新年礼拝宣教 ルカ3章1~20節
新年礼拝にあたり先程ルカ3章の御言葉が読まれました。本日はここから「主の道を整える者」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
その冒頭に、バプテスマのヨハネが働き始めた時代背景が述べられています。この当時ユダヤを治めていたローマの皇帝ティベリウスと総督のポンテオ・ピラト、ガリラヤの領主ヘロデなどと共に、又、ユダヤの宗教指導者の大祭司アンナスとカイアファの名がそこに記されておりますが。この時代の指導者たちは暴君で悪政を繰り返し、ユダヤの指導者たちもまたその腐敗と堕落によって民はその権力の下、一部の裕福な人や都心部を除いた多くの人々が神の祝福から隔てられるかのような状況がありました。彼らは神の律法を守ることが困難な立場にある人々でもありました。イザヤをはじめ預言者が示し続けてきたメシアを待望する祈りは実に彼らの中に脈々と受け継がれていたのです。まさにそのような時代の中で、荒れ野にいたザカリアの子ヨハネに神の言葉が降ります。
聖書はこのヨハネをして、イザヤ書40章3-4節の「荒れ野で叫ぶ者の声」だと言っています。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』
ヨハネはまさに、悪政と不正、格差や差別によって歪められた曲がった世の時代にあって、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」との預言の言葉を自らのものとして受けとめ、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔改めのバプテスマを宣べ伝えていくのです。
すると、そのヨハネのもとにバプテスマを授けてもらうために多くの群衆が様々なところから押し寄せてきます。その中には当時の罪深い人の代名詞ともいえる徴税人もおりましたし、兵士たちもおりました。彼らもまた神の前に罪の赦しを得て、きよくされて、新しい人生を歩み出すことを願っていたのです。
みな一様にヨハネの言動に心を打たれ、引きつけられていました。それはヨハネに降った神の言葉に力があったからです。
このヨハネがその群衆に語った言葉は決してやさしい、心地のよいものではありませんでした。彼は群衆に向けて「悔改めにふさわしい実を結べ」「斧は既に木の根元に置かれている」と厳しく語りかけます。それは自らをアブラハムの子孫だと自称し、そのことが神の救いの特権であると考える人々に衝撃を与えました。
「斧は既に木の根元に置かれている」とは、ドキッとする言葉ですよね。
自分たちが真のアブラハムの子孫であれば、神に方向転換して悔改めにふさわしい実を結ぶだろう、さもなければ木はみな切り倒されて火に投げ込まれる、という実に厳しいさばきの言葉であります。しかし、この「斧は既に木の根元に置かれている」との言葉を聞いて、自らを省みて応じたのは誰であったかといいますと、それは神の祝福から除外されていると扱われていた名もない群衆や、異邦の人たち、徴税人や兵士たちであったのです。このヨハネの言葉に食らいつくように反応し、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と問うていったのはまさに、そういう彼らであったのです。
私たちはどうでしょうか。神の言葉に対するピュアな恐れ、危機感をもっているでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「貧しい人は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなた方は満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。
魂の飢え渇きを知る人。「では、わたしはどうすればよいのですか」と、神の言葉にくらいつくように反応してゆく人を、主は必ず顧み、救いの光を仰がせてくださいます。
さて、群衆が「わたしたちはどうすればよいですか」と尋ねると、ヨハネは簡潔にこう答えます。「下着を持っている者は持たない者に分けてやりなさい」。又「食べ物も持っている者は持っていない者に分けてやりなさい」。
ここには特別な宗教的な儀礼や行為は何一つ求められていません。苦業も断食も求められていません。その人の日常の中での具体的な行為、実践が求められているのですね。その根底には律法の精神があります。そこには「自分を愛するように隣人を愛する」という聖書の教えが簡潔明快に説かれているのです。
しかし、それを守るためのきまり、あるいは救いの条件として行うのではなく、ヨハネはそれを「悔改めにふさわしい実が結ばれるために行え」というのです。
