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神不在の世界への審判

2016-05-08 16:46:05 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ黙示録18章1-8節 母の日

本日は、母の日をおぼえての礼拝であります。先にそのことをおぼえて、新生讃美歌584番の「主なる神よ み言葉にみたされ」という讃美歌もって主を賛美いたしました。
この3節には、「主なる神よ イエスを常に招く 尊さを教える 母と生きる家を いまわれらに 与えたまえ」という歌詞がございました。ほんとうにこれこそが「母の日」の原点なんですよね。
旧約聖書の十戒、律法には「あなたの父母を敬え」と命じられていますが、エフェソ6章には、「父と母を敬う」ことは、あなたが幸福になるという約束を伴う最初の掟です」と記されています。今日は、主を信じ主に仕えるお母さん方のその信仰のお姿と、日頃のお働きに心から感謝を表わし、祈りにおぼえたいと思います。

礼拝の御言葉として、ヨハネ黙示録18章1-8節が読まれました。そこから今日は「神無き世界への審判」と題し、み言葉に聞いていきたいと思います。
この当時ユダヤを支配していたローマ帝国は自分たちに勝ち得るものはほかにないと、その力と優れた能力、文明を誇っていました。それは真の神を神とせず、己の腹を神として富と贅沢に酔いしれ、不品行と不義を重ねていたのです。又、帝国の支配のもとにありました諸々の権力者やユダヤの裕福層の貴族や商人たちらも、そのローマ帝国に追従して富と快楽に酔いふけっていたのであります。それらの勢力は、自分たちに従わずいうことを聞かないキリスト者を厳しく取り締まり、迫害と弾圧を繰り返しました。それはそのような世の力と神の福音;御言葉の真理とが決して相容れるものではないからです。ヨハネの黙示録は、真の神を神とせず、己を神として崇めさせ、誇り高ぶる当時のローマ帝国の勢力を直接名ざしできない状況でしたので、神に敵対する勢力、又反キリスト的象徴として「大バビロン」と叫んだのです。

「倒れた。大バビロンが倒れた」
今日の18章の冒頭で、ヨハネが「大きな権威を持っている別の天使が天から降ってくるのを見、地上はその栄光に輝いた」とあります。そしてこの天使の力強い叫び声をヨハネは聞くのです。
「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって 富を築いたからである。」

この天使はの「倒れた。大バビロンが倒れた」との宣言は、ローマ帝国が繁栄するそのただ中でなされているわけですが。ローマの皇帝やそれに追従した多くの人たちは、繁栄する文明と巨額な富に築かれたこの時代がいつまでも続くように思っていたことでしょう。しかし、神の天使は「倒れた。大バビロン(ローマ帝国)が倒れた」と宣言するのですね。
 3週前に5章のところから、天上の礼拝の描写を通してすでに主イエスの十字架の救いの御業により勝利は成し遂げられている、というメッセージを聞きました。同様にこの天使の宣言もまた、厳しい迫害と腐敗した文明社会のただ中ですでに成し遂げられた主の勝利の宣言として響いてきます。
「すでにイエス・キリストの十字架と復活によって決着は着いているのだ」、そのような神の確約、必ず成し遂げられていく約束として聞こえてまいります。祈祷会の時でしたが、この「倒れた。大バビロンが倒れた」というそのことを象徴する出来事として、教会の方が紀元3世紀代にローマ皇帝のコンスタンティヌスがキリスト教に改宗したことについて書かれた本、「『私たちの世界』がキリスト教になったとき」(ポール・ヴェーヌ著・岩波書店)を私に紹介してくださいました。この黙示録の時代から大よそ230年を経たローマにおいて依然としてキリスト教は極めて少数の一宗派にすぎなかったのですが、コンスタンティヌスはその教えに帰依し、これこそ人類を救い得る真理としてキリスト教信仰を持つのです。そしてローマ帝国内においては教会の自治と宣教にすべてをゆだねることによって、ゆっくりと、キリストの信仰を受け入れていき、主の福音が次第しだいに拡がりをもち、やがてキリスト教がローマに公認されて、世界に伝えられていく大きな足掛かりとなっていくのですね。
いずれにしましても、極めて厳しい迫害と弾圧の時代はヨハネの黙示録の時代以降も続くのでありますが、しかしこの「倒れた。大バビロンは倒れた」との宣言は、確かに後の時代に至って大バビロン、ローマ帝国の皇帝の改宗という人知では考えられないような出来事が天の御業として実現いたします。そしてローマ帝国自体は確かにこの後滅亡してしまうのです。ここに歴史に神が確かに働かれておられる証しを見せられ、ただただ驚くばかりであります。そのように、希望の持てないような現状、不義の力と世の勢力が荒れ狂う時代の中で、神の勝利の宣言とご計画の遂行とが行なわれ、実現に至った。そういうことを押さえてこのヨハネ黙示録を読むか、読まないかでは天と地ほどの差が、希望の書か滅びの書かの違いがあります。

