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一人ひとりに手を置いて

2015-01-11 17:15:14 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ4章31~41節 

フランスでは新年の喜びもつかの間、原理主義者によってマスメディア機関が襲撃され多数の死傷者が出るという傷ましい事件が起こりました。自分たちの考えや教えやその主義主張と相容れないものを断罪し、銃弾によって亡きものにしていく原理主義者の怖さがまた露呈しました。それは「言論と表現の自由」が尊重されてきたフランスの人々のみならず世界各国に衝激を与えました。このような事が決してあってはなりません。しかし、一方で「言論と表現の自由」が偏ったものであったり、相手をあげつらうだけであるのなら、それは逆に対話やあゆみよりを阻むことになりかねません。たとえばそのような過激的行意に走る人たちの多くは、その背景に極度の貧困のため教育も受けられず時も読めないため一方的に偏った教義によって洗脳されていたり、生きるため組織に身を置くほかない人もいます。又、生活に様々な障壁があり、活路を見出す事ができず、その苦しみに無関心な社会への憤りを強めるなかでネットの向こうの反社会的運動に傾倒していく人たちもいるでしょう。むろんそれらの反社会的なテロ行為を主導する指導者やテロを正当化することはできませんが、そういった運動に参加する人たちを一方的に非難するばかりでなく、テロを生み出している現状をもっと報道し、学び合い、改善されていかない限り、同じような悲劇が繰り返されます。とどのつまりは、一人のひとが人間らしく生きていける社会、人としての尊厳を見出すことの(アウトリーチ)できる関係性をめざすほかに平和な社会が築かれてゆく手立てはないのではないでしょう。主イエスはまさにそのような神の御前における祝福を明らかにされるためにこの地上をあゆまれました。

さて、本日はルカ4章の箇所から「一人ひとりに手を置いて」と題し、御言葉を聞いていきます。この記事には「汚れた悪霊につかれた人が悪霊から解放されたこと」、そして「シモン・ペトロのしゅうとめがひどい熱から助けられたこと」、また、「いろいろな病人がいやされ、多くの人々から悪霊が出て行ったこと」が記されております。
この文脈を読みますと、それら一連の出来事が一日のうちに起こった、しかもこの日は「安息日」であったことが分かります。今もそうですが特にこの時代のユダヤ社会においては、安息日規定というものがありまして、この日には一切の仕事をすること、労働とみなされることは行ってはならないという戒律がありました。ユダヤの宗教的な指導者たちはその細かい規定を厳格に教え、それを守ることが神に忠実なことで、そうできない人たちは罪人であり、神の祝福を受けるに価しないと裁き排斥していました。
本日の舞台はイエスさまの郷里ナザレからガリラヤ湖畔の町カファルナウムに移ります。ガリラヤ地方はエルサレムに住むユダヤ人たちからすれば、「異邦人のガリラヤ」でありました。そのカファルナウムの町は、自然に恵まれ肥沃な土地であったことから様々な農産物が採れ、商いも栄え、外国人も行き交う商業が盛んな地でもありました。それはまた異教的な宗教の影響も受けていたのです。

イエスさまは、この「ガリラヤのカファルナウムの会堂で安息日には人々に教えられていました。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉に権威があったからである」とあります。
当時ユダヤの律法学者は旧約聖書にあたる律法や言い伝えの戒めを教え、それを守るように指導していました。しかしそれは多くの人にとって決まりごと以上のものとはならず、それどころか規定通りに生活することが出来ない事への罪悪感や裁き合いといったことも起こっていたのです。
それに対してイエスさまの言葉には「権威」があった。それは律法の精神の根底にある「神の愛と救い」を思い起こさせ、日常の生活でそれを実践する力を与える、そのような言葉であったからではないでしょうか。そのイエスさまの言葉の持つ力が人々の心をとらえたのです。
ヨハネ福音書にはイエスさまご自身が「生きた神の言」(ロゴス)そのものであられたとあります。イエスさまの言葉は生きて働き、人を活かす権威があったのです。

さて、その会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいました。彼はその会堂にイエスさまがお出でになる前からそこにいたのです。悪霊から解放される日が来ることを切に願っていたのです。
 果たしてこの人を捕えていた悪霊とは何でしょうか。それは何か角が生えているとか、不気味ないでたちをしているのが見えるとかいうものではありません。それは一見して分かるようなものではありません。しかしその働きによってそれを知ることはできるでしょう。聖霊の働きが神さまの愛と救いの御業であるのに対して、悪霊の働きは人が神さまの愛の中で救いを見出して生きることを妨げようとします。ネガティブな言葉で「あなたは神から愛されていない、救いはない」と言います。又、人の心の弱さにつけこんで分裂をもたらし主にある交わりを絶たせようとします。
彼は大声で「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。イエスさまの言葉に権威があることを非常に敏感に察知し、恐れ、イエスさまを「神の聖者」と言いあてるのです。