これを聞いた群衆はどうしたでしょうか。その場で食べ物や下着を分け合ったりしたのでしょうか。彼らの多くは貧しい人であったでしょう。しかしそのような中で実際分ち合うことが行なわれるとしたら、それはどんなに慰めと励ましに満ちた場となったことでしょう。又、徴税人が規定にプラスちょっと受け取らないということは、彼らの収入にきっと影響を及ぼすものですが、彼らはその代りに信頼関係という実を得たことでしょう。兵士も同様にヨハネの言葉を実践してゆく中で、権威的にふるまっていた自らの高慢に気づきが与えられ、人々との関係が改善したのではないでしょうか。
さて、これらの「悔改めにふさわしい実を結ぶように」と導くヨハネの言葉に、救い主(メシア)を待ち望んでいた民衆は、「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と述べられています。ヨハネの特有の人間的な魅力やカリスマ性に民衆の根強い支持があったのです。
けれどもヨハネは民衆にこう語ります。「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打もない。その方は聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」。
ヨハネはローマの皇帝や王のように自分を神格化したりいたしません。教祖やヒーローになることもできたでしょうが、それを自ら拒みました。人々からちやほやされ誉められ続けますと有頂天になり、傲慢さが出てくるものです。けれどもこのヨハネという人は自分に与えられている使命を十分わきまえていました。彼は、「人の罪をゆるすことのおできになるメシア;救い主が来られる、このお方を見なさい」とキリストを指し示すことにこそ、自らの天分があることを知っていたのです。
このヨハネは悔改めのバプテスマを授けていました。しかし「その方、キリストは聖霊と火であなたたちにバプテスマを授ける」とヨハネはいいます。
水は、一時的にはきれいに洗い流すことができても再び汚れるとまた洗い直す必要があります。どんなに洗っても、洗っても汚れてしまう人の罪深さであります。そしてそれはどんなに良い業であっても到底償いきれるようなものではありません。それは業そのものが人の罪をゆるすものには成り得ないということなのです。何か良いことをしたから罪が無かったことになるというものではありません。ヨハネは水ではなく人の罪の全きゆるし、全き聖めは「聖霊と火」によってバプテスマをお授けになるキリストによってもたらされる、と言います。
「聖霊」は神さまのご臨在そのものであられます。この後、イエス・キリストはヨハネからバプテスマをお受けになられるのでありますが。その時に聖霊がイエスさまの上に降ってきたとございます。罪のないお方がヨハネからバプテスマをお受けになる必要があるのか、とも考えますが。イエスさまは自らそれを望まれ、そうして一人の人としてバプテスマをお受けになりました。そこに聖霊がお降りになり、キリストとしてすべての人の罪を完全に贖い、きよめ、ゆるすお方としてあゆみを始められるのです。
それは人が根底から罪のゆるしと救いを受けるための神さまのご計画であり、十字架の苦難と死を成し遂げるための力でありました。イエスさまはその大いなる御業を成し遂げられて復活され、遂には約束の聖霊を今や私たちにも注いで、こうして救いの道を歩ませてくださいます。
私たちはこの聖霊によらなければ、イエスを主と信じ、告白することはできません。私たちの信仰もバプテスマも、聖霊の先立ちを戴いてこそ可能であります。単に人間的な悔い改めだけでは、罪の全きゆるしにはなりません。イエスさまの十字架の苦難と死という贖いの御業によって、罪の全きゆるし、全き聖めが与えられるのです。
本日は「主の道を整える者」という題で、バプテスマのヨハネの記事から御言葉を聞いてきましたが。主の霊によって救いの恵みに与っている私たち一人ひとりも又、「主の道を整える者」として立てられているという、というお話してこの1年を始めるメッセージとしたいと思います。
ヨハネは17節で、「メシアが手に箕を持って、脱穀場の隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語ります。
これは、世のすべての事柄における最終的な審判の時が、「主によって訪れる」「主によってもたらされる」ということであります。それは私たちの生きる今日の時代においても、やがて来られる主の再臨への希望であります。それは同時に、私たちも又、主がいつ来られてもよいように目を覚まして祈り、その時への備えをなして「主の道を整えておく」ことが主に期待されているのであります。マラナタ;主よ、来たりませ。
私たちの日常において「悔改めの実を結ぶ」べく、そのあゆみをそれぞれができるところで具体的になしていく1年でありたいと願うものです。今年の主の御業に期待し、励んで、主の恵み豊かな実りを見ることのできる1年となりますよう、お祈りいたします。