「バビロンの滅びを身に受けない」
さて、今日のもう一つのメッセージは、4節以降のところで、ヨハネが天から別の声を聞いたその御言葉であります。
「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」
ここにはバビロンの滅びを私たち自身が受けないように、「悪と罪の勢力から離れ去れ」と語られているのです。まあ牧師がこう言ってなんですが。この箇所は大変難解であります。礼拝の讃美歌の選曲も悩みました。そしてこの4節のところから思い浮かんだのが新生讃美歌520番「人生の海のあらしに」でした。その讃美歌の4節には、「すさまじき罪のあらしの もてあそぶまにまに 死を待つはたれぞただちに 逃げ込め港に」との歌詞があります。罪に加わったり、その災いに巻き込まれて荒波に呑まれてしまわないように、救い主イエスの手にある主の港に逃げ込んでいく。それは単に現状から逃避するというのではありません。積極的な意味で、滅びの道を回避するということです。人生の嵐に吹きすさぶ時、主イエスの救いと福音を基に立ち返り、身を寄せる。そうすることで「バビロンの滅びを身に受けない」その滅びを免れることができるのです。
ついで5節には「神はその不義を覚えておられるからである」と語られます。
主は私たちが主に対して犯す罪や不義の一切についてもすべてご存じであられるのです。主に対する不義や罪について主の目をごまかすことはできないのです。そう言った意味から、私たちの信仰は、主に対しての「畏れ」を失ってしまうことこそ、信仰の危機であるといわざるを得ません。ここで肝心なことは、神の審きと怒りこそ畏れるべきこととして「主の救いの港へ逃れ行く」というそのことにあります。今日ここに集われたお一人おひとりも船が港に帰ってくるようにこうして教会にお集いになったことと存じますが。

「神がすべてに報いてくださる」
又、5節の「神はその不義を覚えておられるからです」との御言葉には、もう一通りの意味があるでしょう。それは神に敵対する者の不義です。
この世界において主にどこまでも信頼し、忠実に従って生きる道は困難や妨げが尽きません。私たちが主への信仰を貫くがゆえに世の悪や罪の勢力によって受ける不義や攻撃は確かにあります。従おうと思えば思いうほど内に外にそのような力が働いてまいります。けれども、「神はその私たちが主に従うがゆえに受ける世の不義や攻撃のすべてを覚えておられる」というのです。 
6節以降には、己が腹を神とするバビロン、神不在のバビロンへの審きについて、記されています。ここの「仕返しせよ」「仕業に応じ、倍にして返せ」などと記されていることについて、ある方から、先週「汝復讐するなかれ」ということを聖書のメッセージとしてお聞きしたのですが、今日のこの箇所と矛盾していないでしょうか?そういうお尋ねがありました。ここだけを読みますとまるで私たちが報復するかのように読めますが、後の方までよく読みますと、その罪の仕業に応じた報いといいますか、復讐は人間自らするのではなく、神さまご自身がなさるということですね。
 7節に、「彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめではない。決して悲しい目には遭いはしない。』」と豪語しているように、大バビロンの罪の根源は自分を神のようにたてまつり、神など不要だとしていく高慢以外の何ものでもありません。その根底の問題は人間に対する罪ではなく、神に対する罪なのです。そのことのゆえに8節にこう語られています。「一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」
神さま自らがその罪に応じて完全な報いを行う。不義のすべてを覚えておられる神さまが自らきちんと審かれるのです。

11節以降には、巨大なバビロンがひとときの間に裁かれたのを目にした、ユダヤの商人たちは、自分たちがこれまで築いてきたものが何も役に立たないことを知り、泣き悲しむ」とあります。それは、神不在の世界がいかに虚しいものであるかを教えています。

「真の神を神として生きる」
主イエスはおっしゃいました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8章36節)
天地を造りすべてを支配したもう神こそが、すべてを正しく審き、正義と公平をもって義しく審くことのできる全き唯一なるお方です。神不在の世界。そこには無秩序と貪り、報復の連鎖と殺伐とした人間関係、そして虚しい結末が待つばかりです。
 次週は聖霊降臨日;ペンテコステへと続きますが。今日のメッセージに警告されるような悪霊の働きから常に守られつつ、聖霊の風に帆を張って人生の航海を続けたいものですね。「真の神を神として生きる。」
すべてのものをお造りになり、生かしておられる天の神さまは生きておられます。
その神さまはすべてをご存じであられ、すべてのことに報いてくださるお方であります。私たち人間はこの神さまを仰ぎつつ生きることによってのみ、揺るぎない真の平安と幸いが得られます。今週も救いの主をたえず賛美しながら進んでまいりましょう。
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