限りの土地をすべて永久にあなたとあなたの子孫に与える、というものであり、あなたの子孫を数えきれない大地の砂粒のようにする、との祝福であります。
その祝福はまだアブラムの目の前にあるわけではありません。そのことが実現していくのはずっと後のことなのです。子の時代、孫の時代、そのずっと先のことです。
それでではアブラムの祝福とは何だったのでしょう? それは「神の約束」であります。
私たちも又、それぞれに今の状況の中で、具体的な祝福を見出すこともあれば、逆に、どこに私の祝福があるのか、とそれを見出すのが困難に感じられることもあるかも知れません。けれども、主イエスによる「救いの約束」は、私たちにとってまぎれもなき、そして何ものにも代えがたい「神の祝福」なのであります。
「あなたは祝福の源となるように」という神の約束の御言葉に従って旅立ったアブラム。カナンの地に入りますと、主はアブラムに現れて「あなたの子孫にこの土地を与える」と宣言なさいます。アブラムはそこに主の祭壇を築き、感謝を込めて礼拝をささげました。その後、幾多の理由からベテル、さらにネゲブ地方に向けての旅を続けますが、アブラムはその所その所において主の祭壇を築き礼拝を捧げていきます。
この先どうなっていくかわからない。問題や不安を抱え、願い未だ叶わず。しかし、そんな人生の旅路にあって、今日も主の祭壇を築くため、ここに集まってまいりました。
本日は「神の祝福とは」と題し、御言葉を聞いていきます。
「エジプトでのアブラム」
移り住んだネゲブ地方に激しい飢饉が起こったのでアブラム一行は肥沃なエジプトを目指して旅を続けます。12章10節以降には、エジプト滞在についてのエピソードが記されていますが。そこで何とアブラムは妻サライに自分の妹であると偽らせ、身の安全を図ろうとします。美しい妻を自分のものにしようとして夫である自分は殺されてしまうかも知れない、というのがその理由でした。アブラムは恐れと不安のゆえに何とか身の安全を図ろうと考え、万一に備えてのことだったのでしょうが。多くの聖書注解書では「利己的」で「自分本位」なもので、何より「神への信頼を欠いた態度」との見方が強いようです。
そして、事態はアブラムの予想を超えた展開となり、妻サライがエジプトのファラオに召し入れられ、12章16節にあるように「アブラムもサライのゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなど与えられた」というのです。
「不思議な神の取り扱い」
ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせます。主はそのような策を企てたアブラムにではなくファラオに対して災いを下すのです。まあファラオや宮廷の人たちはサライがアブラムの妻であることを知りもしなかったわけですから、神さまは何てアブラムをエコひいきされるのかと思いますけれども。実はそこには、たとえ我が身の安全のために策をこうじるような人間的なアブラムでありましても、なお、「あなたを祝福する」「あなたは祝福の源となるように」との神さまの約束は決して揺がずアブラムの生涯に亘って貫かれていることが、伝えられているのであります。
ここの場面を黙想していきます時に、ああ私もまた、主に信頼していると言いながら、次々に起こる様々な状況の中で、あれやこれやと安全を図るための策を巡らすことを最優先してはいないか、主の言葉によらず自分本位な判断に陥っていないかと、問われるものでありますが。
しかし、たとえそのように人生の課題の中で右往左往するような者でありましても、神さまの救いの選びは変わることがありません。私たちもまた、神さまの一方的な恵みといつくしみによって選ばれ導かれているのです。その神さまの選びは、私たちの行いによって得たものではありません。むしろ至らなさと罪に滅びゆくしかない私のために、神は御独り子のイエス・キリストが審きをその身に負ってくださった。否、今も負い続けてくださっています。その主イエスにつながり続け、そこに命を見出して生きていることこそが、私たちの選びそのものであるのです。
さて、ファラオはアブラムを呼び寄せて、「あなたはわたしに何ということをしたのか」「なぜ、あの婦人は自分(おまえ)の妻だと、言わなかったのか」「なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか」と問い詰めます。
そこでアブラムがファラオの問いにどう答えたかは聖書に記されておりませんが、このような出来事の後に記された今日の13章の箇所を読みますと、アブラムのうちに何らかの変化が生じているように思えます。
「初めに主の御名を呼んだ場所に」
その1つは、アブラムがもと来た道へ戻り、原点ともいえる約束の場に立ち返ったことです。エジプトから送り出されたアブラム一行は、再びネゲブ地方へ上り、そこからさらにべテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来ます。
