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しかし、お言葉ですから

2015-01-18 14:14:45 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ5章1~11節 

昨日は阪神淡路大震災から20年を迎えました。関西地方連合主催の「1・17祈念礼拝」が明石教会で行われ、当教会からは4人が参加しました。その時の祈祷文を資料としてお配りさせていただきましたので、まずこのことをともに心に留め、祈りを合わせていただければと願います。

本日はルカ5章のイエスさまが漁師を弟子にするエピソードより、「しかし、お言葉ですから」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は高い熱で苦しむシモン・ペトロの姑をイエスさまがその「熱」を叱りつけ、去らせておいやしになった、という記事を読みました。この時分からイエスさまとペトロとは交友があったようですが。ペトロはまだイエスさまの弟子ではありませんでした。彼は漁師を本業としていたのです。

さて、舞台は漁の盛んなゲネサレト湖畔に移ります。イエスさまは湖の岸に立っておられると、「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」とあります。
イエスさまの噂を聞きつけた大勢の人たちが「あそこにおられる、やっと見つけた」ということで湖畔にたたずんでおられたイエスさまのもとにわんさと押し寄せてきたのです。さすがにイエスさまも群衆の勢いにどうしたものかとお思いになったのではないでしょうか。背後は湖です。
すると、イエスさまはその岸にあった二そうの舟をご覧になられます。それは夜を徹しながらも不漁に終ったシモンと仲間の漁師たちのものでした。彼らは岸辺で黙々と網を洗っていたのです。
そこで、イエスさまは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになります。シモンはそのイエスさまの依頼に応えて、岸から舟を少し漕ぎ出し、イエスさまは腰を降してその舟から群衆に教え始められたのであります。
シモンには先週読みましたように姑の高熱を下げてもらったイエスさまへの恩義もあったのでしょう。その教えもなさる事も素晴らしいと認めていたのでしょう。先生のお役に立てばとの思いから、何ら拒むことなく自分の舟をイエスさまのために出したのではないでしょうか。まあ、ここまでは何も問題はなかったのであります。

ところが、イエスさまが群衆に話し終った後、突然、イエスさまはシモンの思いもよらぬことを口になさるのです。シモン「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。
まあこれには、イエスさまの要望に応えて快く自分の舟を出したシモンであっても、さすがに「はい、そういたします」とは言えません。それは、この湖一帯のことは知る尽くしたプロの漁師であるシモンには受け入れ難いことであったからです。
「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。
そう主張する彼の言葉からもそのことが伺い知れます。夜明け前後の一番魚がとれる時分にとれなかったのに、こんな日中にとれるはずはないというのが長年の経験からの知識であり常識でした。
シモンにはイエスさまのお役に立って良かったとの思いはあったと思いますが、
「あなたは漁のことはお分かりにならないでしょう。わたしはプロですよ」というプライドや意地があったのではないでしょうか。
けれどもイエスさまのお言葉は、漁師という仕事の領域であろうが、なかろうが関係なく臨むのであります。シモンはイエスさまのことと自分の「仕事の領域」とは別のこととして分けて考えていたのではないでしょうか。しかし「神の言葉」は、たとえば今日の礼拝の場にだけのぞむものではありません。私たちが生きるすべての生活の場に例外なく臨みます。さらに私たちが生きるところの全領域に臨むのであります。それは時に私たちの心を常識や経験のはざまで揺れ動かします。どこに信頼をおくのかと決断を迫られることでもあります。

この時のシモン・ペトロは、すべて納得したわけではありませんでした。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言うのが精いっぱいだったのです。このシモンの言葉は決して口先だけでなく、「漁師たちがそのとおりにした」とありますように、そのイエスさまの言葉に対して彼は誠意をもった態度で応えました。
するとどうでしょう。網が破れそうになるほどたくさんの魚がとれたのです。そればかりかもう一そうの舟にも手伝いに来てもらい、二そうの舟は魚でいっぱいになったため沈みそうになるくらいの大漁だったというのです。