新年礼拝にあたり先程ルカ3章の御言葉が読まれました。本日はここから「主の道を整える者」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
その冒頭に、バプテスマのヨハネが働き始めた時代背景が述べられています。この当時ユダヤを治めていたローマの皇帝ティベリウスと総督のポンテオ・ピラト、ガリラヤの領主ヘロデなどと共に、又、ユダヤの宗教指導者の大祭司アンナスとカイアファの名がそこに記されておりますが。この時代の指導者たちは暴君で悪政を繰り返し、ユダヤの指導者たちもまたその腐敗と堕落によって民はその権力の下、一部の裕福な人や都心部を除いた多くの人々が神の祝福から隔てられるかのような状況がありました。彼らは神の律法を守ることが困難な立場にある人々でもありました。イザヤをはじめ預言者が示し続けてきたメシアを待望する祈りは実に彼らの中に脈々と受け継がれていたのです。まさにそのような時代の中で、荒れ野にいたザカリアの子ヨハネに神の言葉が降ります。
聖書はこのヨハネをして、イザヤ書40章3-4節の「荒れ野で叫ぶ者の声」だと言っています。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』
ヨハネはまさに、悪政と不正、格差や差別によって歪められた曲がった世の時代にあって、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」との預言の言葉を自らのものとして受けとめ、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔改めのバプテスマを宣べ伝えていくのです。
すると、そのヨハネのもとにバプテスマを授けてもらうために多くの群衆が様々なところから押し寄せてきます。その中には当時の罪深い人の代名詞ともいえる徴税人もおりましたし、兵士たちもおりました。彼らもまた神の前に罪の赦しを得て、きよくされて、新しい人生を歩み出すことを願っていたのです。
みな一様にヨハネの言動に心を打たれ、引きつけられていました。それはヨハネに降った神の言葉に力があったからです。
このヨハネがその群衆に語った言葉は決してやさしい、心地のよいものではありませんでした。彼は群衆に向けて「悔改めにふさわしい実を結べ」「斧は既に木の根元に置かれている」と厳しく語りかけます。それは自らをアブラハムの子孫だと自称し、そのことが神の救いの特権であると考える人々に衝撃を与えました。
「斧は既に木の根元に置かれている」とは、ドキッとする言葉ですよね。
自分たちが真のアブラハムの子孫であれば、神に方向転換して悔改めにふさわしい実を結ぶだろう、さもなければ木はみな切り倒されて火に投げ込まれる、という実に厳しいさばきの言葉であります。しかし、この「斧は既に木の根元に置かれている」との言葉を聞いて、自らを省みて応じたのは誰であったかといいますと、それは神の祝福から除外されていると扱われていた名もない群衆や、異邦の人たち、徴税人や兵士たちであったのです。このヨハネの言葉に食らいつくように反応し、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と問うていったのはまさに、そういう彼らであったのです。
私たちはどうでしょうか。神の言葉に対するピュアな恐れ、危機感をもっているでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「貧しい人は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなた方は満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。
魂の飢え渇きを知る人。「では、わたしはどうすればよいのですか」と、神の言葉にくらいつくように反応してゆく人を、主は必ず顧み、救いの光を仰がせてくださいます。
さて、群衆が「わたしたちはどうすればよいですか」と尋ねると、ヨハネは簡潔にこう答えます。「下着を持っている者は持たない者に分けてやりなさい」。又「食べ物も持っている者は持っていない者に分けてやりなさい」。
ここには特別な宗教的な儀礼や行為は何一つ求められていません。苦業も断食も求められていません。その人の日常の中での具体的な行為、実践が求められているのですね。その根底には律法の精神があります。そこには「自分を愛するように隣人を愛する」という聖書の教えが簡潔明快に説かれているのです。
しかし、それを守るためのきまり、あるいは救いの条件として行うのではなく、ヨハネはそれを「悔改めにふさわしい実が結ばれるために行え」というのです。