そこは、彼が最初に主の祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝を捧げた所であり、彼は再びそこへ戻って来たのです。彼は「主の御名を呼ぶ」という必要に迫られていたのではないでしょうか。同時に彼は魂の底から主に立ち返って生きるほかない者であることに気づいたのではないでしょうか。この最初の祝福の地カナンへ戻って行く道のりは、まさに神に立ち返ってゆく巡礼の旅路であったといえるでしょう。
ここにアブラムをして、初めて祭壇を築いたときの信仰に立ち返って生きる、とのメッセージを聞くことができます。私たちクリスチャンはご聖霊の介在を通して救いの神と出会い、イエス・キリストの贖いの御業と復活の命を信じて、罪の赦しの恵みを受けました。その出来事は生ける神さまからの賜物にほかなりません。
しかし、時の経過とともにその神さまの計り難い恵みの重さを忘れ、心が鈍くなって世の習わしにのまれそうになってしまうことが起こり得るのであります。そのいわば信仰の危機から脱する道は、アブラムが「主の御名を呼んで」捧げた礼拝に立ち返って行ったように、救いの日、救いの原点である主イエス・キリストに立ち返ることであります。
恵みの主に立ち返って歩み出すところにあります。
さて、アブラムの「心の変化」の2つめは、「自己への執着からの解放」です。
アブラムも甥のロトも、多くの財産を持つようになり、限られた地ではもはや一緒に住み続けることができなくなるという問題が生じたこの時、アブラムは甥のロトに次のような提案をします。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
アブラムはこの時、かつて自分に約束された神の言葉に信頼をおき、ロトに好きな地を選ばせます。一般的な慣例に従うなら族長のアブラムにまず選択する優先権があったわけですが、彼はそれを放棄するのです。結局、ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移っていきます。それは目に麗しく「主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限り潤っていた」とあります。そういう水源豊かな地をロトは選んで移っていきました。
「見上げて、見渡しなさい」
この時アブラムは、下を向いてうつむいていたのではないでしょうか。 主に委ね、自分の思いを手放して、ロトに好きなように地を選ばせたけれども、心のどこかに「やっぱりロトは遠慮することなく潤い、水源豊かな地を選んだか」という寂しい思いや後悔を多少は抱いていたのかも知れません。
しかし、主はそのアブラムに声をかけられます。
「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。」
主なる神は、アブラムに「目をあげて、見渡しなさい」と言われ、見渡せる限りの土地と多くの子孫を与えることを約束されます。それは、主がかつてアブラムに与えた約束が今も生きていることの証しでありました。アブラムは伏せた目を上げ、神の示された土地を見渡します。彼は、そこでロトが見、自分も肉の目で見たようにではなく、今や信仰(霊の眼)によってその地を見渡し、主の祝福の約束を再確認するのであります。
私たちの信仰の歩みについても、主の御声に聞いていくこのアブラムの信仰を辿るものでありたいと願います。
「神の祝福とは」
今日の箇所から、偉大な信仰の父と称されてきた義人アブラハムですが。葛藤や弱さをもおぼえる人間的な人物であったことが分かります。けれども、主なる神はこのアブラハムに与えた祝福をどんなことがあろうとも彼から剥奪するようなことはなさいませんでした。アブラムも又、主の計り難い守りと賜物によって生かされていることを思い知らされ、その恵みの主に立ち返って生きるよう導かれるのです。
本日の箇所で、アブラムがロトに気前よく水源豊かな潤いの地を譲ってしまい落ち込む姿は、どこか人間味に溢れ身近に思えますが、聖書はアブラムのこの自己放棄によって神の約束された祝福がアブラムに注がれていく様を描き出します。それはカナンの地、見渡す限りの土地をすべて永久にあなたとあなたの子孫に与える、というものであり、あなたの子孫を数えきれない大地の砂粒のようにする、との祝福であります。
その祝福はまだアブラムの目の前にあるわけではありません。そのことが実現していくのはずっと後のことなのです。子の時代、孫の時代、そのずっと先のことです。
それでではアブラムの祝福とは何だったのでしょう? それは「神の約束」であります。
私たちも又、それぞれに今の状況の中で、具体的な祝福を見出すこともあれば、逆に、どこに私の祝福があるのか、とそれを見出すのが困難に感じられることもあるかも知れません。けれども、主イエスによる「救いの約束」は、私たちにとってまぎれもなき、そして何ものにも代えがたい「神の祝福」なのであります。