実は、今日の箇所の前の場面で、イエスさまが故郷のナザレの会堂で教えられた時、そこにいたユダヤ人たちは、イエスさまに憎悪をむきだし、終いには崖から突き落として亡きものにしようとしたのです。ところがです、このガリラヤのカファリナウムの会堂では、何と悪霊によってイエスさまが神の聖者であると明らかにされるのですね
人間は人を白か黒かと色分けして、自分と同じ考えを持つ人や自分に都合のよいことを言う人は善で正しくて、自分と違う人は悪とか、部外者として裁いていく性質をどこかもっています。又、自分の目から見て不可解なものに対して冷たい目でみたり、馬鹿にする性質をもっています。人を悪霊呼ばわりすることも非常に危険ですね。そのような人の罪深さにとり入って神の恵みから引き離そうとする悪霊の働きに対して、イエスさまは強い怒りを露わにされるのです。
イエスさまが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行ったということです。イエスさまはこの人を捕えている力、神の恵みの共同体から断絶させている力、そしてまたイエスさまが神の聖者だと分かっていながら、「かまわないでくれ」と拒絶させるような力に対して、非常に激しい憤りをあらわにされるのです。イエスさまは温厚な方でもあられましたが、しかしこのような人を縛り捕えていくような力と働きに対しては、断固厳しくお叱りになられたのです。叱りつけられた悪霊が「その人を人々の中に投げ倒して出て行った」というのは、その人が一人の人間として人々の間に取り戻されたことを表しているようです。

今日のお話はさらに続きます。
イエスさまが悪霊を追い出した同じ安息日に、シモン・ペトロの家に入られて、高い熱に苦しんでいたシモンのしゅうとめをお助けになります。さらに、日が暮れると、イエスさまはいろいろな病気で苦しむ町の人たちをおいやしになられたのであります。

この所を読みながら今回改めて気づいたのは、シモンのしゅうとめが高熱に苦しんでいたのを見て、彼女の周りの「人々が彼女のことをイエスに頼んだ」ということです。
そこにはイエスさまならきっと何かしてくださるという期待があり、それをイエスさまにきちんと伝え、お願いしたということです。単にイエスさまがいらっしゃったからそのなりゆきに任せたということではないのです。彼女のことを頼んだ。この人々のイエスさまへのとりなしがあったのです。
するとイエスさまはここでも熱を叱りつけられるのです。思いますに、彼女を愛する周りの人たちの切なる願いと求めに、イエスさまは共感するように強く胸を打たれ熱くされたのではないでしょうか。イエスさまは彼らを苦しめている存在;この場合は熱、病ですけれども、それを叱られたのです。
この彼女のことをイエスさまに頼んだという行為。それを私たちは主へのとりなしの祈りによって実践することができるでしょう。課題を抱えている人の名前を具体的にあげて、主に祈る。「何とかしていただけますように」と、主にとりなし訴える。祈りのうちに具体的に関わることもあるでしょう。それらのとりなしの祈りを主は必ずおぼえて下さいます。

さらに、聖書は「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」というのであります。まあその光景を想像してみますと、シモンの家は次々と押し寄せるようにやって来る病人の人たちとその病人に伴って来た人たちで、もうすごい状態といいますか、ごったがえしていたことでしょう。
イエスさまはその人々の思いにお応えになり、その「一人ひとりに手を置いていやされた」とあります。
そこにはいろいろな病に苦しむ人々が大勢いたにも拘わらず、イエスさまはその一人ひとりと丁寧に向き合われ、手を置いて、祈り、おいやしになられたのです。そこにどれだけの時間と労力が費やされたでしょう。けれどもイエスさまは病気を抱えた人とその人に伴って来た人の切なる思にお応えになり、その一人ひとりと向き合い、手を置いて、おいやしになられたのですね。病気の人ととりなす人であふれかえる家の中。しかしそこには慰めと励まし、感謝と賛美が満ち溢れていたことでしょう。

本日の32節の「イエスさまの言葉に権威があった」。その権威とはまさに「愛といつくしみをもって働かれる生きた神の言葉」なのです。

この聖書が語りますように、私たち自身も又、世の力から解放を受け、神の御前に取り戻された者でもあります。主の深い憐れみと愛によって生かされ、ゆるされている存在として本当に感謝をもって今苦しみの中にある方のことをおぼえ、主にとりなし、祈っていくものとされたいと思います。それぞれに課題、重荷がおありでしょう。
願わくば、主イエスと共にいろいろな課題や重荷を抱えておられる方がた、隣人に寄り添うことができますように。一緒に主を礼拝することができますように。祈り求めてあゆむ一年でありますように。祈りましょう。

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