これを聞いた群衆はどうしたでしょうか。その場で食べ物や下着を分け合ったりしたのでしょうか。彼らの多くは貧しい人であったでしょう。しかしそのような中で実際分ち合うことが行なわれるとしたら、それはどんなに慰めと励ましに満ちた場となったことでしょう。又、徴税人が規定にプラスちょっと受け取らないということは、彼らの収入にきっと影響を及ぼすものですが、彼らはその代りに信頼関係という実を得たことでしょう。兵士も同様にヨハネの言葉を実践してゆく中で、権威的にふるまっていた自らの高慢に気づきが与えられ、人々との関係が改善したのではないでしょうか。
さて、これらの「悔改めにふさわしい実を結ぶように」と導くヨハネの言葉に、救い主(メシア)を待ち望んでいた民衆は、「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と述べられています。ヨハネの特有の人間的な魅力やカリスマ性に民衆の根強い支持があったのです。
けれどもヨハネは民衆にこう語ります。「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打もない。その方は聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」。
ヨハネはローマの皇帝や王のように自分を神格化したりいたしません。教祖やヒーローになることもできたでしょうが、それを自ら拒みました。人々からちやほやされ誉められ続けますと有頂天になり、傲慢さが出てくるものです。けれどもこのヨハネという人は自分に与えられている使命を十分わきまえていました。彼は、「人の罪をゆるすことのおできになるメシア;救い主が来られる、このお方を見なさい」とキリストを指し示すことにこそ、自らの天分があることを知っていたのです。
このヨハネは悔改めのバプテスマを授けていました。しかし「その方、キリストは聖霊と火であなたたちにバプテスマを授ける」とヨハネはいいます。
水は、一時的にはきれいに洗い流すことができても再び汚れるとまた洗い直す必要があります。どんなに洗っても、洗っても汚れてしまう人の罪深さであります。そしてそれはどんなに良い業であっても到底償いきれるようなものではありません。それは業そのものが人の罪をゆるすものには成り得ないということなのです。何か良いことをしたから罪が無かったことになるというものではありません。ヨハネは水ではなく人の罪の全きゆるし、全き聖めは「聖霊と火」によってバプテスマをお授けになるキリストによってもたらされる、と言います。
「聖霊」は神さまのご臨在そのものであられます。この後、イエス・キリストはヨハネからバプテスマをお受けになられるのでありますが。その時に聖霊がイエスさまの上に降ってきたとございます。罪のないお方がヨハネからバプテスマをお受けになる必要があるのか、とも考えますが。イエスさまは自らそれを望まれ、そうして一人の人としてバプテスマをお受けになりました。そこに聖霊がお降りになり、キリストとしてすべての人の罪を完全に贖い、きよめ、ゆるすお方としてあゆみを始められるのです。
それは人が根底から罪のゆるしと救いを受けるための神さまのご計画であり、十字架の苦難と死を成し遂げるための力でありました。イエスさまはその大いなる御業を成し遂げられて復活され、遂には約束の聖霊を今や私たちにも注いで、こうして救いの道を歩ませてくださいます。
私たちはこの聖霊によらなければ、イエスを主と信じ、告白することはできません。私たちの信仰もバプテスマも、聖霊の先立ちを戴いてこそ可能であります。単に人間的な悔い改めだけでは、罪の全きゆるしにはなりません。イエスさまの十字架の苦難と死という贖いの御業によって、罪の全きゆるし、全き聖めが与えられるのです。
本日は「主の道を整える者」という題で、バプテスマのヨハネの記事から御言葉を聞いてきましたが。主の霊によって救いの恵みに与っている私たち一人ひとりも又、「主の道を整える者」として立てられているという、というお話してこの1年を始めるメッセージとしたいと思います。
ヨハネは17節で、「メシアが手に箕を持って、脱穀場の隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語ります。
これは、世のすべての事柄における最終的な審判の時が、「主によって訪れる」「主によってもたらされる」ということであります。それは私たちの生きる今日の時代においても、やがて来られる主の再臨への希望であります。それは同時に、私たちも又、主がいつ来られてもよいように目を覚まして祈り、その時への備えをなして「主の道を整えておく」ことが主に期待されているのであります。マラナタ;主よ、来たりませ。
私たちの日常において「悔改めの実を結ぶ」べく、そのあゆみをそれぞれができるところで具体的になしていく1年でありたいと願うものです。今年の主の御業に期待し、励んで、主の恵み豊かな実りを見ることのできる1年となりますよう、お祈りいたします。