これを見たシモン・ペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ってイエスさまの足もとにひれ伏します。それまでは、彼はイエスさまの言葉や業を求めてやって来る人たちのことを、どこか距離をおいて見ていたのではないでしょうか。それは自分とはあまり関係がないと思っていたかも知れません。けれども主のお言葉が実体をもって自分に直に迫ってきた時、シモンはイエスさまの言葉に、自分が今まで考えてもみなかったほどの力があることを知ったんですね。それは彼のそれまでの人生を一瞬に照らし出すほどの出来事であり、神への畏れを呼び覚ます体験であったのです。
シモンはイエスさまのことをこの出来事の前は「先生」「教師」と呼んでいたのですが、この出来事を経験すると「主よ」と呼びかけるようになるのです。彼は自分がいかに主の言葉と招きに心を閉ざし、頑なな者であったかという罪を告白せずにおれませんでした。そしてイエスさまの足もとにひれ伏したのです。
ある注解書にこうありました。「もしペトロが世的な成功だけを追い求める出世主義者であったなら、水産業におけるまたとないチャンスをつかんだと考えたことでしょう」。面白い注解ですよね。「イエスさま、どうかわたしにその漁の秘訣を教えて下さい。ひと儲けしましょう」。神さまの業を認めることの出来ない人生は、神さまの前に失われた人生であります。
シモン・ペトロは言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。ペトロが目にしたのは大漁の魚ではなく、神の業、罪深い自分に働きかけてくださる「神の言葉」であったのでしょう。
イエスさまはシモンのその純粋な回心をご覧になり、「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とシモンを召命なさいます。
ルカ5章32節でイエスさまは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔改めさせるためである」と言われていますように、まさしく主の前に我に返ってひれ伏すシモンに、今度はあなたが神の前に罪に捕われた人を取り戻す者となる。あなたは今から、「人間をとる漁師になるのだ」と言ってイエスの弟子に任命されるのですね。この言葉は牧師とか伝道師だけに語られているのではなく、主の前に立ち返って生きるすべての人、そのお一人おひとりがそのように召されているのです。

さて、イエスさまが漁師であったシモン・ペトロを弟子に選ばれるこのルカ福音書の記事は、冒頭の「神の言葉を聞こうとして」という書き出しにあるように、実は終始「神の言葉」ということにこだわりつづけていることがわかります。シモンは当初イエスさまの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とのお言葉と自分の経験や知識の間で揺れ動くのでありますけれども、シモンはそこで「しかし、お言葉ですから」とそのイエスさまのお言葉に聞き従うのです。そしてただ聞くだけで終わらせず、自分に語られたお言葉として受けとめ、それを実行するのであります。今日の宣教のポイントはここにあります。
もちろん神の言葉、主イエスの御言葉そのものに力はありますけれども、それがほんとうにゆたかに働き、主の恵みの御業として見ることができるのは、シモンのように、御言葉に聞き従ってゆくその時であります。私たちが御言葉を聞き、かつそれを実践して生きていゆく中に、主はその栄光を表されるのであります。そこに、人の思いを超えた御言葉の力が現されるのであります。

本日私たちが読みましたルカ福音書5章9節の岩波訳では「その捕れた漁のゆえに、肝を潰す驚愕が、彼および彼と一緒にいた者すべてに襲ったからである」とございます。
私たちも又、主の御言葉に聞き従い、神の言葉のもつ圧倒されるような力を体験し、主をあがめる活き活きとした信仰生活を送ってゆきたいものですね。私たちが日毎に生活するそれぞれの具体的な場所において、又私たちの生の全領域において生ける「神の言葉」は臨んでおられます。いつも心をとぎすませて御言葉を聞き、受け取って生きるものとされてまいりましょう。シモン・ペトロのように、「神の言葉」イエスさまをお載せして私たちも共に沖に漕ぎ出し、お言葉に従って網を投げ続ける1年といたしましょう。生きて働きになられる主に期待をして。お祈りします。
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